長谷川泰子が「ゆきてかへらぬ」のための聞き書きに応じたのは1974年でしたから
かれこれ44年の歳月が流れていました。
泰子70歳の年です。
終始冷静な様子で
小林秀雄を回想し中也を語っても
遠い過去のこととして
揺るぎない思いに到達しているようです。
小林のことも
中也のことも
考えが定着していて
それを包み隠さずに話している様子がうかがえます。
◇
新宿・中村屋は
小林秀雄に逃げられて後に何年ぶりかに再会した場所でした。
その時を回想する泰子も
つとめて冷静であろうとしている様子です。
小林に関して語っているところを
よい機会ですから読んでおきましょう。
期せずして
長谷川泰子が明らかにする「奇怪な三角関係」ということになります。
◇
ある日、私が一人で「中村屋」に入って行くと、小林が来ていました。それまで奈良に逃げておりましたが、やっと帰って来たのです。そのとき小林は河上さんと一緒でしたが、私を見てなんともいえない顔をしていました。私もびっくりしてしまって、話らしい話はしませんでした。
(「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」「Ⅲ 私の聖母!」中の「溜り場」より。)
◇
できることなら小林との間をもとにもどしたいと望んでおりましたので、手紙を書いたこともありました。するとその返事に、中原がまだ君を思っているから、もとのような生活にはもどれない、とありました。それでもあきらめないで、私は手紙を書きました。すると、また例の潔癖症が手紙のなかにも出ているというわけです。
私は小林が相手だと甘えてしまうのか、どうもおかしくなるので、小林は私の前からいなくなって、決断をつけてくれたのでした。いまから思うと、それが一番よかったんだと思っております。私の神経の病気は治りゃしないのだから、またよりをもどしたら彼を苦しめるに決まっていました。
(前同。)
◇
この再会からしばらくして
また銀座のコロンバンで小林と遭遇したときのことも
次のように泰子は語っています。
◇
私はコロンバンに入って行きました。小林は出て行きました。私たちはもう違うところへずっと行ってるな、と私は思いました。以前の甘え切った世界とは違う感じでした。他人のようになってしまって、いいたいことがいえない感じで、すごく悲しかったのを覚えております。
(前同。)
◇
以上のように小林へは
「男女」としての思いを率直に述べながら
中也に関してはたいそう異なる思いを述べるのです。
◇
中原と私は相変わらずで、喧嘩ばかりしておりました。中原は西荻から東中野へ一番電車でやってきて、二階に間借りしている私を道路からオーイと呼んで、起こすこともありました。私が顔を出すと、夢見が悪かったから気になって来てみたのだが、元気ならいい、などといったこともありました。
そんな中原をうっとうしいと思い、私はピシャリと窓を閉めたこともありました。だけど、私の態度も中原に対して煮え切らない面があって、喧嘩しながらも決して中原から離れて行こうなどと考えたこともありません。
中原の文学は私の思想の郷里だから、どうしても去りがたい気持がありました。
(前同。改行を加えてあります。ブログ編者。)
◇
以上は回想ですから
「時こそ今は……」が書かれた当時に
長谷川泰子が抱いていた思いと必ずしも同一のものとはいえません。
長い年月をかけて思いが整理され
固まった上での発言です。
◇
「時こそ今は……」は
男と女の「完全な時」を歌っていますが
それは願望であり
あるいは
「かつてあった時」への憧憬です。
中也はそのことを
よく知っています。
◇
時こそ今は……
時こそ今は花は香炉に打薫じ
ボードレール
時こそ今は花は香炉(こうろ)に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。
いかに泰子(やすこ)、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。
いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。
いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
そういえば、
「眠れ蜜」(岩佐寿弥監督、佐々木幹郎脚本、1976年)という映画の中でも
小林秀雄のことを語る泰子の眼は「彼方」を向かい
夢見るような眼差しがとらえられていました。
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