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死んだ僕を僕が見ている/「秋」

<死んだ僕を僕が見ている/「秋」インデックス>

中原中也インナープラネットで連載のアーカイブです>

1 死んだ僕を僕が見ている/「秋」
2 死ぬまえってへんなものねえ/「秋」その2
3 高田博厚のアトリエの中也と泰子/「秋」その3
4 死んだら読ませたい詩/「秋」その4
5 雨蕭々として/「修羅街輓歌」
6 至福の時間のウラで/「修羅街輓歌」その2
7 パラドクサルな人生/「修羅街輓歌」その3
8 無邪気な戦士のこころ/「修羅街輓歌」その4
9 秋深き日の泰子/「修羅街輓歌」その5
10 いまに帰ってくるのやら/「雪の宵」
11 白秋の二つの詩/「雪の宵」その2
12 雪と火(の粉)のルフラン/「雪の宵」その3
13 火の粉の「現在」/「雪の宵」その4
14 思い出ではなく/「雪の宵」その5
15 白秋の「影」/「生い立ちの歌」
16 思い出の歴史/「生い立ちの歌」その2
17 雪のクロニクル/「生い立ちの歌」その3
18 恋の秋/「生い立ちの歌」その4
19 雪のダブルイメージ/「生い立ちの歌」その5
20 最後の輝き/「時こそ今は……」
21 都会の自然/「時こそ今は……」その2
22 目の前に髪毛がなよぶ/「時こそ今は……」その3
23 ヒッピーの泰子/「時こそ今は……」その4
24 「水辺」の残影/「時こそ今は……」その5
25 泰子が明かす奇怪な三角関係/「時こそ今は……」その6

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泰子が明かす奇怪な三角関係/「時こそ今は……」その6

長谷川泰子が「ゆきてかへらぬ」のための聞き書きに応じたのは1974年でしたから
かれこれ44年の歳月が流れていました。
泰子70歳の年です。

終始冷静な様子で
小林秀雄を回想し中也を語っても
遠い過去のこととして
揺るぎない思いに到達しているようです。

小林のことも
中也のことも
考えが定着していて
それを包み隠さずに話している様子がうかがえます。

新宿・中村屋は
小林秀雄に逃げられて後に何年ぶりかに再会した場所でした。

その時を回想する泰子も
つとめて冷静であろうとしている様子です。

小林に関して語っているところを
よい機会ですから読んでおきましょう。

期せずして
長谷川泰子が明らかにする「奇怪な三角関係」ということになります。

ある日、私が一人で「中村屋」に入って行くと、小林が来ていました。それまで奈良に逃げておりましたが、やっと帰って来たのです。そのとき小林は河上さんと一緒でしたが、私を見てなんともいえない顔をしていました。私もびっくりしてしまって、話らしい話はしませんでした。
(「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」「Ⅲ 私の聖母!」中の「溜り場」より。)

できることなら小林との間をもとにもどしたいと望んでおりましたので、手紙を書いたこともありました。するとその返事に、中原がまだ君を思っているから、もとのような生活にはもどれない、とありました。それでもあきらめないで、私は手紙を書きました。すると、また例の潔癖症が手紙のなかにも出ているというわけです。

私は小林が相手だと甘えてしまうのか、どうもおかしくなるので、小林は私の前からいなくなって、決断をつけてくれたのでした。いまから思うと、それが一番よかったんだと思っております。私の神経の病気は治りゃしないのだから、またよりをもどしたら彼を苦しめるに決まっていました。
(前同。)

この再会からしばらくして
また銀座のコロンバンで小林と遭遇したときのことも
次のように泰子は語っています。

私はコロンバンに入って行きました。小林は出て行きました。私たちはもう違うところへずっと行ってるな、と私は思いました。以前の甘え切った世界とは違う感じでした。他人のようになってしまって、いいたいことがいえない感じで、すごく悲しかったのを覚えております。
(前同。)

以上のように小林へは
「男女」としての思いを率直に述べながら
中也に関してはたいそう異なる思いを述べるのです。

中原と私は相変わらずで、喧嘩ばかりしておりました。中原は西荻から東中野へ一番電車でやってきて、二階に間借りしている私を道路からオーイと呼んで、起こすこともありました。私が顔を出すと、夢見が悪かったから気になって来てみたのだが、元気ならいい、などといったこともありました。

そんな中原をうっとうしいと思い、私はピシャリと窓を閉めたこともありました。だけど、私の態度も中原に対して煮え切らない面があって、喧嘩しながらも決して中原から離れて行こうなどと考えたこともありません。

中原の文学は私の思想の郷里だから、どうしても去りがたい気持がありました。
(前同。改行を加えてあります。ブログ編者。)

以上は回想ですから
「時こそ今は……」が書かれた当時に
長谷川泰子が抱いていた思いと必ずしも同一のものとはいえません。

長い年月をかけて思いが整理され
固まった上での発言です。

「時こそ今は……」は
男と女の「完全な時」を歌っていますが
それは願望であり
あるいは
「かつてあった時」への憧憬です。

中也はそのことを
よく知っています。

時こそ今は……
 
         時こそ今は花は香炉に打薫じ
                 ボードレール

時こそ今は花は香炉(こうろ)に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子(やすこ)、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

そういえば、
「眠れ蜜」(岩佐寿弥監督、佐々木幹郎脚本、1976年)という映画の中でも
小林秀雄のことを語る泰子の眼は「彼方」を向かい
夢見るような眼差しがとらえられていました。

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「水辺」の残影/「時こそ今は……」その5

しおだる花や水の音
家路をいそぐ人々
暮るる籬(まがき)
群青の空
――と歌われた場所が
西荻窪から東中野にかけての一帯のどこかであるとするなら
善福寺川と妙正寺川にはさまれ
やがて神田川へ合流する「水辺」を有していた地域であることを
中也が詩の言葉にしたものであることは確実となります。

太宰治が入水した玉川上水や
玉川上水を引いた広大な淀橋浄水場などの元をたどれば人工のインフラ施設や
井の頭池や石神井池などのネーティブな(自然のままの)湧水池も
近辺にあります(ありました)。

現在の、杉並区、中野区、練馬区、新宿区、渋谷区、武蔵野市、三鷹市……には
どこを見ても「水辺」の残影があります。

→中野区ホームページ

これが下流になれば
網の目のような水路になることも
容易に想像できることでしょう。

コンクリート・ジャングル以前の昭和初期の東京が
「水辺」を抱えていたことはこの一帯に限らないことで
暗渠化されない「水路」が
至るところに露出していたことを
「時こそ今は……」という1篇の詩が想像させてくれます。

時こそ今は……
 
         時こそ今は花は香炉に打薫じ
                 ボードレール

時こそ今は花は香炉(こうろ)に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子(やすこ)、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

長谷川泰子が高田博厚に首のブロンズを作ってもらうことになって
泰子はアトリエに通うことになったようですが
中也の首も作ることになり
結局完成したのは中也のものでした。

中原と私が会えば、たいてい口論しておりました。彼はいつでも亭主気取りで、いちいち私に指図します。それが癇にさわり、取っ組みあいの喧嘩もしました。私は中原を組み敷いたこともありました。私のほうが強いというと、中原はニヤニヤ笑っておりました。

はじめ造ってもらっていた私の首は、粘土だけで中断しましたが、その後、高田さんは中原のブロンズの首にとりかかり、それは完成されました。

(村上護編「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」「Ⅲ 私の聖母!」中の「溜り場」より。角川ソフィア文庫。改行を加えてあります。ブログ編者。)

泰子はこう語り
さらに続けます。

高田さんのところで、私たちはよくお酒飲みました。貧乏だ、貧乏だ、と高田さんはいっておられたけど、飲むのはやめられなかったようです。そんなとき、奥さんがカニと野菜のサラダを出されたのを覚えております。
(同上書。)

高田博厚の「人間の風景」が出版されたのは
1958年(昭和33年)。
長谷川泰子への聞き書き「ゆきてかへらぬ」が出版されたのは
1974年(昭和49年)でした。

高田はおよそ28年前の経験を記憶をたどって記録しました。

長谷川泰子は44年前の経験を語っていますが
聞き書きが行われた時に「人間の風景」を読み得る状況にありましたし
「人間の風景」の記述を
あるいはインタビュアーの村上護を通じて知らされていたのかもしれません。

高田のアトリエの大らかな雰囲気を
泰子の発言は伝えています。

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ヒッピーの泰子/「時こそ今は……」その4

「時こそ今は……」が作られたころ
泰子はどのような暮らしをして
どのようなことを考えていたのでしょう。

泰子自身が語った回想を見てみます。

東中野での、一人の生活はまったく気ままなものでした。朝起きると、たいていふらりと外出したものです。電車で新宿に出て、駅の近くの喫茶店「中村屋」で、トーストとか、支那まんじゅうで腹ごしらえしました。

あのころ、「中村屋」には河上さんや大岡さんや古谷さんがしょっちゅう来ていました。私はお金持たないときでも、誰かは顔見知りがいたから、そこにまず寄っておりました。
(村上護編「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」「Ⅲ 私の聖母!」中の「溜り場」より。角川ソフィア文庫。改行を加えてあります。編者。)

長谷川泰子は東中野に住んでいたころを回想して
このように語りはじめます。

東中野で独り暮らしをしていた泰子の日常の断面が
ここによく映し出されていますが
泰子が東中野に住んだのは
実は2回に渡っています。
これは2回目の東中野のころのことです。

「白痴群」が創刊され、しばらくたってから、私は山岸さんの家から、東中野に引っ越しました。山岸さんがフランスへ勉強に行くことになったので、そこに居候しておれなくなったんです。どこへ引っ越してもよかったんだけど、あのころは古谷さんと親しくしておりましたからその近所がよいと、東中野に移ったわけです。
(前同。)

山岸光吉の家に寄寓する前に「東中野谷戸」に住んでいました。
高田博厚のアトリエによく遊びにいったのも
「谷戸」ではないほうの「東中野」でのことです。

時こそ今は……
 
         時こそ今は花は香炉に打薫じ
                 ボードレール

時こそ今は花は香炉(こうろ)に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子(やすこ)、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「古谷さん」とあるのは
「白痴群」の同人である古谷綱武のことで
大岡昇平や富永次郎や安原喜弘らとともに
成城高校の生徒でした。

アルゼンチン公使を父にもつ
裕福な家庭の長男で
東中野駅近くの広い家に住んでいました。

「そこに行くといつも4、5人はゴロゴロしている状態でした」(泰子)という溜り場の一つで
泰子もそこへ行くのは日常のことだったのでしょう。

古谷さんは顔が広くて、あの人にはいろんなところに連れて行ってもらいました。私が変わってて珍しい、とみんなに紹介してくださったのです。彫刻家の高田博厚さんに、私を紹介したのも古谷さんでした。その後、荻窪にあった高田さんのアトリエに、よく遊びに行くようになりました。

私は高田さんにブロンズの首をつくってもらうことになり、そのアトリエに毎日通っていたときがありました。そのころ中原も高田さんと仲良くなり、そのアトリエに出入りするようになりました。
(前同。)

ほかのところで自分のことを「ヒッピー」と
泰子は自嘲気味に語っていますが
給料生活者でない身の「蜘蛛の糸」のように自由な暮らしぶりが
彷彿(ほうふつ)としてきます。

大岡昇平、古谷綱武らも
まだみんな学生でしたし
文学など芸術活動に熱中していましたから
ヒッピーのたまり場のようだった「中村屋」のような喫茶店や飲み屋や……。

「たむろする場」をあちこちに作っていたのは
いつの時代にも共通する青春の風景といえるものでした。

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目の前に髪毛がなよぶ/「時こそ今は……」その3

大岡昇平によれば
「白痴群」が廃刊してからの3年間が
「彼の生涯で一番孤独で不幸な時期」になります。

昭和5年4月に「白痴群」が廃刊し
昭和8年12月に結婚するまでの期間です。

「時こそ今は……」は
廃刊になった「白痴群」第6号(昭和5年4月1日発行)に発表されました。

「時こそ今は……」を制作したのは
昭和5年の1~2月と推定されていますから
「一番孤独で不幸」であった時期より前に作られたことになります。

この時期、中也は国電西荻窪駅南(中高井戸)の
高田博厚のアトリエ近くに住んでいました。

「時こそ今は……」が「最後の輝き=頂点の輝き」をはなっているのは
高田博厚のアトリエへ入り浸っていたころが
「その時」であったことを示すものです。

泰子と「相変わらず」喧嘩しつつも
詩人は幸福の時を過ごしていたのです。

時こそ今は……
 
         時こそ今は花は香炉に打薫じ
                 ボードレール

時こそ今は花は香炉(こうろ)に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子(やすこ)、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

第1連冒頭行から第2行への移行が
絶妙です。

ボードレール原詩や上田敏訳の「薄暮の曲」に
「そこはかとないけはい」が歌われていないとはいえませんが
中也は第2行から中也の詩の世界を出現させたようです。

花が開ききって
芳香を放ち終えた後の静かな時。

宴の後のそこはかない気配が
しおだる花
水の音
家路をいそぐ人々
――といつしか街の情景に溶け込みます。

家路をいそぐ人々の中に
泰子、中也の二人の姿もあるかのようです。

高田博厚のアトリエを出て
泰子の住まいのある東中野へ帰るには
西荻窪の駅へ出るか
そのまま歩いて東中野へ向うか。

泰子と中也は
少なくとも中也の住まいまで一緒でした。

その道すがらの情景が、

遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

――と歌われたのです。

詩人は
呼吸の聞こえる距離でしみじみと泰子を見ています。

なよやかに揺らいでいる泰子の髪が
目の前にあります。

遠くなった「その時の時」が
詩人によみがえりますが……。

花は香炉に打薫じ、

――と「、」で詩が閉じるのは
その時が永遠に続くことの願望をあらわしています。

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都会の自然/「時こそ今は……」その2

花は香炉に打薫じ
――とエピグラフにあるのは
シャルル・ピエール・ボードレール(1821~1867年)の詩集「悪の華」にある1篇を
「薄暮の曲(くれがたのきょく)」として上田敏が訳出したものに
中也がアレンジを加えたものです。

「薄暮の曲」で相当する元の詩句(フレーズ)は

時こそ今は水枝さす、こぬれに花の顫ふころ、
花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
――とある
ルフランを含む冒頭の2行でしょう。

時こそ今は……
 
         時こそ今は花は香炉に打薫じ
                 ボードレール

時こそ今は花は香炉(こうろ)に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子(やすこ)、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「薄暮の曲」は
堀口大学の訳では「夕べのしらべ」と平明でモダンになりますが
「はくぼ(薄暮)」=夕暮れ、黄昏(たそがれ)は
中也の詩に度々現われるモチーフの一つです。

「時こそ今は……」も

第1連
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

第2連
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

第3連
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

――と暮れなずむ風景を歌い
「薄暮の曲」やボードレールの原詩「Harmonie du Soir」を踏まえつつも
その夕暮れは中也特有の「都会の自然の情景」がにじみます。

これらの情景は
この詩を制作したころに住んでいた
昭和初期の東京・高井戸(現杉並)周辺の街並みに違いありません。

家路をいそぐ人々
暮るる籬(まがき)
――はいかにも中也の眼差しがとらえた景色ですが……。

「花」が秋の花ならば
百合か薔薇か。

第1連、
しおだる花や水の音や、
――には、
「薄暮の曲」で「水枝」と上田敏が訳した情景が映っていますから
百合や薔薇ではないのかもしれません。

「しおだる」は、
「潮垂る。濡れて雫が垂れる。」の意味の古語(もしくは中也の造語)らしく
上田敏訳の水辺のイメージを
中也は生かそうとしています。
こだわっている感じがあります。

玉川上水とか桜上水とか、
神田川とか……。
高田博厚のアトリエ近くには
武蔵野の雑木林の風景ばかりでなく
「水辺」のイメージもあったのでしょうか。

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最後の輝き/「時こそ今は……」

いと貞潔でありました
――と閉じる「生い立ちの歌」の「貞潔」が
「汚れっちまった悲しみに……」の「汚れ」の反意として現われるのは
この二つの詩の関係、とりわけ経過(距離)を示すものでしょう。

「雪3部作」は
ひとまずは「生い立ちの歌」で終わります。
 
「秋」の章の最終詩「時こそ今は……」へと
バトンを渡して。

「時こそ今は……」が
「秋」の章の最終詩であるのは
恋の季節が秋の終わりに差しかかっていることを示しています。

この秋はたけなわであります。
「終焉」を孕(はら)む頂点のようです。

最後の輝きのようです。

時こそ今は……
 
         時こそ今は花は香炉に打薫じ
                 ボードレール

時こそ今は花は香炉(こうろ)に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。

いかに泰子(やすこ)、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。

いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。

いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

泰子の名前が詩行の中に現われるのは
「山羊の歌」「在りし日の歌」を通じて
初めてでありこれが最後です。

エピグラフになったボードレールの詩の一節
時こそ今は花は香炉に打薫じ
――は、開花した花が芳香を放つ絶頂の瞬間を歌ったものでしょう。

上田敏の翻訳「薄暮の曲(くれがたのきょく)」を引っ張り出して
中也はアレンジを加えました。
(「新全集」第1巻・解題篇。)

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雪のダブルイメージ/「生い立ちの歌」その5

「生い立ちの歌」は「Ⅱ」に入って
満年齢で23歳の現在を雪の「喩(ゆ)」で歌いますが
ふと、この雪は泰子のようであると
感じられてくる仕掛けに気付かされ驚きます。

雪のメタファーが
いつしか泰子とダブルイメージになるのですから
不思議な仕掛けですが
何度読み返しても
どこでそうなってしまうのか
マジックに遭うような謎(なぞ)が残ります。

第1連は、
花びらのように
第2連は、
いとなよびかになつかしく
手を差伸べて
第3連は、
熱い額に落ちもくる
涙のよう
第5連は、
いと貞潔で
――と「降る雪」が主語ですが

第4連は
私の上に降る雪に
――と雪が主語でなく
目的語になっているのに気づかされます。

雪は、
第4連で目的格に変化し
いとねんごろに感謝して
神様に、長生したいと祈りました
――という述語の主語(私=詩人)に変わるのです。

私(=詩人)が雪に感謝するのです。

そして、神様に祈るのです、長生したい、と。

この雪は
泰子以外にありません。

生い立ちの歌

   Ⅰ

    幼 年 時

私の上に降る雪は
真綿(まわた)のようでありました

    少 年 時

私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のようでありました

    十七〜十九

私の上に降る雪は
霰(あられ)のように散りました

    二十〜二十二

私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思われた

    二十三

私の上に降る雪は
ひどい吹雪(ふぶき)とみえました

    二十四

私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……

   Ⅱ

私の上に降る雪は
花びらのように降ってきます
薪(たきぎ)の燃える音もして
凍(こお)るみ空の黝(くろ)む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸(さしの)べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額(ひたい)に落ちもくる
涙のようでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生(ながいき)したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔(ていけつ)でありました

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「Ⅱ」に入ってから
雪は花びらのように降るのですが
第1連の後半2行が重要です。

薪の燃える音もして
凍るみ空の黝(くろ)む頃

――は「雪の宵」のホテルの屋根の情景と響き合っています。

凍るみ空の黝(くろ)む頃
――の「み空」は
今夜み空は真っ暗で
暗い空から降る雪は……
――の「み空」とまっすぐにつながっています。

第2連の
いとなよびかになつかしく
手を差伸(さしの)べて降りました
――の主語が雪であると同時に泰子であり

第3連の
熱い額(ひたい)に落ちもくる
涙のようでありました
――の主語が雪であると同時に泰子であるということが
こうしてくっきりしてきます。

第4連を
「私の上に降る雪に」としたのは
私(=詩人)を主格にするためであったことも
こうして見えてきます。

泰子にとても感謝します
そして、神様には長生きしたいことを祈りました、と歌うのが現在の私です。

その私に降る雪が「貞潔」であると歌うところに
この詩は「汚れっちまった悲しみに……」を歌った時から
遠くへ来ていることを暗示しています。

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恋の秋/「生い立ちの歌」その4

「生い立ちの歌」が「白痴群」に発表されたとき(第1次形態)には
「Ⅰ」の末尾に

     ★
暁 空に、雲流る
     ×
我が駒よ、汝は、寒からじか
     ×
吹雪のうち、
散る花もあり……

――という詩行がありましたが
「山羊の歌」で削除されました。
(「新全集」第1巻・解題篇より。)

「Ⅰ」と「Ⅱ」との間に
こうした詩行がはさまったままでは
ぼんやりしたものが残ってしまうとみなされて
思い切って排除したものでしょう。

「汚れっちまった悲しみに……」
「雪の宵」
――とのつながりが
この削除によってより明確になり
強化されました。

つぎに置かれた「時こそ今は……」への流れも
鮮やかさを増しました。

そして「雪の宵」も
「生い立ちの歌」も
「時こそ今は……」も
「秋」の章に配置された意図がくっきりして来ました。

「汚れっちまった悲しみに……」が
「みちこ」の章に置かれた意図も
ここでいっそうはっきりして来ました。

生い立ちの歌

   Ⅰ

    幼 年 時

私の上に降る雪は
真綿(まわた)のようでありました

    少 年 時

私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のようでありました

    十七〜十九

私の上に降る雪は
霰(あられ)のように散りました

    二十〜二十二

私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思われた

    二十三

私の上に降る雪は
ひどい吹雪(ふぶき)とみえました

    二十四

私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……

   Ⅱ

私の上に降る雪は
花びらのように降ってきます
薪(たきぎ)の燃える音もして
凍(こお)るみ空の黝(くろ)む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸(さしの)べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額(ひたい)に落ちもくる
涙のようでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生(ながいき)したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔(ていけつ)でありました

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

泰子との「恋」は「秋」にさしかかっていたのです。

「生い立ち」の中で歌われるほど
泰子は「歴史化」されました。

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雪のクロニクル/「生い立ちの歌」その3

「生い立ちの歌」の「Ⅰ」が
実人生に対応して作られた「クロニクル(年代記)」であるなら
第6連「二十四」は満年齢23歳を指しますから
昭和5年のことになり
この詩を書いた現在ということになります。

その現在は、
雪の形態に喩(たと)えて

いとしめやかになりました……
――という状態に詩人はあります。

これを受けて
「生い立ちの歌」「Ⅱ」は
現在を歌っているのですから

「しめやかに」の雪は

花びらのように降ってきます
――と歌われる穏やかな時間です。

今という今、詩人は
雪の降るのを「花びらのように」と感じる
一種幸せの中にあるのです……。

生い立ちの歌

   Ⅰ

    幼 年 時

私の上に降る雪は
真綿(まわた)のようでありました

    少 年 時

私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のようでありました

    十七〜十九

私の上に降る雪は
霰(あられ)のように散りました

    二十〜二十二

私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思われた

    二十三

私の上に降る雪は
ひどい吹雪(ふぶき)とみえました

    二十四

私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……

   Ⅱ

私の上に降る雪は
花びらのように降ってきます
薪(たきぎ)の燃える音もして
凍(こお)るみ空の黝(くろ)む頃

私の上に降る雪は
いとなよびかになつかしく
手を差伸(さしの)べて降りました

私の上に降る雪は
熱い額(ひたい)に落ちもくる
涙のようでありました

私の上に降る雪に
いとねんごろに感謝して、神様に
長生(ながいき)したいと祈りました

私の上に降る雪は
いと貞潔(ていけつ)でありました

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「幼年時」
「少年時」
「17~19」
「20~22」
「23」
「24」
――と6期に分けて自己の歴史を俯瞰(ふかん)したのですが
それぞれを雪(の変容)と見立てたのです。

雪の形態(姿態)をメタファーにしたのです。

「幼年時」が「真綿のような雪」であり
現在(二十四)が「しめやかに」なった以外
詩人にはきびしく降った「雪」のようで
「少年時」は文学に熱中して山口中学を落第するあたりまでで「霙(みぞれ)」。

「17~19」は満年齢「16~18」ですから
親元を離れ京都の立命館中学へ編入学したころから
泰子を知って後にともに上京
小林秀雄と泰子が暮らしはじめたころで「霰(あられ)」。

「20~22」は「満19~21」で
「朝の歌」を書き「スルヤ」と交流をはじめ
「白痴群」のメンバーとの親密な交友関係を築き
関口隆克らとの共同生活をしたころまでで「雹(ひょう)」。

「23」は「満22」で「白痴群」の時代。
阿部六郎の近くの渋谷・神山に住みはじめたころから
渋谷警察署に留置されたり、泰子と京都へ旅行したり
高田博厚のアトリエ近くに住んだころまでで「吹雪」。

――などと荒れ模様でした。

読み方によっては
期間区分が異なることがあるでしょうが
このようにパーソナル・ヒストリーを
雪のバージョンになぞらえて歌い
きわめて整然と「詩の言葉」にしたところが
「生い立ちの歌」の大きな「売り」の一つです。

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