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はるかなる空/「みちこ」

<はるかなる空/「みちこ」インデックス>

中原中也インナープラネットで連載のアーカイブです>

1 はるかなる空/「みちこ」
2 はるかなる空/「みちこ」その2
3 はるかなる空/「みちこ」その3
4 はるかなる空/「みちこ」その4
5 ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」
6 ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」その2
7 ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」その3
8 ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」その4
9 ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」その5
10 ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」その6
11 ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」その7
12 ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」その8
13 恋(人)ふたたび/「無題」
14 恋(人)ふたたび/「無題」その2
15 恋(人)ふたたび/「無題」その3
16 恋(人)ふたたび/「無題」その4
17 恋(人)ふたたび/「無題」その5
18 恋(人)ふたたび/「無題」その6
19 恋(人)ふたたび/「無題」その7
20 恋(人)ふたたび/「無題」その8
21 消え入りそうな幸福/「更くる夜」
22 中野・炭屋の2階/「更くる夜」その2
23 内海誓一郎への感謝/「更くる夜」その3
24 愚行告白/「つみびとの歌」
25 クロスオーバーする内面/「つみびとの歌」その2
26 下手な植木師たち/「つみびとの歌」その3
27 ドラマの内部/「つみびとの歌」その4

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ドラマの内部/「つみびとの歌」その4

斥けていたビールを二杯ほどのんだ。

と、阿部六郎は昭和4年(1929年)3月26日の日記に記していますから
飲めないのではなくこの時期に禁じていたのか
大酒飲みの人でなかったようです。

桜の開くころか
夜、小雨の降る中を訪れた中也に付き合い
2杯のビールを飲んで切り上げる意志の人のようです。

「白痴群」は
まさにこの4月に創刊号を出しました。

創刊号を出した直後の阿部六郎の日記は
「白痴群」という固有名こそ記述しませんが
その磁場の中での出来事と内面を記録した以外のことに
触れていないようです。

昭和4年(1929年)5月12日。

この宿で私は歴史から没落した。そして、中原の烈しく美しい魂と遭った。中原との邂逅は、とにか
く私には運命的な歓びで、又、偶然には痛みでもあった。

中原はいま、幾度目かの解体期にぶつかっている。昨年初冬、私と一緒に入って行った義務愛に
破綻して、存在にも価値にもひどい疑惑に落ちている。そして、不思議な因縁で離合して来たも一
つの罰せられた美しい魂と一緒にいま、京都に行っている。生きるか死ぬかだと言う彼の手紙は
決して誇張ではないのだ。

「どっちがお守りをされているのか分からないわよ」と言った咲子さんの顫え声にも、私には勿体な
いほどのしんじつを感ずる。

だが、私にはそれをどうすることができよう。

(「新全集」別巻<下>より。一部を抜粋。「新かな」に変え、改行を加えました。編者。)

「咲子さん」は長谷川泰子のこと。

京都帝国大学へこの春進学した
「白痴群」のメンバーは
大岡昇平
富永次郎
若原喜弘の3人。

「白痴群」の打ち合わせを兼ねて
泰子とともに
中也は京都旅行に出かけたのです。

つみびとの歌

       阿部六郎に

わが生(せい)は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
由来(ゆらい)わが血の大方(おおかた)は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。

おちつきがなく、あせり心地(ごこち)に、
つねに外界(がいかい)に索(もと)めんとする。
その行いは愚(おろ)かで、
その考えは分ち難い。

かくてこのあわれなる木は、
粗硬(そこう)な樹皮(じゅひ)を、空と風とに、
心はたえず、追惜(ついせき)のおもいに沈み、

懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草(しぐさ)をもち、
人にむかっては心弱く、諂(へつら)いがちに、かくて
われにもない、愚事(ぐじ)のかぎりを仕出来(しでか)してしまう。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

しかし、重なるようで重なりません。
しかし、繋がっていないようで繋がっています。

原因があり結果があるというような関係が
阿部の日記と「つみびとの歌」にあるわけがありません。

ここでも「詩の外部」は
詩のなにものも明きらかにしません。

阿部の日記は
詩の外部のドラマに触れているし
「ドラマの内部から」の記述であるけれど
「つみびとの歌」とつながることはありません。

あくまでもヒントです。

詩は
状況からも背景からも
独立した世界です。

たとえ
そこにしか詩の世界への糸口がないものだとしても。

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下手な植木師たち/「つみびとの歌」その3

阿部六郎の日記を読んでも
「つみびとの歌」を読むためのヒントになっても
詩を読んだことにはなりません。

詩を読むならば
詩の一字一句を熟読玩味することが先決ですし
すべてといってもよいでしょう。

ですから
詩句をたどってみましょう。

つみびとの歌
       阿部六郎に

わが生(せい)は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
由来(ゆらい)わが血の大方(おおかた)は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。

おちつきがなく、あせり心地(ごこち)に、
つねに外界(がいかい)に索(もと)めんとする。
その行いは愚(おろ)かで、
その考えは分ち難い。

かくてこのあわれなる木は、
粗硬(そこう)な樹皮(じゅひ)を、空と風とに、
心はたえず、追惜(ついせき)のおもいに沈み、

懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草(しぐさ)をもち、
人にむかっては心弱く、諂(へつら)いがちに、かくて
われにもない、愚事(ぐじ)のかぎりを仕出来(しでか)してしまう。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

一通り目を通すと

わが生(せい)は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
――とある冒頭に、
なぜ遠い過去の生い立ちの「傷」のようなことが歌われるのか
なぜ、阿部六郎への献呈詩にそのようなことが歌われるのか
――という問いが生まれるでしょう。

今日昨日仕出かしてしまった愚事の原因を
遠い過去の記憶を呼び覚まして
質(ただ)しているわけですから。

阿部との会話のなかで
お互いの幼時体験が交わされたことは
想像できることですから。

しかし……。

中也らしい強い詩語といえる
「下手な植木師ら」に目を奪われるあまり
第2連第2行に
「外界に索(もと)めんとする」とあるのを
通り過ぎてしまいがちではないかと考えてみます。

この詩の主語は――

わが生
わが血
その行い
その考え
あわれなる木

……とさまざまに変化しますが
みんな「私」と置き換えることが可能でしょう。

これらを受ける述語は――

手を入れられた
頭にのぼり
煮え返り
滾(たぎ)り泡だつ
おちつきがなく
あせり心地(ごこち)に
外界(がいかい)に索(もと)めんとする
愚(おろ)かで
分ち難い
粗硬(そこう)な樹皮(じゅひ)を
空と風とに
追惜(ついせき)のおもいに沈み
懶懦(らんだ)にして
とぎれとぎれの仕草(しぐさ)をもち
人にむかっては心弱く
諂(へつら)いがち
愚事(ぐじ)のかぎりを仕出来(しでか)してしまう
……となります。

一部に省略がまざりますが
はじめから終わりまで
下手に剪定(せんてい)された「あわれな木」である「私」の
行為や性向(性癖)が「叙述」されています。

阿部六郎のテーマにかぶさる
「外界」に解決の道を求めてしまう「罪」――。

中也もそのようなテーマに
ぶちあたっていた時だったのでしょうか。

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クロスオーバーする内面/「つみびとの歌」その2

阿部六郎は
「三太郎の日記」で有名な哲学者・阿部次郎の弟です。
当時、成城高校のドイツ語教師で
国語教師の村井康男とともに「白痴群」のメンバーでした。

全部で17冊の日記・習作のノートが残されていて
昭和3年から5年の記述には
数回、中也が登場します。
(「新全集」別巻<下>資料・研究篇)

たとえば
昭和3年(1928年)9月1日

人間は解体しないから解体する――中原から落ちて来た言葉。
だが、俺の解体は、復活を、約束しているか。

10月21日

諸井君のピアノコンツェルト。ヒリネ。
昨夜中原が俺のことを「絶望の中に言葉がある」といった。観察家ではあるが観察の演繹でない動きがあるといった。そして、諸井の音楽を聴くといい、老婆が嬰児を見てわっと泣き出すことがある。そういうものが諸井にあると言った。

今日、おほらかな歓びのさやぎに俺は一度涙ぐんだ。

だが、いま、薄い硝子戸の中に俺を凝座させている悲しみは、それとは違ったものだ。

昭和4年(1929年)3月26日

その時、中原が呼んだ。小雨の中に出た。バッハを聴いたら今迄あまり怠けている間にみんなとり逃してしまったような気がしていらいらしてしようがないと言っていた。俺は俺のからっぽなガタ馬車のような自己嫌悪をゆすぶりながら黙ってついて行った。斥けていたビールを二杯ほどのんだ。

帰って鏡をみたら、犬殺しの金茶色の眼をしていた。

彼等の夜に俺を入れたがって迎いに来た中原を、光って唸る乱心を口実に断って帰した。

やっとしがみついた部屋にひとりになったら、乱心が廻れ右をして俗人の呆然にだれやがった。

  これが孤独か化猫さん
  どっかで家骨が崩れやしたぜ

  雨がふって菌が生えて
  お月様は葬式の馬になるか

――といった具合です。
(同上「新全集」別巻より。いずれも一部を抜粋。「新かな」に変え、改行を加えました。編者。)

日記は内面の記録ですから
どんな日記も深刻さが拡大されるようですが
その拡大された内面に
中也がずっしりとした存在感をもって出現しています。

この日記と「つみびとの歌」が
どのような具体的な繋がりがあるのか
それを断定することはできませんが
無関係でないことは確かなことでしょう。

阿部六郎の内的関心が
詩人のものとクロスオーバーしていたことも確かなことでしょう。

そこでまた
詩を読んでみますが。

つみびとの歌

       阿部六郎に

わが生(せい)は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
由来(ゆらい)わが血の大方(おおかた)は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。

おちつきがなく、あせり心地(ごこち)に、
つねに外界(がいかい)に索(もと)めんとする。
その行いは愚(おろ)かで、
その考えは分ち難い。

かくてこのあわれなる木は、
粗硬(そこう)な樹皮(じゅひ)を、空と風とに、
心はたえず、追惜(ついせき)のおもいに沈み、

懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草(しぐさ)をもち、
人にむかっては心弱く、諂(へつら)いがちに、かくて
われにもない、愚事(ぐじ)のかぎりを仕出来(しでか)してしまう。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

いくら詩の「外部」(内面の記録であっても!)を知っても
詩を読んだことにはならない。

詩の読みの手助けになっても。

――ということを知るばかりです。

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愚行告白/「つみびとの歌」

「つみびとの歌」を献呈している阿部六郎については
阿部が残した日記に
この詩を制作した動機と推測される
かなり直接的で具体的な記述があり
それを読まないでは語れないようなものがあります。

が……。

はやり詩を読むことが先決でしょう。

「みちこ」の章5編の
最終詩です。

つみびとの歌

       阿部六郎に

わが生(せい)は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
由来(ゆらい)わが血の大方(おおかた)は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。

おちつきがなく、あせり心地(ごこち)に、
つねに外界(がいかい)に索(もと)めんとする。
その行いは愚(おろ)かで、
その考えは分ち難い。

かくてこのあわれなる木は、
粗硬(そこう)な樹皮(じゅひ)を、空と風とに、
心はたえず、追惜(ついせき)のおもいに沈み、

懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草(しぐさ)をもち、
人にむかっては心弱く、諂(へつら)いがちに、かくて
われにもない、愚事(ぐじ)のかぎりを仕出来(しでか)してしまう。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

はじめに飛び込んでくるのは
「下手な植木師」――。

その、詩人自身ではない何者かによって
「あまりに夙(はや)く、手を入れられた」ために
「行いは愚(おろ)か」
「愚事(ぐじ)のかぎりを仕出来(しでか)してしまう」
――と自分の愚行を後悔し原因を解き明かし告白する詩です。

何をしたのか。
愚行の具体的な内容は歌われません。

手を入れられた悲しさ
わが血の大方(おおかた)
おちつきがなく
あせり心地(ごこち)
外界(がいかい)
考えは分ち難い
あわれなる木
粗硬(そこう)な樹皮(じゅひ)
追惜(ついせき)のおもい
懶懦(らんだ)
とぎれとぎれの仕草(しぐさ)
心弱く
諂(へつら)いがち
――などと抽象表現(内面表現)に満ちています。

抽象的であることによって
「つみびと」の「罪」を彫りあげます。

献呈した阿部六郎には
それですぐに通じたのでしょう。

「白痴群」最終号である第6号に発表された
全13篇の一つです。

制作は
昭和5年(1930年)1月から2月と推定されていますが
初稿は昭和4年の可能性もあります。

このころ渋谷署に連行され拘留された事件がありました。
また長谷川泰子とかつて出会い暮らした京都へ旅行しました。
また成城学園の阿部の同僚への乱行がありました。
(「新全集」)

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内海誓一郎への感謝/「更くる夜」その3

「スルヤ」の第1回演奏会が開かれたのは昭和2年12月で
中也が諸井三郎を知った直後ということですが
内海誓一郎は中原中也追悼文「追憶」の冒頭で
「中原中也とは、昭和3年の正月以来の交友」と記述していますから
「スルヤ」メンバーとの交流の中でも
諸井三郎、河上徹太郎に次いで
早い時期に面識があったことがわかります。

内海誓一郎は
「スルヤ」にも「白痴群」にも同人として参加していたのは
河上徹太郎と同じようなスタンス(距離感)だったのでしょうか
二人ともにピアノを弾き
文学にも関心を寄せる学生(知識人)でした。

内海はまた
「社会及国家」を詩人に紹介しました。

「白痴群」廃刊で発表の場を失った中也は
フランス文学・思想の翻訳に傾注しますが
「社会及国家」(昭和4年11月1日発行)に
ポール・ベルレーヌが書いた詩人論「呪われた詩人たち」の一つ
「トリスタン・コルビエール」を訳出し発表します。

その後も
「マックス・ヂャコブとの一時間」
「ヴヱルレエヌ訪問記」
「オノリーヌ婆さん」
――などを発表し続けます。

京都で富永太郎に感化されたフランス象徴詩派の翻訳を
「白痴群」でも発表していましたが
「社会及国家」でその仕事を継続する形となったのです。

更くる夜
       内海誓一郎に 
毎晩々々、夜が更(ふ)けると、近所の湯屋(ゆや)の
  水汲(く)む音がきこえます。
流された残り湯が湯気(ゆげ)となって立ち、
  昔ながらの真っ黒い武蔵野の夜です。
おっとり霧も立罩(たちこ)めて
  その上に月が明るみます、
と、犬の遠吠(とおぼえ)がします。

その頃です、僕が囲炉裏(いろり)の前で、
  あえかな夢をみますのは。
随分(ずいぶん)……今では損(そこ)われてはいるものの
  今でもやさしい心があって、
こんな晩ではそれが徐かに呟きだすのを、
  感謝にみちて聴(き)きいるのです、
感謝にみちて聴きいるのです。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

ずいぶんと脱線したようですが
「更くる夜」を内海誓一郎に献呈した背景をすこし見てみました。

「帰郷」「失せし希望」に作曲し
「社会及国家」への橋渡しをしたのが内海誓一郎です。

「白痴群」廃刊後に陥っていたに違いない虚脱感のなかで
詩人は「仕事」を得ました。

ほとんど報酬もなく
第17回衆議院総選挙があった昭和5年(1930年)には
発行日が遅延してしまうマイナーメディアでしたが
ベルレーヌの散文を翻訳した先駆けでもあり
やがて中也がフランス文学の翻訳に「活路」を見い出すきっかけとなったメディアでもありました。

内海が「失せし希望」に作曲しているさ中に
「更くる夜」は制作されたました。

献呈をサブ・タイトルとして明示することは
感謝の表明にほかなりませんが
「山羊の歌」編集時点でも
感謝の気持ちは継続したのでしょう。

このようなことどもを知りながら読めば
また詩の味わいも深くなることでしょうか。

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中野・炭屋の2階/「更くる夜」その2

「更くる夜」を献呈した内海誓一郎は
「失せし希望」のほかに
「帰郷」にも作曲していることで有名です。

ピアノをよくし
後には化学者になりました。

中野の「炭屋の2階」に中也が下宿していたころのこと。

誘われてその下宿を訪れ
詩の束を読まされて作曲を頼まれたという話は
諸井三郎と同じような経験で
その場面が彷彿(ほうふつ)としてきます。

「炭屋の2階」というのは
「中野町大字西町小字桃園3398関根方」であることが
「新全集」などいろんなところに記述されていたり
関口隆克が肉声で残していたりしますから
いまや伝説になっている中也の下宿でした。

この下宿に
中也は上京した年(大正14年)の11月から翌15年の4月まで住み
1度引っ越したあと
また同年(大正15年)11月に戻り住んでいます。

気に入ったところがあったのでしょうか。

2度目は昭和3年9月まで住んでいますが
大正15年は天皇崩御の改元により12月25日で終わり
12月26日から7日間が昭和元年ですから
「炭屋の2階」は2度目だけで実質2年弱、あしかけ2年半住んだことになります。

小林秀雄を通じて河上徹太郎を知ったのは
昭和2年春。
河上を通じて諸井三郎を知ったのは
昭和2年11月でした。

諸井を知ってから
毎週水曜日に長井維理宅で行われていた「スルヤ」同人会へ出席するようになり
そこで「スルヤ」のメンバーをはじめ
周辺の人々との交友を広げていきます。

「スルヤ」のリーダー格であった諸井三郎は
中野駅の近くに住んでいて
そこは中也の住む「炭屋の2階」とは大通りをへだてただけの距離でしたから
初めから中也は諸井の住まいを知っていたのかもしれません。

詩人が諸井を訪れやがて「炭屋の2階」に招いたのは
水の流れのように自然な流れでした。
そこで詩の束を見せて作曲を依頼したのです。

スルヤとは
「7」を意味するサンスクリッド語で
今東光、日出海兄弟の父・武平(ぶへい)が
スタート時の「白痴群」同人が7人いたために命名したことを
関口隆克がCD「関口隆克が語り歌う中原中也」の中で語っていて貴重です。

諸井三郎によれば
今日出海は「スルヤ」のメンバーということですから
そのよしみで父君・武平の命名になったものでしょうか。
中也とも早いころから面識があったことが推測されます。

昭和3年(1928年)1月に内海誓一郎
3月に大岡昇平、古谷綱武
4月に関口隆克
6月に阿部六郎
秋に安原喜弘 
……などといった具合に
「白痴群」同人となる知遇をこうして広げていったのです。

村井康男とは
渋谷・富ヶ谷の富永太郎宅で知ったという村井の証言があり
それは大正14年秋のことでしたし
同じく富永次郎とは次郎の兄・太郎の死(大正14年11月)のころに知り合ったはずです。

関口と石田五郎との共同生活に
押しかけるようにして参加したのは
昭和3年9月から翌4年1月まで。

その後村井康男と同じ下宿に住んでいた阿部六郎の住まいの近くの渋谷・神山に引っ越しますが
そこは大岡昇平の実家が近い大向(おおむかい)にありました。
後に富永次郎も村井、阿部の下宿に入りますし、
次郎の実家は隣町の代々木富ヶ谷でした。

「白痴群」のために
渋谷近辺に同人が集結した観があります。

「白痴群」の同人は
もともと成城学園で文学や美術や演劇のサークル活動に加わっていましたし
教官である村井と阿部が住んだ洋館の下宿が
たまり場のような役割を果たしました。

成城学園の生徒が
渋谷を親しいテリトリー(活動領域)としていたことも
背景にあることでしょう。

安原喜弘の実家も目黒でしたから
至近距離です。

渋谷百軒店で飲食後に
酔った勢いで町会議員の居宅の軒灯を壊し渋谷署へ拘留されたのはこの年(昭和4年)の4月。
5月には「白痴群」の会議という名目で長谷川泰子と京都へ旅します。

7月、高田博厚のアトリエの近く(豊多摩郡高井戸町中高井戸37)へ引っ越しました。
「更くる夜」はここで作られたことが推定されています。
(「新全集」第1巻解題篇)

渋谷・代々木の内海誓一郎の近くに住んだのは
「白痴群」が廃刊した昭和5年4月の後で
中央大学予科に通うのに適していたというのが理由の一つでした。

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消え入りそうな幸福/「更くる夜」

「無題」で敬虔(けいけん)な気持ちを歌ったところで
「みちこ」の章は
「更くる夜」「つみびとの歌」という二つの献呈詩を置いて閉じます。

献呈は
一人は内海誓一郎、
一人は阿部六郎へ。

どちらも丸眼鏡の
生真面目そうな人柄を感じさせる
「白痴群」同人です。

内海は
「帰郷」と「失せし希望」に作曲した「スルヤ」のメンバーでした。

更くる夜
       内海誓一郎に 

毎晩々々、夜が更(ふ)けると、近所の湯屋(ゆや)の
  水汲(く)む音がきこえます。
流された残り湯が湯気(ゆげ)となって立ち、
  昔ながらの真っ黒い武蔵野の夜です。
おっとり霧も立罩(たちこ)めて
  その上に月が明るみます、
と、犬の遠吠(とおぼえ)がします。

その頃です、僕が囲炉裏(いろり)の前で、
  あえかな夢をみますのは。
随分(ずいぶん)……今では損(そこ)われてはいるものの
  今でもやさしい心があって、
こんな晩ではそれが徐かに呟きだすのを、
  感謝にみちて聴(き)きいるのです、
感謝にみちて聴きいるのです。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

湯屋(ゆや)は現在の銭湯(せんと)。

夜遅くというのですから
終業後の清掃時間に
ざーっざーっと水を流す音が
原稿用紙に向かう詩人の部屋に聞こえてきたのでしょう。

かなり近いところにあるらしく
黒々とした闇に
湯気が立ち上るのが見えたのです。

それが霧となっては天空に広がり
その向こうに月が出ています……。

詩人はこの詩を作ったころ
「高井戸町中高井戸37」に住んでいました。
彫刻家、高田博厚の住まいの近くです。

現在の中央線、西荻窪駅南口から
およそ200メートル余りを歩いたあたりです。

昭和初期のことでした。

このような武蔵野の夜の光景は
ついこの間までありふれたものでした。

現在でもその面影は残っていますが
夜の暗さや静けさは比較になりません。
天の川の見える星々のまたたきもありました。

ものの音の絶えた静寂の中で
仕事を仕舞う人の気配が
詩人の孤独をなぐさめます。

犬の遠吠えも
馴染みのことなのかもしれません。

今夜ばかりは
やさしい気持ちになっています。

「あえかな」は
「ほんのり」とか「わずかに」とかの意味。

消え入りそうにか弱い
まどろみの時を過ごすのです。

詩人の時間に
このような幸福もあったのです。

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恋(人)ふたたび/「無題」その8

「!」の連発がなんと多いか。

「無題」を読みながら
「こういう詩を嫌うひとは多いだろうなあ」という思いにとらわれては
何度も何度も読み返します。

モダニストや
プロレタリアート陣営や
ロマンチストや
星菫派や……。

その声の実例を挙げることはしませんが
感情的なものから冷静なものまで
「プロフェショナルの眼」は
大体が声に挙げることもなく
無視か沈黙していることでしょう。

ところが「無題」に感応する詩人がいます。
立原道造です。

立原が昭和11年(1936年)6月に「四季」に発表した詩。

「或る不思議なよろこびに」は
詩集「暁と夕の詩」に収められている連作詩の一部で
現在「失われた夜に」のタイトルになっていますが
「四季」発表時には
中也の「無題」「Ⅰ」から取り
エピグラフとしていました。

「或る不思議なよろこびに」のタイトルの後に
戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら
私はおまへのやさしさを思ひ……
         ――中原中也の詩から
――と「無題」「Ⅰ」のフレーズを置いたのです。
(「新全集Ⅰ 解題篇」より。)

ちなみにこの詩は
「新編立原道造詩集」(角川文庫、昭和48年改版13版)では

  Ⅵ 失われた夜に
  
灼(や)けた瞳(ひとみ)が 灼けてゐた
青い眸(ひとみ)でも 茶色の瞳でも
なかつた きらきらしては
僕の心を つきさした。

泣かそうとでもいふやうに
しかし 泣かしはしなかつた
きらきら 僕を撫(な)でてゐた
甘つたれた僕の心を嘗(な)めてゐた。

灼けた瞳は 動かなかつた
青い眸でも 茶色の瞳でも
あるかのやうに いつまでも

灼けた瞳は しづかであつた!
太陽や香りのいい草のことなども忘れてしまひ
ただかなしげに きらきら きらきら 灼けてゐた

――となっています。

なぜか
エピグラフは外されています。

「白痴群」の僚友、河上徹太郎も
ベルレーヌの詩「叡智」を援用して
「無題」第5節「幸福」への深い読みを残しています。
(同上「新全集」より)

捨てる神あれば拾う神あり、です。

なにをくよくよ川端柳、です。

通じる人には通じるものです。

中也の詩は
涙にかきくれていようと
ピンと立っているところが抜群です。

無 題

   Ⅰ

こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまえと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまえのやさしさを思い出しながら
私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂い廻(まわ)る。
人の気持ちをみようとするようなことはついになく、
こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに
私は頑(かたく)なで、子供のように我儘(わがまま)だった!
目が覚めて、宿酔(ふつかよい)の厭(いと)うべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配(けはい)を感じながら
私はおまえのやさしさを思い、また毒づいた人を思い出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みずか)ら信ずる!

   Ⅱ

彼女の心は真(ま)っ直(すぐ)い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲(く)んでも
もらえない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真っ直いそしてぐらつかない

彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きている。
あまりにわいだめもない世の渦(うず)のために、
折(おり)に心が弱り、弱々しく躁(さわ)ぎはするが、
而(しか)もなお、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!

甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめていたかは!
しかしいまではもう諦めてしまってさえいる。
我利(がり)々々で、幼稚な、獣(けもの)や子供にしか、
彼女は出遇(であ)わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯(ただ)、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。
そして少しはいじけている。彼女は可哀想(かわいそう)だ!

   Ⅲ

かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがえば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、

おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、
人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき
熱を病(や)む風景ばかりかなしきはなし。

   Ⅳ

私はおまえのことを思っているよ。
いとおしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸っているよ、
まるで自分を罪人ででもあるように感じて。

私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考えられもするが、考えられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。

またそうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
そうすることは、私に幸福なんだ。
幸福なんだ、世の煩(わずら)いのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!

   Ⅴ 幸福

幸福は厩(うまや)の中にいる
藁(わら)の上に。
幸福は
和(なご)める心には一挙にして分る。

  頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛(まぎ)らす。
  そして益々(ますます)不幸だ。

幸福は、休んでいる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。

  頑なの心は、理解に欠けて、
  なすべきをしらず、ただ利に走り、
  意気銷沈(いきしょうちん)して、怒りやすく、
  人に嫌われて、自(みずか)らも悲しい。

されば人よ、つねにまず従(したが)わんとせよ。
従いて、迎えられんとには非ず、
従うことのみ学びとなるべく、学びて
汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

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恋(人)ふたたび/「無題」その7

「無題」の「Ⅳ」は
恋人を「おまえ」と呼び
その恋人のことをひがな一日思う気持ちを
罪人ででもあるように感じる詩人をさらけ出します。

私はおまえのことを思っているよ。
私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。
私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。
そうすることは、私に幸福なんだ。
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!

――と、あられもなく心のうちをぶちまけます。

「寒い夜の自我像」の第1次形態が作られたのが
昭和4年(1929年)1月29日で
「無題」は同年2月と推定されていますから
心境に変化があったとみるか同じとみるか。

「寒い夜の自我像」の第1連(=最終形)に

人々の憔懆(しょうそう)のみの愁(かな)しみや
憧れに引廻(ひきまわ)される女等(おんなら)の鼻唄を
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。

――とある「罰」に「罪人」がかすかに響き合います。

「無題」「Ⅳ」では
思っているよ
愛しているよ
お前に尽くすよ
尽くせるのは幸福なんだ
――と、「罰の受身」ではなく「罪の積極」を歌うのですから
より前進した気持ちになっていたのかもしれません。

最終行の末尾
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!
――の「!」は
感情が激高していることを示すというよりも
詩人があたりかまわず泣いている姿を想像させます。

第4節以外にも

私は頑(かたく)なで、子供のように我儘(わがまま)だった!(第1節)
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みずか)ら信ずる!(第1節)
彼女の心は真(ま)っ直(すぐ)い!(第2節)
彼女は美しい、そして賢い!(第2節)
彼女は可哀想(かわいそう)だ!(第2節)
汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!(第5節)

――と「!」がありますが
これも単純に「感動」の感嘆符が置かれているというよりも
「!」を打つたびに泣いているのではないかと思わせます。

湧き出てくる涙をぬぐおうともせずに
さめざめと泣いているのです。

詩人は涙にかきくれながら
キリスト生誕の場所である厩(うまや)の
藁束の上の「幸福」を思ってみたのでした。

   Ⅳ

私はおまえのことを思っているよ。
いとおしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸っているよ、
まるで自分を罪人ででもあるように感じて。

私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考えられもするが、考えられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。

またそうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
そうすることは、私に幸福なんだ。
幸福なんだ、世の煩(わずら)いのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!

   Ⅴ 幸福

幸福は厩(うまや)の中にいる
藁(わら)の上に。
幸福は
和(なご)める心には一挙にして分る。

  頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛(まぎ)らす。
  そして益々(ますます)不幸だ。

幸福は、休んでいる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。

  頑なの心は、理解に欠けて、
  なすべきをしらず、ただ利に走り、
  意気銷沈(いきしょうちん)して、怒りやすく、
  人に嫌われて、自(みずか)らも悲しい。

されば人よ、つねにまず従(したが)わんとせよ。
従いて、迎えられんとには非ず、
従うことのみ学びとなるべく、学びて
汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

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