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面白い!中也の日本語

2015/02/04

茨木のり子の「ですます調」その4・光太郎の「山羊の歌」−171

(前回からつづく)

 

中原中也の第1詩集「山羊の歌」は

難産のすえ昭和9年(1934年)に発行されましたが

その装幀を高村光太郎が手がけたことは有名です。

 

青山二郎が頼まれていた仕事でしたが

難航していた出版交渉がこの年末にバタバタとまとまって

文圃堂から発行されることが決ったときに

青山は旅行に出ていたため

急遽、光太郎が担当することになったのです。

 

光太郎はいわばピンチヒッターでしたが

堂々とした感じの本が出来あがりました。

 

 

「新編中原中也全集」第1巻 詩Ⅰ・解題篇に

「山羊の歌」の詳細な「詩集解題」があり

書誌、奥付、造本、構成と配列順序

――のデータが記録されています。

 

「書誌」の項で、装幀 高村光太郎、発行者 野々上慶一、

「造本」の項には、四六倍判、箱入り上製本、

「箱」は貼箱、

――などとあり、

 

「表紙」は、丸背厚表紙。赤口局紙(黄色)。背文字は詩集名、著者名とも純金箔押し。

平の文字は詩集名を墨刷、著者名を朱刷。

「本文」は、総頁152頁、用紙は英国製厚口コットン紙(薄鼠色)。

――などと案内されています。

 

これらデータを見るだけで

豪華でもなく

質素でもなく

瀟洒(しょうしゃ)といった感じの本がイメージできます。

 

瀟洒といっても

絵画的なもの(ビジュアル)を排して

中味を内部から湧き出させることを狙った外観(体裁)が目論(もくろ)まれた感じです。

 

 

こうしたイメージは

中原中也自らが望んだものであり

その意向を光太郎が汲んで制作したものであるらしく

二人の芸術家の交感の跡がそれとなく伝わってきます。

 

両者の間にどのような会話が交わされたのでしょうか?

 

そのことを想像するだけで

ワクワクしてきます。

 

 

この時(昭和9年末)、

高村光太郎52歳、

中原中也27歳。

 

光太郎は、療養中の妻・智恵子の看病に心血を注ぎ

中也は、第1子誕生を生地・山口にひかえていました。

 

 

この時のことは

「山羊の歌」の出版社であった文圃堂社主・野々上慶一の回想や

青山二郎の残した著作の中などに散見されますが

制作当事者である光太郎が

中也追悼文の中で触れているのは貴重な証言ですから

その部分だけを読んでおきましょう。

 

追悼文は「夭折を惜しむ」という題で

昭和14年4月10日発行の「歴程」同年4月号に掲載されたもので、

 

中原中也君の思いがけない夭折を実になごり惜しく思う。

私としては又たのもしい知己の一人を失ったわけだ。

 

――とはじまる短い文です。

 

中原君とは生前数える程しか会っていず、その多くはあわただしい酒席の間であって、

しみじみ二人で話し交した事もなかったがその談笑のうちにも不思議に心は触れ合った。

 

中原君が突然「山羊の歌」の装をしてくれと申し入れて来た時も、

何だか約束事のような感じがして安心して引きうけた。


(「新編中原中也全集」別巻(下)資料・研究篇より。)

 

 

これは書き出しの部分で

背後には草野心平や青山二郎らとの繋がりがあったようですが

「約束事のような」という表現には

光太郎の人を射抜くような眼差しがあります。

 

人を見るのに射抜くような眼差しがあります。

 

中也がこの申し入れをしたときは初対面だったのではなく

どこかで、それもどこかの酒席で会っていたことがあって

互いにその中で共感するものを感じ取っていた、というようなことだったのでしょう、きっと。

続きを読む "茨木のり子の「ですます調」その4・光太郎の「山羊の歌」−171" »

茨木のり子の「ですます調」その3・高村光太郎「伝」−170

(前回からつづく)

 

「うたの心に生きた人々」の中の「高村光太郎」の章は

 

1 高村光雲のむすこ

2 パリでの人間開眼(かいげん)

3 父と対立

4 『智恵子抄』の背景

5 日本人の「典型」

――という構成ですが、

 

 

「『智恵子抄』の背景」では、

光太郎と智恵子の出会いから

「上高地の恋」を経ての結婚

第一詩集「道程」の出版

そして智恵子が狂気を発症し死に至るまでを描きます。

 

その口ぶりの特徴あるところを

この流れにそってところどころ拾うと

こんなふうです。

 

 

智恵子はそんなことにはおかまいなく、純粋に光太郎の心の中めがけて、パッと飛びこんでしまったのです。

光太郎はびっくりし、たじろぎ、ショックでその不良性をさえ失ってしまいました。


「あの頃」という詩のなかで、



智恵子のまじめな純粋な

息をもつかない肉薄に

或日はっと気がついた。

わたくしの眼から珍しい涙がながれ、

わたくしはあらためて智恵子に向た。


智恵子はにこやかにわたくしを迎え、

その清浄な甘い香りでわたくしを包んだ。

わたくしはその甘美に酔て一切を忘れた。


わたくしの猛獣性をさえ物ともしない

この天の族なる一女性の不可思議力に

無頼(ぶらい)のわたくしは初めて自己の位置を知た。



と書いています。

 

 

光太郎と智恵子が、結婚に賭けた夢は、ひとりの彫刻家と、ひとりの画家が、共同生活をいとなみ、

それぞれの精進をつづけてゆくといった、永遠の学生生活のように若々しく意欲あふれるものでした。

 

 

智恵子はだれの目にも美人とうつる、いわば万人向きの美人ではなく、(略)



だれからも美人とみられるより、ひとりのひとによって発見された美のほうが、

よりすてきではないでしょうか。

 

 

昭和7年(1932)智恵子が47歳になったとき、とつぜん、睡眠薬アダリンを飲んで、

自殺未遂に終わるという事件が起こりました。

 

 

昭和9年は、父、光雲が83歳でなくなるという不幸があり、そのうえ、千葉県九十九里浜に療養させていた

智恵子の症状もますます悪化しました。

 

 

狂気の智恵子を考えるとき、たった一つの救いとなるものは、マニキュア用の小さなはさみで、

子どものように、無心に切って、じつに美しい紙絵をつくっていることです。

 

 

南品川のゼームス坂病院に入院していた、死の前年の、1年半くらいのあいだに、

千数百枚も切ったのでした。

 

 

光太郎がいくと、それはうれしそうな顔をして、そのひざに抱かれて、だれにも見せなかった紙絵を、

うやうやしく見せるのが、あわれでした。

光太郎がほめると、うれしそうに、はずかしそうに、何度も何度もおじぎをするのでした。

 

……等々。


(※読みやすくするために、改行をいれたり、洋数字に変えたりしてあります。編者。)

 

 

引きずり込まれ

引用がついつい長くなってしまいますが

これは抜粋(ばっすい)です。

 

原文を味わうものではありません。

 

 

うれしそうに、はずかしそうに、何度も何度もおじぎをするのでした。

――というところにさしかかっては

読み手のだれしもが書き手の茨木のり子の「こころ」と

直(じか)に触れるような共鳴をおぼえるにちがいありません。

 

光太郎と智恵子の結びつきが

まっすぐに伝わってきて

何度も読み返したくなるようなところですが

茨木の書き振りはむしろ控えめです。

 

 

夢中になって

書物を読み進めるこの感覚――。

 

それで思い出すのが

少年少女のための冒険物語とか偉人伝などの文体です。

 

エジソン伝とか

ナイチンゲールの物語とかが、

記憶の古層から

ふっと抜け出してくるのです。

 

茨木のり子が

偉人伝や冒険譚をイメージしていたかはわかりませんが。

 

 

このくだりにさしかかる頃、

この感覚とはまったく異なる

ある重要なことに気づき

思わず、あっと、息を飲みました。

 

中原中也の「山羊の歌」の表紙が

光太郎のこのような状況で制作されたことを思い出したからです。

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茨木のり子の「ですます調」その2・伝達の意志−169

(前回からつづく)

 

意識してわかりやすくやさしく書こうとするもの、

ワクワクドキドキさせ飽きさせないもの。

――という狙いは

茨木のり子の詩作のポリシーでもあったようですが

そのポリシーは散文において

より著しく実現されているようです。

 

 

「うたの心に生きた人々」中の「与謝野晶子」の章では

たとえば、

 

東京へでてからの鉄幹はめざましい活躍をし、二十二歳のときには「亡国の音」という歌論を新聞に発表して、宮内省系の古くさい歌人をやっつけました。

 

――といった歯切れのよい文章によく出合います。

 

なんの変哲もない素朴な文章でありそうですが

この文の終わりの「やっつけました」という書き方なんか

なんの気取りもなく勿体(もったい)ぶらない

ぶっきらぼうでさえある口調が

はっきりきっぱりした輪郭を生み出しています。

 

 

このような文は

いくらでも見つけることができます。

 

 

大ぜいの子どもたちは、ときに垢じみ、ときにパリッとしていたのです。

 

家計も苦しく、バス代もお手伝いさんから借りてゆく日さえあったのに「お金なんかなんだ!」

という心の張りをもって、すこしも貧乏のかげや、“しみ”を見せませんでした。

 

すべて手仕事でしたから、一つのびょうぶを仕上げるにもたいへんなことだったのでしょう。

身なりなどかまっていられず、大奮闘でした。

 

シベリア鉄道は十四日間もかかり、ことばは通ぜず、列車ボーイからチップばかり請求され、

手ちがいもあってお金もとぼしくなり、パンとコーヒーだけで最後の二日を過ごし、

へとへとになってパリにたどりつきました。

 

まさしく黄金の釘を、はっしと打って去った人でした。

 

(いずれもちくま文庫「うたの心に生きた人々」(所収「与謝野晶子」より。)

 

――といった具合です。

 

 

ここに「技」は

あるのではないか。

 

 

言葉をひねくりだそうとしていない。

 

最適の言葉を選ぼうとしてひねくりだしそこね

ぼやかしてしまうことへの恐れや反発があり

そうならないように注意を払う意識を働かしているのではないか。

 

選びに選んだ言葉が

かえって表現を限定し

スルリと肝腎要(かんじんかなめ)をぼかしてしまうような言葉遣いが

たとえば「美しい日本語」などにはよく見られることで

それを「言葉の綾」などといって称揚する傾向があることを

茨木のり子は排撃するのです。

 

そうしようとして

後にもどってはじめに浮んだ言葉を

そのまま書くというようなことを

意識している術であるようにさえ思えてきます。

 

 

そういう文ばかりでないことは勿論ですが

やさしくわかりやすくはっきりくっきりした文章を書こうとするねらいは

入門書、案内書である場合ですから

特に目立つということなのかもしれませんが

明らかにターゲット(読者)への伝達の意志(配慮)があります。

 

伝達を表現より大事にしていることでもあります。

 

 

そしてターゲットは

言葉そのものの面白さに目が開きかかった

青少年男女であり

そうでなくとも

言葉そのものを熟読玩味しようとする成年や老年までをも含みますから

それはインテリゲンチャーばかりではないのです。

 

 

これを文体と呼ぶならそう呼んでいいのですが

「高村光太郎」章中の「『智恵子抄』の背景」の終わりでは

智恵子が狂気を発症し死に至るまでを描き

あいまいさをみじんも残さないこの文体が

光太郎の心をけざやかにくっきりと浮き彫りにする言葉遣いが

息をのむように迫ってきます。

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茨木のり子の「ですます調」その1・書物初体験の記憶−168

のり子の「うたの心に生きた人々」が単刊発行されたのは

1967年11月、「さ・え・ら書房」からでした。

 

それが「ちくま文庫」として発行されたのが

1994年9月。

 

「倚りかからず」(ちくま文庫)の「茨木のり子著作目録」では

1955年「対話」(不知火社)

1958年「見えない配達夫」(飯塚書店)

1965年「鎮魂歌」(思潮社)

――に続く4番目の著作と記されています。


1967年は茨木のり子41歳の年です。

 

 

現在も増刷を繰り返しているということで

人気は衰える気配もありません。

 

その理由は

彼女の作品を

詩であれ散文であれ

読んでみればすぐにわかろうというものです。

 

そのような経験を一つ

紹介しておきましょう。

 

 

茨木のり子が書いた現代詩への入門書は

1979年発行の「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)がありますが

これより10年以上も前に

明治以後の詩人4人(与謝野晶子、高村光太郎、山之口貘、金子光晴)に絞った案内書がこの本で

ようやく最近になってここにたどり着き

夢中になって読んでいます。

 

その中で、

あ、これはどこかで覚えのある経験だなあ

なんだったかなあと自問するものがあり

なかなかその経験が思い出せないでいたところ

ふいに「少年少女○○物語」ってこういうのじゃなかったかな、と

懐かしくもよみがえってくる古い感情がありました。

 

 

赤胴鈴之助やまぼろし探偵やビリー・バックなどの紙の漫画本や

月光仮面や鉄腕アトムなどのテレビ番組より以前の

もっと古くて、ぼんやりかすんでしまった記憶の層にある

書物の初体験――。

 

それは少年画報とかの冒険活劇漫画だったのでしょうか。

 

漫画ではない

文字半分、挿絵半分の少年少女世界文学全集みたいなものだったのでしょうか。

 

記憶は混淆(こんこう)していて

錯綜(さくそう)していて

風化もしていますから定かではないのですが

茨木のり子の「ですます調」は

かなり古いこれらの書物体験の口ぶりを思い出させてくれたのです。

 

 

少年少女や青年男女向けに

意識してわかりやすくやさしく書こうとするもの、

ワクワクドキドキさせ飽きさせないものが

今読んでいる茨木のり子の「うた心に生きた人々」にありますし

かつて初めて読んだ「詩のこころを読む」にはありました。

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三好達治の戦争詩について/「ことのねたつな」のたおやめぶり−167

(前回からつづく)

 

「ことのねたつな」に

「馬」は出てきません。

 

戦場の馬も

銃後の馬も

現われません。

 

 

いとけなきなれがをゆびに

かいならすねはつたなけれ

そらにみつやまとことうた

ひとふしのしらべはさやけ

つまづきつとだえつするを

おいらくのちちはききつつ

いはれなきなみだをおぼゆ

かかるひのあさなあさなや

もののふはよものいくさを

たたかはすときとはいへど

そらにみつやまとのくにに

をとめらのことのねたつな

 

(岩波文庫「三好達治詩集」より。)

 

 

「おんたまを故山に迎ふ」「列外馬」とともに

戦争を歌った詩として

岩波文庫「三好達治詩集」(桑原武夫、大槻鉄男編)が明示しているのが

この詩「ことのねたつな」です。

 

 

「ことのねたつな」のどこに戦争が歌われているかといえば

もののふはよものいくさを(武士は四方の戦を)

たたかはすときとはいへど(戦わす時とは言えど)

――という詩行で理解できるのですが

歌われているのは前線の様子ではなく

琴の稽古にいそしむ乙女(おとめ)への励ましです。

 

 

「おんたまを故山に迎ふ」と「列外馬」は

「艸千里」(昭和14年)に収められていますが

「ことのねたつな」は

「寒柝(かんたく)」(昭和18年)という戦争詩ばかりを集めた詩集にあり

同文庫は「寒柝」からこの詩1篇だけを採録しています。

 

 

全行をひらがなにした意図がどこにあるのか。

 

目を凝らして単語の区切りを見分け

意味を受け取るという作業そのものに

集中と緊張を強いられ

詩世界へ没入すること自体にストレスを設けることによって

そのストレスを突破して詩世界へ入ることに異化作用を生じさせる狙いなのか。

 

ひらがなで示された言葉の意味を理解するのは

一種、クロスワードパズルを解くときのような

心地よさがあるといったら的外れでしょうか。

 

「ことのねたつな」は

「琴の音絶つな」です。



たおやめぶりに加えて

きっかりとした五七調が流麗感を演出しています。

 

 

では「寒柝」は

このような「たおやめぶり」ばかりの詩に満ちているかというと

そうではありません。

 

タイトルだけを

挙げてみましょう。

 

 

賊風料峭

征戦五閲月

乾盃

日本の子供

われら銃後の少國民

梅林小歌

皇軍頌歌(一、讐ありき 二、ふる里は 三、萬里の外 四、この日暁、五、勝而不傲)

父母の野

無償の寶玉

軍艦旗

こぞのこの朝

軍神加藤建夫少将

霜晨

起て仏蘭西!

半宵に声あり

青き海見つ

寒柝

黄の翼緑の翼

櫻花繚乱

寒駅の昼

桃の花

老松讃

群雀

一握の砂

さくら

撃ちてし止まむ

某造船所に於て

十柱の神

至上の戦旗

草奔私唱(※短歌連作)

草奔私唱 又

あだ一歩近く来れり

いざゆかせ

葉月のあした

ことのねたつな

 

(筑摩書房「三好達治全集第2巻」より。)

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三好達治の戦争詩について/「艸千里浜」の思われ人−166

(前回からつづく)

 

「艸千里浜」に

「二十年(はたとせ)の月日と」とあるのは

この詩が作られたのが1939年であるとして

1920年(大正9年)以降の年月ということになります。

 

 

岩波文庫「三好達治詩集」巻末の年譜を見ると

大正9年の項には

陸軍士官学校に入学とあり

大正11年には中退とあるのですが

大正4年には大阪陸軍地方幼年学校に入学(15歳)

大正7年に同校を卒業と同時に

東京陸軍中央幼年学校本科に進学

大正8年には同幼年学校本科の課程を修了し

北朝鮮会寧の工兵第19大隊に赴任

――といった軍人への経歴を積んでいることがわかります。

 

 

駒あそぶ高原(たかはら)の牧(まき)

 

「大阿蘇」の馬と違って

「艸干里浜」に現われる「駒」が遠景に退いたのは

20年前の友や思われ人が今やこの世に存在しないことの悲しみを意味するでしょう。

 

われをおきていずちゆきけむ

――は、わたくしを置いてどこへいってしまったのか


名もかなし

――には、愛(かな)しいのニュアンスがあります。

 

 

「大阿蘇」の馬は

雨の中に馬がたっている

馬は草をたべている

彼らは草をたべている

草をたべている

あるものはまた草もたべずに きょとんとしてうなじを垂れてたっている

馬は草をたべている

雨に洗われた青草を 彼らはいっしんにたべている

たべている

彼らはそこにみんな静かにたっている

ぐっしょりと雨に濡れて いつまでもひとつところに彼らは静かに集っている

――と、ひたすら立ち、食べ、集まっていることが描写されるだけで

そのことによって

「永遠の一瞬」という時間が捉えられました。

 

もしも百年が この一瞬の間にたったとしても 何の不思議もないだろう、と。

 

 

ただそれだけを歌うために現われた馬であることによって

その背後にある阿蘇山を大写しにした叙景詩でしたが

「艸千里浜」では人事が前面に歌われることになります。

 

 

「艸千里浜」の友や思われ人が

どのような人物を指しているのかを知れば

この詩はさらに近づいてくることでしょう。

 

そのことについて少しだけ触れておきます。

 

 

「艸千里」は

三好40歳の昭和14年(1939年)に刊行されました。

 

親友であった小説家、梶井基次郎が死んだのは

昭和7年(1932年)。

 

昭和11年(1936年)には「2.26事件」があり

陸軍幼年学校、陸軍士官学校で同志的存在だった西田税(みつぎ)が刑死しています。

 

「艸千里」の友や思われ人に

梶井基次郎や西田税らの面影があることは

間違いありません。

 

もちろんこのほかにも

三好の胸に去来した友や思われ人はあったかもしれませんが。

 

 

「大阿蘇」から「艸千里浜」へ

「艸千里浜」から「列外馬」へ。

 

「馬」というモチーフが接続してゆく流れは

この後どのようなうねりを見せるでしょうか。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

大阿蘇

 

雨の中に馬がたっている

一頭二頭仔馬をまじえた馬の群れが 雨の中にたっている

雨は蕭々(しょうしょう)と降っている

馬は草をたべている

尻尾も背中も鬣(たてがみ)も ぐっしょりと濡れそぼって

彼らは草をたべている

草をたべている

あるものはまた草もたべずに きょとんとしてうなじを垂れてたっている

雨は降っている 蕭々と降っている 

山は煙をあげている

中嶽(なかだけ)の頂きから うすら黄ろい 重っ苦しい噴煙が濛々(もうもう)とあがっている

空いちめんの雨雲と

やがてそれはけじめもなしにつづいている

馬は草をたべている

艸千里浜のとある丘の

雨に洗われた青草を 彼らはいっしんにたべている

たべている

彼らはそこにみんな静かにたっている

ぐっしょりと雨に濡れて いつまでもひとつところに彼らは静かに集っている

もしも百年が この一瞬の間にたったとしても 何の不思議もないだろう

雨が降っている 雨が降っている

雨は蕭々と降っている

 

 

艸干里浜

 

われ嘗てこの国を旅せしことあり

昧爽(あけがた)のこの山上に われ嘗て立ちしことあり

肥(ひ)の国の大阿蘇(おおあそ)の山

裾野には青艸しげり

尾上には煙なびかう 山の姿は

そのかみの日にもかわらず

環(たまき)なす外輪山(そとがきやま)は

今日もかも

思出の藍にかげろう

うつつなき眺めなるかな

しかはあれ

若き日のわれの希望(のぞみ)と

二十年(はたとせ)の月日と 友と

われをおきていずちゆきけむ

そのかみの思われ人と

ゆく春のこの曇り日や

われひとり齢(よわい)かたむき

はるばると旅をまた来つ

杖により四方(よも)をし眺む

肥の国の大阿蘇の山

駒あそぶ高原(たかはら)の牧(まき)

名もかなし艸千里浜(くさせんりはま)

 

(岩波文庫「三好達治詩集」より。現代表記に直しました。編者。)

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三好達治の戦争詩について/「列外馬」と阿蘇平原の馬−165

(前回からつづく)

 

「列外馬」は口語散文詩ですから

新かな表記に直したほうが読みやすく

現代感がよみがえります。

 

旧かなでは

現代に通じるパワーが小さいのです。

 

 

この詩は

どこかで目にした記憶があり

「三好達治詩集」(岩波文庫)をめくってみると

霾(ばい)」の項があり

中に「大阿蘇」があり

もう少しめくっていると

千里」の中の「千里浜」も阿蘇平原の馬をモチーフに現われ

制作年次が異なる「阿蘇の馬」を歌った作品であることがわかります。

 

大阿蘇のカルデラ平原に降る雨の下に群なす馬は

徴用され戦場に駆り出されて

病を得て廃馬とされ

いまや阿蘇ならぬどこかの草地に捨てられています。

 

ここに連続を見られるかどうか

実証できるものではありませんが

無関係であると言い切れないことは確かです。

 

 

三好は昭和14年(1939年)に、

合本詩集「春の岬」と第6詩集「艸千里」の2冊の詩集を刊行します。

 

「春の岬」は

測量船」「霾」「南窗集」「閒花集」「山果集」の単行詩集を合本にしたもの。

1930年から1939年までの三好達治の初期作品が集められました。

 

 

「霾」は音読みで「ばい」、訓読みで「つちけむり」。

中国大陸北部の黄土が吹き上げられ

季節風にのって空を黄褐色に染める。

 

日本にも飛来し「黄砂」となることはよく知られていますが

「霾」は俳句で春を示す季語であり

俳句に通じる詩人の自然志向を示すものでしょう。

 

 

「霾」に収められた「大阿蘇」と

「艸千里」に収められた「艸千里浜」を読んでみましょう。

 

 

大阿蘇

 

雨の中に馬がたっている

一頭二頭仔馬をまじえた馬の群れが 雨の中にたっている

雨は蕭々(しょうしょう)と降っている

馬は草をたべている

尻尾も背中も鬣(たてがみ)も ぐっしょりと濡れそぼって

彼らは草をたべている

草をたべている

あるものはまた草もたべずに きょとんとしてうなじを垂れてたっている

雨は降っている 蕭々と降っている 

山は煙をあげている

中嶽(なかだけ)の頂きから うすら黄ろい 重っ苦しい噴煙が濛々(もうもう)とあがっている

空いちめんの雨雲と

やがてそれはけじめもなしにつづいている

馬は草をたべている

艸千里浜のとある丘の

雨に洗われた青草を 彼らはいっしんにたべている

たべている

彼らはそこにみんな静かにたっている

ぐっしょりと雨に濡れて いつまでもひとつところに彼らは静かに集っている

もしも百年が この一瞬の間にたったとしても 何の不思議もないだろう

雨が降っている 雨が降っている

雨は蕭々と降っている

 

 

艸干里浜

 

われ嘗てこの国を旅せしことあり

昧爽(あけがた)のこの山上に われ嘗て立ちしことあり

肥(ひ)の国の大阿蘇(おおあそ)の山

裾野には青艸しげり

尾上には煙なびかう 山の姿は

そのかみの日にもかわらず

環(たまき)なす外輪山(そとがきやま)は

今日もかも

思出の藍にかげろう

うつつなき眺めなるかな

しかはあれ

若き日のわれの希望(のぞみ)と

二十年(はたとせ)の月日と 友と

われをおきていずちゆきけむ

そのかみの思われ人と

ゆく春のこの曇り日や

われひとり齢(よわい)かたむき

はるばると旅をまた来つ

杖により四方(よも)をし眺む

肥の国の大阿蘇の山

駒あそぶ高原(たかはら)の牧(まき)

名もかなし艸千里浜(くさせんりはま)

 

(岩波文庫「三好達治詩集」より。現代表記に直しました。編者。)

 

 

「大阿蘇」は馬に焦点はあり

艸千里浜」は今は亡き友を偲ぶ歌のようですから

この二つの詩の馬には

主役(近景)と脇役(遠景)ほどの違いがあります。

 

この違いは

どこから来るものでしょうか?

続きを読む "三好達治の戦争詩について/「列外馬」と阿蘇平原の馬−165" »

三好達治の戦争詩について/「列外馬」の背景−164

(前回からつづく)

 

「三好達治詩集」(岩波文庫、桑原武夫・大槻鉄男選、1971年第1刷発行)の解説で

「意味深い作品」として挙げられ

特別に収録された戦争詩は

「おんたまを故山に迎ふ」のほかに、

「列外馬」、「ことのねたつな」などがあります。

(※「など」とあるのは、戦争を歌った詩が明示されたこれら3作のほかにもあることを示しているようですが、それがどの詩であるのかは不明です。)

 

次に

「艸千里」にある散文詩「列外馬」を読んでみましょう。

 

 

列外馬

 

遠く砲声が轟(とどろ)いている。声もなく降りつづく雨の中に、遠く微かに、重砲の声が轟いている。1発また1発、間遠な間隔をおいて、漠然とした方角から、それは10里も向うから聞えてくる。灰一色(はいいっしょく)の空の下に、それは今朝から、いやそれは昨日からつづいている。雨は10日も降っている。広袤(こうぼう)無限の平野の上に、雨は蕭々と降りつづいている。

 

ここは泥濘(ぬかるみ)の路である。たわわに稔った水田の間を、路はまっ直ぐ走っている。黄熟した稲の穂は、空しく収穫の時期を逸して、風に打たれて既に向き向きに仆(たお)れている。見渡すかぎり路の左右にうちつづいた、その黄金色(こがねいろ)のほのかな反射の明るみは、密雲にとざされたこの日の太陽が、はや空の高みを渡り了って吊瓶(つるべ)落しに落ちてゆく。午後の時刻を示している。

 

今ここに一頭の馬――廃馬が佇んでいる。それは廃馬、すっかり馬具を取除かれて路の上に抛り出された列外馬である。それは蹄(ひづめ)を泥に没してきょとんとそこに立っている。それは今うな垂れた馬首を南の方へ向けている。恐らくそれは北の方から、今朝(それとも昨日……)この路の上を一群の仲間と共に南に向かって進軍を続けてきたものであろう。そうしてここで、その重い軛(くびき)から解き放たれて、

――とうとうこいつも駄目になった、いいから棄てて行け。

 

そんな言葉と一緒に、今彼の立っているその泥濘の上に、すっかり裸にされた上で抛り出されたものであろう。そうして間もなく、その時まで彼もまたその一員だったその一隊の軍隊は、再び南の方へと進軍を起して、やがて遠く彼の視界を越えて地平に没し去ったのであろう。

 

激しい掛け声も、容赦ない柏車(はくしゃ)も鞭打ちも、ついに彼を励まし促し立てることの出来なくなった時、彼はここに棄てられたのである。彼にも急速が与えられた。そうして最後に休息の与えられたその位置に、彼はいつまでも南を向いて立っている、立ちつくしている。尻尾一つ動かそうとするでもなく、ただぐったりと頭を垂れて。

 

見給え、その高く聳(そび)えた腰骨を、露わな助骨を、無慙な鞍傷を。膝のあたりを縛った繃帯にも既に黝ずんだ血糊がにじんでいるではないか。

 

たまたまそこへ1台の自動車が通りかかった。自動車はしきりに警笛の音をたてた。彼はそれにも無関心で、車の行手に立ち塞がったまま、ただその視線の落ちたところの路面をじっと見つめていた。車はしずかに彼をよけて通りすぎなければならなかった。

 

広漠とした平野の中の、彼はそうしていつまでも立ちつくしていた。勿論彼のためには飢えを満すべき一束の枯草も、風雨を避くべき厩舎もない。それらのものが今彼に与えられたところで、もはやそれが何にならう、彼には既に食慾もなく、いたわるべき感覚もなくなっていたに違いない。

 

それは既に馬ではなかった。ドラクロアの「病馬」よりも一層怪奇な姿をした、ぐっしょり雨に濡れたこの生き物は。この泥まみれの生き物は、生あるものの一切の意志を喪いつくして、そうしてそのことによって、影の影なるものの一種森厳な、神秘的な姿で、そこに淋しく佇んでいた。それは既に馬ではなかった、その覚束ない脚の上にわずかに自らを支えている、この憐れな、孤独な、平野の中の点景物は。

 

折からまた20人ばかりの小部隊が彼の傍らを過ぎていった。兵士達は彼の上に軍帽のかげから憐憫(れんびん)の一瞥(いちべつ)を投げ、何か短い言葉を口の中で呟いて、そうしてそのまま彼を見捨てて、もう一度彼の姿をふりかえろうともせず、蕭然と雨の中を進んでいた。

 

雨は声もなく降りつづいている、小止みもなく、雨は10日も降っている。

 

やがて時が来るだろう、その傷ついた膝を、その虔(つつ)ましい困憊(こんぱい)しきった両膝を泥の上に跪(ひざま)づいて、そうして彼がその労苦から彼自身をとり戻して、最後の憩いに就く時がやがて間もなく来るだろう。

 

遠く重砲の音、近く流弾の声。

 

(読みやすくするために、旧かなを新かなに変え、原詩の改行部に1行空きを加えました。適宜、漢数字を洋数字に改めました。編者。)

 

 

軍馬として用をなさなくなった廃馬が

軍列から離され

列の外に捨て去られるのを「列外馬」という。

 

聞きなれない言葉は

かつて陸軍士官学校を中退した詩人こそが知る専門語であったか。

 

一般人も普通に知っていたものか。

 

表意文字である漢字に親しい日本人なら

容易に意味を理解するところの言葉でしょうけれど

やはりこれは戦争の馬なのです。

 

 

比較的に長い詩ですが

きわめて分かりやすい内容なのは

1頭の馬が雨の降る平原に立っているという

それだけのことの描写とそのわずかな背景を歌っているからでしょうか。


 

馬の立っているところに

自動車が通り

重砲、銃弾の音が聞えるというのですから

この戦地は大陸のどこかのものなのでしょうか。


それとも、

市街地をひかえた

どこかの軍事基地か練兵場近辺の平原なのでしょうか。


ドラクロアの絵の引例がありますから

西欧の小説などから詩想を得たということもあるかもしれません。


いずれであっても

この馬はまた

日華事変や満州事変に由来するものなのでしょう。

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三好達治の戦争詩について/「おんたまを故山に迎ふ」その3−163

(前回からつづく)


月また雲のたえまを駆け(=月が雲間に走るように見え隠れし)

さとおつる影のはだらに(=さっと落ちて影がまだら状になっている地上に)

ひるがへるしろきおん旌(はた)(=翻っている白い御旗)

われらがうたのほめうたのいざなくもがな(=われらが歌う褒め歌などないほうがよいがなあ)

ひとひらのものいはぬぬの(=一枚の物言わぬ布切れが)

いみじくも ふるさとの夜かぜにをどる(=なんと心に迫るものか、ふるさとの夜風に踊る)

うへなきまひのてぶりかな(=極上の舞の手振りであることよ)



第5連に現われる「白い旗」は

われらがうたのほめうたのいざなくもがな

――と歌われるくだりが晦渋で

読み過ごせない重要なところですが

「いざなくもがな」に立ち止まざるを得ません。


「もがな」は願望を表わす終助詞で「……であってほしい」の意味であるなら

「なくもがな」は「……でなくありたい」になりますから

そこに「いざ」という感動詞が加えられても強調するくらいのことで

「さて、ないほうがよろしかろう」の意味になり、

「われらが歌う褒め歌などないほうがよい」と読めます。


こう読んでいいものか。



全7連構成のうちのこの連(第5連)のこの行は

さりげなく目立ちませんが

ひねり出したような言葉使いを感じさせ

この詩への詩人のたくらみ(技)があるところ(のよう)です。


死んだ兵士をいくら褒めたところで

それは空しい

――という詩人の心の声がひょっこり現われたところ(のよう)です。


月が雲の陰になり

また現われては地上にまだらの影を作る

そこに白い旗が風に靡(なび)くのは

あれはまるで

そこに死者が息づいているのを見ているようだ。


そのひと時に浸(ひた)っているだけで十分である。



「白い旗(旌)」は

棒切れに白い布をくくりつけたような粗末なものであったか

弔いのために村で用意してあるしっかりしたものであったか

どちらであっても

その旗は

物言わずに

折から吹き渡る夜風に揺れている様(さま)が

この上もなく(心のこもった)手振りの舞であると歌われるのです。



第6連そして最終連は、

かへる日をたのみたまはでありけらし(帰る日を願うこともないようでした)

――と出征していった兵士(第1連)が

思いのすべてを果たして

何物を余すというのか(何も余さず)

残すところもなく肉体を投げうって

遺骨ばかりがお帰りになった


二つとない祖国、二つとない命どころか

妻も子も親族までも捨てて

出征したあの兵士であることの

わずかな印だけである御骨(おほね)がお帰りになった

――と歌われるのですが

ここは詩のはじまりを繰り返すようでありながら

単なる繰り返し(ルフラン)を歌っているのではありません。


帰らないと誓った兵士は

骨になって無言で帰還したのですから。



この詩は

その悲しみに寄り添いその悲しみを歌い

村人たちのその悲しみを慰める歌であり

兵士の御霊(おんたま)を鎮(しず)める歌です。


その点に絞って(他意はないように)読むことができますが

それではこの詩は

この詩が書かれた時代や時局と無縁に成立したのでしょうか。


そんなはずはありません。



「おんたまを故山に迎ふ」は

昭和14年(1939年)に刊行された第6詩集「艸千里」に収められています。


ということは

この詩の戦争は

太平洋戦争や第2次世界大戦のことではありません。


それらへと続く時代のはじまりを告げた

満州事変とか日華事変とかの戦争のことです。


いずれにしても

抽象的、観念的な戦争なのではなく

実際にあったリアルな戦争の1局面(銃後などという言葉があります)を歌ったもので

そのことを離れて読んでは詩を遠ざけることになるでしょう。



「艸千里」を三好が刊行した昭和14年に

三好は40歳。


日華事変は2年前の昭和12年、

満州事変は昭和6年でした。



途中ですが

今回はここまで。



おんたまを故山に迎ふ



ふたつなき祖国のためと

ふたつなき命のみかは

妻も子もうからもすてて

いでまししかの兵(つは)ものは つゆほども

かへる日をたのみたまはでありけらし

はるばると海山こえて

げに

還る日もなくいでましし

かのつはものは


この日あきのかぜ蕭々と黝(くろず)みふく

ふるさとの海べのまちに

おんたまのかへりたまふを

よるふけてむかへまつると

ともしびの黄なるたづさへ

まちびとら しぐれふる闇のさなかに

まつほどし 潮騒(しほさゐ)のこゑとほどほに

雲はやく

月もまたひとすぢにとびさるかたゆ 瑟々(しつしつ)と楽の音きこゆ


旅びとのたびのひと日を

ゆくりなく

われもまたひとにまじらひ

うばたまのいま夜のうち

楽の音はたえなんとして

しぬびかにうたひつぎつつ

すずろかにちかづくものの

荘厳のきはみのまへに

こころたへ

つつしみて

うなじうなだれ


国のしづめと今はなきひともうなゐの

遠き日はこの樹のかげに 閧(とき)つくり

讐(あだ)うつといさみたまひて

いくさあそびもしたまひけむ

おい松が根に

つらつらとものをこそおもへ


月また雲のたえまを駆け

さとおつる影のはだらに

ひるがへるしろきおん旌(はた)

われらがうたのほめうたのいざなくもがな

ひとひらのものいはぬぬの

いみじくも ふるさとの夜かぜにをどる

うへなきまひのてぶりかな


かへらじといでましし日の

ちかひもせめもはたされて

なにをかあます

のこりなく身はなげうちて

おん骨はかへりたまひぬ


ふたつなき祖国のためと

ふたつなき命のみかは

妻も子もうからもすてて

いでまししかのつはものの

しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ


(岩波文庫「三好達治詩集」より。)

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三好達治の戦争詩について/「おんたまを故山に迎ふ」その2−162

(前回からつづく)

 

「おんたま」とは

「御霊」か「御魂」のことか

 

「御霊=みたま」ならよく聞き

「たましい」に尊敬の意味を強めて使うのであろうことぐらいと

何かの折に自分でも使えるような気がしますが

「おんたま」となると

かしこまりすぎて

なかなか普段は使えるものでなく

一般人には遠い言葉です。

 

 

三好達治は

出征した兵士が遺骨となって帰郷した光景を

偶々(たまたま)通りかかった旅の途上で見たのでしょうか。

 

実際に見たものでないのかもしれませんが

帰還した御遺骨を迎えるどこかの村(人)に託して

自らの鎮魂歌としたのでしょうか。

 

はじまりは、たましい(魂)として登場し

終わりには、おほね(骨)として現われて

目に見えない魂が

やがてリアルな遺骨であることを歌った詩です。

 

そのような歌い方をされている詩です。

 

 

もう一度読んでみましょう。

 

 

おんたまを故山に迎ふ



ふたつなき祖国のためと

ふたつなき命のみかは

妻も子もうからもすてて

いでまししかの兵(つは)ものは つゆほども

かへる日をたのみたまはでありけらし

はるばると海山こえて

げに

還る日もなくいでましし

かのつはものは


この日あきのかぜ蕭々と黝(くろず)みふく

ふるさとの海べのまちに

おんたまのかへりたまふを

よるふけてむかへまつると

ともしびの黄なるたづさへ

まちびとら しぐれふる闇のさなかに

まつほどし 潮騒(しほさゐ)のこゑとほどほに

雲はやく

月もまたひとすぢにとびさるかたゆ 瑟々(しつしつ)と楽の音きこゆ


旅びとのたびのひと日を

ゆくりなく

われもまたひとにまじらひ

うばたまのいま夜のうち

楽の音はたえなんとして

しぬびかにうたひつぎつつ

すずろかにちかづくものの

荘厳のきはみのまへに

こころたへ

つつしみて

うなじうなだれ


国のしづめと今はなきひともうなゐの

遠き日はこの樹のかげに 閧(とき)つくり

讐(あだ)うつといさみたまひて

いくさあそびもしたまひけむ

おい松が根に

つらつらとものをこそおもへ


月また雲のたえまを駆け

さとおつる影のはだらに

ひるがへるしろきおん旌(はた)

われらがうたのほめうたのいざなくもがな

ひとひらのものいはぬぬの

いみじくも ふるさとの夜かぜにをどる

うへなきまひのてぶりかな


かへらじといでましし日の

ちかひもせめもはたされて

なにをかあます

のこりなく身はなげうちて

おん骨はかへりたまひぬ


ふたつなき祖国のためと

ふたつなき命のみかは

妻も子もうからもすてて

いでまししかのつはものの

しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ

 

(岩波文庫「三好達治詩集」より。)

 

 

詩は

旅人の目で御霊の帰還をとらえますが

「おんたまを故山に迎ふ」のタイトルが示すように

この旅人は「迎える」主体でもあります。

 

秋風が蕭々と吹き

時雨降る闇

潮騒(しおさい)が聞える海辺

 

雲の流れは速く

月もそれに連れて飛び去っていく空の果てから

瑟々(しつしつ)と楽の音が聞えて来ます

 

村人の葬送の列が

笛太鼓(?)を演奏する音が

詩人に近づいているのでしょう

 

こころたへ

つつしみて

うなじうなだれ

 

――の主格は詩人その人でしょう。

 

 

死んでしまった兵士も

幼き日には

この老松の根元で遊び

「あだをうつぞー」と鬨の声をあげて

戦争ごっこに興じたことがあったであろう

――と故人を思い返す人になっています。


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