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「むなしさ」からはじまった「在りし日の歌」

2014/02/08

「むなしさ」からはじまった「在りし日の歌」<10>ダダ脱皮への文語定型

「むなしさ」には
ポール・ベルレーヌの「ダリア」の影響がみられ
その日本語訳を参考にしたかもしれないということで
上田敏
鈴木信太郎
堀口大学ら
 
また、措辞や詩の調子の類縁という点から
宮沢賢治
富永太郎
北原白秋
岩野泡鳴らの名前が挙げられていますが
 
最も大きな特徴は
文語定型詩や
五七調(およびその破調としての七七など)へ
いはば回帰をみせているということがいえます
 
ダダイズムの詩から
もっとも遠い地平にあるのが
日本の古語の世界ではないか、と
詩人が考えた形跡は見つかりませんが
ダダからの脱皮を示す
目に見える形として
文語定型詩が存在することを見出すのに
たいした苦労はなかったはずでした
 
第1連第2行
 
心臓はも 条網に絡(から)み
 
この「はも」は
「古事記」に
 
さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも
 
とある有名な
オトタチバナヒメの詠んだ歌の末尾の
「君はも」の「はも」を
すぐさま連想させますが
中原中也が
この歌を思い描きながら
「むなしさ」を歌ったかどうかは別にしましても
上代の和歌で使用された接尾語を
このように駆使しているという事実は
 
最終連第1行
 
偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 
の「そも」が
「雨夜の品定め」として有名な
「源氏物語」の「帚木の巻」の冒頭に
 
そもまことにその方を取り出でむ選びにかならず漏るまじきは、いと難しや。
 
とあるくだりの「そも」を
詩人が記憶していたことをも
推測させますが
これは想像の範囲を超えるものではまったくありません。
 
どちらのケースにしても
少年時代から
短歌制作に打ち込んでいた中原中也が
その過程で古語に親しんだことに間違いはなく
「古事記」も「源氏物語」も
一度くらい目に通しても
不思議なことではありませんから
自作の詩の中に使用するほどの
身についた素養であって自然でした。
 
このようにして
「むなしさ」には
昭和初期の中原中也の
からだの中にあった
全ての「詩の技(わざ)」が
投げ込まれてあった、と
見ることができます。
 
摂取や受容に
詩人は必死なのでしたし
摂取や受容を自己のものにするのにも必死でしたし
自己の詩が確立されるのは
もう一息というところにいました。
 
 *
 むなしさ
 
臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)
 
せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風
 
白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず
 
明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友
 
偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓の音 つづきてきこゆ
 
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

「むなしさ」からはじまった「在りし日の歌」<9>長男文也の急死で「在りし日の歌」再編

「むなしさ」は当初
第2詩集「在りし日の歌」の冒頭詩篇でしたが
詩集編集の間に
長男の文也が急死したために
「含羞(はぢらひ)」に取って変えられました。
 
それまで
すなわち昭和11年(1936)11月10日に
文也が死ぬまでは
「むなしさ」が「在りし日の歌」の冒頭に置かれていたのですが
詩集編集は一時中断し
この中断の間には
詩人自身が千葉の中村古峡療養所へ
入退院するというハプニングもあって
再び開始されるのは
翌12年の夏になってからですから
再開されたこの詩集編集の時に
「含羞」を冒頭詩篇とする改編が行われたということが
角川新全集編集により考証されているのです。
 
こうして
「在りし日の歌」を
中原中也は「在りし日」に手に取ることもなく
文学仲間である小林秀雄に託してすぐに
他界してしまいます。
昭和12年10月22日のことです。
長男文也の死亡から
1年余の後のことでした。
 
このため、
「在りし日の歌」は「著者校正」が行なわれなかった
稀有な詩集ということにもなります。
 
 
 *
 むなしさ
 
臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)
 
せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風
 
白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず
 
明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友
 
偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓の音 つづきてきこゆ
 
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

「むなしさ」からはじまった「在りし日の歌」<8>「在りし日の歌」冒頭詩へ

「むなしさ」は
昭和26年(1951)に発行された
創元社版全集第3巻では
大正15年2月制作と記録されていますが
この時に存在した初稿は現在では失われているため
初めて制作された日がいつであったか
確証するものはありません。
 
横浜を舞台にしているというところから
ほかの「横浜もの」と同じ時期で
さらに内容が冬を歌っていることから
大正15年2月の制作とみなされています。
 
この初稿が推敲されて
昭和10年の「四季」3月号に
発表されたものが初出となり
やがては
「在りし日の歌」に収録されて第二次形態になります。
 
「在りし日の歌」の収録にあたっては
詩集編集の当初から
「むなしさ」を冒頭に配置する計画でしたが
発行に至る間に
長男文也が急逝したことによって
「在りし日の歌」全体の構成を変えざるを得ず
急遽、「含羞(はぢらひ)」が冒頭に置かれることになり
「むなしさ」は2番目になったのでした。
 
こうして第2詩集「在りし日の歌」の
2番目に「むなしさ」は配置されたのですが
中原中也が
いかにこの作品に重きを置いたかを
知っておくことは無意味なことではありません。
 
「在りし日の歌」は
元はといえば
「むなしさ」にはじまったのです。
 
遠い過去の作品のうちの
最も近い作品として
「むなしさ」は
「在りし日の歌」の冒頭に配置されるべき詩でした。
 
 *
 むなしさ
 
臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)
 
せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風
 
白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず
 
明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友
 
偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓の音 つづきてきこゆ
 
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

「むなしさ」からはじまった「在りし日の歌」<7>岩野泡鳴流の小唄調

臘祭(ろうさい)の「臘」は
「陰暦12月」をさし
簡単にいえば
「12月のお祭り」のことです。
 
横浜の中華街の年末には
このようなお祭りが
行われていたものか
現在も行われているのでしょうか。
 
横浜は
詩人の母フクが生まれ、
7歳まで育った土地でしたし
祖父助之が客死した土地でした。
東京に遠縁の中原岩三郎が居住していたように
横浜にも由縁があり
時あらば訪れては
一人身の淋しさを癒したのです。
 
こうして作られたのが
「横浜もの」といわれる
1連の作品です。
 
「むなしさ」のほかには
「山羊の歌」所収の
「臨終」
「秋の一日」
「港市の秋」
「未発表詩篇」の
「かの女」
「春と恋人」があります。
 
「むなしさ」については
大岡昇平が
次のように評しているのを
超える発言はめったにお目にかかれません――
 
「詩句には岩野泡鳴流の小唄調と田臭を持ったものであるが、「遐き空」「偏菱形」等の高踏的な漢語は、富永太郎や宮沢賢治の影響である。これだけでもダダの詩とは大変な相違であるが、重要なのは、ここで中原がよすがなき戯女に仮託して叙情していることであろう」
(新全集Ⅱ解題篇より)
 
「むなしさ」に現れる戯女=たわれめに
詩人は
己の孤独を重ね合わせ
ふるえるような悲しみの旋律を
シンクロさせているのです。
 
岩野泡鳴流というのが
具体的にどの詩句をさしているのかわかりませんが
花街には
三味線の音が
どこからともなく聞こえ
その音にあわせて小唄の一つが
奏でられていて自然です。
 
孤独の魂には
心細げに聞こえながら
芯のある三味線、小唄の響きは
心からの慰めになりました。
 
女たちから
「いき」な話を聞くことがあって
それもこの街へ立ち寄る理由の一つだったのかもしれません。
 
この詩では
胡弓の音が前面に立ち
三味線の音など
いっこうに聞えてこないようですが
大岡昇平が「岩野泡鳴流の小唄調」というのは
そのあたりのことを含んでのこととも受け取れて
読みの深さに脱帽するばかりです。
 
 
 *
 むなしさ
 
臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)
 
せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風
 
白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず
 
明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友
 
偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓の音 つづきてきこゆ
 
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

「むなしさ」からはじまった「在りし日の歌」<6>鈴木信太郎訳の「ヴェルレエヌ詩集」

「むなしさ」を書いた頃
ベルレーヌの鈴木信太郎訳を
中原中也は入手していたのか
決定的なことはわかりませんが
「近代仏蘭西象徴詩抄」(鈴木信太郎著、春陽堂、大正13年発行)から
ランボーの「少年時」を筆写したことは
よく知られています。
 
「ダリア」は
鈴木信太郎訳「ヴェルレエヌ詩集」に収録されていますから
中原中也がいずれは
読んだに違いはないのですが
「むなしさ」を作る前後のことは
わかりません。
 
川路柳虹訳とは
こんなにも異なる趣(おもむき)があるということで
ここに引いてみます。
 
ヴェルレエヌを訳し始めたのは、もういつのことだか憶えていないが、私の訳詩集に初めて収録したのは大正13年(1924)だから、30年近くも前であった。「都に雨の降るごとく」など、まだその時のままの稚い姿だが、もう私から離れて一個の形体のような感がして今更どうする気もなく、又どうしようもない。其後フランスの詩全般に関し特に象徴詩に関し、徐徐に研究らしくもない研究を積み重ねてゆくにつれて、時おり翻訳したものが自然に溜ったので、昭和22年(1947)に纏めて、『ヴェルレエヌ詩集』と題して、創元社から出版した。
 
と後記に記されています。
 
 
 ダリヤ
 
石胎(せきたい)の娼婦よ、牛の眼のごとく
遅鈍(ちどん)に開く 褐色の濁れる眼(まなこ)
新しき大理石(なめいし)さながら 燦く胴。
 
脂肉(あぶらみ)の豊満なる花、花に漾(ただよ)う
芳香もなく、肉体のうららかなる美は、
鈍重に、無垢の同意を 繰りひろぐ。
 
肉の身の薫(かおり)すらなし、この味は
秣(まぐさ)を干(ほ)せる膚(はだえ)より昇る体臭、
しかも玉座に就けるきみ、香(こう)も感ぜぬ偶像よ。
 
――かくて錦繍を装へる王、ダリヤは
傲慢(おごり)の影もなく、香(かおり)なき頭(こうべ)を撓(もた)ぐ、
芬々たる素馨(そけい)の中に、苛立ちながら。
(※鈴木信太郎訳「ヴェルレエヌ詩集」岩波文庫より、後記も。新漢字に直してあります。編者)
 
中原中也が「ダリア」を訳したことは
なかったようですが
あったとすれば
大変、興味がひかれることですね。
 

「むなしさ」からはじまった「在りし日の歌」<5>ベルレーヌの「ダリア」

中原中也が
ポール・ベルレーヌの名を
はじめて知ったのは
「彼より仏国詩人等の存在を学ぶ」(詩的履歴書)と
後に記されるように
京都を訪れた富永太郎を通じてといわれていますから
その時から数えても
まもなく2年になろうとしています。
 
はじめのうちは
フランス語の勉強をしていなかったため
上田敏訳のランボー「酔いどれ船」を
「ノート1924」の空きページに筆写して
フランス詩の片鱗を味わう程度の接触でしたが
2年のうちには
小林秀雄や
小林周辺の帝大仏文科の学生
もしくは教官であった
辰野隆や鈴木信太郎からということもあったのか
または日大予科やアテネ・フランセでの
授業や学友を通じて……
 
といった具合に
フランス詩の趨勢を知り
ベルレーヌを知り
ランボーも知り
ボードレールも知り……
とりわけ象徴詩は
詩作に摂取するための
糧(かて)のような存在で
単なるテクスト以上の意味がありました。
 
「むなしさ」が
ベルレーヌの「ダリア」に
ヒントを得ているといわれているのは
「ダリア」が収められた
「ヴェルレーヌ全集」の原書を
大正15年5月に購入したことを
読書記録に残していることや
川路柳虹の翻訳が収められた
「ヹルレーヌ詩集」を所蔵していることなどから分かるのですが
なによりも
詩に登場する遊女の共通性です。
 
ベルレーヌは
娼婦をダリアに喩えますが
中原中也は
戯女(たわれめ)を白い薔薇に喩えました。
 
原文のフランス語を
辞書を引きながら読み解き
川路柳虹訳を参照しながら
なお理解の届かない部分を
近辺のだれかに尋ねることもあったのでしょうか
 
詩人が
「ダリア」のイメージを
「白い薔薇」に結晶させるまでには
長い時間をかけたことが
想像できます。
 
ここでは
「ダリア」の川路柳虹訳を
角川新全集から孫引きしておきます。
 
 
ダリア
 
固き胸もつ遊女(たはれめ)、暗く褐色(ちやいろ)の瞳もて
牡牛(をうし)のごとくゆるやかにうち開く、
いと大きなる汝(な)が茎は新しき大理石(マルブル)のごと耀(かがや)けり。
 
太(ふと)りたる花、裕かなる花、されど君が傍(かたはら)に
漂ひきたる匂ひなし、君が姿は晴れやかに美しけれど、
えも云へぬよく調(とゝの)ひし風(ふり)はあれども。
 
きみのからだに匂ひなし、もし敢てそを求むれば
秣草(まぐさ)乾すそのにほひにも譬ふべき
きみが幹(みき)こそ香気(にほひ)感ぜぬ偶像(イドル)なれ。
 
――かくの如くダリアは衣(ころも)燦爛と耀きわたる王なれど
香(にほひ)なきその頸(うなじ)をばいとつゝましくもたげつつ
蓮葉(はすは)なる素馨(ヂヤスマン)の花さくなかに苛立(いらだ)つごとく見えにけり。
(「ヹルレーヌ詩集」新潮社、大正8年)
 

「むなしさ」からはじまった「在りし日の歌」<4>「むなしさ」の中の「白薔薇」

「むなしさ」は
ダダイズム以外に
認めるに足る詩が存在することに目を開かれた詩人が
ダダからの脱皮を図ろうとしていた
過程で作られた作品といわれていますから
詩の中に色々な受容の形跡をうかがうことができます。
 
まず目立つのが
臘祭や偏菱形=聚接面などの
難漢字、難語。
 
臘祭(ろうさい)の「臘」は
「旧臘=きゅうろう」の「臘」で
「去年の12月」を意味する「旧臘」という言葉を
ときどき見かけますが
「臘」は「陰暦12月」をさし
簡単にいえば「12月のお祭り」のことです。
 
「元来は古代中国の旧暦12月の行事。猟の獲物を先祖の霊にささげる祭」と
全集の語註にあります。
 
もう一つ
全集が語註を付したのが
 
偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)。
 
偏菱形は
「へんりょうけい」と読み、
「一組の辺がそれぞれ等長の四角形」と注釈していますが、
これは平行四辺形のことでしょうか、
それとも、台形のことでしょうか
「それぞれ」とありますから、前者になりますか、
原作に詩人自身のルビがなく、
読み仮名も編集がつけたものです。
 
聚接面は
「しゆうせつめん」とルビが付加され
「多くの面」と注されています。
 
さらに
「偏菱形=聚接面」は
「白い薔薇」の「花弁」の集合の図形的なイメージか、
とコメントが付けられていますが
これは疑問符「か」が付けられるように
ほかの説が考えられるからで
中華街に見られる建築の装飾や
店舗のデザイン(紋様)などであっても
可能かもしれません。
 
語註があるもののほかにも
たとえば
条網
胸乳(むなち)
戯女(たはれめ)
線条に鳴る
海峡岸
冬の暁風
胡弓
……と
 
理解に努力を要する
人によっては難解な
漢語・漢文が現れます。
 
これらが
富永太郎や宮沢賢治や
北原白秋や岩野泡鳴らの
影響であることがいわれますが
これを詩に摂取したのは
中原中也であり
摂取するにはそれ相当の下地があったことを
忘れてはなりません。
摂取する側に下地がなくては
摂取そのものが不可能ですから。
 
詩人は
元来、勉強家でしたし
多量の書物を読んでいましたし
ダダ詩を作っていた頃にも
難解な語句が頻繁に使われました。
 
影響といえば
これら日本の詩歌のほかに
第3連
 
白薔薇(しろばら)の 造化の花瓣(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず
 
この「白薔薇」に
注目せざるを得ません。
ここには
ポール・ベルレーヌの「ダリア」の受容があります。
 

「むなしさ」からはじまった「在りし日の歌」<3>「むなしさ」「朝の歌」「臨終」

1926年は
大正15年であり昭和元年である
ということは
いうまでもないことですが
大正に1年と昭和に1年、
合計2年あるということではなく
ほとんどが大正15年で
わずか7日が昭和元年なのでした。
 
(つまり、この国には、「昭和元年の歴史」は7日しかなく、したがって、昭和元年には有名な歴史的大事件もほとんどゼロということだったのですね! こんなことを、初めて知りました。ちなみに、平成の場合は、年始から1月7日までの7日間が昭和64年、翌1月8日以降の358日間が平成元年ということになります。) 
 
1926年と1927年と
この2年間を考えるとき
大正15年、昭和元年、昭和2年を
混乱しないで換算しなければならないのですが
角川全集の年譜は
1926年の1年間を
 
2月「むなしさ」を書く。
5―8月にかけて「朝の歌」を書く。
この年、「臨終」を書く
 
と、3作品をクローズアップして
記述しているほかは
 
4月、日本大学予科文科に入学。
9月、家に無断で日大を退学。その後、アテネ・フランセに通う。
11月「夭折した富永太郎」を「山繭」に発表。
 
と、わずか計6行を費やすだけです。
 
旧全集編集時に作られた年譜が
更新されないまま
新全集に踏襲されているだけのことでしょうが
この簡単な年譜ゆえに
「むなしさ」「朝の歌」「臨終」
3作品の占める重要さが見えて
逆に分かりやすさを生んでいます。
 
「山繭」への寄稿は
やがて
翌1927年発行の私家版「富永太郎詩集」へつながり
詩人はこの詩集に強い刺激を受けて
自身の処女詩集刊行を計画するきっかけとしますから
このあたりも分かりやすく
日大、アテネ・フランセへの通学も分かりやすく
詩作が
「むなしさ」「朝の歌」「臨終」で代表されるなら
この年、1926年の活動は
極めてわかりやすいイメージになります。
 
その上
この3作品の2作は
いわゆる「横浜もの」です。
横浜を舞台にした詩群の中の
2作品ということになり
この点でも分かりやすく
自然に
「横浜もの」へと
関心が誘導されていく流れになります。
 
「横浜もの」といわれている詩は
「山羊の歌」の中の
「臨終」
「秋の一日」
「港市の秋」
「在りし日の歌」の中の
「むなしさ」
「未発表詩篇」の中の
「かの女」
「春と恋人」
この6作品などがあげられます。
 
 *
 むなしさ
 
臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)
 
せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風
 
白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず
 
明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友
 
偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓(こきゆう)の音 つづきてきこゆ
 
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

「むなしさ」からはじまった「在りし日の歌」<2>「むなしさ」が生まれた背景

「むなしさ」が作られたのは
大正15年(1926年)2月、
とする説が有力ですが
昭和26年発行の「創元社版全集第3巻」所収の「年譜」には
そのように制作日が記されてあるものの
同全集の編集・発行後に
元になったその原稿が紛失したため
印刷された制作日を信ずるほかになく
確定できるものではない
――と、新全集は慎重な見解です。
 
「創元社版全集」の記載が間違えることは
よほどのことがない限り
まずはないはずですから
「むなしさ」は
大正15年2月制作として
実際には認知され流布しています。
 
中原中也、長谷川泰子と手を携えて上京後1年。
上京後半年した頃
泰子は小林秀雄と暮らすことになり
独居生活がはじまりました。
そのさらに半年後の制作ということになります。
 
大正15年は1926年で
12月24日に大正天皇が崩御されて
翌日には昭和と改号された年です。
25日以降の7日間が
昭和元年で
昭和2年、1927年がすぐにはじまりました。
 
詩人の誕生日は4月29日ですから
「むなしさ」を歌った1926年2月は
まだ18歳ということになります。

「むなしさ」からはじまった「在りし日の歌」<1>幻の処女詩集から「山羊の歌」へ

それにしても
幻の処女詩集の計画が頓挫したところから
「山羊の歌」が発行される昭和9年末までには
長い時間があります。
 
「むなしさ」を書いた詩人は
まだまだ大都会を歩きはじめたばかりのところにいるのですが
この詩が「在りし日の歌」に収録されても
詩人はこの第二詩集を
生前、手にすることはできなかったのです。
 
詩人の足取りを追っていくうちに
そのことを知ることになるのですが
それにしても
生命賛歌に溢れた「山羊の歌」の発行から
3年も経たない日に
詩人は死亡してしまい
死亡してしまうにもかかわらず
第二詩集「在りし日の歌」を残したのです。
 
この信じがたい軌跡!
 
処女詩集を計画した
昭和2、3年の時点で
詩人はもちろん
自らの運命を知ることはなかったのですが
そのことを知りながら
大都会を歩きはじめたばかりの詩人の後を
歩いていくことができるなんて
読者って
祝福された存在ですよね。
 
詩は逃げていかないし
寄り道もできるし。
 
 *
 むなしさ
 
臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
 心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
 よすがなき われは戯女(たはれめ)
 
せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風
 
白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(くわべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず
 
明けき日の 乙女の集(つど)ひ
 それらみな ふるのわが友
 
偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
 胡弓(こきゆう)の音 つづきてきこゆ
 
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

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