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中原中也の草々花々

中原中也の草々花々(くさぐさはなばな)10・簡単な感想

中原中也の詩を通覧すると
一目瞭然で「花」の登場が少なく
葉とか根とか枯れ草など「草木」が多いことがわかります。
 
「花」は珍しい分、
鮮やかな印象を残す場合が多く
向日葵(ひまわり)=「夏の日の歌」
れんげの華(はな)=「春の思い出」
白薔薇(しろばら)=「むなしさ」
菖蒲(しょうぶ)=「六月の雨」
菜の花=「春と赤ン坊」
桜=「正 午」
三色菫(さんしきすみれ)=(疲れやつれた美しい顔よ)
キンポーゲ=「狂気の手紙」
タンポポ=「狂気の手紙」
――などが記憶に刻まれます。
 
「花」の登場が少ないから色彩に欠けるというものではなく
出てくるべきところに出てきて
「菜の花」「三色菫」「キンポーゲ」など
詩(のタイトル)とともに思い出すことができます。
 
園芸店で売っているような「花」ではなく
自然の中の「花」の場合が多いのは
たとえば吉本隆明が
「わたしの好きだった、そして今でもかなり好きな自然詩人に中原中也がいる。」と
「吉本隆明歳時記」の巻頭に中原中也を取り上げ
「自然詩人」の名称で呼んでいることに通じるものでしょうか。
 
 
蓮(はす)の葉
楡(にれ)の葉
椎(しい)の枯葉
棉(わた)の実
葱(ねぎ)の根
すすきの叢(むら)
枇杷(びわ)の葉
とうもろこしの葉
芒(すすき)の穂
――などと、「葉」や「根」に詩人の眼差しは向けられ(ることが多く)
「草・花」というアングルで見ると
そのことだけを取って見ればいかにも地味という印象でした。
 
 
自然としての「草や花」を歌うからといって
吉本隆明はそれで「自然詩人」と言っているわけではなさそうですが
中原中也が「自然」を歌うために詩を作ったものでないことは
「草や花」を前面に出してはいない、というところにはっきりしています。
 
「草」や「花」に託して
「情」とか「メッセージ」とかを述べたということを
確認できるのではないでしょうか。
 
 
ほかにも色々なことが言えるのかもしれませんし
言えないのかもしれません。
言い過ぎて間違えるかもしれませんから
これ以上のことは控えておきます。
 
 
最後に、重複を避けて「花と草」だけを抽出しておきます。
 
百合
蓮(はす)の葉
草の根
向日葵(ひまわり)
曼珠沙華(ひがんばな)
楡(にれ)の葉
椎(しい)の枯葉
白薔薇(しろばら)
襄荷(みょうが)
柿の木
枇杷(びわ)
菖蒲(しょうぶ)
棉(わた)の実
麻(あさ)
ポプラ
菜の花畑
葱(ねぎ)の根
苔(こけ)
すすきの叢(むら)
杉林
菫(すみれ)
笹の葉
薔薇(ばら)
隠元豆(いんげんまめ)
蓮華(れんげ)
へちま
苺(いちご)
蔦蔓(つたかづら)
苜蓿(うまごやし)
百合(ゆり)
朝顔)
韮(にら)
いちじく
椰子樹(やしのき)
綿
げんげ
三色菫(さんしきすみれ)
茸(きのこ)の薫(かおり)
櫟材(くぬぎざい)
枇杷(びわ)の葉
夕顔の花
瓜(うり)
稲穂
とうもろこしの葉
芒(すすき)の穂
林檎(りんご)
パセリ
にんにく
コスモス
茅(かや)
こごめばな
葡萄
椿(つばき)
キンポーゲ
タンポポ
あやめ
菖蒲(しょうぶ)の花
 
(この項終わり)
 

中原中也の草々花々(くさぐさはなばな)9「植物の表記のみ」全詩篇

これまでピックアップした「花・草」の表記から
前後の文脈を無視して
「花・草」だけをクローズアップしてみます。
 
「野」とか「畑」とか
詩の中でいかにも「植物」を意味しているものなど
やや定義が曖昧(あいまい)ですが載せたものもあり
見過ごしたものもあるかもしれません。
 
詩の中で重複しているものも
そのまま載せました。
 
大まかな傾向がわかればよし、です。
 
 
桃色の花
樹脂の香(か)
森竝(もりなみ)
百合花(ゆりばな)
蓮(はす)の葉
蓮の葉
草の根
梢(こずえ)
草地
枯木
草影
並木の梢(こずえ)
向日葵(ひまわり)
原に草
山に樹々(きぎ)
木々
れんげの華(はな)
麦田(むぎた)
紅(くれない)の花
曼珠沙華(ひがんばな)
楡(にれ)の葉
木蔭(こかげ)
松の木
松の梢(こずえ)
植木師
樹皮(じゅひ)
花びら
籬(まがき)
椎(しい)の枯葉
幹々(みきみき)
枝々
椎の枯葉
幹々
白薔薇(しろばら)
造花の花弁(かべん)
枯草(かれくさ)
梢(こずえ)
襄荷(みょうが)
灌木(かんぼく)
樹脂(きやに)
柿の木
枇杷(びわ)
菖蒲(しょうぶ)
花弁(かべん)
薮かげ
薮(やぶ)
花弁(かべん)
草深い野
竝樹(なみき)
棉(わた)の実
麻(あさ)
枯れた草
ポプラ
紫の押花(おしばな)
ポプラ竝木(なみき)
菜の花畑
菜の花畑
菜の花畑
菜の花畑
菜の花畑
菜の花畑
木立
木立
木立
樹々の梢
庭木
樹々の下枝の葉
木の葉
花々
葱(ねぎ)の根
草叢(くさむら)
芝生
ポプラ
ポプラ
草木
苔(こけ)
木(こ)の葉
ポプラ
ポプラ
すすきの叢(むら)
野原
杉林
菫(すみれ)の 花
花弁(はなびら) 
松の林
笹の葉
松の林
薔薇(ばら)の花
野辺(のべ)の草葉
隠元豆(いんげんまめ)
「初夏の夜に」
笹藪(ささやぶ)
植物性
植物的
野原
野の中の伽藍(がらん) 
花の名
自然
自然
蓮華(れんげ)
秋の草
草分ける
草の葉っぱ
野辺
野辺
籾殻(もみがら)
へちま
苺(いちご)
水草
木の葉
薔薇(ばら)
蔦蔓(つたかづら)
葉繁み
苜蓿(うまごやし)
百合(ゆり)
草叢(くさむら)
草叢
竝木(なみき)
果物
紫の朝顔の花
薔薇(ばら)
葱(ねぎ)
韮(にら)
木の葉
楡(にれ)の葉
木陰(こかげ)
森の梢
いちじく
いちじく
木末(こずえ)
椰子樹(やしのき)
梢(こずえ)
綿
げんげ田
パルプ
花咲いている
げんげ
梢(こずえ)
三色菫(さんしきすみれ)
茸(きのこ)の薫(かお)り
樹々
木の繁った所
草の上
花を開く
三色菫(さんしきすみれ)
海草(うみくさ)
材木
野中
野中
製材所
櫟材(くぬぎざい)
枇杷(びわ)の葉
筵(むしろ)
夕顔の花
瓜(うり)
稲穂
とうもろこしの葉
森の木末(こずえ)
森の響き
根も葉もない
造花
造花
造花作り
花屋
造花
造花作り
花の言葉
芒(すすき)の穂
樹の葉
葱(ねぎ)
山は繁(しげ)れり
山竝(やまなみ)
桜花(さくらばな)
花曇り
林檎(りんご)
パセリ
にんにく
葱(ねぎ)
コスモス
茅(かや)
コスモス
こごめばな。
いちじくの葉
草花
葡萄畑(ぶどうばたけ)
椿(つばき)の葉
潅木林(かんぼくばやし)
椿の葉
潅木林
キンポーゲ
草穂
タンポポ
お葱(ねぎ)
あやめの花
花の紫の莟(つぼ)み
花の紫の莟み
すすき
繁み
繁み
繁みの葉ッパ
草葉
草葉
あやめの花
草々
無花果(いちじく)の葉
無花果の葉
花弁(はなびら)
枯草
ポプラ
ポプラ
葉 
花畑
菖蒲(しょうぶ)の花
菖蒲の花
花畑
 
 
 

中原中也の草々花々(くさぐさはなばな)8「草稿詩篇(1933年―1936年)」ほか

中原中也の未発表詩篇に現われる「花や草」(植物)を
ピックアップしていきます。
 
「草稿詩篇(1933年―1936年)」には65篇
「療養日誌・千葉寺雑記(1937年)」には5篇
「草稿詩篇(1937年)」には6篇の詩があります。
 
晩年の詩を含む、これらの詩篇を一気に読んでいきます。
 
 
<草稿詩篇(1933年―1936年)>
 
(とにもかくにも春である)
 とにもかくにも春である、帝都は省線電車の上から見ると、トタン屋根と桜花(さくらばな)とのチャンポンである。花曇りの空は、その上にひろがって、何もかも、睡(ねむ)がっている。誰ももう、悩むことには馴れたので、黙って春を迎えている。おしろいの塗り方の拙(まず)い女も、クリーニングしないで仕舞っておいた春外套の男も、黙って春を迎え、春が春の方で勝手にやって来て、春が勝手に過ぎゆくのなら、桜よ咲け、陽も照れと、胃の悪いような口付をして、吊帯にぶる下っている。
 
めずらかの喜びと新鮮さのよろこびと、
まるで林檎(りんご)の一と山ででもあるように、
 
闇に梟(ふくろう)が鳴くということも
西洋人がパセリを食べ、朝鮮人がにんにくを食い
我々が葱(ねぎ)を常食とすることも、
みんなおんなしようなことなんだ
 
落雁(らくがん)を法事の引物(ひきもの)にするという習慣をうべない、権柄的(けんぺいてき)気六ヶ敷(きむずかし)さを、去(い)にし秋の校庭に揺れていたコスモスのように思い出し、
 
風は揺れ、茅(かや)はゆすれ、闇は、土は、いじらしくも怨(うら)めしいものであった。
 
(宵の銀座は花束捧げ)
宵(よい)の銀座は花束捧(ささ)げ、
 
「怠 惰」
目をつむって蝉が聞いていたい!――森の方……
 
「蝉」
松林を透いて空が見える
うつらうつらと僕はする。
 
藪蔭(やぶかげ)の砂土帯の小さな墓場、
――そこにも蝉は鳴いているだろ
 
「夏」
木々の葉はギラギラしていた。
 
「燃える血」
動かぬ雲も無花果(いちじく)の葉も、
僕をどうしようというのだろう?
 
「京浜街道にて」
萎びたコスモスに、鹿革の手袋をはめ、それを、霊柩車(れいきゅうしゃ)に入れて、街道を往く。
   風と陽は、まざらない……
霊柩車、落とす日蔭に、落ちる涙はこごめばな。
           (一九三三・九・二二)
 
「いちじくの葉」
夏の午前よ、いちじくの葉よ、
葉は、乾いている、ねむげな色をして
風が吹くと揺れている、
よわい枝をもっている……
僕は睡(ねむ)ろうか……
電線は空を走る
その電線からのように遠く蝉(せみ)は鳴いている
葉は乾いている、
風が吹いてくると揺れている
葉は葉で揺れ、枝としても揺れている
 
(小川が青く光っているのは)
山の端(は)は、あの永遠の目(ま)ばたきは、
却(かえっ)て一本(ひともと)の草花に語っていた。
 
一本の草花は、広い畑の中に、
咲いていた。――葡萄畑(ぶどうばたけ)の、
あの唇(くちびる)黒い老婆に眺めいらるるままに。
 
「朝」
雀が鳴いている
朝日が照っている
私は椿(つばき)の葉を想う
 
雀が鳴いている
起きよという
だがそんなに直(す)ぐは起きられようか
私は潅木林(かんぼくばやし)の中を
走り廻(まわ)る夢をみていたんだ
 
恋人よ、親達に距(へだ)てられた私の恋人、
君はどう思うか……
僕は今でも君を懐しい、懐しいものに思う
 
雀が鳴いている
朝日が照っている
私は椿の葉を想う
 
雀が鳴いている
起きよという
だがそんなに直ぐは起きられようか
私は潅木林の中を
走り廻る夢をみていたんだ
※「潅木林の中を走り廻る夢をみていた」詩人が雀の鳴き声で目を覚ます。すると朝日が照っている。夢の中で見た潅木の林の残像か、椿の葉の分厚い緑が頭の中に結ばれます。潅木と椿が同じものか、潅木の林が椿を連想させたのか、二つの植物のイメージが絡み合います。
 
「夜明け」
苔(こけ)は蔭(かげ)の方から、案外に明るい顔をしているだろう。
 
「朝」
お葱(ねぎ)が欲しいと思いました
 
「狂気の手紙」
陳述此度(のぶればこたび)は気がフーッと致し
キンポーゲとこそ相成候(あいなりそうろう)
野辺(のべ)の草穂と春の空
何仔細(しさい)あるわけにも無之(これなく)候処
タンポポや、煙の族(やから)とは相成候間
一筆御知らせ申上候
 
お葱(ねぎ)や塩のことにても相当お話し申上候
※「キンポーゲ」は毒草です。そのことを知っているかいないかで、この詩の読みは断然異なってきます。
 
「咏嘆調」
それは、夜と、湿気と、炬火(たいまつ)と、掻き傷と、
野と草と、遠いい森の灯のように、
 
それはボロ麻や、腓(はぎ)に吹く、夕べの風の族であろうか?
 
「秋岸清凉居士」
消えていったのは、
あれはあやめの花じゃろか?
いいえいいえ、消えていったは、
あれはなんとかいう花の紫の莟(つぼ)みであったじゃろ
冬の来る夜に、省線の
遠音とともに消えていったは
あれはなんとかいう花の紫の莟みであったじゃろ
     ※
とある侘(わ)びしい踏切のほとり
草は生え、すすきは伸びて
 
風は繁みをさやがせもせず、
冥府(あのよ)の温風(ぬるかぜ)さながらに
繁みの前を素通りしました
繁みの葉ッパの一枚々々
 
虫は草葉の下で鳴き、
草葉くぐって私に聞こえ、
 
死んで行ったは、
――あれはあやめの花じゃろか
いいえいいえ消えて行ったは、
あれはなんとかいう花の紫の莟じゃろ
 
あれはなんとかいう花の紫の莟か知れず
 
草々も虫の音も焼木杭も月もレールも、
いつの日か手の掌(ひら)で揉んだ紫の朝顔の花の様に
※弟・恰三の死を歌い、「花と草=植物」の登場は多彩といえます。
 
「別 離」
芝庭のことも、思い出します
 薄い陽の、物音のない昼下り
あの日、栗を食べたことも、思い出します
 
忘れがたない、虹と花、
  忘れがたない、虹と花
  虹と花、虹と花
 
向うに、水車が、見えています、
  苔むした、小屋の傍(そば)、
 
「誘蛾燈詠歌」
酒をのみ、何やらかなしく、これこのようにぬけぬけと
まだ生きておりまして、今宵小川に映る月しだれ柳や
 
平の忠度(ただのり)は桜の木の下に駒をとめました
 
花や今宵の主(あるじ)ならまし
 
(なんにも書かなかったら)
何をくよくよ、
川端やなぎ、だ……
土手の柳を、
見て暮らせ、よだ
 
開いて、いるのは、
あれは、花かよ?
何の、花か、よ?
薔薇(ばら)の、花じゃろ。
 
ああ、さば、薔薇(そうび)よ、
物を、云ってよ、
 
(一本の藁は畦の枯草の間に挟って)
一本の藁(わら)は畦(あぜ)の枯草の間に挟(ささ)って
ひねもす陽を浴びぬくもっていた
 
(おまえが花のように)
おまえが花のように
淡鼠(うすねず)の絹の靴下穿(は)いた花のように
松竝木(まつなみき)の開け放たれた道をとおって
 
草も今でも生えていようか
 
「月夜とポプラ」
木(こ)の下かげには幽霊がいる
 
「僕と吹雪」
自然は、僕という貝に、
花吹雪(はなふぶ)きを、激しく吹きつけた。
 
(秋が来た)
秋が来た。
また公園の竝木路(なみきみち)は、
すっかり落葉で蔽(おお)われて、
 
「雲った秋」
十一月の風に吹かれている、無花果(いちじく)の葉かなんかのようだ、
棄てられた犬のようだとて。
 
蒼い顔して、無花果の葉のように風に吹かれて、――冷たい午後だった――
しょんぼりとして、犬のように捨てられていたと。
 
猫は空地の雑草の陰で、
多分は石ころを足に感じ
その冷たさを足に感じ、
霧の降る夜を鳴いていた――
 
クサキモ、ネムル、ウシミツドキデス
 
「夜半の嵐」
松吹く風よ、寒い夜(よ)の
われや憂き世にながらえて
 
松吹く風よ、寒い夜の
汝(なれ)より悲しきものはなし。
 
「雲」
  女の子なぞというものは
  由来桜の花弁(はなびら)のように、
  欣(よろこん)んで散りゆくものだ
 
ああ、枯草を背に敷いて
やんわりぬくもっていることは
空の青が、少しく冷たくみえることは
煙草を喫うなぞということは
世界的幸福である
※「世界的幸福」というのは「最高の幸福」=「至福」のことであり、それを表現するときに「枯草」が出てくるのです。枯れ草の上で煙草を吸うのが至福なのです。
 
「一夜分の歴史」
梅の樹に溜った雨滴(しずく)は、風が襲(おそ)うと、
他の樹々のよりも荒っぽい音で、
庭土の上に落ちていました。
 
梅の樹に溜った雨滴(しずく)は、他の樹々に溜ったのよりも、
風が吹くたび、荒っぽい音を立てて落ちていました。
 
「断 片」
耳ゴーと鳴って、柚子酸(ゆずす)ッぱいのです
 
「暗い公園」
雨を含んだ暗い空の中に
大きいポプラは聳(そそ)り立ち、
その天頂(てっぺん)は殆(ほと)んど空に消え入っていた。
 
ポプラは暗い空に聳り立ち、
その黒々と見える葉は風にハタハタと鳴っていた。
 
65篇中の29篇に「花・草」が出てきました。
 
<療養日誌・千葉寺雑記(1937年)>
 
「道修山夜曲」
星の降るよな夜(よる)でした
松の林のその中に、
僕は蹲(しゃが)んでおりました。
 
松には今夜風もなく、
土はジットリ湿ってる。
遠く近くの笹の葉も、
しずもりかえっているばかり。
 
(短歌五首)
 
ゆうべゆうべ我が家恋しくおもゆなり
 草葉ゆすりて木枯の吹く
 
 
5篇中の2篇に植物は登場しました。
 
<草稿詩篇(1937年)>
 
「春と恋人」
私にかまわず実ってた
新しい桃があったのだ……
 
以来私は木綿の夜曲?
はでな処(とこ)には行きたかない……
 
「少女と雨」
少女がいま校庭の隅に佇(たたず)んだのは
其処(そこ)は花畑があって菖蒲(しょうぶ)の花が咲いてるからです
 
菖蒲の花は雨に打たれて
音楽室から来るオルガンの 音を聞いてはいませんでした
 
しとしとと雨はあとからあとから降って
花も葉も畑の土ももう諦めきっています
 
その有様をジツと見てると
なんとも不思議な気がして来ます
 
山も校舎も空の下(もと)に
やがてしずかな回転をはじめ
 
花畑を除く一切のものは
みんなとっくに終ってしまった 夢のような気がしてきます
※全文を掲載しました。雨の中の花畑を見ていると、その花畑以外の外界が終わってしまった夢のような「残骸(ざんがい)のようなもの」に思えてきたというようなことでしょうか。「白日夢」の状態に詩人は入っていたのです。
 
「夏と悲運」
夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。
 
 
6篇中の3篇に植物が出てきました。
 
 
 

中原中也の草々花々(くさぐさはなばな)7「早大ノート」ほか

中原中也の未発表詩篇に現われる「花や草」(植物)を
ピックアップしていきます。
 
「早大ノート(1930年―1937年)」には42篇
「草稿詩篇(1931年―1932年)」には13篇
「ノート翻訳詩(1933年)」には9篇の詩があります。
 
 
<早大ノート(1930年―1937年)>
 
「干 物」
外苑の舗道しろじろ、うちつづき、
千駄ヶ谷、森の梢のちろちろと
 
「いちじくの葉」
いちじくの、葉が夕空にくろぐろと、
 
夕空に、くろぐろはためく
いちじくの、木末(こずえ) みあげて、
 
「Qu'est-ce que c'est que moi?」
 
私のなかで舞ってるものは、
こおろぎでもない、
秋の夜でもない。
南洋の夜風でもない、
椰子樹(やしのき)でもない。
それの葉に吹く風でもない
それの梢(こずえ)と、すれすれにゆく雲でない月光でもない。
つまり、その……
サムシング。
だが、なァんだその、サムシングかとは、
決して云ってはもらいますまい。
※全文を掲載しました。サムシングは説明できないものですが、説明を試みると「○○ではない、
○○でもない……」と列挙すれば「否定の否定」で明らかになってくるかというとそうでもない。「何
か」というしかないものなのです。その例の幾つかに「植物」が現われています。「何か」に限りなく
近いものの一つに植物があるのですが、でもそうじゃないという例にあがる植物です。
 
「さまざまな人」
打返した綿のようになごやかな男、
ミレーの絵をみて、涎(よだれ)を垂らしていました。
 
(吹く風を心の友と)
私がげんげ田を歩いていた十五の春は
煙のように、野羊(やぎ)のように、パルプのように、
 
とんで行って、もう今頃は、
どこか遠い別の世界で花咲いているであろうか
耳を澄ますと
げんげの色のようにはじらいながら遠くに聞こえる
 
(月はおぼろにかすむ夜に)
月はおぼろにかすむ夜に、
杉は、梢(こずえ)を 伸べていた。
※全文です。未完成の詩です。2行しか作られていませんが、ポエジーがないとはいえないから、
詩として収録されたのでしょうか。詩を作ろうとして中途で終わったものの書き出しに植物(杉)が
現われるだけで、この詩の行方を想像してみたくなります。
 
(疲れやつれた美しい顔よ)
その時だ、その壺が花を開く、
その花は、夜の部屋でみる、三色菫(さんしきすみれ)だ
 
「秋の日曜」
青い空は金色に澄み、
そこから茸(きのこ)の薫(かお)りは生れ、
 
(汽笛が鳴ったので)
樹々は野に立っている、
従順な娘達ともみられないことはない。
 
(七銭でバットを買って)
小さな月が出ているにはいたが、
それでも木の繁った所は暗かった。
 
(月の光は音もなし)
月の光は音もなし、
虫の鳴いてる草の上
 
虫は草にて鳴きまする。
 
 
42篇中11篇に「花・草」がありました。
2割5分強です。
 
 
<草稿詩篇(1931年―1932年)>
 
「疲れやつれた美しい顔」
その時だ、その壺が花を開く、
その花は、夜の部屋にみる、三色菫(さんしきすみれ)だ。
 
「青木三造」
ゆらりゆらりとゆらゆれる
海のふかみの海草(うみくさ)の
おぼれおぼれて、溺れたる
 
「材 木」
 
立っているのは、材木ですじゃろ、
    野中の、野中の、製材所の脇。
※「加工された植物」ですが、数に入れました。
 
「脱毛の秋 Etudes」
私は歩いていた、私の膝は櫟材(くぬぎざい)だった。
 
それは枇杷(びわ)の葉の毒に似ていた。
 
縁台の上に筵(むしろ)を敷いて、
夕顔の花に目をくれないことと、
 
「幻 想」
歯槽膿漏(しそうのうろう)たのもしや、
 女はみんな瓜(うり)だなも。
瓜は腐りが早かろう、
そんなものならわしゃ嫌い、
歯槽膿漏さながらに
 
雨降れ、
瓜の肌には冷たかろ。
 
「秋になる朝」
ほのしらむ、稲穂にとんぼとびかよい
 
恋人よ、あの頃の朝の涼風は、
とうもろこしの葉やおまえの指股に浮かぶ汗の匂いがする
 
「蒼ざめし我の心に」
それら今日、いかにかなりし……
森の木末(こずえ)の、風そよぐのみにして
 
ああ、忘れよや、わが心、廃墟の木魂……
忘れよや、森の響きを、
 
(辛いこった辛いこった!)
辛いこった辛いこった!
なまなか伝説的存在にされて
ああ、この言語玩弄(がんろう)者達の世に、
なまなか伝説的存在にされて、
(パンを奪われ花は与えられ)
ああ、小児病者の横行の世に!
 
奴等(やつら)の頭は言葉でガラガラになり、
奴等の心は根も葉もないのだ。
野望の上に造花は咲いて
迷った人心は造花に凭(すが)る。
造花作りは花屋を恨む、
さて、花は造花程口がきけない。
 
造花作りの羽振(はぶり)のよさは、
ああ、滑稽(こっけい)なこった滑稽なこった。
それが滑稽だとみえないばかりに、
花の言葉はみなしゃらくさい。
舌もつれようともつれまいと
花に嘘(うそ)などつけはしないんだ。
※全文掲載しました。「パンと花」が決定的な要素になっている詩です。「花」と「造花」を比べて、
「詩人」の位置が述べられています。
 
 
13篇中8篇です。
6割強です。
 
<ノート翻訳詩(1933年)>
 
(僕の夢は破れて、其処に血を流した)
声はほのぼのと芒(すすき)の穂にまつわりついた。
 
(土を見るがいい)
土を見るがいい、
土は水を含んで黒く
のっかってる石ころだけは夜目にも白く、
風は吹き、頸(くび)に寒く
風は吹き、雨雲を呼び、
にじられた草にはつらく、
風は吹き、樹の葉をそよぎ
風は吹き、黒々と吹き
葱(ねぎ)はすっぽりと立っている
その葱を吹き、
その葱の揺れ方は赤ン坊の脛(はぎ)ににている。
※モチーフは「土」ですが、主役は「植物」といってよいかもしれません。なので全文を載せました。
 
「Qu'est-ce que c'est?」
僕がこうして何時(いつ)まで立っていることも、
黒々と森が彼方(かなた)にあることも、
※「サムシング」とあった「Qu'est-ce que c'est que moi?」と同じ系列の詩です。詩人は詩人論をし
ばしば詩で展開し、詩とは何かというテーマに迫ります。やがては「言葉なき歌」「蛙声」などの詩
人論・詩論へ繋(つな)がっていきます。
 
「孟夏谿行」
この水は、いずれに行くや夏の日の、
山は繁(しげ)れり、しずもりかえる
 
山竝(やまなみ)は、しだいにあまた、移りゆく
展望のたびにあらたなるかも
 
 
9篇中4篇でした。
 
 

中原中也の草々花々(くさぐさはなばな)6「ノート小年時」ほか

中原中也の未発表詩篇に現われる「花や草」(植物)を
ピックアップしていきます。
 
「草稿詩篇(1925年―1928年)」には20篇
「ノート小年時(1928年―1930年)」には16篇の詩があります。
 
 
<草稿詩篇81925年―1928年>
 
「或る心の一季節」 
最早(もはや)、あらゆるものが目を覚ました、黎明(れいめい)は来た。私の心の中に住む幾多の
フェアリー達は、朝露の傍(そば)では草の葉っぱのすがすがしい線を描いた
 
「秋の愁嘆」
野辺を 野辺を 畑を 町を
人達を蹂躪(じゅうりん)に秋がおじゃった。
 
笑えば籾殻(もみがら)かしゃかしゃと、
へちまのようにかすかすの
悪魔の伯父(おじ)さん、おじゃったおじゃった。
※富永太郎の影響がある作品です。「笑えば籾殻(もみがら)かしゃかしゃと 」が、どのような象徴化手法かをとらえることあたりがこの詩の「肝」になります。
 
「夜寒の都会」
私は沈黙から紫がかった、
数箇の苺(いちご)を受けとった。
 
「無 題」
その小児は色白く、水草の青みに揺れた、
 
私は木の葉にとまった一匹の昆虫‥‥‥
 
「夏の夜」
私の心は腐った薔薇(ばら)のようで、
夏の夜の靄(もや)では淋しがって啜(すすりな)く、
 
蔦蔓(つたかづら)が黝々(くろぐろ)と匐(は)いのぼっている、
埃(ほこ)りがうっすり掛かっている。
 
「聖浄白眼」
曇った寒い日の葉繁みでございます。
眼瞼(まぶた)に蜘蛛がいとを張ります。
 
「冬の日」
ほのかな下萠(したもえ)の色をした、
風も少しは吹いているのだった、
 
「幼なかりし日」
春の日は、苜蓿(うまごやし)踏み
青空を、追いてゆきしにあらざるか?
 
「間奏曲」
百合(ゆり)の少女の眼瞼(まぶた)の縁(ふち)に、
 
「秋の夜」
夜霧(よぎり)が深く
冬が来るとみえる。
森が黒く
空を恨(うら)む。
 
外燈の下(もと)に来かかれば
なにか生活めいた思いをさせられ、
暗闇にさしかかれば、
死んだ娘達の歌声を聞く。
 
夜霧が深く
冬が来るとみえる。
森が黒く
空を恨む。
 
深い草叢(くさむら)に虫が鳴いて、
深い草叢を霧が包む。
近くの原が疲れて眠り、
遠くの竝木(なみき)が疑深い。
※全文を掲載しました。森、草叢、原、竝木――と、植物が主役級の風景です。
 
<ノート小年時(1928年―1930年)>
 
「幼年囚の歌」
果物にもパンにももう飽かしめられたこの男を。
 
「冷酷の歌」
伸びたいだけ伸(の)んで、拡がりたいだけ拡がって、
恰度紫の朝顔の花かなんぞのように、
 
薔薇(ばら)と金毛とは、もはや煙のように空にゆきました。
 
萎(しお)れた葱(ねぎ)か韮(にら)のように、ああ神様、
 
「雪が降っている……」
  それから、
お寺の森にも、
 
「倦 怠」
人はただ絶えず慄(ふる)える、木の葉のように、
 
「夏は青い空に……」
空のもと林の中に、たゆけくも
 仰(あお)ざまに眼(まなこ)をつむり、
 
「木 蔭」
神社の鳥居が光をうけて
楡(にれ)の葉が小さく揺すれる。
夏の昼の青々した木陰(こかげ)は
私の後悔を宥(なだ)めてくれる。
 
「頌 歌」
出で発(た)たん!夏の夜は
霧(きり)と野と星とに向って。
 
「夏」
今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り
 
空は燃え、畑はつづき
 
 
「草稿詩篇(1925年―1928年)」20篇のうち10篇。
「ノート小年時(1928年―1930年)」16篇のうち9篇。
いづれも「花・草」の出現率は5割以上の高率です。
 
そのことが何を意味するか。
「傾向分析」にしかなりませんが
それだけの意味はあるに違いありません。
 
詩篇一つひとつを味わう中で
そのことの意味は探られてもいいでしょう。
 
 
 
 

中原中也の草々花々(くさぐさはなばな)5「ノート1924」ほか

いよいよ「未発表詩篇」に現われる「花や草」(植物)を
見ていきましょう。
 
「未発表詩篇」は
発表詩である「山羊の歌」「在りし日の歌」「生前発表詩篇」に入らない詩のグループです。
 
中原中也が制作した全詩はおよそ370篇あり
発表詩が合計で142篇ありますから(短歌を除く)
未発表詩篇は228篇あり
全体の6割強ということになります。
(角川全集で集計)
 
残存している原稿の形によって分類・整理され
それぞれのグループの中で
詩篇は制作順(推定)に配置され
グループには呼称がつけられています。
 
 
<ダダ手帖(1923年―1924年)>
2篇の詩がありますが
ここに「花・草」は現われません。
 
<ノート1924(1924年―1928年)>
 
「不可入性」
空想は植物性です
女は空想なんです
女の一生は空想と現実との間隙(かんげき)の弁解で一杯です
取れという時は植物的な萎縮(いしゅく)をし
取らなくても好(い)いといえば煩悶(はんもん)し
取るなといえば鬪牛師(とうぎゅうし)の夫を夢みます
※大正13年制作のダダ詩です。「花・草」が出てくるものではありませんが、植物のイメージのダダイスト中原中也による表現があります。
 
「情 慾」
電球よ暑くなれ!
冬の野原を夏の風が行くに
 
「春の夕暮」
ポトホトと臘涙(ろうるい)に野の中の伽藍(がらん)は赤く
荷馬車の車、 油を失い
私が歴史的現在に物を言えば
嘲(あざけ)る嘲る空と山とが
※ダダ詩には「風景描写」そのものが稀(まれ)なようですが、この詩には「自然の風景」があります。やがて、「山羊の歌」の冒頭詩になる原詩です。ダダ詩でありながら、「山羊の歌」に収録されてもよく溶け込んでいるのは、この「叙景」のせいであるかもしれません。オーソドックスな詩への端緒がここにあると言ってもよいものです。ソネットであり、起承転結であり、定型への志向が見られるということです。
 
(テンピにかけて)
 
テンピにかけて焼いたろか
あんなヘナチョコ詩人の詩
百科辞典を引き廻し
鳥の名や花の名や
みたこともないそれなんか
ひっぱり出して書いたって
――だがそれ程想像力があればね――
やい!
いったい何が表現出来ました?
自棄(やけ)のない詩は
神の詩か
凡人の詩か
そのどっちかと僕が決めたげます
※詩人論の詩の中に「花」が登場しています。なので、全文掲載にしました。ダダイストの詩人論とはいえ、かなりの正論が見えます。「想像力」はフランス詩の影響でしょうか?
 
(酒は誰でも酔わす)
自然が美しいということは
自然がカンヴァスの上でも美しいということかい――
※自然を花と置き換えて読むと少しはこの詩を理解できるかもしれません。
 
(汽車が聞える)
汽車が聞える
蓮華(れんげ)の上を渡ってだろうか
 
(秋の日を歩み疲れて)
秋の日を歩み疲れて
橋上を通りかかれば
秋の草 金にねむりて
草分ける 足音をみる
 
 
「ダダ手帖」には2篇、
「ノート1924」には51篇の詩があります。
53篇中の6篇(「不可入性」を含む)ですから1割ちょっとです。
きわめて少ないといえます。
 
ダダ詩に「自然」としての「花・草」を求めること自体に無理があるようですが
無理を冒せば見えてくるものもあるような。
 
終わりのほうにある(秋の日を歩み疲れて)は
昭和2―3年の制作(推定)ですから
ダダ脱皮の傾向が見られる詩で
その詩に「秋の草 金にねむりて 草分ける 足音をみる」とあるのは
早い時期の例の一つです。
 
大正13年制作(推定)の「春の夕暮」の「野の中の伽藍(がらん)は赤く」が京都時代
(秋の日を歩み疲れて)は上京後の制作で
こちらには象徴詩の匂いがプンプンしています。
 
ダダ詩や象徴詩に風景や自然の描写が入り込んでいます。
 
 

中原中也の草々花々(くさぐさはなばな)4「生前発表詩篇」から

「生前発表詩篇」に現われる「花や草」(植物)を
ピックアップしていきます。
 
 
「倦 怠」
人はただ、絶えず慄(ふる)える、木(こ)の葉のように
 
「漂々と口笛吹いて」
一枝の ポプラを肩に ゆさゆさと
葉を翻(ひるが)えし 歩き廻るは
 
  森のこちらを すれすれに
目立たぬように 歩いているのは
 
  ポプラを肩に葉を翻えし
  ああして呑気に歩いてゆくのは
 
「幻 想」
草には風が吹いていた。
 
「北沢風景」
 台所の入口からは、北東の空が見られた。まだ昼の明りを残した空は、此処(ここ)台所から四五丁の彼方(かなた)に、すすきの叢(むら)があることも小川のあることも思い出させはせぬのであった。
 
「或る夜の幻想(1・3)」
野原の一隅には杉林があった。
なかの一本がわけても聳(そび)えていた。
 
「聞こえぬ悲鳴」
悲しい 夜更(よふけ)が 訪(おとず)れて
菫(すみれ)の 花が 腐れる 時に
神様 僕は 何を想出(おもいだ)したらよいんでしょ?
 
悲しい 夜更は 腐った花弁(はなびら)――
 
「道修山夜曲」
 
星の降るよな夜(よる)でした
松の林のその中に、
僕は蹲(しゃが)んでおりました。
 
星の明りに照らされて
折(おり)しも通るあの汽車は、
今夜何処(どこ)までゆくのやら。
 
松には今夜風もなく
土はジットリ湿ってる。
遠く近くの笹の葉も
しずもりかえっているばかり。
 
星の降るよな夜でした、
松の林のその中に
僕は蹲んでおりました。
 
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」
空の下(もと)には 池があった。
その池の めぐりに花は 咲きゆらぎ、
 
天(あめ)が下(した)なる 「衛生無害」、
昔ながらの薔薇(ばら)の花、
 
野辺(のべ)の草葉に 盗賊の、
疲れて眠る その腰に、
隠元豆(いんげんまめ)の 刀あり、
これやこの 切れるぞえ、
と 戸の面(おもて)、丹下左膳(たんげさぜん)がこっち向き、
 
「初夏の夜に」
窓の彼方の、笹藪(ささやぶ)の此方(こちら)の、月のない初夏の宵(よい)の、空間……其処(そこ)に、
死児等(しじら)は茫然(ぼうぜん)、佇(たたず)み僕等を見てるが、何にも咎(とが)めはしない。
 
 
「道修山夜曲」は全文を載せました。
療養中の制作だから風景描写に植物(松の林、笹の葉)を取り入れているなどと
因果関係を言えるものではないはずですが
療養所の風景は歌うべくして歌われたことに違いありません。
 
 
森、林、草地……。
植物が集合している状態を表す語句を
植物としてピックアップするかどうか考えどころですが
できるだけ採りながらもケースバイケースとしました。
 
 
「生前発表詩篇」40篇のうち9篇に「花・草」が登場。
読んでいて、とても少ない感じがしました。
 
「花」は「聞こえぬ悲鳴」の「菫(すみれ)の花」と
「道化の臨終(Etude Dadaistique)」の「薔薇(ばら)の花」の2例だけでした。
 
 
発表詩は昭和5年から昭和12年にわたっていますが
裏返せば「メッセージ」や「主張」を盛り込んだり
叙情詩が多かったということに繋(つな)がるのかどうか――。
これも断言できるものではありません。
 
 
 
 

中原中也の草々花々(くさぐさはなばな)3「在りし日の歌」から

「在りし日の歌」に現われる「花や草」(植物)を
ピックアップしていきます。
 
<在りし日の歌>
 
「含 羞(はじらい)」
        ――在りし日の歌――
 
なにゆえに こころかくは羞(は)じらう
秋 風白き日の山かげなりき
椎(しい)の枯葉の落窪(おちくぼ)に
幹々(みきみき)は いやにおとなび彳(た)ちいたり
 
枝々の 拱(く)みあわすあたりかなしげの
空は死児等(しじら)の亡霊にみち まばたきぬ
おりしもかなた野のうえは
あすとらかんのあわい縫(ぬ)う 古代の象の夢なりき
 
椎の枯葉の落窪に
幹々は いやにおとなび彳ちいたり
その日 その幹の隙(ひま) 睦(むつ)みし瞳
姉らしき色 きみはありにし
 
その日 その幹の隙 睦みし瞳
姉らしき色 きみはありにし
ああ! 過ぎし日の 仄(ほの)燃えあざやぐおりおりは
わが心 なにゆえに なにゆえにかくは羞じらう…… 
(注)原文には、「あすとらかん」に傍点がつけられています。 
 
※全文を載せました。「在りし日の歌」の巻頭詩のモチーフが
「椎(しい)の枯葉の落窪」「幹々」「枝々」であることに気づいて驚かされます。
 
「むなしさ」
白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(かべん)
 凍(い)てつきて 心もあらず
 
「早春の風」
枯草(かれくさ)の音のかなしくて
 
青き女(おみな)の顎(あぎと)かと
 岡に梢(こずえ)のとげとげし
 
「月」
今宵(こよい)月は襄荷(みょうが)を食い過ぎている
済製場(さいせいば)の屋根にブラ下った琵琶(びわ)は鳴るとしも想(おも)えぬ
石灰の匂いがしたって怖(おじ)けるには及ばぬ
灌木(かんぼく)がその個性を砥(と)いでいる
姉妹は眠った、母親は紅殻色(べんがらいろ)の格子を締めた!
 
「三歳の記憶」
椽側(えんがわ)に陽があたってて、
樹脂(きやに)が五彩(ごさい)に眠る時、
柿の木いっぽんある中庭は、
土は枇杷(びわ)いろ 蝿(はえ)が唸(な)く。
 
「六月の雨」
またひとしきり 午前の雨が
菖蒲(しょうぶ)のいろの みどりいろ
 
「雨の日」
わたくしは、花弁(かべん)の夢をみながら目を覚ます。
 
「春」
春は土と草とに新しい汗をかかせる。
 
――薮かげの、小川か銀か小波(さざなみ)か?
薮(やぶ)かげの小川か銀か小波か?
 
「夏の夜」
――疲れた胸の裡を 花弁(かべん)が通る。
 
「幼獣の歌」
黒い夜草深い野にあって、
一匹の獣(けもの)が火消壺(ひけしつぼ)の中で
燧石(ひうちいし)を打って、星を作った。
冬を混ぜる 風が鳴って。
 
「秋の日」
 磧(かわら)づたいの 竝樹(なみき)の 蔭(かげ)に
秋は 美し 女の 瞼(まぶた)
 
「冷たい夜」
丘の上では
棉(わた)の実が罅裂(はじ)ける。
 
「冬の明け方」
――林が逃げた農家が逃げた、
 
「秋の消息」
麻(あさ)は朝、人の肌(はだえ)に追い縋(すが)り
 
「骨」
故郷(ふるさと)の小川のへりに、
半(なか)ばは枯れた草に立って、
見ているのは、――僕?
 
「秋日狂乱」
ポプラがヒラヒラヒラヒラしていて
子供等(こどもら)は先刻(せんこく)昇天した
 
その紫の押花(おしばな)はもうにじまないのか
草の上には陽は照らぬのか
 
「夏の夜に覚めてみた夢」
グランド繞(めぐ)るポプラ竝木(なみき)は
蒼々(あおあお)として葉をひるがえし
 
「春と赤ン坊」
菜の花畑で眠っているのは……
菜の花畑で吹かれているのは……
赤ン坊ではないでしょうか?
 
「雲 雀」
歩いてゆくのは菜の花畑
地平の方へ、地平の方へ
 
眠っているのは、菜の花畑に
菜の花畑に、眠っているのは
菜の花畑で風に吹かれて
眠っているのは赤ん坊だ? 
 
「思い出」
煉瓦工場は音とてもなく
裏の木立で鳥が啼いてた
 
煉瓦工場は、廃れて枯れて、
木立の前に、今もぼんやり
木立に鳥は、今も啼くけど
煉瓦工場は、朽ちてゆくだけ
 
※煉瓦工場と木立は、
切っても切れない関係にあって
「枯れる」「朽ちる」のです。
 
「残 暑」
樹々の梢は 陽を受けてたけど、
僕は庭木に 打水やった
    打水が、樹々の下枝の葉の尖(さき)に
    光っているのをいつまでも、僕は見ていた
 
「除夜の鐘」
それは寺院の森の霧った空……
 
「わが半生」
   外では今宵(こよい)、木の葉がそよぐ。
   はるかな気持の、春の宵だ。
 
「蜻蛉に寄す」
その石くれの 冷たさが
漸(ようや)く手中(しゅちゅう)で ぬくもると
僕は放(ほか)して 今度は草を
夕陽を浴びてる 草を抜く
 
抜かれた草は 土の上で
ほのかほのかに 萎(な)えてゆく
 
「ゆきてかえらぬ――京 都――」
 僕は此(こ)の世の果てにいた。陽(ひ)は温暖に降り洒(そそ)ぎ、風は花々揺っていた。
 
「言葉なき歌」
此処は空気もかすかで蒼(あお)く
葱(ねぎ)の根のように仄(ほの)かに淡(あわ)い
 
「月の光 その一」
お庭の隅の草叢(くさむら)に
隠れているのは死んだ児(こ)だ
 
「月の光 その二」
おおチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる
 
ほんに今夜は春の宵(よい)
なまあったかい靄(もや)もある
 
月の光に照らされて
庭のベンチの上にいる
ギタアがそばにはあるけれど
いっこう弾き出しそうもない
 
芝生のむこうは森でして
とても黒々しています
 
おおチルシスとアマントが
こそこそ話している間
 
森の中では死んだ子が
蛍のように蹲(しゃが)んでる
 
※全文を掲載しました。
庭、芝生、ベンチ、森という景色に
不思議な遠近感があります。
 
「米 子」
二十八歳のその処女(むすめ)は、
肺病やみで、腓(ひ)は細かった。
ポプラのように、人も通らぬ
歩道に沿(そ)って、立っていた。
 
二十八歳のその処女(むすめ)は、
歩道に沿って立っていた、
雨あがりの午後、ポプラのように。
――かぼそい声をもう一度、聞いてみたいと思うのだ……
 
「正 午」
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
 
「春日狂想」
まぶしくなったら、日蔭(ひかげ)に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。
苔(こけ)はまことに、ひんやりいたし、
いわうようなき、今日の麗日(れいじつ)。
 
 
「在りし日の歌」にも
「花」の登場は稀(まれ)でした。
 
それゆえ、
「むなしさ(白薔薇)」「菖蒲(六月の雨)」「菜の花(春と赤ン坊)」「桜(正午)」などの花が
鮮烈に刻まれます。
 
 
 

中原中也の草々花々(くさぐさはなばな)2「山羊の歌」から

中原中也の詩に現われる「花や草」(植物)を
ピックアップしていきます。
どれほどの頻度で現われるのかを見ながら
どのように現われるか、なぜ現われるのかなど
若干の考察も交えてみましょう。
 
<山羊の歌>
 
「凄じき黄昏」
捲(ま)き起る、風も物憂(ものう)き頃(ころ)ながら、
草は靡(なび)きぬ、我はみぬ、
遐(とお)き昔の隼人等(はやとら)を。
 
「逝く夏の歌」
並木の梢(こずえ)が深く息を吸って、
空は高く高く、それを見ていた。
 
「夏の日の歌」
夏の空には何かがある、
いじらしく思わせる何かがある、
  焦(こ)げて図太い向日葵(ひまわり)が
  田舎(いなか)の駅には咲いている。
 
「夕 照」
原に草、
鄙唄(ひなうた)うたい
山に樹々(きぎ)、
老いてつましき心ばせ。
 
「ためいき」
木々が若い学者仲間の、頸(くび)すじのようであるだろう。
 
野原に突出(つきで)た山(やま)ノ端(は)の松が、私を看守(みまも)っているだろう。
 
「春の思い出」 
摘み溜(た)めしれんげの華(はな)を
  夕餉(ゆうげ)に帰る時刻となれば
立迷う春の暮靄(ぼあい)の
    土の上(へ)に叩きつけ
 
いまひとたびは未練で眺め
  さりげなく手を拍(たた)きつつ
路の上(へ)を走りてくれば
    (暮れのこる空よ!)
 
「少年時」 
麦田(むぎた)には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だった。
 
「盲目の秋」
その間(かん)、小さな紅(くれない)の花が見えはするが、
  それもやがては潰(つぶ)れてしまう。
 
私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。
 
※人生の谷間のような時期に見えた「花」のようです。
 
「木 蔭」
神社の鳥居が光をうけて
楡(にれ)の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々した木蔭(こかげ)は
私の後悔を宥(なだ)めてくれる
 
「夏」
 
血を吐くような 倦(もの)うさ、たゆけさ
今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り
睡(ねむ)るがような悲しさに、み空をとおく
血を吐くような倦うさ、たゆけさ
空は燃え、畑はつづき
雲浮び、眩(まぶ)しく光り
今日の日も陽は炎(も)ゆる、地は睡る
血を吐くようなせつなさに。
 
「心 象」
松の木に風が吹き、
踏む砂利(じゃり)の音は寂しかった。
暖い風が私の額を洗い
思いははるかに、なつかしかった。
 
草靡く
丘を越え、野を渉(わた)り
憩(いこ)いなき
白き天使のみえ来ずや
 
※「木蔭」も「夏」も「心象」も、
連を丸ごと読んで「草」が重要なファクターであることがわかります。
 
「みちこ」 
そなたの胸は海のよう
おおらかにこそうちあぐる。
はるかなる空、あおき浪、
涼しかぜさえ吹きそいて
松の梢(こずえ)をわたりつつ
磯白々(しらじら)とつづきけり。
 
「つみびとの歌」
わが生(せい)は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
 
かくてこのあわれなる木は、
粗硬(そこう)な樹皮(じゅひ)を、空と風とに、
心はたえず、追惜(ついせき)のおもいに沈み、
 
懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草(しぐさ)をもち、
人にむかっては心弱く、諂(へつら)いがちに、かくて
われにもない、愚事(ぐじ)のかぎりを仕出来(しでか)してしまう。
 
※「わが生」が「このあわれなる木」と喩(たと)えられています。
 
「秋」
昨日まで燃えていた野が
今日茫然として、曇った空の下につづく。
一雨毎(ひとあめごと)に秋になるのだ、と人は云(い)う
秋蝉(あきぜみ)は、もはやかしこに鳴いている、
草の中の、ひともとの木の中に。
 
草がちっともゆれなかったのよ、
その上を蝶々(ちょうちょう)がとんでいたのよ。
 
「生い立ちの歌」
私の上に降る雪は
花びらのように降ってきます
 
「時こそ今は……」 
         時こそ今は花は香炉に打薫じ
                 ボードレール
 
時こそ今は花は香炉(こうろ)に打薫(うちくん)じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。
 
いかに泰子(やすこ)、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情(なさ)け、みちてます。
いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青の
空もしずかに流るころ。
いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛なよぶころ
花は香炉に打薫じ、
 
※永遠の恋人・長谷川泰子は「花」そのものです。
 
「憔 悴」
汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな
やがては全体の調和に溶けて
空に昇って 虹となるのだろうとおもう……
 
 
「山羊の歌」を一気に読んでみましたが
文脈の中に根付いてしまっていることがほとんどで
花や草そのものだけを抽出することができません。
 
「花より草木」で草木の方が圧倒的に頻度が高いということがわかったのも
一つの大きな発見でした。
 
「花」が現われたのは、
「夏の日の歌」の向日葵(ひまわり)
「春の思い出」のれんげの華(はな)
「盲目の秋」の紅(くれない)の花、曼珠沙華(ひがんばな)
「時こそ今は……」でボードレールからとった「時こそ今は花は香炉に打薫じ」の「花」でした。
 
前回に見た
「春の夜」の一枝(ひとえだ)の花、桃色の花
「臨 終」の百合花(ゆりばな)を含めて
「山羊の歌」44篇中に「花」は6篇に登場するだけです。
 
 
 
 

中原中也の草々花々1(くさぐさはなばな)「山羊の歌」から

「色」「オノマトペ」「鳥獣虫魚」と見てきたのだから
勢いで「花や草」についても見ていくことにしました。
 
百科辞典を引き廻し
鳥の名や花の名や
みたこともないそれなんか
ひっぱり出して書いたって
――だがそれ程想像力があればね――
 
 
未発表詩篇・(テンピにかけて)に
こんなふうに書いた詩人は
すでにランボーの「酔いどれ船」を読んでいたのでしたか?
 
海を見たことのなかった少年ランボーが
海の一大スペクタクルを書き上げたことぐらい
富永太郎から聞かされていたのかもしれません。
 
辞書を引こうが
雑誌で見ようが
シネマで知ろうが
ニュースで読もうが
問題は想像力。
詩の言葉に変成できるかできないか――。
ザット・イズ・クエスチョン!
 
中原中也の技=マジックの現場を見ていきましょう。
 
 
<山羊の歌>
 
「春の夜」
燻銀(いぶしぎん)なる窓枠の中になごやかに
  一枝(ひとえだ)の花、桃色の花。
 
「朝の歌」
樹脂の香(か)に 朝は悩まし
  うしないし さまざまのゆめ、
森竝(もりなみ)は 風に鳴るかな
 
「臨 終」
  水涸(か)れて落つる百合花(ゆりばな)
  ああ こころうつろなるかな
 
「黄 昏」
渋った仄暗(ほのぐら)い池の面(おもて)で、
寄り合った蓮(はす)の葉が揺れる。
蓮の葉は、図太いので
こそこそとしか音をたてない。
 
なにが悲しいったってこれほど悲しいことはない
草の根の匂いが静かに鼻にくる、
畑の土が石といっしょに私を見ている。
 
「深夜の思い」
林の黄昏は
擦(かす)れた母親。
虫の飛交(とびか)う梢(こずえ)のあたり、
舐子(おしゃぶり)のお道化(どけ)た踊り。
 
波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は猫背を向(むこ)うに運ぶ。
森を控えた草地が
  坂になる!
 
「帰 郷」
柱も庭も乾いている
今日は好(よ)い天気だ
    椽(えん)の下では蜘蛛(くも)の巣が
    心細そうに揺れている
 
山では枯木も息を吐(つ)く
ああ今日は好い天気だ
    路傍(みちばた)の草影が
    あどけない愁(かなし)みをする
 
これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いている
    心置(こころおき)なく泣かれよと
    年増婦(としま)の低い声もする
 
ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云(い)う
 
 
ここまで見てきて
「朝の歌」の
森竝(もりなみ)は 風に鳴るかな――や
「深夜の思い」の
虫の飛交(とびか)う梢(こずえ)のあたり、――を採取するかしないかを迷い
「花と草」の詩へのなじみ方の「動物」との違いや
「花」と「草」の違いに気づきます。
 
風景として
「草」は地味の場合が多そうな予感がしますから
見過ごし勝ちになりますが
それをよく洩らさないように見ていきます。
 
「帰郷」を全文載せたのは
そういう意味も含めて
 
第1連で、椽の下では蜘蛛の巣が心細そうに揺れていて
第2連で、山で枯木が息を吐き、路傍の草影があどけない愁(かなし)みをする
第3連で、これらを「私の故里(ふるさと)だ」と歌うほどに
動物(=蜘蛛の巣)と草々(=枯木や草影)が主役(=ふるさと)だからです。
ふるさとを叙述するのに蜘蛛の巣と枯れ木と草影で足りているのです。
 
花々(はなばな)が主役になる場合は
たとえば「春の思い出」の冒頭連
 
摘み溜(た)めしれんげの華(はな)を
  夕餉(ゆうげ)に帰る時刻となれば
立迷う春の暮靄(ぼあい)の
    土の上(へ)に叩きつけ
 
――がすぐさま思い浮かびますが
これは意外に少ないケースであるかもしれません。
 
いや、断定できません。
それをこれから見ていくのですから。
 
 
 

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