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生きているうちに読んでおきたい中原中也の名作たち

生きているうちに読んでおきたい18・「永訣の秋」詩人のわかれ・「蛙声」

その1

「在りし日の歌」の最終詩「蛙声」は
昭和12年5月14日に作られ
同年の「四季」7月号に発表されました。
「四季」に発表されたとき
末尾に制作日の記載があります。

この頃、「在りし日の歌」の編集は急展開し
詩集タイトルを「在りし日の歌」とすることや
この「蛙声」を最終詩とし
「含羞(はじらい)」を詩集の冒頭詩とすることなど
詩集全体の構成が次々に
ほぼ同時的に決められたようです。
(新全集第1巻・詩Ⅰ解題篇)

「蛙声」は
詩集「在りし日の歌」の完成へ
スプリングボードの役割を果たしたようですが
その役割を果たすためには
内容やメッセージが重要であったことは
「山羊の歌」の最終詩「いのちの声」と同じような事情です。

6月、近衛内閣発足
7月、盧溝橋事件
8月、上海事変
12月、南京陥落
――といった時代でした。

「蛙声」を読む前に
この程度のことを知っておいても害にはならないことでしょう。

中原中也はこの年の4月29日に30歳になります。

詩が

天は地を蓋(おお)い、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。

――とはじめられるは
幾分か時代のニュアンスを込めようとしたものでしょうか。

池が存在するのは
天があり地がありという
大宇宙の作りの中の
その厳然とした存在である地に
たまたま(偶然)一つの池があり
その偶然の存在である池に棲んでいる蛙が
一夜限りの命とばかりに今鳴いている
いったいあれは何を鳴いているのだろう
――と遠撮(遠景)と近撮(近景)の往復の中で
蛙の声をとらえます。

蛙の声そのものがとらえられるのではなく
とらえられても
天や地を背景にし
空から来て
空へ去っていく声としてしか聞こえてきません。

中原中也には
蛙をモチーフにした詩が幾つかありますが
それらは昭和5~8年に使われていた「ノート翻訳詩」に記されたものです。

「蛙声(郊外では)」
(蛙等は月を見ない)
(蛙等が、どんなに鳴こうと)
(Qu'est-ce que c'est?)
――の4作ですが
これらの詩も蛙そのものがとらえられているのではなく
風景(状況とか背景とか関係とか)の中の蛙です。

当たり前のことのようですが
蛙そのものの姿態などは
これっぽっちも歌われていないのです。

蛙 声
 
天は地を蓋(おお)ひ、
そして、地には偶々(たまたま)池がある。
その池で今夜一と夜(よ)さ蛙は鳴く……
――あれは、何を鳴いてるのであらう?

その声は、空より来り、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ、
そして蛙声(あせい)は水面に走る。

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》はれ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走つて暗雲に迫る。

※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは原作者本人、( )は全集委員会によるものです。

その2

ガマガエルとか青蛙とか痩せた蛙とか――。
中原中也の「蛙声」には
動物としてのカエルのイメージはまったくありません。
それはなぜでしょう。

ここで寄り道になるようですが
「ノート翻訳詩」(昭和5~8年)に書かれた詩
「蛙声(郊外では)」
(蛙等は月を見ない)
(蛙等が、どんなに鳴こうと)
(Qu'est-ce que c'est?)
――の4作品を一挙に目を通します。
すべて現代かなにしてあります。

蛙 声
 
郊外では、
夜は沼のように見える野原の中に、
蛙が鳴く。

それは残酷な、
消極も積極もない夏の夜の宿命のように、
毎年のことだ。

郊外では、
毎年のことだ今時分になると沼のような野原の中に、
蛙が鳴く。

月のある晩もない晩も、
いちように厳かな儀式のように義務のように、
地平の果にまで、

月の中にまで、
しみこめとばかりに廃墟礼讃の唱歌のように、
蛙が鳴く。

(蛙等は月を見ない)
 
蛙等は月を見ない
恐らく月の存在を知らない
彼等は彼等同志暗い沼の上で
蛙同志いっせいに鳴いている。

月は彼等を知らない
恐らく彼等の存在を想ってみたこともない
月は緞子(どんす)の着物を着て
姿勢を正し、月は長嘯(ちょうしょう)に忙がしい。

月は雲にかくれ、月は雲をわけてあらわれ、
雲と雲とは離れ、雲と雲とは近づくものを、
僕はいる、此処(ここ)にいるのを、蛙等は、
いっせいに、蛙等は蛙同志で鳴いている。
 

(蛙等が、どんなに鳴こうと)
 
蛙等が、どんなに鳴こうと
月が、どんなに空の遊泳術に秀でていようと、
僕はそれらを忘れたいものと思っている
もっと営々と、営々といとなみたいいとなみが
もっとどこかにあるというような気がしている。

月が、どんなに空の遊泳術に秀でていようと、
蛙等がどんなに鳴こうと、
僕は営々と、もっと営々と働きたいと思っている。
それが何の仕事か、どうしてみつけたものか、
僕はいっこうに知らないでいる

僕は蛙を聴き
月を見、月の前を過ぎる雲を見て、
僕は立っている、何時までも立っている。
そして自分にも、何時かは仕事が、
甲斐のある仕事があるだろうというような気持がしている。
 

Qu'est-ce que c'est?
 
蛙が鳴くことも、
月が空を泳ぐことも、
僕がこうして何時まで立っていることも、
黒々と森が彼方(かなた)にあることも、
これはみんな暗がりでとある時出っくわす、
見知越(みしりご)しであるような初見であるような、
あの歯の抜けた妖婆(ようば)のように、
それはのっぴきならぬことでまた
逃れようと思えば何時でも逃れていられる
そういうふうなことなんだ、ああそうだと思って、
坐臥常住の常識観に、
僕はすばらしい籐椅子にでも倚(よ)っかかるように倚っかかり、
とにかくまず羞恥の感を押鎮(おしし)ずめ、
ともかくも和やかに誰彼のへだてなくお辞儀を致すことを覚え、
なに、平和にはやっているが、
蛙の声を聞く時は、
何かを僕はおもい出す。何か、何かを、
おもいだす。

Qu'est-ce que c'est?
 

「永訣の秋」の「蛙声」と
どのような違いが見えるでしょうか。

その3

「ノート翻訳詩」に書かれた
「蛙声(郊外では)」
(蛙等は月を見ない)
(蛙等が、どんなに鳴こうと)
(Qu'est-ce que c'est?)
――は、みんな昭和8年(5月~8月)の制作と推定されていますから
「在りし日の歌」の「蛙声」まで丸4年の歳月が流れたことになります。

両者にどのような違いがあり
どのような共通項があるでしょうか――。

「蛙声(郊外では)」は
遠景で蛙をとらえ
蛙の鳴きっぷりを
宿命のように
沼のような
儀式のように義務のように
唱歌のように
――と直喩(ような)で表わします。

(蛙等は月を見ない)は
月(と雲)を登場させて
蛙と月の関係や違いを明らかにして
僕の存在に言い及びます。

(蛙等が、どんなに鳴こうと)は
僕に接近し接写し
月でも蛙でもない僕の仕事へと目を向け
僕は蛙を聴き、月を見て立っていれば
いつかは甲斐のある仕事があるだろう、と
仕事へフォーカスしてゆきます。

仕事とは
いうまでもなく詩を作ることです。

Qu'est-ce que c'est? は
前作を継いで
何時までも立っていることを
蛙が鳴き月が空を泳ぐことと同列のものに見なすものの
蛙の声を聞くと
何か、やむにやまれぬ気持ちで
思い出すことがあり
何かは分からない何かを思い出す

――といったような詩です。

四つの詩のうち
二つはタイトルが付けられ
二つは「未題」です。

4作は連続して作られたようで
実際に蛙の鳴くシーズンに
鳴き声を聴きながら作ったにしては
動物(生き物)としてのカエルのイメージはさほど鮮明ではなく
夜(暗闇)にシルエットとして浮かんでいる感じです。

蛙(声)は
詩人が何かを託そうとする象徴として登場し
月や雲も自然現象そのものではありません。

その4

昭和8年に蛙(の声)を続けて歌った詩人は
最後4作目のQu'est-ce que c'est? で

蛙の声を聞く時は、
何かを僕はおもい出す。何か、何かを、
おもいだす。

――と、まだ十分に歌い切っていないかのように
何か、何かと言い残しました。

4年後の昭和12年に
また蛙声をモチーフにしたとき
その何かは存分に表白されたのか? という眼差しで「蛙声」を読んでみれば
少しは見えてくるものがあるはずです。

まず目立つのは
僕が詩の中から消えたことですが
僕がいなくても
僕は詩の中にきちんと存在することです。
僕はここへ来て
蛙(声)そのものに成り変ったのです。

次には全体に贅肉(ぜいにく)が落とされ
引き締まった感じがするのは
ソネットにしたり
古語や漢語を使用したりして
格調感を出しているところです。

やや難解な感じがするのは
直喩をやめ暗喩へ変えたり
説明を省略しているからです。

天は地を蓋(おお)い
――は漢籍か
今夜一と夜(よ)さ
――は宮沢賢治か
空より来り
――は文語的だし
よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
――の「よし」も文語です。

総じて言葉を選びに選んだ印象ですが
第3、4連

よし此の地方《くに》が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》われ、

頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走って暗雲に迫る。

――は、この詩の転・結であるばかりでなく
「永訣の秋」の
そして「在りし日の歌」全体の結語として
耳をそばだてるべき最大のポイントといってもよいところでしょう。

そのように読まれてきた例(ためし)をまず見かけないのは
中原中也という詩人へのとんでもない誤解の一つですが
ここにこそ
詩人が蛙声に託した最大のメッセージはあります。

4年前の蛙声とは違って
昭和12年のこの詩では
あれ
その声
蛙声
その声
――と、あくまで第3者的ですが
蛙にエールを送っているというほど客観的なものではなく
蛙声に同化している域に入っているのです。

その声は水面に走って暗雲に迫る。

――の「その声」は
詩(人)の声のことであり
暗雲立ちこめる時局へ「迫る」のは
詩(人)の命(ミッション)であることを告げているものです。

その5

第3、4連を読んでいて

よし此の地方《くに》が、の地方をなぜ「くに」と読ませるのか
くに(地方)が湿潤に過ぎる、とはどういう意味か
疲れたる我等が心、の疲れたる我等とは誰のことか
柱とは何の比喩か
柱が乾く、とはどういう状態か
なぜ、思われでなく、感《おも》われ、か
なぜ、頭は重く、肩は凝る、のか
暗雲に迫る、とは具体的にどんな行為を示しているのか

――などの疑問が湧いてきます。

これらの詩句により
詩人は何を主張しているのでしょうか?

地方《くに》が湿潤過ぎる
柱が乾いている

――というフレーズは
いったい何をいっているのでしょう。

ここが分かれば
一気に全体が分かりそうな見当がついてきます。

「永訣の秋」の最終詩である「蛙声」は
すなわち「在りし日の歌」の掉尾(とうび)を飾る巻末詩ですから
詩人はここになんらかのメッセージを込めたと考えるのが自然でしょう。

その線に沿って読めば
ここには時代や時局・時勢への発言があることを
読み取るのに抵抗はありません。

「蛙声」を制作したのは昭和12年(1937年)5月ですが
前年1936年に2.26事件
同年の11月10日に愛息・文也が死去
翌1937年に中村古峡療養所に入退院
7月に盧溝橋事件
8月に上海事変と
後に15年戦争といわれることになる世界大戦に突入した年でした。
時代はまさしく暗雲が立ち込めていました。

これらの時代背景があって
地方に「くに」のルビは振られたのです。
振ったのは中原中也本人です。

だから、地方とは
詩人がこの詩を作ったときに住んでいた
鎌倉(地方)を指すという解釈はいただけません。
暗雲は鎌倉にだけ立ちこめていたのではありません。

この詩のスケールは
天、地、空といった壮大なものですし
これらの時代背景のもとでの地方ですし
「地」の中の地方だから国(くに)としたのです。

アジアの一地方とか
世界や地球の一部としての地方を
「くに」としたのです。

ズバリ言って
それは日本という地方(くに)=国のことですが
日本と言いたくなかっただけのことでしょう。

その地方(くに)がじめじめしている(湿潤)というのは
いろいろな矛盾とか不満とか不安とかが充満しているという意味で
それが過剰になっていまにも氾濫しそうだからといって
国の柱(政治)がドライ過ぎてよいというものではない、と
思わしくない方向(戦争)へ進む国に注文をつけているものと読めそうです。

詩人が
体調思わしくなかったことは想像できますが
ここで個人的な体調不良が述べられているにしても
その原因までが個人的な事情によるだけのものと述べているのではないでしょう。

詩句の流れから言って
頭は重く、肩は凝る原因は
第3連に述べられた

地方(くに)が湿潤過ぎていたとしても
こんなにくたびれている我らのためには
柱が乾き過ぎていること――にあるのです。

その6

「くに」が湿潤(しつじゅん)に過ぎるといった時に
湿潤は天候のことを述べているのでないことは明白です。
日本海型気候とか瀬戸内型気候などでいう湿潤ではありません。

ではどのようなことを湿潤と言っているかといえば
何にも言っていません。

どうぞ自由勝手に想像してくださいと言っているようなのは
「在りし日の歌」をずーっと読んできた読者に
そんな説明は要らないでしょう
ちゃんと読んで来たのならわかるでしょうと言わんばかりな気配です。

ここをどうしても読み解かねば
この詩は読めませんから
なんとか読んでみますと……。

その「くに」には
「疲れたる我等」が存在して
詩人もその中の一人に違いありませんが
その我等の心に役立つ(ため)には
柱(国の政治とか法律とか)が現状あまりにも乾いている
あまりにもドライな(即物的な)動きを見せている
(ここは暗に軍部や軍隊を批判している!)と感じられるので

頭は重く、肩は凝るのだ。

第3連の末行は

柱は猶、余りに乾いたものと感《おも》はれ、

――と読点「、」で終わり第4連へと続いていきますが
これは定型(ソネット)を維持するためだけの空白のようで
そうではありません。
ここは連を終える必要があったから終えたのです。

ソネットのためにそうしたというより
感《おも》はれ、で連を終えて
ここで時間をおく必要があったので
「、」でぶっつりこの連を切り
第4連へ続けたところで
それがソネットにもなったのでそのままにしたということでしょう。

ここは詩人が熟考した結果です。

「くに」が湿潤であり
柱が乾いたものと感じられ
さらに最終行には
暗雲という言葉が使われます。

日本国の空模様が
暗雲に覆(おお)われていて
その暗雲に迫るのは蛙声です。

その7

昭和初期から昭和10年代の日本という地方(=くに)の空模様は
暗雲にすっぽりと覆(おお)われていても
夜ともなれば蛙は必ず鳴き
その声が水面を走って暗雲に迫るのです。

夜が来ればというのは
条件を意味しているのではなく
夜は毎日必ず訪れるものですから
必ず毎日蛙は鳴くということです。

蛙が鳴く声の日常性を指しているのであって
朝や昼には鳴かないということを言っているものではありませんから
これは詩人の仕事のことでしょう。

ここにおいて蛙(声)に詩(人)そのものが
同化しているといってもよいはずです。
エールを送るというよりも。
仮託するというよりも。

蛙声が暗雲に迫るというのは
詩の命(ミッション)というような意味で
どんな時にでも詩は池の水面を走っては暗雲に迫ることを
命としていると歌ったものなのです。

こうして「永訣の秋」の末尾にこの詩は置かれて
詩の永遠の命を歌った詩として
永遠のわかれを刻(きざ)みました。

くだけて言えば
さよならのあいさつを
作品の形で述べたものです。

さよならのあいさつは
「在りし日の歌」の後記にも
「いよいよ詩生活に沈潜しようと思っている」とか
「さらば東京! おおわが青春!」などと
改めて述べられます。

(「永訣の歌」の項終わり)

 

生きているうちに読んでおきたい17・「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「春日狂想」

その1

「永訣の秋」に採るためには
「わかれの歌」でなければならない。
内容は現在ではなく
過去のものでなくてはならないということで
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は採られなくて
「また来ん春……」や「春日狂想」や「冬の長門峡」は選ばれました。

愛児文也を追悼した詩「春日狂想」も
この流れに沿って読むことが可能になります。

追悼それ自体が客体化され
距離をもって眺められます。

現在の心境ではなく
そこから一歩引いたところで歌った追悼として
「春日狂想」を読めるようになります。

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。

――という冒頭行もそのように
読みはじめることができます。

「春日狂想」は昭和12年3月23日の制作とされているのは
文学界の同年5月号に掲載された詩(春日狂想)と
同日の日記に「文学界に詩稿発送」と記されている詩が合致することなどからの推定です。

3月23日といえば
中原中也が中村古峡療養所から退院して
40日近くが経過していることになり
文也の死から数えれば
およそ4か月の時間が過ぎたことになる日です。
それだけの時間が経過しました。

単なる時間の累積ばかりではなく
半強制的に文也の死との距離を置くことを命じられた時間を経たことで
文也の死を
直後の衝撃とは異なる受け止め方をできるようになっていたと言えるのでしょうか。

時間が何らかの解決になったとは
たやすく言うことはできませんが
直後と4か月後との受け止め方には
違いがあることを想像することはできそうです。

その2

「春日狂想」は
「在りし日の歌」の最終詩「蛙声」の前にあり
「正午」に続いています。

「永訣の秋」のラインアップを
ここで再度見ておきますと

ゆきてかえらぬ
一つのメルヘン
幻影
あばずれ女の亭主が歌った
言葉なき歌
月夜の浜辺
また来ん春……
月の光 その一
月の光 その二
村の時計
或る男の肖像
冬の長門峡
米子
正午
春日狂想
蛙声
――の16篇です。

このうち文也の死を直接追悼したのは
「また来ん春……」とこの「春日狂想」、
間接的に歌ったのが「月夜の浜辺」と「月の光」の2作と「冬の長門峡」ということになります。
(※「月夜の浜辺」は、文也の死以前の制作と推定する説が最近の研究では有力のようです。)

まず「春日狂想」をざっと読んでみましょう。
次に何度も何度も繰り返し読んでみましょう。
そうでもしないとこの詩を味わうのは無理ですから。

愛するものが死んだ時には、
自殺しなきゃあなりません。
――の冒頭行のインパクトが強烈なため
読み終えてもこの詩句が頭の中にこびりつくようなことになりますから
それだけではこの詩を読んだことにはならないので
全体を最後まで読むのです。

すると
1、2、3の3節で構成されている、
1は詩の導入部ですんなり読めるけれど
2はなかなか味わい深くて
汲めども汲めども尽きせぬ奥深さを感じて
繰り返し読んでいるとどんどんどんどん味が出てきて
同時に幾つもの疑問も出てきて
その疑問を解こうと熱中していて
いつしか呆けたような時間の中にいて
まことに、人生、花嫁御寮と詩の一節を諳(そら)んじていたり
3ではっと我に帰ったり……

特に2の《 》の中の

まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。

――という文句はだれの言葉なのか。
だれが喋っているのかと釘付けにされます。

まことに人生というフレーズは
この《 》内のほかに
地の文(=詩の本文)にも2回現われますから
これはいったいどういうことかと思い巡らせば
アルチュール・ランボーの詩のドラマ仕立てか!
ギリシア悲劇のコロス(合唱)なのか!

それにしても
全篇77音(ときに8音)で貫(つらぬ)いて
狙われたのは何なのだろうなどと
詩の構造および詩を作る技(わざ)へ関心を引きつけられますが。

 

詩人は
詩の技の完成度など
てんで気にしていないように
この詩を作っているようで
では何をもっとも大切にしたのかと
繰り返し読む度(たび)に
繰り返し考えさせられるのです。

その3

「春日狂想」の1は
内容は強烈でありながら
詩が詩人の心のうちを明らかにするという形の上では普通にはじめられていますが
2の後半の《 》でくくられた

まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。

――にさしかかって
詩のその形(構造)に変質が生じています。

この《 》の前に

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

――と、「わたし」が登場しますから
すくなくもとこの行までは
わたし=詩人が心のうちを明かし
愛する者を亡くしたら自殺しなきゃあならないと行き場を失っていたところを
生き永らえているわたしがこの後も生きていくためには
奉仕の気持ちにならなくてはならないことを述べ、

奉仕の気持ちになるといっても格別なこともできないので
以前より本を読むときは熟読し
以前より人には丁寧に接し
テンポ正しい散歩を心がけ
麦稈真田(ばっかんさなだ)を編むように敬虔な気持ちで
まるで毎日を日曜日のように
まるで毎日を玩具(おもちゃ)の兵隊のようにして、

鎌倉らしい街を歩いて
色とりどりの光景や行き交う人々との交渉を
一つひとつ歌いはじめて
神社(きっと鶴岡八幡宮でしょう)にやってきて、

人生は
一瞬の夢
ゴム風船の
美しさ
――というコロス(合唱)を聞くのです。

それはどこからともなく聞こえてきたというより
テンポ正しい散歩をしてきた詩人の胸の内にあった感慨が
大人数の男性女性の声に成り変って
地の底から湧いてきたかのように現われるものですから違和感はなく
これが誰のものであるかなどという疑問は生じませんが
よく読めば地(じ)の声とは異なります。

詩の形の上では
地の声とは異なりますが
これは詩人の声でもあります。

神社の境内を
ゴム風船がふわりふわりと飛んでいったのを
詩人は目にしたのかもしれませんが
それはただの風景描写に置き換える以上の思いを抱かせたのでしょう。

 

コロスの合唱に仕立てる技が
自然の流れで出てきたのでした。

その4

「春日狂想」の
コロスの合唱を思わせる
《まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。》
――にある「まことに人生」という詩句は
地の声の「まことに人生」に引き取られて

まことに人生、花嫁御寮
まことに、人生、花嫁御寮
――と歌われる構造になっていることがわかってきます。

2のこの後半部分は
テンポ正しい散歩の途中で
誰だか親しい友人だか古い知人だか
しばらく会っていなかった人にばったり出くわし
喫茶店に入ってコーヒーを飲みながら話すシーンですが
このシーンへの導入となる

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

――にははじめ少し戸惑いますが
やがてなるほどなるほどと合点のいく流れを理解する
最大のヤマです。

やあ、今日は、と語るのは
誰であり誰に対してであるのか
詩人の友達が詩人に語っているのかその逆か
友達ではなく
幻想の長谷川泰子がここに出てきて
やあ、しばらくと駆け寄ってきたのか
いや、これは文也がゴム風船に乗ってやってきて
詩人に語りかけているのだ
……などとあれやこれや考えてしまいますが

どうやらこれを語っているのは
詩人その人でありそうなことが
この語り口が堅苦しい感じで
普段の詩人らしくないことからわかってきます。

律儀(りちぎ)すぎる人に
詩人がなっている感じが
かえって詩人であることを明かしているのです。

詩人は
奉仕の気持ちを望んだのですから
その自分を揶揄(やゆ)するつもりはありません。

その詩人の目に
突如、花嫁行列が見えたのです!
実際に行列が通ったのを見たのかどうか

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。
――とありますから
単なる馬車であり、単なる電車(これは江ノ電か)だったのですが
それが花嫁御寮に見えるイマジネーション(感慨)が湧いたのです。

まことに人生、一瞬の夢、
ゴム風船の、美しさかな。
――が
まことに人生、花嫁御寮。
――にこうしてクロスオーバーします。

 

2の後半部には
説明らしきものはありません。
テンポ正しき散歩が俄然乱れたような印象がありますが
この乱れこそこの詩が目指しているものです。

 

その5

鎌倉らしき街を散歩中の詩人は
神社の日向(日陰)
知人
飴売り爺々

地面
草木

参詣人
ゴム風船
茶店
馬車
電車
……など次々と目に触れてくるものの一つ一つが
取り立てて新鮮なものでもなければ
取り立ててつまらないものでもない
どうといったこともないお天気の1日で
参詣人がゾロゾロ歩いていても
腹が立たない時間の中にいます。

といえば
無感動の日々を送っているということになりますが
そういうことではなく
一つ一つの事物が一つ一つ瑞々しく
あるがままの生命を呼吸していて
過大でもなく過小でもなく
適度なリズムを刻んでいる状態にあることを歌っています。

ゴム風船も
そのような事物の一つに過ぎず
ほかの事物と同じものですが
詩人には
これらの事物一つ一つも
ゴム風船も
人生であり
美しい
一瞬の夢と映ったのです。

どういうことが
詩人に起こったのでしょうか?
この詩になにが起こったのでしょうか?

なぜここに人生なのでしょうか?

人生とは
誰のものを指しているのでしょうか?

これは文也の人生なのではないでしょうか?
文也の人生を指して
美しい一瞬の夢と
コロスに歌わせたのでしょうか?

それとも詩人自身の人生なのでしょうか?

それとも人生一般なのでしょうか?

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇って、光って、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

この3連で
この詩は急展開します。
断絶、揺らぎ、飛躍、省略、説明排除……乱調。

この急展開は
一見して乱れのようにも見えますが
ここがこの詩の急所です。

なんにも腹が立たない詩人の目に映った
ゴム風船が空に昇って光って消えていったそこから
やあコンニチワといって現われる詩人。

この過程で
詩人は変身します。
変質します。

人生を一瞬の夢といい
ゴム風船を美しいというのは
人生はゴム風船で美しいものということですから
ここで一瞬の夢のようであった愛児・文也が暗示されています。

ここで
詩人は文也の死を受容しているのです。

受容とは
奉仕することの別の言い方です。

受容した途端に
テンポが乱れるようなことが起こっていますが
偶然にも(?) 花嫁御寮の歌が聞こえてきます!

 

人生はゴム風船
人生は花嫁御寮。
どちらも美しい。

 

その6

玩具の兵隊になったような
毎日が日曜日のような
テンポ正しい散歩を続けている詩人は
ある時空に舞い上がるゴム風船を目撃し
はかなさのようなものを感じ
美しさを見ます。

人生は短い
一瞬の夢
まるであのゴム風船のようだ
美しいというほかに言いようがないものだ。

愛児文也の死をも
詩人は
このように受け止めたのですが
それをコロスの声としても言わせたのです。

あらゆる事物が
おのおのの存在の重力に耐え
さりげなさそうに輝いているが
やがては朽ち枯れ死んでゆく
絶対的事実。

――と思ったかどうか。

《 》の中に登場するゴム風船は
詩の地の文に引き継がれて
空に昇って光って消えてゆきます。

コロスの合唱と地の声は
ここで溶け合うのです。

ゴム風船は
空に消えてしまったものですから
ふたたび現われることはありませんが
やがては
花嫁御寮に生まれ変わったかのように
賑やかな街の光景の一つとして現われます。
そして……

まことに人生、花嫁御寮
まことに、人生、花嫁御寮、と
一瞬の夢は、いつしか、花嫁御寮に成り変ります。

人生は一瞬の夢と
人生は花嫁御寮とが
溶け合ってしまいます。

花嫁御寮に
文也の影を見るのはおかしいことでしょうか?

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

 

――2の末行の
やんちゃな口語会話体には
元気な詩人が復活している感じがあり
文也が花嫁をもらう年頃を夢想する詩人が
やんちゃの下に隠れていそうな気がしますが
考えすぎでしょうか。

 

その7

「春日狂想」は
全行が口語会話体で書かれていますが
2の末行、

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーツとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

――に現われるやんちゃな口ぶりは
詩人の地(じ)が露わになったようで
テンポ正しい散歩が今にも崩れそうな気配を見せます。
ということは
奉仕の気持ちなんぞしゃらくせいとばかり
その気持ちを捨ててしまうことなのでもありますが
そのような展開にはならずに詩はここで打ち切られます。

あたかも脱線に気がつき
ハンドルを握りなおすかのように3では、
ではみなさん、と
だれでもないだれか――幻の聴衆――読者に向かって
呼びかけを始めます。

だれでもないだれかは……おのれでもあります。

ヨロコビスギズ
カナシミスギズ
テンポタダシク
アクシュヲシマショウ

ツマリワレラニ
カケテルモノハ
ジッチョクナンゾト
ココロエマシテ

ハイデハミナサン
ハイゴイッショニ
テンポタダシク
アクシュヲシマショウ

七七調を堅持して
今度は
テンポ正しく、握手をしましょう
――と散歩を握手に変えて
春日狂想を終えるのです。

握手は散歩と同じようなものです。
同じものである以上に
テンポ正しい散歩は
自ずと正しい握手へつながっていくものですよ、と言いたげであります。

ではみなさん
ハイ、ではみなさん
ハイ、御一緒に
――と呼びかける詩人は
いったい何処(どこ)から発声しているのでしょうか?

古代ギリシアの円形劇場の
オルケストラ(祭壇)のようなところから
人っ子一人いない観衆席に向かって
やや声を高めて演説する詩人の姿が見えてきはしないでしょうか?

いや! 祭壇のコロスの声に唱和する詩人には
満員の観衆が見えていたのかもしれません。

(この項終わり)

春日狂想
 
   1

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。

愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながらうことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

   2

奉仕の気持になりはなつたが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前《せん》より、本なら熟読。
そこで以前《せん》より、人には丁寧。

テンポ正しき散歩をなして
麦稈真田《ばつかんさなだ》を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具《おもちゃ》の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりじじい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はい)り、
そこで地面や草木を見直す。

苔はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外《そと》はまことに賑やかなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国《あつち》に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美《は)》しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーツとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしませう。
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。


生きているうちに読んでおきたい16・「永訣の秋」愛児文也のわかれ・「また来ん春……」

その1

「在りし日の歌」の編集はどのような経過で行われたか――。

「永訣の秋」を集中して読んできて残すのは
「また来ん春……」
「春日狂想」
「蛙声」の3作品というところにさしかかりました。

「永訣の秋」の読みがフィニッシュ段階に入るということで
「在りし日の歌」の編集が
愛息・文也の死によって被(こうむ)ったある変更について
ここで目を向けておきます。

「在りし日の歌」は
文也の死(昭和11年11月10日)以前から編集が開始されていましたが
文也の死によって追悼の目的をあわせ持つようになって
「含羞」を冒頭詩とするなどの変更が行われたのですが
そのあたりのこととも関連することです。

「新編中原中也全集」(角川書店)が
他に類例をみない綿密な考証の成果をふんだんに盛り込んでいるのは
小林秀雄による中原中也の死直後の評価の仕事以来
戦後にはじまった大岡昇平や安原喜弘らの仕事へつながれ、
そしてこれらの基礎工事の上に築かれた3次にわたる全集編集へつながれたという
長い歴史的所産であるからです。

新全集(新編中原中也全集)には
大岡が中村稔に参加を呼びかけた第1次(~第3次)
次に吉田凞生(ひろお)が参画した第2次(~第3次)
そして宇佐美斉、佐々木幹郎が参画した第3次編集委員会のメンバーらによる
幾人もの仕事が積み重なっています。

この新全集に
「在りし日の歌」の「成立過程」と「編集過程」がくわしく記述されていますから
それを読んでみれば
「在りし日の歌」は昭和11年前半に編集が開始され
小林秀雄に清書原稿が託される昭和12年9月まで
5回に期間分類できる編集期を経たことが分かります。

また来ん春……
 
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るじやない

おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫《にやあ》といひ
鳥を見せても猫《にやあ》だつた

最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた

ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
 
※「新編中原中也全集」より。《 》で示したルビは、原作者本人によるものです。

その2

中原中也が第2詩集の編集をはじめたことを確定する
具体的資料は実のところなんら残存しません。
「山羊の歌」出版以後に詩人が著(あら)わした日記や書簡にも
編集を開始したという明確な記述は見つかっていません。

つまり全ては
日記や書簡などを参考にして立てられた仮説です。

日記、書簡は詩人本人が書いたものですから第一級の資料ですが
そこに何の記述もないときに
どのような方法で仮説が立てられたか――。

その方法が新全集に明らかにされていますからそれを読むと
推理小説を読むようなスリルとサスペンスに満ちた記述に出会いますが
その記述は文学的立場から逸脱(いつだつ)しない
あくまで実証的手法による考証・校訂に基いています。

それはすでに旧全集(大岡昇平、吉田凞生、中村稔)でとられた方法でしたが
新全集(新たに、宇佐美斉、佐々木幹郎が参加)は旧全集の成果の上に
いくつかの修正や再発見を取り入れて
よりいっそう綿密な記述へと再構築しました。

新旧全集ともに最も有力な手掛かりとしたのは
原稿用紙の種類とそこに書かれた内容で
これらから使用時期を検討し編集時期を推定、
全編集期間を5期間に分類し
それぞれの期間の特徴を分析しました。

その5期間を
ざっと眺めてみますと

第1次編集期 昭和11年前半
第2次編集期 昭和11年後半
第3次編集期 昭和12年春
第4次編集期 昭和12年夏
第5次編集期 昭和12年秋

 

――となります。
 
第2次編集期と第3次編集期の間に
長男文也の死がありました。

 

その3

昭和11年11月10日、
長男文也が小児結核で死亡するという不幸に見舞われた詩人は
悲嘆の底に沈み、精神に変調をきたしたため
家人のはからいで千葉の中村古峡療養所へ入院したのは
明けて昭和12年1月9日。
1か月以上の療養の末、2月15日に退院し、
2月27日に四谷・市谷の住まいを払い
鎌倉の寿福寺境内の借家へ引っ越します。

文也の死後で昭和11年内に
中原中也が新たに制作した詩篇は
①未発表詩篇「断片」
②未発表詩篇「暗い公園」
③「また来ん春……」
④「月の光 その一」
⑤「月の光 その二」
⑥未発表詩篇「夏の夜の博覧会はかなしからずや」
⑦「冬の長門峡」
――の7篇です。
(※旧作を作り直したり再構成したものを除く。詩篇以外では散文の評論で「感想」「詩壇への願い」「詩壇への抱負」があります。)

「断片」が作られたのは昭和11年11月11日から17日の間と推定され
「冬の長門峡」は昭和11年12月24日(日付けあり)ですから
およそ1か月半の間に7作品を制作しています。

散文を含めれば10作品におよび
昭和11年末の制作意欲は
完全には衰えていなかったことを示しています。

「在りし日の歌」の第3次編集に入るのは
鎌倉に来てしばらくした春頃らしいのですが
2月には「また来ん春……」(文学界2月号)
4月には「冬の長門峡」(文学界4月号)
5月には「春日狂想」(文学界5月号)を発表しています。

千葉の療養所への入退院と鎌倉への引っ越しで
空白を余儀なくされた期間をやり過ごして
2月には詩活動をはじめているということになります。
空白は1月と2月のうちのわずかな期間でした。

 

この間にも、「在りし日の歌」の編集構想が
「頭の中で」進んでいなかったと断言できるものでもありません。

その4

5次にわたる編集期は
全集委員会が考えた便宜的な「期間区分」であって
中原中也がいつからいつまでと期間を区切ったものではありません。
創作や編集的な作業を禁じられていた療養中にですら
「頭の中」には「在りし日の歌」の構想が進められていたかもしれないのに
それは表面に出てくることはありませんでした。

詩人は聞き分けがよかったのですし
療養所長の中村古峡という人物を信頼していたのかもしれません。

「また来ん春……」が
昭和11年の年末に制作され
中村古峡療養所を退院して直後に発表されたという事実は見逃してなりません。

発表は第3次編集期に入る直前ということになりますが
これをすでに第3次編集期に入った時期と考えることも可能ですし
逆に第2次編集期に入れることも可能です。
文也の死後およそ1か月して作られた詩が
療養期間中に編集・印刷されて公表されたのです。

そして「また来ん春……」は
文也の死を直接的に歌った初めての作品です。
字義通り追悼詩と呼べるものです。
文学界の同じ2月号に「詩三篇」と題して
「月の光 その一」「その二」とあわせて発表されたのです。

冬来たりなば春遠からじ
春よ来い早く来い
春は名のみの風の寒さや
……
春を待ち望む声は冬の間巷間に満ち溢れます。

またやって来る春、と世間の人はよく口にしますが
それを聞くのが辛くてしょうがない
春が来たからどうなるというんだ
あの子が帰ってくるわけじゃない――。

感じている核心にあるところを
ズバリと言い出すのは
「春日狂想」と同じです。

しかし、思いの丈を述べるだけに流そうとしない意思が
ソネット(4433)、75のリズムという定型に表われます。

叙情を情念のほとばしりにまかせるだけに終らせない。
定型の中に叙情を閉じ込めようとしているかのような。

 

「また来ん春……」を制作したのと同じ頃
日記に「文也の一生」が書かれていますが
どちらが先に書かれたのか分かっていません。

 

その5

やや迂回(うかい)しますが
「文也の一生」というタイトルのある「日記」を読んでみましょう。

文也が死んだのは昭和11年11月10日でしたが
翌々日の12日付けで
届けられた香典の内訳をメモして以来途絶えていた日記が
1か月後の12月12日付けで再開されます。

再開されても年明けてすぐに療養生活を余儀なくされるので
自前の日記は書き継がれず
このノートによる日記は
「文也の一生」の3日後に書かれた次男愛雅(よしまさ)の誕生と
戯歌と称した2行詩を記しただけで終りとなります。

読みやすくするために「新字・新かな」表記に変え、適宜(てきぎ)行アキを加えます。

日記(昭和11年12月12日)
文也の一生

 昭和9年(1934)8月 春よりの孝子の眼病の大体癒ったによって帰省。9月末小生一人上京。文也9月中に生れる予定なりしかば、待っていたりしも生れぬので小生一人上京。10月18日生れたりとの電報をうく。八白先勝みづのえという日なりき。その午後1時山口市後河原田村病院(院長田村旨達氏の手によりて)にて生る。生れてより全国天気一か月余もつづく。

 昭和9年12月10日(ママ)小生帰省。午後日があたっていた。客間の東の6畳にて孝子に負われたる文也に初対面。小生をみて泣く。それより祖母(中原コマ)を山口市新道の新道病院に思郎に伴われて面会にゆく。祖母ヘルニヤ手術後にて衰弱甚だし。(12月9日(ママ)午後詩集山羊の歌出来。それを発送して午後8時頃の下関行にて東京に立つ。小澤、高森、安原、伊藤近三見送る。駅にて長谷川玖一と偶然一緒になる。玖一を送りに藤堂高宣、佐々木秀光来ている。)
 
 手術後長くはないとの医者の言にもかかわらず祖母2月3日まで生存。その間小生はランボオの詩を訳す。1月の半ば頃高森文夫上京の途寄る。たしか3泊す。二人で玉をつく。高森滞在中は坊やと孝子方部屋の次の次の8畳の間に寝る。祖母退院の日は好晴、小生坊やを抱いて祖母のフトンの足の方に立っていたり、東の8畳の間。
 
 3月20日頃小生腹痛はげしく34日就床。これよりさき1月半ば頃坊や孝子の乳房を噛み、それが膿みて困る。3月26日呉郎高校に合格。この頃お天気よく、坊やを肩車して権現山の方へ歩いたりす。一度小生の左の耳にかみつく。
 
 4月初旬(?)小生一人上京。4月下旬高森敦夫上京アパ-トに同居す。6月7日谷町62に越す。高森も一緒。6月末帰省。7月10日頃高森文夫を日向に訪ぬ。34にち滞在。7月末祇園祭。花火を買い来て坊やにみす。8月10(ママ)日母と女中と呉郎に送られ上京。湯田より小郡まではガソリンカー。坊や時々驚き窓外を眺む。3等寝台車に昼間は人なく自分達のクーペには坊やと孝子と自分のみ。関西水害にて大阪より関西線を経由。桑名駅にて長時間停車。上京家に着くや坊や泣く。おかゆをつくり、少し熱いのをウッカリ小生1匙口に入れまた泣く。
 
 9月ギフの女を傭う。12月23日夕暇をとる。坊や上京四五日にして匍ひはじむ。「ウマウマ」は山口にいる頃既に云う。9月10日頃障子をもって起つ。9月20日頃立って一二歩歩く。間もなく歩きだし、間もなく階段を登る。降りることもじきに覚える。拾郎早大入試のため3月10日頃上京。間もなく宇太郎君上京、同じく早大入試のため。坊や此の頃誰を呼ぶにも「アウチャン」なり。拾郎合格。宇太郎君山高合格。8月の10日頃階段中程より転落。そのずっと前エンガワより庭土の上に転落。7月10日拾郎帰省の夜は坊やと孝子と拾郎と小生4人にて谷町交番より円タクにて新宿にゆく。ウチワや風鈴を買う。新宿一丁目にて拾郎に別れ、同所にて坊やと孝子江戸川バスに乗り帰る。小生一人青山を訪ねたりしも不在。すぐに帰る。坊やねたばかりの所なりし。
 
 春暖き日坊やと二人で小澤を番衆会館アパートに訪ね、金魚を買ってやる。同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニャーニャー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分からぬらしく子供の象をみて「ニャーニャー」という。豹をみても鶴をみても「ニャーニャー」なり。やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。6月頃四谷キネマに夕より敦夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。7月敦夫君他へ下宿す。8月頃靴を買いに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子3人にて夜店をみしこともありき。8月初め神楽坂に3人にてゆく。7月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。

 

※「新編中原中也全集 第5巻」より。文中(ママ)とあるのは、考証の結果、詩人の記憶違いであることが判明しているものです。

 

その6

「文也の一生」は日記の8ページにわたって
毛筆で書き付けられました。
そして

7月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。

――と書いたところで途切れます。

同じ毛筆で書かれたのが
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」で
この詩は発表されていませんが
明らかに「文也の一生」を中断した後で
書き継がれた形跡があり
内容も博覧会に親子3人で行った時のイメージを膨(ふく)らませたものになっています。

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」に続けて
「冬の長門峡」が書かれました。
これも毛筆で書かれました。

ここで「夏の夜の博覧会はかなしからずや」を読んでおきます。
読みやすくするために「新字・新かな」表記に変え、適宜(てきぎ)行アキを加えます。

夏の夜の博覧会はかなしからずや
 
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや
雨ちょと降りて、やがてもあがりぬ
夏の夜の、博覧会は、哀しからずや

女房買物をなす間、かなしからずや
象の前に余と坊やとはいぬ
二人蹲(しゃが)んでいぬ、かなしからずや、やがて女房きぬ

三人博覧会を出でぬかなしからずや
不忍(しのばず)ノ池の前に立ちぬ、坊や眺めてありぬ

そは坊やの見し、水の中にて最も大なるものなりきかなしからずや、
髪毛風に吹かれつ
見てありぬ、見てありぬ、
それより手を引きて歩きて
広小路に出でぬ、かなしからずや

広小路にて玩具を買いぬ、兎の玩具かなしからずや

   2

その日博覧会入りしばかりの刻(とき)は
なお明るく、昼の明《あかり》ありぬ、

われら三人《みたり》飛行機にのりぬ
例の廻旋する飛行機にのりぬ

飛行機の夕空にめぐれば、
四囲の燈光また夕空にめぐりぬ

夕空は、紺青(こんじょう)の色なりき
燈光は、貝釦(かいボタン)の色なりき

その時よ、坊や見てありぬ
その時よ、めぐる釦を
その時よ、坊やみてありぬ
その時よ、紺青の空!
       (一九三六・一二・二四)

 

※《 》で示したルビは原作者本人によるもの、(  )は全集編集委員会によるものです。

その7

「文也の一生」
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」
「冬の長門峡」
――をインクのペン書きから毛筆に変えて書いたのは
特別な思いを込めたからに違いありません。

このことは愛児文也の突然の死が
詩人に与えた衝撃のすべてを物語るようです。

毛筆で書くなどは前例がないものでしたし
日記から詩へ
詩から詩へ
――という連続と非連続。

特に「夏の夜の博覧会はかなしからずや」から
「冬の長門峡」への連続(と非連続)に耳を澄ませば

ああ! ――そのような時もありき、
寒い寒い 日なりき。

――のポエジーによりいっそう深いところで触れることになるでしょう。

文也の死を過去の事実として
詩人は認めようと努力したのです。

「また来ん春……」は
これら三つの追悼詩(文)とほぼ同時期に作られたものでありながら
どちらが先に作られたか断定できない作品ですが
東京・上野動物園へ文也を連れて行ったときの様子が描かれているのは
「冬の長門峡」以外に共通しています。

「また来ん春……」は
毛筆で書くという特別な心境に入る以前に
文也の死を悼んだ詩として作られたのかもしれません。
とすれば
文也追悼の初めての詩ということになります。

「永訣の秋」に
「また来ん春……」
「月の光 その一」
「月の光 その二」
「冬の長門峡」
「春日狂想」
――と続く「わかれの歌」ですが
悲しみを詩の中に
閉じ込めようとしても
閉じ込めようとしても
滾々(こんこん)と湧き出るかのようなそれを
容易に手なずけることもできずに
詩人はそれをシュール(=超える)する姿勢をとったり……。
真正面から受け止めたり……。

 

たたかう気持ちを崩しません。

その8

中原中也は中村古峡療養所に入院中の一定期間に
創作を禁じられていたのですが
なにも書いてはならないという厳格な禁止期間はそう長くはなく
特に後半期には
詩篇さえ残していますから
創作意欲は旺盛にあったものの
療養に専念したといえることでしょう。

昭和12年2月27日、鎌倉へ引っ越した日から
「蛙声」が制作された5月14日までが
「在りし日の歌」の第3次編集期とされていますが
この期間には
当初からの詩集タイトル「去年の雪」が維持され
冒頭詩篇は「むなしさ」でした。

「蛙声」の制作が
大きな節目になります。

この詩を「在りし日の歌」の最終詩篇と決めることによって
詩集全体の構成がほぼ完成するのです。
これが第4次編集期です。

「亡き児文也の霊に捧ぐ」の献辞を添えた「在りし日の歌」というタイトルが決まり
「含羞」が冒頭詩篇とされ
そこには「在りし日の歌」のサブタイトルが置かれ
最終詩篇を「蛙声」とする
――とした大枠が次々に決められました。

これらはほぼ同時に決められたと考えるのが
編集という作業という面からみても妥当でしょうから
前後関係はあっても無いのと同然です。

この作業の中で
かねて「別れの秋」という題を候補にしていた第2章を
「永訣の秋」と決め
第1章を「在りし日の歌」としますが
「在りし日の歌」が
詩集全体のタイトルであり
第1章のタイトルであり
冒頭詩「含羞」のサブタイトルでもあるというくどさを
詩人は受け容れました。

詩人は
「これでよし!」としたのです。

 

ああしようこうしようと
配置を試行錯誤し
ようやく「在りし日の歌」全体の構造が決まったときには
個々の詩篇の配列も
ほとんど決まっていました。

その9

「在りし日の歌」のとりわけ「永訣の秋」に
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」を採らなくて
「また来ん春……」や「春日狂想」や「冬の長門峡」を選んだ理由が見えてきました。

「夏の夜の博覧会はかなしからずや」を
よーく味わっていれば
それを理解できる気がしませんか?

この詩を何度も何度も読んでいると
追悼詩としての絶唱であることを
誰しもが感じとるに違いありません。

次第次第に悲しみが高まってきて
いましも倒れてしまいそうになるほど
詩人の感情にシンクロし
詩の中に入って
詩人の悲しみを悲しむことになります。

悲しみでめまいがする感覚になるのです。
そのように
悲しみの「現在」が
歌われているのです。

あまりに現在的すぎて
「永訣の秋」にマッチしなかったのです。
「在りし日の歌」に採るにも
詩人の今が歌われていて
「過去」のものになっていなかったことを
詩人自ら分かっていたのです。

「あがりぬ」
「ありぬ」
「いぬ」
「きぬ」
「出でぬ」
「買いぬ」
「のりぬ」
「めぐりぬ」
――と完了を示す助動詞「ぬ」で強調すればするほど
現在が浮かび上がります。

全篇を通じて現われる「ぬ」の繰り返しも
「1」で8回も出てくる「かなしからずや」のルフランに
かき消されてしまうためでしょうか。

「また来ん春……」はその点で
「月の光」や
「春日狂想」や
「冬の長門峡」と同じように
内容との距離感があり
作意・創意といったものまであり
過ぎ去りし日へのわかれ歌の域に達しています。

これは作品の完成度の問題ではありません。
「夏の夜の博覧会はかなしからずや」は
稀(まれ)にみる追悼詩です。
その絶唱です。

「永訣の秋」に収めるには
バランスを欠いただけの話です。

 

「また来ん春……」が
ソネット、75調である上に
「辛いのだ」
「何になろ」
「来るじゃない」
「ニャーといい」
「ニャーだった」
「いたっけが……」
――という口語会話体で書かれていることも
内容との適度な距離を感じさせる効果を生んでいます。

 

生きているうちに読んでおきたい14・「永訣の秋」もう一つの女のわかれ・「米子」

その1

「米子」は「よねこ」ですから
なぜまたこんなところに女性の固有名を冠した詩が配置されたのかと
首をひねることになりそうですが
作品内容で見れば
「村の時計」の流れで連続していることが見えてきました。

二十八歳のその処女《むすめ》は、
肺病やみで、腓《ひ》は細かった。
ポプラのように、人も通らぬ
歩道に沿って、立っていた。

――という書き出しですから
ひっそりと健気(けなげ)そうに生きている女性で
「村の時計」に引けをとらない影のうすい存在感です。

この女性は誰のことを歌っているのか?
――と現実のモデルを探すのは無意味なことでしょう。
そうとは知りながら
あくまで一つの見方ですが
詩人の「永遠の恋人」長谷川泰子とは異なる女性のようだなどと
自然に憶測の羽根が広がります。

しかし、米子(よねこ)は泰子ではなさそうと思った途端に
いや泰子であってもおかしくはないというもう一つの考えが出てきます。

「或る夜の幻想」の「3 彼女」の最終連
  夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
  背中にあった。

――とシュールな表現で
元気のよさそうな女性が長谷川泰子をモデルにしているのなら
「米子(よねこ)」の影のうすいのとは対照的に見えますが
いやここで泰子のもう一つの顔が描かれたとしても変ではないと考え直したらどうなるか。

なかなか捨てがたいアイデアとして
浮かんでくるではありませんか。

そうとなると
「或る夜の幻想」の再構築の際
一度は排除した「彼女」を
別の形でよみがえらせたと考えることができます。

その2

長谷川泰子の勝気なばかりではない側面を
「米子(よねこ)」で描いた――。

そう考えてもよいか
そう考えないほうがよいか。

米子は泰子のことを指しているという考えと
米子は泰子とは異なる女性をモデルにしているが
それが誰であるかは特定できないという考えとが対立しながら存在しますが
「泰子」はもはやこの時点で
実在の泰子以上(以外)の「恋人」になっているともいえますから
どちらでもおかしくはないことを頭に入れてこの詩を読んでみます。

ポプラのように、人も通らぬ
歩道に沿って、立っていた。

――と、米子(よねこ)は
人通りのない歩道に「ポプラ」の木のように立っているのですが
バス待ちなのか人待ちなのか
何かを待っているようで
所在なさそうで影がうすい感じなのが
逆に強烈な存在感を放っているのです。

どうしてそう感じられるかといえば
彼女は「肺病やみ」で「腓(ひ)」=ふくらはぎが細くて
すーっと背の高い姿形(すがたかたち)をしている、というところに
ギョッとさせられるからです。

彼女の名前まで知っており
かぼそい声を聞いたこともあるのですから
知り合いらしいのですが
気安く言葉を交わすほどでもなく
「お嫁にいったら元気になるさ」などと軽口を叩ける間柄でもない。

言い出しにくいわけでもなく
言って彼女の気持ち暗くさせてはまずいと思ったのでもなく
ただ言いそびれ言う機会を失った
――という必然(運命)にあっただけのことを言いたいらしい。

何年か、何十年か経った今、
それゆえに気になって仕方ないのです。
雨上がりの歩道に立つ彼女に
もう一度会ってみたいのです。
もう一度そのかぼそい声を聞きたいのです。

そして今度こそ
わかれの最後の言葉をかけて……。

いまや遠い日のことになったあの時の
あの何ということもない日常の一断面に現われた女性。

彼女が誰であるかという関心は消えていかないものですが
それを詮索(せんさく)しなくても
この詩を味わうことができます。

泰子である、
泰子ではない、
泰子以外の女性で詩人が一時心を動かしたことがある女性――などと
想像しながら読んでもまた楽しからずや、です。

「米子」は
昭和11年12月1日付け発行の「ペン」に初出、
昭和12年4月1日付け発行の「文芸懇話会」に再出、
「在りし日の歌」の「永訣の秋」に
「冬の長門峡」と「正午」に挟まって置かれました。

永遠のわかれのあいさつを
女性にもうひとこと言っておきたいという意図を
この配置から感じ取ることができます。

米 子
 
二十八歳のその処女《むすめ》は、
肺病やみで、腓《ひ》は細かつた。
ポプラのやうに、人も通らぬ
歩道に沿つて、立つてゐた。

処女《むすめ》の名前は、米子と云つた。
夏には、顔が、汚れてみえたが、
冬だの秋には、きれいであつた。
――かぼそい声をしてをつた。

二十八歳のその処女《むすめ》は、
お嫁に行けば、その病気は
癒(なお)るかに思はれた。と、そう思いながら
私はたびたび処女《むすめ》をみた……

しかし一度も、さうと口には出さなかつた。
別に、云い出しにくいからといふのでもない
云つて却《かえ》つて、落胆させてはと思つたからでもない、
なぜかしら、云はずじまいであつたのだ。

二十八歳のその処女《むすめ》は、
歩道に沿つて立つてゐた、
雨あがりの午後、ポプラのやうに。
――かぼそい声をもう一度、聞いてみたいと思ふのだ……

 

 

生きているうちに読んでおきたい名作たち13・「永訣の秋」存在のわかれ・「村の時計」

その1

「或る夜の幻想」のうち
「1 彼女の部屋」「3 彼女」は除外され
「2 村の時計」は同じタイトルで「村の時計」として
「4 或る男の肖像」「5 無題」「6 壁」は「或る男の肖像」として
独立した詩に仕立てられました。

「村の時計」は「永訣の秋」の中で
「月の光」と「冬の長門峡」の間に
「或る男の肖像」とともに配置されています。

原形詩「或る夜の幻想」の構造を知れば
詩人の意図が少し理解できた気がしますが、
もうすこし「村の時計」はなぜ「永訣の秋」に選ばれたのかを考えてみましょう。

なぜこの詩はここにあるのでしょうか?

「永訣の秋」のほかの作品とくらべて
どことなく影の薄い感じのするこの詩が
なぜここに選ばれたのでしょう。

「村の時計」を
何度も何度も読んでいると
ようやく浮かんでくることがあります。

どこか覚えのある存在――。
存在感のうすい存在――。

「永訣の秋」のページをめくれば
そのような存在がいくつかあるのに気づきます。

私の頭の中に棲んでいた薄命そうなピエロ(幻影)
遠い彼方で夕陽にけぶっていたフィトル(号笛)の音のように繊弱なあれ(言葉なき歌)
月夜の晩の浜辺に落ちていたボタン(月夜の浜辺)
……
「或る男の肖像」の男も影がうすく、すでに死んでいました――。
……
「米子」のかぼそい声の女もそうです――。

ひっそりと、おとなしく
どっこい生きている!
(「或る男の肖像」の男は死んでしまいましたが、詩に語られているのは生前です)

これら存在感のない
影がうすい存在――ヒト・モノ・コト。

 

「村の時計」もこれらの仲間です。

その2

(前回からつづく)

「村の時計」は

一日中休むことなく働いていて
字板のペンキにはつやがなく
近くで見れば細(こま)かなひび割れがあり
夕方の陽にあたっておとなしい色合いをしていて
時刻を鳴らすときにはゼーゼーと音を出し
その音はどこから出ているのか誰にもわからない

――とだけを述べた詩です。

だからどうしたというような感想は見当たりませんし
風景の一つも歌われていませんが
どこかの村の役場だとか教会だとかの広場みたいなところにある
ゼンマイ仕掛けの大きな時計を思い浮かべることができ
その時計は村人たちに目立って感謝されているわけでもないけれど
日々の暮らしに欠かせない役割をこなしている
確実で誠実で安定した頼りがいのある存在であることをイメージできるでしょう。

世界中の村のどこにでも
このような大きくて古ぼけていながら
現役として働いている老兵のような時計が存在する――と
誰しもが抱いている古い記憶を呼び起すことだけが
この詩には重要な役目であるかのようです。

「村の時計」は
連詩「或る夜の幻想」の構造を見れば分かるように
「彼」に関しての詩の一部でした。
「彼女」についての部分と「彼」についての部分で構成された詩の
「彼」の部分に属する詩でした。

それが分解されて
「彼」は独立しました。

この「彼」とは
私の頭の中に棲んでいた薄命そうなピエロ(幻影)
――のピエロのようであり(そのピエロを思う私のようであり)、
遠い彼方で夕陽にけぶっていたフィトル(号笛)の音のように繊弱なあれ(言葉なき歌)
――のようであり(それを待ち望んでいる詩人のようであり)、
月夜の晩の浜辺に落ちていたボタン(月夜の浜辺)
――のボタンのようであり(それを拾った僕=詩人のようであり)、
注意していないと見過ごしてしまいそうに存在感のうすいヒト・モノ・コトの仲間でした。

やがて「彼」は
「或る男の肖像」に姿形を変えますが
そこではすでに死んだ男として現われ
さらには「米子」の女性になり
最後には「蛙声」の蛙になります――。

村の時計
 
村の大きな時計は、
ひねもす働いてゐた

その字板(じいた)のペンキは
もう艶が消えてゐた

近寄つて見ると、
小さなひびが沢山にあるのだつた

それで夕陽が当つてさへか、
おとなしい色をしてゐた

時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴つた

 

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかつた

 

 

生きているうちに読んでおきたい名作たち12・「永訣の秋」女のわかれ補足篇・「或る男の肖像」の原形「或る夜の幻想」

その1

実は「或る男の肖像」には
元になった詩があります。
その詩は「或る夜の幻想」のタイトルで
「四季」の昭和12年(1937年)3月号に発表された短詩の連作詩でした。

「或る夜の幻想」ははじめ
1 彼女の部屋
2 村の時計
3 彼女
4 或る男の肖像
5 無題――幻滅は鋼《はがね》のいろ。
6 壁

――という6部仕立ての連詩だったのです。

「在りし日の歌」の編集過程で
このうちの「2」が「村の時計」として
「4」「5」「6」が「或る男の肖像」として
「永訣の秋」の中に収録されました。

元の詩の一部でありながら
独立した詩として仕立てたのが
「或る男の肖像」であり
「村の時計」です。

元の詩「或る夜の幻想」を読んでおきましょう。

或る夜の幻想
 
   1 彼女の部屋

彼女には
美しい洋服箪笥があつた
その箪笥は
かわたれどきの色をしてゐた

彼女には
書物や
其の他色々のものもあつた
が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかつたので
彼女の部屋には箪笥だけがあつた

  それで洋服箪笥の中は
  本でいつぱいだつた

   2 村の時計
 
村の大きな時計は、
ひねもす働いてゐた

その字板《じいた)のペンキは
もう艶が消えてゐた

近寄つて見ると、
小さなひびが沢山にあるのだつた

それで夕陽が当つてさへか、
おとなしい色をしてゐた

時を打つ前には、
ぜいぜいと鳴つた

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか
僕にも誰にも分らなかつた

   3 彼女

野原の一隅には杉林があつた。
なかの一本がわけても聳えてゐた。

或る日彼女はそれにのぼつた。
下りて来るのは大変なことだつた。

それでも彼女は、媚態を棄てなかつた。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであつた。

  夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
  背中にあつた。
  
   4 或る男の肖像

洋行帰りのその洒落者は、
齢をとつても髪に緑のポマードをつけてゐた。

夜毎喫茶店にあらはれて、
其処の主人と話してゐる様はあはれげであつた。

死んだと聞いては、
いつそうあはれであつた。

   5 無題
    ――幻滅は鋼《はがね》のいろ。

髪毛《かみげ》の艶《つや》と、ランプの金《きん》との夕まぐれ
庭に向つて、開け放たれた戸口から、
彼は戸外に出て行つた。

剃りたての、頚条《うなじ》も手頸《てくび》も
どこもかしこもそはそはと、
寒かつた。

開け放たれた戸口から
悔恨は、風と一緒に容赦なく
吹込んでゐた。

読書も、しむみりした恋も、
暖かいお茶も黄昏《たそがれ》の空とともに
風とともにもう其処にはなかつた。

   6 壁

彼女は
壁の中へ這入つてしまつた。
それで彼は独り、
部屋で卓子《テーブル》を拭いてゐた。

 

その2

6部仕立ての連詩「或る夜の幻想」の
4 或る男の肖像
5 無題――幻滅は鋼《はがね》のいろ。
6 壁
――を独立させた詩が「或る男の肖像」でした。

「或る夜の幻想」の中では
4、5、6のつながりが緊密で独立させるのが容易だったからでしょうか。

独立した詩として成立すると詩人が判断したからには
この詩は原形詩「或る夜の幻想」とは
別個の世界として読めなくてはなりません。

詩人はそれでも読めると見なし
発表したのですから
原形詩から離れて読んでみることに無理はないはずです。

もし原形詩がなんらかの役に立つならば
それはヒントになるくらいのことでしょう。
ヒントにとどめるのがベターでしょう。

その意味で「或る夜の幻想」を読んでみれば。
「彼女」を主格にした部分が
否応もなく目立つことに気づきます。

1 彼女の部屋
3 彼女
6 壁
――が「彼女」に関しての詩です。

よく見れば
そのほかの部分は「彼」に関する詩であることも見えてきます。

「彼女」を歌った部分で
「或る男の肖像」に入っていない「1 彼女の部屋」と「3 彼女」を読んでみましょう。

するとどちらもダダかシュールか象徴表現か
観念でとらえようとしてもとらえられない
謎の世界に迷い込みます。

「1 彼女の部屋」は
「洋服箪笥の中は本でいっぱいだった」というのですから
彼女は衣装よりも書物を好んだというような意味でよいとしても
「3 彼女」はお手上げになりそうなところですが――。

野原の一隅には杉林があった。
なかの一本がわけても聳えていた。
或る日彼女はそれにのぼった。
下りて来るのは大変なことだった。

 

――この中の「杉林」をフロイド流に読んでみれば
意外にあっさりと「男」を意味していそうなことが分かります。

その3

「杉林」が「男」のシンボリックな表現であるとすれば

野原の一隅には杉林があった。
なかの一本がわけても聳えていた。

或る日彼女はそれにのぼった。
下りて来るのは大変なことだった。

それでも彼女は、媚態を棄てなかった。
一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりであった。

  夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
  背中にあった。

――は、「彼女」の「男の経験」が描かれているらしいことが見えてきます。

そうとなればその経験とは
長谷川泰子が小林秀雄と暮らしはじめ
やがてその暮らしが破綻(はたん)して後も
女優への道を追い続けた生きざまがすぐに浮かんできます。

中原中也は長谷川泰子と小林秀雄との「奇怪な三角関係」の当事者なのですが
泰子の生きざまを「或る夜の幻想」で振り返ったのです。
それを「四季」に発表しましたが
丸ごとを「在りし日の歌」には収録しませんでした。

「或る夜の幻想」の
1 彼女の部屋
3 彼女
――の収録を憚(はばか)ったのはそれなりの理由があるはずで
それは「奇怪な三角関係」を
ここにきて露出するまでもないと考えたからでありますが
「永訣の秋」のほかの詩との統一性を考えたときに
詩そのものの完成度に不満があったためでしょう。

特に「3 彼女」の最終連
  夢の中で、彼女の臍《おへそ》は、
  背中にあった。
――は鮮烈なイメージばかりはありますが
もう一つ通じにくく
一人よがりであることを詩人自ら判定したからでしょう。

これをもフロイドを援用して読むことができないわけではありませんが
詩人はそういう詩を選びたくはなかったに違いありません。

こうして「或る夜の幻想」から
「或る男の肖像」が取り出されました。

結果は、贅肉のない
断片が生み出すリアリティーみたいなものが残って
想像力を駆り立てる名作になりました。

 

「或る男の肖像」と
同じような経緯で生まれたのが
「村の時計」です。

 

 

生きているうちに読んでおきたい名作たち10・「永訣の秋」女のわかれ・「あばずれ女の亭主が歌った」

その1

「ゆきてかえらぬ」の第7連には

 女たちは、げに慕わしいのではあったが、一度とて、会いに行こうと思わなかった。夢みるだけで沢山だった。

――と、「女たち」との付き合いが記され、

最終連には

 林の中には、世にも不思議な公園があって、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。

――と、「女や子供、男達」が公園を散歩する光景が記されますが
ここに登場する「女たち」や「女」に
長谷川泰子の面影(おもかげ)がないような感じがしませんか?

この詩「ゆきてかえらぬ」に
長谷川泰子の匂いがしないのは
街としての京都とか
京都に住んでいた期間(=京都時代)とのわかれを歌った(=客体化した)からで
「女のわかれ」を主題にしたものではなかったからです。

そのために
「女のわかれ」を歌った一群の詩が
「永訣の秋」の中に配置されます。

その一つが
「あばずれ女の亭主が歌った」で
ほかには「米子」があり
「或る男の肖像」や「村の時計」も
元を辿(たど)ると
「女のわかれ」のグループに入れておかしくない作品であることが見えだします。

「あばずれ女の亭主が歌った」は
もろに長谷川泰子と詩人を歌った詩ですが
ここにきて
詩人は自分を「おれ」と呼び
泰子を「おまえ」と呼び
「すれっからしの二人」と眺めやる距離感には
目から鱗(うろこ)が落ちたような的確さがあります。

泰子を
「あばずれ女」にしてしまい
自分をその「亭主」と見立てる眼(まなこ)は
「ゆきてかえらぬ」京都(時代)にはなかったもので
上京後にもなかったもので
晩年のここにきて自(おの)ずと獲得されたはずのものです。

 

詩人は
泰子との長い年月にわたる「恋愛」にわかれを告げ
「恋」というよりは「愛」の一つの形として
「あばずれ女とその亭主」という関係(呼び方)が
ベストであることを自然に感じ取ったのでした。

 

その2

「永訣の秋」の16篇の中で
長谷川泰子らしき女性が登場するのは
「あばずれ女の亭主が歌った」
「或る男の肖像」の2作品ですから
これが「泰子のわかれ」を歌った最終作品ということができるかもしれません。

中原中也は「生涯にわたる恋人・長谷川泰子」を
実にさまざまに表現していますが
「あばずれ女」と悪(あ)しざまに言うのは
二人が初めて京都で出会ったころに
「あれはおれの柿の葉13枚だ」と
知人に泰子のことを紹介していたのにやや似通っているようですが
詩作品の中で「あばずれ女」というには
その亭主である私=詩人が
その女と同等の位置にいなければならず
「亭主」になって歌った詩であるところを読まねばならないでしょう。

10数年も前に「柿の葉13枚」と
夜郎自大(やろうじだい)ぶって知人に語った女性と
「永訣の秋」に「亭主」の眼を通じて現われる「あばずれ女」とは
同じモデルの女性であったとしても
自ずと異なります。

どう異なるか――。

何にもまして、一筋縄(ひとすじなわ)ではいかない存在であることを
この10数年の間に詩人は知りました。
とうてい「柿の葉13枚」ではあり得ませんでした。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があって、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思うのだ。

――と浮気心も対等ですし、愛の気持ちをうるさく思うのも対等です。

通俗的な「女房と亭主」の関係ではあっても
その関係を「二人」と呼び
どっちかがどっちかの上位にある関係にしていません。

狸(たぬき)と狐(きつね)か、
化(ば)かし合いする世間一般の夫婦に見立てて
泰子との来し方を振り返り
わかれの歌を歌ったのです。

もはやそれを恋とは言わず
愛というほかにありません。

佳(よ)い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあう。

――と、これはまるで「愛の不可能」を歌っている
現代詩とかフランス映画かなにかの領域に入っているといえるものではありませんか。

あばずれ女の亭主が歌つた
 
おまへはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

おれもおまへを愛してる。前世から
さだまつてゐたことのやう。

そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合ふ
もう長年の習慣だ。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があつて、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思ふのだ。

佳い香水のかほりより、
病院の、あはい匂ひに慕ひよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあふ。

そしてあとでは得態(えたい)の知れない
悔の気持に浸るのだ。

あゝ、二人には浮気があつて、
それが真実《ほんと》を見えなくしちまう。

 

佳い香水のかほりより、
病院の、あはい匂ひに慕いよる。
 
※「新編中原中也全集」より。《》内のルビは原作者本人によるもの、( )内は角川全集編集委員
によるものです。

 

その3

「あばずれ女」と聞いただけで
アメリカン・ニューシネマ「俺たちに明日はない」のボニーを思い浮かべたり
「愛の不可能」や「愛の不毛」ならば
イタリア映画「情事」「太陽はひとりぼっち」「夜」のミケランジェロ・アントニオーニ監督作品や
フランス・ヌーベルバーグの「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」を思い出したりしますが
突飛なことでしょうか――。

おまえはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

おれもおまえを愛してる。前世から
さだまっていたことのよう。

そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合う
もう長年の習慣だ。

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があって、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思うのだ。

――というはじまりの5連あたりまではおおよそ当てはまりそうではないですか?

佳(よ)い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。

そこでいちばん親しい二人が、
時にいちばん憎みあう。

――というあたりに、「愛の不可能性」や「愛の不毛」を感じられるなら
この詩の現代性(コンテンポラリーな側面)を読み取ることもできませんか?

突飛ついでにもう一つを言ってしまえば
「あばずれ女の亭主が歌った」は
ラップやヒップホップのリズムに合わせて歌うと
とても分かりやすい叙情が見えてきませんか?

おまえはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

――を

♪おまえはおれを=7
♪愛してる=5
♪一度とて=5
♪おれを憎んだ=7
♪ためしはない=6

――と拍子を取ればいかにもラップ。

75調でありながら
破調を自然に駆使していますから
そこをラップの唱法でフォローして歌うとピタリとくるはずです。

以下も同様に、

♪おれもおまえを
♪愛してる。
♪前世から
♪さだまっていた
♪ことのよう。

♪そして二人の
♪魂は、
♪不識《しらず》に温和に
♪愛し合う
♪もう長年の
♪習慣だ。

♪それなのにまた
♪二人には、
♪ひどく浮気な
♪心があって、

 

♪いちばん自然な
♪愛の気持を、
♪時にうるさく
♪思うのだ。

 

その4

おまえはおれを愛してる、一度とて
おれを憎んだためしはない。

おれもおまえを愛してる。前世から
さだまっていたことのよう。

そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合う
もう長年の習慣だ。

――というはじまりが示す「二人」の相思相愛の関係は

それなのにまた二人には、
ひどく浮気な心があって、

いちばん自然な愛の気持を、
時にうるさく思うのだ。

――という「二人」の不安定な関係と
前後関係なのではなく同時的な関係です。

○○であって、だから○○であるという前後を示すのではなく
○○であり、○○でもあるという同時的関係を示しています。

完璧な愛の関係が
すでに愛の不可能な関係を孕(はら)んでいるということを
この詩は歌っているのです。
いちばん親しい二人が時にいちばん憎みあうのです

そしてこの詩を歌っているのは「亭主」(=詩人)の方です。
「亭主」は

佳(よ)い香水のかおりより、
病院の、あわい匂いに慕いよる。

――と愛憎が表裏になっている関係の理由を歌います。

相思相愛であることに満足できない浮気な心を
香水の香りに満足しないで
病院の匂いに引かれてしまうからと自ら分析して見せるのです。

この「病院のあわい匂い」が
読みどころです。
この詩の味わいどころです。

病院の廊下に漂う消毒薬のにおいを好む習性が
二人にはあるのだろうかなどと考えてしまいそうですが
きっとそういうことではないでしょう。
日向より日蔭を好む志向ということでもないし。

自然な愛の気持ちをうるさく思う浮気な心が
一時的刹那的にであれ
表と裏の関係のように必ず出現してしまう
「病院のあわい匂い」についつい引かれていく
いかんともしがたい愛。

愛し合っていてこそ
「病院のあわい匂い」を嗅(か)いでは
次から次に生まれてくる憎しみを弄(もてあそ)ぶ。
そんじょそこらにいる男と女の幸せと不幸とは
いまにも「神のいない世界の愛」を歌っているようにさえ思えてきます。

そうであるからその後はお決まりのように
得体の知れない後悔に襲われ
絶えず不安にさいなまれてもいる女と男――。

 

全行が現在形で書かれ
タイトルだけが過去形であるところに
おやっと思わせられますが
永訣の歌であることに変わりはありません。

 

 

生きているうちに読んでおきたい名作たち9・「永訣の秋」京都のわかれ・「ゆきてかえらぬ」

その1

「正午」が「東京のわかれ」であれば
「ゆきてかえらぬ」は「京都のわかれ」と読むことができます。
「永訣の秋」に
二つの「街へのわかれ」は不可欠でした。
(※原詩は文語「ゆきてかへらぬ」ですが、ここでは口語表示にしました。編者。)

「大正十二年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校する。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり」

――と後に「詩的履歴書」に京都の生活のはじまりは記されますが
この時からおよそ2年間が
中原中也の京都時代です。

「ゆきてかえらぬ」は
サブタイトルに「京都」とあるように
この京都時代を10余年後に回想する詩ですが
「永訣の秋」に収められて
自ずと回想を超えた意味を持つことは、

僕は此の世の果てにゐた。

――という、ただならぬ1行で
「永訣の秋」の冒頭詩がはじめられることで
すぐにもに理解できます。

このフレーズもどこかで聞いた覚えがあるので記憶をたどれば
「少年時」に思いいたるのは容易なことです。

地平の果に蒸気が立って、
世の亡ぶ、兆のようだった。
(第2連)

私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めていた……
嗚呼、生きていた、私は生きていた!
(最終連)

 

――が、すぐさま浮かんできます。

 

その2

 僕は此の世の果てにいた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺っていた。

――という「ゆきてかえらぬ」の冒頭行は
そこが、地の果てでありながら温暖で花々が風に揺らいでいる
背反するするような場所であったことを歌います。

地の果てとは、
まだ16歳になる前にやって来た京都との距離感を示すものであっても
僻地(へきち)とか流刑地とかを指しているものではありません。

このあたりは
もろにランボーの詩の影響ですが
孤独な感情とか疎外された意識とかを物語っていることに
偽(いつわ)りがあるわけでもありません。

詩人は寄宿舎に入ったわけでもなく
遠く離れた生地を後に
中学生でよくも一人暮らしをはじめられたものと感心しますが
落第した現実は
きっと想像以上に深刻なものがあって
「地の果て」という意識が大げさではなかった時間を経験したのでしょう。

にもかかわらず
温暖な陽の光と風にそよぐ花々があったのですから
地の果ては結構過ごしやすい土地だった――。

実際の暮らしはどうだったか。

第2連は街の風景
木橋、埃り、ポスト、風車を付けた乳母車……とメタファーで描写します。

第3連は街の中の詩人
街に住む人に親類縁者がいるわけでもなく
風見の上の空ばかり見ている孤独なときを「仕事」と言っています。

第4連は
孤独でありながら退屈ばかりではなく
空気には「蜜」があったし
飲み食い暮らすよい場所だったと楽しかった思い出へ。

第5、6連はその中身。
煙草を吸うにも自分を律し
布団もなく、歯ブラシ1本、本1冊という質素さ。

第7連は女たちとの関係。
慕わしかったがみだりに会うことはなかった。

 名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。

――と第8連では
暮らしの実態を総括します。

ここいらは

私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めていた……
嗚呼、生きていた、私は生きていた!

――という「少年時」とピタリと対応しています。

(つづく)

ゆきてかへらぬ
      ――京 都――

 僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺つてゐた。

 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々《あかあか》と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。

 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者《みより》なく、風信機《かざみ》の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。

 さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食すに適してゐた。

 煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。

 さてわが親しき所有品《もちもの》は、タオル一本。枕は持つていたとはいえ、布団ときたらば影だになく、歯刷子《はぶらし》くらゐは持つてもいたが、たつた一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。

 女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会いに行かうと思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。

 名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴つてゐた。

        *           *
              *

 林の中には、世にも不思議な公園があつて、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
 さてその夜には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いてゐた。

 

 
※「新編中原中也全集」より。《》で示したルビは、原作者本人によるものです。

 

その2

「ゆきてかえらぬ」の第8連で

 名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。

――と京都での一人暮らしの実態を総括的に回顧した詩人は
そこで終ったはずの詩に加えるようにして
最終連を記しました。

 林の中には、世にも不思議な公園があって、不気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。
 さてその空には銀色に、蜘蛛《くも》の巣が光り輝いていた。

――それがこの3行です。

第1連から第8連までを
簡約にしたかのような詩句です。

「林」とは、京都の街そのものでありましょう。
「公園」とは、近辺の知人友人隣人たちとの交流圏のことでありましょう。

最終行「さて」以下のフレーズに
この詩の最大のポイントがあります。

空に、銀色に光り輝く、蜘蛛の巣。

蜘蛛の巣があり
蜘蛛のイメージは見えませんが
巣の奥に蜘蛛は潜んでいる。

ひっそりとしていて
確固としていて
不気味で
得体の知れない
恐ろしいような
俗から超然として
しぶとい生命力のある
魔物のような
人を魅惑する存在――。

不気味なほどにもにこやかな
女や子供、男達散歩していて
僕に分らぬ言語を話し
僕に分らぬ感情を、表情していた
世にも不思議な公園の中にいた
孤絶した詩人が発見したものが
銀色に輝く蜘蛛の巣でした。

 

外側から蜘蛛の巣を見ただけで
その中の世界がどんなものか
明確に見たわけではありませんが
目の覚めるような銀色の輝きに
詩人は「生」そのものを見たに違いありません。

 

その3

 名状しがたい何物かが、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸に高鳴っていた。

――という「ゆきてかえらぬ」の第8連と

私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めていた……
嗚呼、生きていた、私は生きていた!

――という「少年時」の最終連は
同じことの異なる表現といってよいほどに対応しているのですが
銀色に輝く蜘蛛の巣は
ギロギロする目がようやく探り当てたかのような生そのものでありながら
ほかの言葉で言ってしまうのは憚(はばか)られるもの。

ズバリ言ってしまえば
詩の道。

魔性(ましょう)と言えば過剰だが
生命の原型と言えばおとなし過ぎる
文学の道に魅惑(みわく)されたということでしょうか。

それに向けて高まり逸る気持ちを
いまや距離をおいて眺めている
遠い日への回顧なのです。

「ゆきてかえらぬ」は
公刊された自選詩集である「山羊の歌」「在りし日の歌」を通じて
珍しい散文詩ですが
その「センテンス」は過去形「た」で終わっています。

果てにいた。
揺っていた。
停っていた。
仕事であった。
適していた。
吹かさなかった。
ものだった。
思わなかった。
沢山だった。
高鳴っていた。
表情していた。
光り輝いていた。

――と「たたたた」と動詞の過去形か過去を表わす助動詞で終始します。

銀色の蜘蛛の巣が光り輝いていたのも
過去のことなのです。

「少年時」の少年が10歳ほどの年齢であるとすれば20年、
「ゆきてかえらぬ」の京都の暮らしのはじめから15年。

みんな遠い日のことになり
もう帰ってくることはない。

 

そうした過去をノスタルジーに流さないで
一歩距離をおいて見ようとすれば
(対象化し客体化しようとすれば)
散文詩にするしかなかったということになります。

 

生きているうちに読んでおきたい名作たち8・「永訣の秋」の街へのわかれ・「正午」

その1

「月の光」は
お庭の隅にも芝生にも
月光が満遍(まんべん)なく降り注(そそ)いで
真昼のような「影のない世界」を歌います。

死んだ子が隠れている草叢でさへ
月の光が照っていては丸見えで
その子どもに「影がない」感じが
妙に生々しい非現実感――こんなことってあるのか!――を漂わせます。

太陽が南中し
モノの影が極小になる時刻=正午と
月光が影のない世界をつくりだす「月の光」の詩世界との連続を
中原中也が意識していたとは断言できませんが
「正午 丸ビル風景」は
「春日狂想」の前にあって
「永訣の秋」の最終詩「蛙声」へ続く位置に配置されている口語詩です。

「在りし日の歌」の末尾から3番目にあり
「月の光 その二」から4作おいて
この詩が現われます。

詩集「在りし日の歌」に
「在りし日の歌」と「永訣の秋」の章が立てられたからには
「永訣の秋」の章に格別の思いが込められたことを想像できますが
それはどのようなことだったでしょう――。

「永訣の秋」の「秋」は「秋=あき」ではなく「秋=とき」であろう

季節としての秋というより
「わかれのその時」の「とき」のニュアンスだろう

ならば
「正午 丸ビル風景」も
「わかれのとき」を刻印した詩であろう

――と、もう一度読み返してみたくなる名作の一つです。

「永訣の秋」の冒頭には
「ゆきてかへらぬ」という
「街へのわかれ」の詩がすでにあり
そこでは「京都へのわかれ」が歌われました。

「東京へのわかれ」が
この詩「正午 丸ビル風景」であるだろう

――という眼(まなざし)に沿って読んでみましょう。

(つづく)

正 午
       丸ビル風景
  
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休(ひるやす)み、ぷらりぷらりと手を振つて
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ、出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな
 
※「新編中原中也全集」より。( )で示したルビは、全集編集員会によるものです。

「新字・新かな」表記を以下に掲出しておきます。

その2

さらば東京、と記すのは
「在りし日の歌」の後記ですが
「正午 丸ビル風景」に表(おもて)立っていなくても
そこに東京へのわかれが刻まれていることは
「在りし日の歌」中の「永訣の秋」に収められていることで
知ることができます。
それ以外に知る手掛かりはありません。

読みようによっては
ほかの読み方もできるこの詩を
「街へのわかれ」という眼(まなざし)で読んでみたいのは
こういう理由です。

声に出してみればよくわかるのですが
この詩も
ルフランと57、55、77のリズムでグイグイと押し
使われる言葉もほぼ日常語です。

おや、と思える言葉遣いは
第8行の

なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな

――で、これは、
酒なくてなんのおのれが桜かな、という狂句か川柳みたいなのを流用しているところ。

小唄・端唄、川柳、ことわざなどの慣用表現に
新しい空気を吹き込む詩法は
中原中也の得意技です。

風化し手垢にまみれたような言葉を意識的に使い
言葉をよみがえらせてしまうマジックは
単に慣用表現ばかりでなく
日常語全般に向けられました。

この詩の他の行に使われている言葉も
ほとんどが日常語です。

よく読めば
最終行

空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

――の下句だけが古語(文語)です。

ルフランも

あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ、出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口

――とあり、
これを数えれば、全12行のうち8行もあります。

この中でも

サイレンだ、サイレンだサイレンだ
出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
桜かな、桜かな桜かな
サイレンだ、サイレンだサイレンだ
出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

――と上句の末尾を受けて下句で繰り返されるルフランが6行あります。

上句にも

ぞろぞろぞろぞろ
あとからあとから
ぞろぞろぞろぞろ

――とオノマトペを含んだルフランが現われ、

ほかの行にも、

ぷらりぷらり、薄曇り、薄曇り、響き響きて

――と繰り返しが見られます。

これらのルフランは
調子を取り、語呂を合わせるだけに用いられているようでありながら
そう考えるのはとんでもない間違いで
これを無くしてしまったら
詩は生命を落すようなことになってしまう重要な役割をもっています。

「一つのメルヘン」の「さらさら」と同じように
血であり肉であり心臓でもあるようなパーツになっているのです。

その3

かつて救急車や消防車の警笛は手動で
目的地へ向かってウーウーウーという音を出しながら走るのが
東京の町でも見られたものです。
防水頭巾を被った消防士が
腕を旋回させて警笛の音を出す姿が車上にありました。

小学校や中学校などの正午を告げるサイレンと
それらの音色は同じものだった記憶があります。

中原中也が
東京駅にやって来たときの行き帰りに
丸の内のビルを眺めたことは何度かあったことでしょうが
ビルの屋上あたりから発するサイレンを聞いたのは
そう多くあったことではないでしょう。

手紙を頻繁に書く習慣があった詩人のことですから
中央郵便局をしばしば利用したことが想像できますから
「正午」のサイレンは
東京駅を降りたところのどこかで聞いたものかなどと
想像の羽根は広がっていきます。

大きなビルの真ッ黒い、小ッちゃな小ッちゃな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立っている
ひょんな眼付で見上げても、眼を落としても……

――の3行からは
やや遠目でビルを眺めている角度が感じられますから
東京駅に向かう道での振り向きざまの光景なのか。

見上げた空は広々としていて
桜は満開をとうに越えている時期。

もう見ることはないかもしれない風景……。

ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

――と、なぜ、ああ、なのか?
ああ、と感動詞を使うほどサイレンの音になぜ感動しなければならないか?

大正14年に上京して以来10有余年。
街そのものを嫌いになったわけではない詩人の眼に
丸の内のビルから吐き出されるかのように出てくるサラリーマンの姿は
嫌悪の対象として映ったのではなく
懐かしくも愛(いと)おしいものであったのではないか。

やっと職務を解放された勢いで
プラーリプラーリ手を振っちゃって
お天気の具合を見上げる眼つきといい
目を落して地面の具合を見やる物腰といい

ああ! と感動せずにいられようか!

酒がなくて
どうして桜花を愛(め)でられようか!

詩人は
二度と訪れることのないかもしれない丸ビルのサラリーマンたちに
ほとんどシンクロしちゃって、
サイレンの音色にもシンクロしちゃって、
風に乗って消えて行っちゃいそうになっています。

影ひとつない正午です。

その4

「正午」の第8行

なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな

――は、まるで詩人が見ている月給取りの呟(つぶや)きであるかのようです。

この行に来て
月給取りと詩人はオーバーラップし
心理的にもシンクロし
桜かな、桜かな、と唱和しているかのようです。

詩人のこの視線をどこかで見た覚えがあって
それはなにかと辿(たど)ってみれば

その脣(くちびる)は胠(ひら)ききって
その心は何か悲しい。
頭が暗い土塊(つちくれ)になって、
ただもうラアラア唱ってゆくのだ。

――という「都会の夏の夜」の一節でした。

この詩にある「何か悲しい」に似て
「正午」の詩人は
ビルからゾロゾロゾロゾロ出てくる月給取りたちを
「愛しい=かなしい」眼で見ていると感じられてなりません。

正午のサイレンを聞くサラリーマンは
解放された小鳥さながら
ぷらーりぷらーりと脱力した腕を振って
空を見上げたり地面を見たり
この世の春を楽しんでいるかのようでさえあります。

その心を詩人は
この「とき」になって理解したのです!

この「とき」、月給取りたちが
なんのおのれが桜かなと歌うのが聞えてきました。

では、詩人にもサイレンは
解放を告げる音色として聞こえていたのでしょうか?

一面、そういう音色でもあったはずですが
一面、その反対でもあったはずです。

「わかれ」は
悲喜こもごも。

危急を告げる音色でもあり
胸を締めつける音色でもあり
肩の荷が下りる音色でもあった

しかし、いま
万感の思いはサイレンの音色とともに
丸の内ビルディングの空の彼方(かなた)へ
木霊(こだま)しつつ消えていきます。

 

生きているうちに読んでおきたい名作たち7・「永訣の秋」の月光詩群・真昼のような「月の光」

その1

「幻影」でピエロが浴びていた月光は
「私の頭の中」にあるために
スポット・ライトを浴びているのに似て、

しろじろと身に月光を浴び、
あやしくもあかるい霧の中で、
かすかな姿態をゆるやかに動かし

――という距離感があり、

「月夜の浜辺」の月光は
波打際とボタンとを浮かびあがらせる舞台装置(=背景)のようですが
「月の光」の月光は
あたりを皓々と照らします。

月の光が照っていた
月の光が照っていた

――と、まるで真昼の陽光のように
満遍(まんべん)なく庭を照らし出しているのです。

春の夜のことだから
靄(もや)がかかっているとはいいながら
庭の隅も芝生も境なく
照らしているのです。

その庭の隅にある草叢には
死んだ児が隠れているのですが
隠れた格好をしているだけで
丸見えの感じです。

その同じ舞台の中央部の
月の光に照らし出された芝生に
突如現われるのがチルシスとアマント。

ギターを持ってきているが
芝生のうえに投げっぱなしにしてあるばかり――。

死んだ子どもと
チルシスとアマントが
一方は隅っこに
一方は真ん中に
ともに同じ舞台に登場している
不可思議な世界が
どこかリアルでどこか夢のようなのは
なぜなのでしょうか?

月の光 その一
 
月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

  お庭の隅の草叢《くさむら》に
  隠れているのは死んだ児だ

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

ギタアを持つては来てゐるが
おつぽり出してあるばかり

  月の光が照つてゐた
  月の光が照つてゐた
 

月の光 その二
 
おゝチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる

ほんに今夜は春の宵
なまあつたかい靄(もや)もある

月の光に照らされて
庭のベンチの上にゐる

ギタアがそばにはあるけれど
いつかう弾き出しさうもない

芝生のむかふは森でして
とても黒々してゐます

おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間

森の中では死んだ子が
蛍のやうに蹲(しやが)んでる

※「新編中原中也全集」より。《 》は原作者、( )は全集編集委員会によるルビです。

その2

死んだ子どもが隠れていたり(その一)
蛍のように蹲(しゃが)んでいたり(その二)する一方で
チルシスとアマントが
ギターをほっぽりだしたままコソコソ話している庭
――という舞台装置が不可思議な感じですが
いつしかその不可思議な詩世界に読者は入り込んでいます。

ここは庭です。
詩人の庭なのでしょう。

「月の光」に登場する
チルシスとアマントは
ポール・ベルレーヌの第2詩集とされる「艶(なまめ)かしき宴」に出てくる
一種のトリックスターですが
中原中也はなぜまたここにこれらの「いたずら者」を呼び出したのでしょうか?

チルシスもアマントも
なんとなく元気がなく
今夜ばかりは得意のギターを弾く気がしないらしく
ひそひそ話しをするだけです。

死んだ子へと接近するわけでもなく
チルシスとアマントは
舞台中央の芝生にとどまっています。

ああ、子どもにギターを弾いてやってくれないか
――という詩人の声が
月光下の沈黙の世界から聞えてくるかのようです。

「その一」と「その二」はほとんど同じ内容で
表現を考えているうちに
捨てるに捨てられない作品ができてしまって
二つの詩にしたことが推測できますが
これはあくまで推測です。

違いをあえて言えば
「その一」にはルフランがあり
「その二」にはルフランがない、ということほどのことでしょうか。

「永訣の秋」で「月の光」は
「月夜の浜辺」「また来ん春……」につづいて配置され
「冬の長門峡」や「春日狂想」が続いていますが
これらの作品が生まれた頃には
愛息文也の死という経験があったことを
もはや知らないで読むことはできません。

 

「月の光」の不可思議な世界が
妙にリアルで妙に幻のようなのは
このあたりのところから生じています。

 

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