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中原中也に出会った詩人たち

2014/02/07

中原中也に出会った詩人たち・ひとまず終りに

作品が発表された、その時点その時点で
一般読者の中に中原中也と出会った人々が生まれてきました。
出会った人とは
言い方を変えれば、一人のファンになったということでもあります。
一般読者ではなく
プロフェショナルの、学者、詩人、批評家の出会いも
各所に記述されました。

黒田三郎(1919~1980)
平井啓之(1921~1992)
中村稔(1927~)
秋山駿(1930~)
大岡信(1931~)
北川透(1935~)
長田弘(1939~)
清水昶(1940~2011)

これらの人々は
中原中也ファンのラインアップといって過言ではありません。

格別に意識したわけではないのですが
中原中也とのさまざまな出会いを
同時代者(中原中也と面識のある無しに関係なく)ではなく
中原中也没後に詩作品を通じて出会った人の発言を
手近にある書物をめくってランダムにひろっていると
このようになりました。

ほかに、
「わたしは、このようにして中原中也と出会った」と
直接的に表現しないプロフェショナルがあまた存在します。
作品論・作品批評や詩的言語を通じてしか
個人的経験、私的体験としての出会いを記述しない傾向が普通なのです。

ですから、これらはほんの一部の例です。
「派」とか「世代」とかと見出しをつけましたが
それも便宜的なものです。

そもそも、世代によって
中原中也との出会いが異なるのかどうかもわかりませんし
特徴があるのかどうかもわかりません。

仮に、詩を読む行為が
世代別に特徴をもつものであったとしても
それは、傾向に過ぎず
個々の出会いは個々以外のものではないに違いありません。

にもかかわらず
詩の読まれ方には
時代の空気や状況などの
個々の体験以外のものが反映されていることも
見てきた通りです。

戦無派とか団塊世代とかの戦後生まれの
中原中也との出会いはどのようだったのでしょうか?

新人類といわれた世代は?
団塊ジュニアたちは?
ゼロ年代は?
……

そして
現代の中学生たちは
どのように中原中也と出会うのでしょうか?
出会っているのでしょうか?

とりわけ
インターネットとともに育っている世代が
中原中也とどのように出会うのかが
興味深いものです。

 

内向派が読んだ中原中也・秋山駿の場合

私が初めて中原中也に出会ったのは、昭和22年夏、創元社版の『中原中也全集』によってである。

――と、「出会い」という言葉を使って、
明確に中原中也を読みはじめた体験を語るのは
「知れざる炎 評伝中原中也」の著者・秋山駿です。

同書で秋山駿は続けて記します。

その頃、敗戦時の少年として、たった一人きりの生存という生に直面させられ、だからといってその不安な意識に映ずる自分も遠く、世界も遠く、生存は不可解であり、一人の人間であるということが何を意味するかも知らぬ者にとっては、彼の言葉はずいぶん優しく身に染みたが、本当は、詩集を求めたのはそういう良い動機からではなかった。

どんな詩人なのかと思って頁をパラパラめくっているうちに、年譜に「文学に耽りて落第す」とあるのを見出して、それで求めてきたのだ。そのとき私も、自分の全局面に亙ってすべてを怠けようと思っていた。

創元社版「中原中也全集」は
戦後すぐに大岡昇平編集で出された
全集という名がついた初めてのもので
簡易なものながら年譜付きでした。
この年譜の中に
略自伝である「詩的履歴書」にある
「文学に耽りて落第す」という一節が記されているのでしょう。
秋山駿はこれを読んで心に留めたのでした。

中原中也の詩は
昭和9年の「山羊の歌」、
昭和12年の「在りし日の歌」の自選詩集をはじめ
諸々の雑誌・新聞などに発表した作品群で
一般の読者にも読めるものでしたが、
没後にも、
昭和14年「現代詩集Ⅰ」に29篇、
昭和15年「昭和詩抄」に5篇、
昭和16年「歴程詩集」に7篇、
昭和17年「日本海詩集」に3篇といった具合に収録されるなど
非常時下にも細々とながら着実に紹介(評価)され続け
昭和22年に、大岡昇平編集の全集発行に至るまで
読者が維持されてきたという歴史があります。

秋山駿は1930年生まれですから
これまでここで取り上げてきたケースの中では
大岡信と中村稔の間に生まれた世代で
終戦時点でミドル・ティーンになっていますから
戦中世代といっておかしくはないのですが
「内部の人間」などの著作活動から
内向派世代ということにしておきましょう。

(つづく)

「詩的履歴書」は「我が詩観」と題する未発表評論の末尾に書かれたものです。
全文を引用しておきます。

詩的履歴書。――大正4年の初め頃だつたか終頃であつたか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなつた弟を歌つたのが抑々(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行(まさつら)が御暇乞(おいとまごひ)の所、「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。
大正7年、詩の好きな教生に遇(あ)ふ。恩師なり。その頃地方の新聞に短歌欄あり、短歌を投書す。
大正9年、露西亜詩人ベールィの作を雑誌で見かけて破格語法なぞといふことは、随分先から行なはれてゐることなんだなと安心す。
大正10年友人と「末黒野」なる歌集を印刷する。少しは売れた。

大正12年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。中の数篇に感激。
大正13年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ。大正14年の11月に死んだ。懐かしく思ふ。
同年秋詩の宣言を書く。「人間が不幸になつたのは、最初の反省が不可なかつたのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。然し、不可なかつたにしろ、政治的動物になるにはなつちまつたんだ。私とは、つまり、そのなるにはなつちまつたことを、決して咎めはしない悲嘆者なんだ。」といふのがその書き出しである。

大正14年、小林に紹介さる。
大正14年8月頃、いよいよ詩を専心しようと大体決まる。
大正15年5月、「朝の歌」を書く。7月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた14行書くために、こんなに手数がかゝるのではとガツカリす。

昭和2年春、河上に紹介さる。その頃アテネに通ふ。
同年11月、諸井三郎を訪ぬ。
昭和3年、父を失ふ。ウソついて日大に行ってるとて実は行つてなかつたのが母に知れる。母心配す。然しこつちは寧(むし)ろウソが明白にされたので過去三ケ年半の可なり辛(つら)自責感を去る。
同年5月、「朝の歌」及「臨終」諸井三郎の作曲にて発表さる。
昭和4年。同人雑誌「白痴群」出す。
昭和5年、6号が出た後廃刊となる。以後雌伏。

昭和7年、「四季」第二輯(しふ)夏号に詩3篇を掲載。
昭和8年5月、偶然のことより文芸雑誌「紀元」同人となる。
同年12月、結婚。
昭和9年4月、「紀元」脱退。
昭和9年12月、「ランボウ学校時代の詩」を三笠書房より刊行。
昭和10年6月、ジイド全集に「暦」を訳す。
同年10月、男児を得。
同年12月、「山羊の歌」刊行。
昭和11年6月、「ランボウ詩抄」(山本文庫)刊行。

大正4年より現今迄の制作詩篇約700。内500破棄。
大正12年より昭和8年迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の12時頃迄歩くなり。

※「新編中原中也全集」第4巻・評論・小説より。
※読みやすくするため、改行(行空き)を加え、洋数字に変更してあります。編者。

2014/02/06

全共闘世代が読んだ中原中也・清水昶の場合

わたしは中原中也のあまり良い読者ではない。好きになれなかった。中也の好きなひとびとは熱病のように彼の作品に憑かれるらしいが、たとえば「汚れつちまつた悲しみに」のような作品にみられる教科書的な感傷性をどうにもわたしには受け容れる余地がなかったのである。

――と、「アウトサイダーの悲哀・中原中也試論」を書き出すのは
1940年生まれの詩人・清水昶(しみず・あきら)です。

2011年に亡くなりましたが
学生の頃、全共闘運動の現場にいたことがよく知られている詩人で
終戦時、学齢に達していない世代です。

長田弘より1歳若いということですから
幼少期に焼け跡で遊んだという意味では同じですが
詩を発信しはじめたのが学生時代ということで
全共闘世代の詩人ということにしておきます。

清水昶は、

中也には朔太郎のような病的にとぎすまされた感性にも静雄のような浪漫的なはげしさしも光太郎のような剛直さにも、どこか欠けていて、妙に才気走った言葉への感覚が宙に浮いたまま流れているようで、そんな中也の作品から永く遠ざけていた。

――と先の文に続けた後で、
「しかしながら中也に関して一度だけ、びっくりさせられたことがある。」として、

60年代前半、京都で学生であった頃、暇潰しに裕次郎と浅岡ルリ子のでる日活の恋愛映画をみていたら、その映画に突然、中也の作品「骨」が登場したのである。たしか裕次郎がピアノを弾きながら歌っていた。裕次郎と中也の唐突な結びつき、それに中也の詩が「唄」になるということは、わたしには驚きであった。

後にレコード化されたので、わざわざ、わたしは買い求めたが、大衆娯楽映画のなかに、あえて中也の詩を引用する熱烈な「中也党」のシナリオライターがいるということは、わたしに中也の詩の読者への根強い浸透力を、あらためて感じさせたのである。

――と記します。

60年代前半に、日活の恋愛映画を見ていたというのは
その後の60年代後半に、高倉健の「網走番外地シリーズ」などを見て
学生運動の合間にエア抜きをするような流れの中にあったことを示していて
いかにも全共闘世代らしいですね。

全共闘世代はビートルズ世代ともいえるし、
雑多な関心、自由な暮らしぶり、多様な文化の洗礼を受けている……などの特徴がありますから
中原中也との邂逅(かいこう)は必然であったように見えます。

その詩人は、
裕次郎の歌唱に促されて「骨」を発見したといっているようですが
これは発見というよりは
それまで気づかないでいたものの再発見
といったほうが近い出会いだったに違いありません。

そこのところを清水は、

永くわたしを中也の作品から遠ざけていたものは、いわば、中也に対する近親憎悪のような感覚であったと、いまのわたしは考えている。

――と述べています。

いま、というのは
「アウトサイダーの悲哀」が初出した
「ユリイカ」1974年9月号の時点を指します。

石原裕次郎の歌う「骨」が
You Tubeで聴けます。

石原裕次郎の「骨」


 骨
ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖(さき)。

それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。

生きてゐた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐つてゐたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある、
と思へばなんとも可笑(をか)しい。

ホラホラ、これが僕の骨——
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?

故郷(ふるさと)の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて、
見てゐるのは、——僕?
恰度(ちやうど)立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。

※「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。

焼け跡世代が読んだ中原中也・長田弘の場合

その1

長田弘は1939年生まれですから
北川透(1935~)よりもさらに4年ほど若い世代になります。
いわゆる「焼け跡世代」に属しますが
中原中也を30歳を過ぎて初めて読み
30歳以前に初めて中原中也を読んだ人との違いを強く意識する詩人です。

わたしは、戦後現代詩を読むことからはじめて、詩への具体的な希望とかかわりを否応なく択びとってきたひとりだ。つまり、中原中也についていえば、わたしは中原中也から詩に‘入学’したのではなかったから、中原中也を‘卒業’することがなかった。

そのためにかえって、かつてはおれも中原はよく読んだものだよ、というふうな口ぶりで中原中也を‘卒業’したもののように語る世俗の前垂れのかかった文章に、わたしはいまどのようにもなじむことができない。

そして実際わたしは、ひとがその青春期を脱けだすことによって中原の詩を‘卒業’してゆくことを自称するのとすれちがうように、むしろじぶんじしんの青春との訣れにおいてはじめて中原中也の詩を読んだのであった。

角川書店版「中原中也全集」(いわゆる旧全集)の「月報Ⅵ」にこのように記された
自分自身の青春との訣れ「において」というのは
「の中で」や「と共に」というのよりも
もっと密接な関係を示していて
青春との訣別「と同時に起こった」
個人的体験であったことを示しているようです。

長田弘は
以上の記述に続けます。

わたしの場合、青春との訣れ(もしそう名ざせるものがあれば、としてだが)は、わたしたちの初めての子どもが生まれるまえに死んでしまうという、ごくささやかではあるが、きついできごとのかたちをとった。

この個人的な体験のにがい重量をとにもかくにもじぶんたちだけで息をつめるようにしてじっともちこたえねばならなかったときに、わたしは、ずっと以前に吉野弘の文章のなかでみつけたある短かい詩のフレーズを、そのときじぶんにもっともひつような労働歌のフレーズのように突然おもいだしたのだ。中原中也の「月の光」一、二である。

「死児の歌」と題されたこの文の由来が
ここにきて明らかになります。

「月報Ⅵ」の発行日は
昭和46年(1971年)5月20日です。

 *

 月の光 その一

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

  お庭の隅の草叢(くさむら)に
  隠れてゐるのは死んだ児だ

月の光が照つてゐた
月の光が照つてゐた

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

ギタアを持つては来てゐるが
おつぽり出してあるばかり

  月の光が照つてゐた
  月の光が照つてゐた

 *

 月の光 その二

おゝチルシスとアマントが
庭に出て来て遊んでる

ほんに今夜は春の宵(よひ)
なまあつたかい靄(もや)もある

月の光に照らされて
庭のベンチの上にゐる

ギタアがそばにはあるけれど
いつかう弾き出しさうもない

芝生のむかふは森でして
とても黒々してゐます

おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間

森の中では死んだ子が
蛍のやうに蹲(しやが)んでる

※「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。

その2

1939年生まれの詩人・長田弘が
中原中也の「月の光」(一、二)に出会ったのは
同じ詩人である吉野弘(1926~)が書いた文章の中でのことでした。

それがどのような文章だったか
タイトルも書かれていないのですが
「わたしたちの初めての子どもが生まれるまえに死んでしまうという」
「きついできごと」の最中のことで
「そのときじぶんにもっともひつような労働歌のフレーズのように」
思い出したのが吉野弘が案内していた「月の光」だったそうです。

吉野弘がどのようなことを書いていたのかは問題ではなく
中原中也の「月の光」が
「きついできごと」の中でビリビリと感じ取られたということなのでしょう。

おゝチルシスとアマントが
こそこそ話してゐる間

森の中では死んだ子が
蛍(ほたる)のやうに蹲(しやが)んでる

「月の光 その二」の最終の2連を引いて
長田弘は

こうした詩がわたしにはまず労働歌のようにやってきたということがわたしにとっての中原中也の詩のはじまりはあり、それがどれほど唐突にまた奇矯にみえようと、このようにはじまったわたしなりの中原の詩とのつきあいかたというものを、わたしは大事にしてゆきたいとおもう。

――と述べています。
そして、次のように続けます。

中原の詩における「死児」のイメージはまさに独特のものであるが、それは究極のところ、わたしたち生きているものの言葉が、わたしたちじしんの死児たちが「蛍の蹲んでるとても黒々とした森」を背後にもつべき言葉であることを、鋭く告知する原像なのではないだろうか?

――と「?」をつけて、投げかけます。

そして、このような問いに
自らこたえるかのように

ようやくいま、中原中也の詩を賑わしい伝説も惑いにみちた陶酔もなしに読みはじめたばかりだ。

――と、中原中也の世界の入り口に立ったことを述べて、この文章を結んでいます。

こうした出会いを
稀有なものといえるでしょうか?

中原中也との出会いの多くは
このように個人的な体験を通じて
偶然のように
必然のように行われて
普通であるとはいえないでしょうか?

「賑わしい伝説も惑いにみちた陶酔」もなくというのは
「まっさらで」とか「ゼロの状態で」というものではなく
「偏見なしに」くらいの意味で受け取るとよく
人はいつしか詩を読みはじめることがある、ということを示すものなのでしょう。

 

 

戦中世代が読んだ中原中也・北川透の場合

その1

平井啓之(1921~1992)
大岡信(1931~)
中村稔(1927~)
黒田三郎(1919~1980)
――と、戦中派の中原中也との出会い方を見てきました。

これらの詩人や学者は
中原中也が生きていた時代に生まれてはいたものの
実際に面識のあった「同時代者」ではなく
詩作品を通じて出会った人々です。
中原中也の詩を読んで
肯定的な評言を残した人々です。

生年が中原中也から最も遅い大岡信よりも
さらに遅い詩人・批評家の北川透(1935~)の出会いの記述を読んでおきましょう。
北川透は満州事変(1931年)が起きた年に幼年ですから
戦後派といったほうが近い世代ですが
戦後生まれでもなく、「戦無派」とも異なる世代のため
ここでは「戦中世代」としておきます。

北川透が「中原中也の世界」(紀伊國屋新書)を著したのは
1968年のことですが
その「あとがき」に中原中也との出会いは書かれています。

ぼくが、中原中也の詩を、初めて自覚的に読んだのは、新制高校2年生(17歳)の時だったように思う。当時、筑摩書房から刊行された<近代日本名詩選>の1冊『山羊の歌・在りし日の歌』を、同じシリーズの1冊として出された立原道造の『萱草に寄す・暁と夕の詩』と一緒に買い求めたのだった。

そもそもそれがぼくにとって詩集なるものを買う最初の行為だったのだが、なぜこれらの詩集を買ったのか理由は見出せない。その当時、友人の影響で、詩の世界に関心をもち始めていたぼくは、端的にいって模倣の対象を求めたに過ぎないのだろう。それにもかかわらず、2冊の詩集のうち、立原道造の世界にはどうしてもなじめず、その代り、中原中也の世界に耽溺する日々をもつことになったのだった。

耽溺といっても、やたらにノートや教科書の片隅に書きうつしたり、好きな詩篇を暗誦し、また中原調の詩をつくるというだけのことであるが。そして当時、十数編の比較的短い詩を暗誦できるまでにはなっていただろう。

ここまで読めば
これも割合よくあるケースの一つといえるのかもしれません。
立原道造と中原中也を仮に並べて読んだとすれば
詩というものは立原道造のような詩をいうのだ、と考えるか
中原中也の詩のほうがコンテンポラリーでよい、などと考えるかで分かれる典型で
北川透は中原中也を取ったということになるでしょう。
このようなケースで
立原道造の詩に耽溺していく人もあることでしょう。

北川透は続けます。

中原中也の実生活の不幸について知ったのは、それから1年以上過ぎて、少々中原にも飽きかけ、また、やっと大学進学の方針も立って、町の図書館(碧南市立図書館)へ受験参考書を借りに行き、本棚の隅に、『中原中也の手紙』(安原喜弘)を見つけた時だった。

(つづく)

「中原中也の世界」は
「Ⅰ 序説――地下生活者の詩」で
中原中也が死んだ年である1937年の4月の日記の
ドストエフスキーの「地下生活者の手記」に関しての記録に言及することから
説き起こされる批評です。
その冒頭で北川透が取り上げている
「つみびとの歌」を掲出しておきます。

 *

 つみびとの歌
     阿部六郎に

わが生は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
由来わが血の大方は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。
おちつきがなく、あせり心地に、
つねに外界に索(もと)めんとする。
その行ひは愚かで、
その考へは分ち難い。
かくてこのあはれなる木は、
粗硬な樹皮を、空と風とに、
心はたえず、追惜のおもひに沈み、
懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草をもち、
人にむかつては心弱く、諂(へつら)ひがちに、かくて
われにもない、愚事のかぎりを仕出来(しでか)してしまふ。

※「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。

その2

一度、耽溺したものの
しばらくして飽きがきて遠ざかっていたところに
「中原中也の手紙」(安原喜弘)を見つけて再び注目するようになった
――という経緯の後に
北川透は中原中也と本格的に出会うことになりますが、
次のように続けます。

それを読み終わった時の、何ともいえない感動は今も思い起こすことができる。詩人の宿命的な不幸におびやかされるよりも、それを暗い輝きとしてむしろ、魅惑されたというのが正直な感想である。こうして、ぼくにとって、詩入門の役割を中原中也は果たしてくれたわけだ。

ここの部分、少し解釈しづらい文章です。

「それを暗い輝きとしてむしろ、魅惑された」の意味は、
安原喜弘の「中原中也の手紙」が「暗い輝き」のようなものを描いてあり
そのことが「宿命的な不幸におびやかされる」詩人の姿にまさって
中原中也を新しい角度から照らし出していたので「魅惑された」
――と受け取ればよいでしょうか。

簡単に言えば
中原中也の「暗い輝き」に魅せられた、ということです。

北川は続けます。

その後の、中原中也とのつきあいは、ここで詳述する必要もないであろう。ともかく、詩とまったく対極の反詩の激動のなかに身をあずけ、中原中也は無縁となり、そして暗誦していた詩篇は跡形もなく記憶のなかから消え失せたのである。

安原喜弘の「中原中也の手紙」は
昭和25年(1950年)に書肆ユリイカから出版されました。
大岡昇平が「中原中也伝――揺籃」を発表したのは
昭和24年(1949年)の「文芸」8月号でした。

こうして何年かたち、
「この書は、いわゆる評伝でもなく研究書でもない。ただひたすら、中原中也の世界を、詩の言語を通じて解き明かしたい欲求があったのみである。」と位置づけた「中原中也の世界」が発表されたのは
昭和43年(1968年)のことでした。

 

戦中派が読んだ中原中也・黒田三郎の場合

その1

黒田三郎(1919~1980)という詩人は
「日本の詩に対するひとつの疑問」を昭和29年に発表し
中原中也の詩を批判しましたが、
その後、「偏見の歴史」を書いて
中原中也への評価を再検討した人です。

この人も、
屈折がありながら
中原中也と出会った詩人ということができるでしょう。

「偏見の歴史」にこんな一節があります――。

昭和14年12月刊の「現代詩集」全3巻がいま手許にあるが、その第1巻には5人の詩人の作品が収録されており、「帰郷」と題して神保光太郎氏が中原中也の詩29篇を選んでいる。戦前の蔵書は1冊もなく、これは数年前に入手したものであるが、見覚えがある。昭和22年8月刊の「中原中也詩集」をよむまでにも、こういうもので詩はよんでいたろうし、中原中也についての伝説のいくらかは知っていただろうと思う。しかし、それまでは強い関心をもたなかった。この「現代詩集」全3巻には、「歴程」「四季」系統の詩人たちに北川冬彦、高橋新吉、金子光晴の3氏を加え、計15人の詩が収められているが、昭和10年代、丁度生長期の僕がよんだのは、丸山薫、三好達治、北川冬彦の3人くらいであった。
(「新編中原中也全集」別巻(下)資料・研究篇)

ここでも「現代詩集」が現われます。
昭和14年に発行されたこの詞華集が
戦時下の青春に与えた影響の大きさをまた想像することができますが、
「現代詩集」に鮮烈な記憶があるとは言わず
「見覚えがある」として
ここに収録された詩人15人のうちで
昭和10年代に親しく読んだのは、
丸山薫、三好達治、北川冬彦の3人だった、と回想するのです。

というのも、中原中也が死んだ昭和12年に
黒田三郎は旧制高校にいて
「詩と詩論」の系統のモダニズム詩人たちに傾倒していたからで
その傾向の中では、
丸山、三好、北川を読めても
中原中也に親しむことはなかった、というものでした。
そして、

中原中也の詩をよむためには、不幸にしてここでずれてしまった。そして、春山行夫氏その他の詩論をよむことによって、モダニズムの詩以外には次第に不感症になってしまった。若気の至りとでも言うべきものであろう。

――と述懐しています。
黒田三郎のような感懐をもつ人は
案外多く存在することが想像できますが
このように表明されるケースはまれです。

黒田三郎の「日本の詩に対するひとつの疑問」は
中村稔篇「中原中也研究」(昭和38年)に収録され
このために「今でも、20年前の文章が、僕の中原中也論として、物議をかもしている」ので
偏見を解くという意味をも込めて、
角川全集「資料・研究篇」刊行にあたり
「偏見の歴史」の題で寄稿されたものです。

黒田三郎は「偏見の歴史」の中で
中原中也の「現代と詩人」を引き合いにして
さらに続けます。
その「現代と詩人」を掲載しておきます。

(つづく)

 *

 現代と詩人
 
何を読んでみても、何を聞いてみても、
もはや世の中の見定めはつかぬ。
私は詩を読み、詩を書くだけのことだ。
だってそれだけが、私にとっては「充実」なのだから。

――そんなの古いよ、という人がある。
しかしそういう人が格別(かくべつ)新しいことをしているわけでもなく、
それに、詩人は詩を書いていれば、
それは、それでいいのだと考(かんが)うべきものはある。

とはいえそれだけでは、自分でも何か物足りない。
その気持は今や、ひどく身近かに感じられるのだが、
さればといってその正体が、シカと掴(つか)めたこともない。

私はそれを、好加減(いいかげん)に推量したりはしまい。
それがハッキリ分る時まで、現に可能な「充実」にとどまろう。
それまで私は、此処(ここ)を動くまい。それまで私は、此処を動かぬ。

   2

われわれのいる所は暗い、真ッ暗闇だ。
われわれはもはや希望を持ってはいない、持とうがものはないのだ。
さて希望を失った人間の考えが、どんなものだか君は知ってるか?
それははや考えとさえ謂(い)えない、ただゴミゴミとしたものなんだ。

私は古き代の、英国(イギリス)の春をかんがえる、春の訪(おとず)れをかんがえる。
私は中世独逸(ドイツ)の、旅行の様子をかんがえる、旅行家の貌(かお)をかんがえる。
私は十八世紀フランスの、文人同志の、田園の寓居(ぐうきょ)への訪問をかんがえる。
さんさんと降りそそぐ陽光の中で、戸口に近く据(す)えられた食卓のことをかんがえる。

私は死んでいった人々のことをかんがえる、――(嘗(かつ)ては彼等(かれら)も地上にいたんだ)。
私は私の小学時代のことをかんがえる、その校庭の、雨の日のことをかんがえる。
それらは、思い出した瞬間突嗟(とっさ)になつかしく、
しかし、あんまりすぐ消えてゆく。

今晩は、また雨だ。小笠原沖には、低気圧があるんだそうな。
小笠原沖も、鹿児島半島も、行ったことがあるような気がする。
世界の何処(どこ)だって、行ったことがあるような気がする。
地勢(ちせい)と産物くらいを聞けば、何処だってみんな分るような気がする。

さあさあ僕は、詩集を読もう。フランスの詩は、なかなかいいよ。
鋭敏で、確実で、親しみがあって、とても、当今(とうこん)日本の雑誌の牽強附会(けんきょうふか
い)の、陳列みたいなものじゃない。それで心の全部が充されぬまでも、サッパリとした、カタルシ
スなら遂行(すいこう)されて、ほのぼのと、心の明るむ喜びはある。
 
※「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新字・新かなで表記しています。編者。

その2

この詩を借りて言うと、戦後3年という時点では、この第2連の第1行のような気持が、僕のなかでは荒れ狂っていたのである。

――と、黒田三郎は、
中原中也の生前発表詩篇「現代と詩人」の第2連の第1行
「――そんなの古いよ、という人がある。」を指示して
戦後3年に抱いていた詩一般、詩全般への気持ちを述べ
中原中也の詩もこの気持ちの中で読んだことをまず明らかにしています。

新しいものでなければ受け入れられなかった戦争直後の詩人は
モダンな詩も、プロレタリア詩にもにせ物めいたものを感じていて
「そんなの古いッ古いッ!」という人が多い中で
それはそうだけれどそれだけでは物足りない、と歌う詩の一節に
中原中也はにせ物ではないと感じたのですが……。

逆に、というか、そうだからというか、
昭和29年に発表した「日本の詩に対するひとつの疑問」は
中原中也の詩の私詩性や叙情性を
「こっぴどくこき下ろす結果になり」、
この批判は
「若年の思い上がり」であると同時に
「限りのない、ないものねだりだったかもしれない」と振り返ります。

黒田三郎は、このようにして、
中原中也や中野重治といった詩人に
当時、最も親近感を抱いていたにも拘らず批判したのは
「最も愛する詩人を批判するという形での、自己批判」だった、
だから、この批判は自分自身に向けられている、と説明するのです。

「日本の詩に対するひとつの疑問」を読んでおきたいところですが
なかなか手に入りません。
「黒田三郎著作集」に収録されているのかもわかりませんが
「中原中也研究」(中村稔)を比較的に容易に読めるかもしれません。

詩や詩人を発見する道は一つの道ではなく
長い時間をかけてなされる場合があるものですが
これはどんな物事にもいえることでしょう。

戦中派世代にも
中原中也との曲折を経た出会いがあったという例です。

「現代と詩人」は
昭和11年(1936年)の「作品」12月号に発表された作品です。
同年10月の制作(推定)です。
長男文也が満2歳になる前で
詩人としての名声は次第に高まり
雑誌新聞への寄稿を盛んに行い
座談会などへも頻繁に顔を出すようになっていた頃の制作ということになります。

 

一高生が読んだ中原中也・中村稔の場合

大岡信(1931年2月生まれ)が
「昭和の抒情とは何か」で対談した中村稔(1927年1月生まれ)は
この対談よりずっと前に
中原中也との出会いを
昭和45年発表の「『山羊の歌』との出会い」に記述しています。

この記述をその後も、
「中原中也との出会い」(「言葉なき歌」昭和48年、角川書店)に引用したり
中村稔全集第2巻に収録したりと繰り返し案内したために
知っている人も多いはずですが
ここでそれを読んでおきましょう。

いま容易に読めるのは
「言葉なき歌 中原中也論」の中の「中原中也との出会い」に引用された
「『山羊の歌』との出会い」の冒頭の部分です。

中村稔は
自ら書いた文章を引用したため
「『山羊の歌』との出会い」の冒頭の部分を「 」でくくっています。

昭和45年9月、堀内達夫氏が『山羊の歌』を復刻したさい、求められて私は「『山羊の歌』との出会い」という文章を寄せた。その冒頭は次のとおりであった。

「私は『山羊の歌』を筆写したことがある。昭和19年、私が旧制高校に入学して間もない頃であった。中原中也という詩人を教えてくれたのは誰であったか、私はもう覚えていない。寄宿舎の同じ部屋に生活していた上級生の一人だったにちがいない。いいだ・ももであったか、太田一郎であったか、この頃では文学から遠ざかってしまったそのほかの上級生であったか。誰であってもふしぎはない。彼らの誰にとっても、中原中也という詩人は、小林秀雄という名前と同様に、又、結ぶつきながら、ごくごく身近な文学のしるしであったように思われる。

寄宿舎の一室の壁に『湖上』の全文が墨くろぐろと書かれていたのを、その部屋の裸電球の侘しい光と共に、私は思い出す。やがて、私たちは中原の「でしょう節(ぶし)」などと悪口をいうようになったのだが、最初これを読んだ(というより見た)時の奇妙な感動と反撥を、私は忘れない。絡みつくような艦尾さと率直さが私をとらえたのだが、同時に、詩であるものと詩でないものとのあやうい境い、あるいはきわどい裂け目を覗きみたような思いが、私を苛立たせたのだろう。今になれば私にはそう思われる。ともかく、私はまだ17歳にしかすぎなかった。

いうまでもなく、創元選書版の中原中也詩集はまだ刊行されていなかった。河出書房版の3巻本の『現代詩集』から、限られた数の作品を知りうるだけだった。あとは、『山羊の歌』『在りし日の歌』という2冊の詩集を探すよりほか中原を読む手だてはなかった。高等学校の図書館にこれらの詩集があったことは、何かの偶然としか思われない。それは岡本信二郎という元教授の寄贈図書の一群にまじっていたのである。この寄贈図書は、どういうわけか、『四季』の詩人たち、三好、立原、神保、丸山といった人々の詩集のほとんどを含んでいた。私はその図書館のひえびえとした空気、詩集のにおい、頁をくって立ちあらわれる抒情詩の新鮮な世界への驚き、を憶えている。図書館の椅子の感触といっしょに、頁を繰る紙質の感触が、いつでも直ちに私に蘇ってくるのである。(以下略)」

以上のように自著を引用した後に中村稔は
先の大岡信との対談について述べます――。

過日、大岡信氏と雑談していたとき、寄宿舎の壁に書かれていた「湖上」が大岡氏にとって中原中也との最初の出会いであったと聞いて、奇異な感じをうけた。大岡氏は昭和22年、私と入れちがいに同じ高等学校に入学したのだが、その頃になっても、まだ「湖上」は消されていなかったわけである。

「中原中也との出会い」は「言葉なき歌」が刊行されたときに
新たに書き下されたもの。
昭和48年の発行です。

大岡信と中村稔の対談は
「国文学」昭和47年10月号のために行われ
「昭和の抒情とは何か」のタイトルで同誌に掲載されたのが初出です。

中村稔の回想は
一高駒場寮の「青春」、
とりわけ中原中也がどのように読まれていたかを
垣間見せてくれて貴重です。

(つづく)


 湖上
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
沖に出たらば暗いでせう、
櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音は
昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、
——あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。
月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう、
われら接唇(くちづけ)する時に
月は頭上にあるでせう。
あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言(すねごと)や、
洩らさず私は聴くでせう、
——けれど漕ぐ手はやめないで。
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう、
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

一高生が読んだ中原中也・大岡信の場合

サンコウ=三高(現京都大学)の寮で読まれていた
中原中也の詩のナンバーワンは「春と赤ン坊」でした。
では、イッコウ(イチコウ)=一高(現東大)の寮はどうだったのかということになりますが
手元に、大岡信(おおおか・まこと)の「現代詩人論」(角川選書)に記述がありました。

大岡信(1931年2月生まれ)ら一高生の
中原中也との出会いは「湖上」でした。
そのシーンの記述が
「中原中也」の項の「1 中原中也の幸福」の冒頭にありますから
それを読んでおきましょう。

今でもたぶんそうだと思う。僕が3年間を過した旧制一高の寮(現在の東大駒場寮)の部屋の白い壁は、どの壁にもおびただしい落書きがあった。おおむねアフォリズム風の思想的断片語だったが、それらの落書きにまじって、中原中也の詩「湖上」が、ひときわ大きく書かれていた小さな部屋のことをなつかしく思い出す。その部屋は文芸部委員が住むことになっていた小部屋で、一高の最後の文芸委員をつとめるめぐり合わせになったことから、僕はそこでひとりで1年間過したのだった。

ベッドと机を置けば、それだけでいっぱいになってしまうほどの小部屋で、そのベッドの上に寝そべっていると、ちょうど眼の斜め上に、「ポツカリ月が出ましたら、舟を浮べて出掛けませう。」という「湖上」の詩句が、そこはかとない哀愁を誘いながらひろがっているのだった。「月は聴き耳立てるでせう、すこしは降りても来るでせう、われら接吻する時に、月は頭上にあるでせう。あなたはなほも、語るでせう、よしないことや拗言や、洩らさず私は聴くでせう、――けれど漕ぐ手はやめないで」

他の場所でも書かれていたような記憶があるので探していると
座談会の席での発言にこんなのもありました。
「昭和の抒情とは何か」という中村稔との対談の中の発言です。

(略)
大岡 そうですね、それは。
 これは中村さんのほうがよく知っていることだけれども、旧制高校へはいって、寮へはいるでしょ。ぼくが寮にはいったときに、中村さんがちょうど出た直後だったわけですけども、戦後すぐの時代の旧制高校には、中原張りの詩を書いている人がいっぱいいましたね。
中村 ふうん……。

このような発言は
探せば、もっと見つかるでしょう。

ここでは
「湖上」を載せておきます。

(つづく)


 湖上
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
沖に出たらば暗いでせう、
櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音は
昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、
——あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。
月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう、
われら接唇(くちづけ)する時に
月は頭上にあるでせう。
あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言(すねごと)や、
洩らさず私は聴くでせう、
——けれど漕ぐ手はやめないで。
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう、
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

戦中派が読んだ中原中也・平井啓之の場合

その1

昭和27年に、人文書院から出た「ランボオ全集」3冊本は、
東大仏文科の教授・鈴木信太郎が監修したもので
第1巻を「詩集」
第2巻を「飾画・雑纂・文学書簡・補遺文献・年譜Ⅰ」
第3巻を「地獄の季節・補遺文献・放浪書簡・年譜Ⅱ」
――などとする内容でした。

第1巻「詩集」の翻訳者には、
村上菊一郎
中原中也
小林秀雄
鈴木信太郎
平井啓之
佐藤朔
――の名前があり、
合計63篇の韻文(詩)が訳されているうちの
11篇が中原中也のものです。

ちなみに、この11篇を列挙しておきますと、

感覚
シーザーの激怒
冬の思ひ
いたづら好きな女
わが放浪
星は汝が耳の核心に薔薇色に涕き
五月の軍旗
最も高い塔の歌
永遠
飢餓の祭
季節が流れる、城塞が見える

――です。

翻訳者の一人、平井啓之(1921~1992)は
三高(京都大学の前身)から東京帝大フランス文学科に進み、
在学中の1943年に学徒出陣、
戦後に復員して、新制なった東大を卒業して仏文科助手となり
講師、助教授、教授と学究の道を歩みました。
1969年の東大紛争で辞職、サルトル研究で著名ですが
1994年版「ランボー全集」(青土社)を中地義和、湯浅博雄とともに翻訳、
わだつみ会の活動には発足当初から関わり
後には常任理事を務めたことでも知られています。

この人が、「わが中也論序説」という著作の中で
中原中也との出会いについて記しているのは
「中原中也が訳したランボー」のその後をたどる上で
きわめて重要な位置にあります。

「わが中也論序説」は「ユリイカ」の1974年9月号に初出しましたから
書かれたのは、「最近」のことになりますが
戦中派が中原中也をどのような状況下で読んだかを知る
数少ない例ということになります。

「わが中也論序説」は
1988年12月に発行された
「テキストと実存―ランボー、マラルメ、サルトル、中原と小林」(青土社)の中の
「Ⅳ 中原中也(1907―1937)と小林秀雄(1902―1983)」に収録されています。
ここから、一部を紹介しておきます。

◇ .

1「朝の歌」

角川版の中原中也全集の書誌によれば、『現代詩集』(河出書房)の第1巻が出たのは、昭和14年12月、私が旧制三高に入る前年末のことであった。全3巻から成るこの詞華集は、背は白く、濃いこげ茶色の厚表紙の隅を三角に白くした瀟洒な本で、それまで泣菫、有明、春夫などの明治、大正の詩人たちにもっぱら岩波文庫でしたしんできた私を、一挙に‘現代詩’の世界に連れこんだ。各巻に当時の‘現代詩人’5名ずつの主要作を収めたこの詞華集は、いま思い返してみてもなかなかよくできていて、なるほど‘現代詩’とはこういうものかと納得させられたような気がしたことをおぼえている。

所収の15名の詩人たちのほとんどが私にとってはあたらしく知る名前であり、中原中也ももちろんその未知の一人であった。しかしこの詞華集全体を通じて、私の選択はきわめてはっきりしていて、中也はのっけから、私にとって特別の詩人になってしまった。三好達治も、草野心平も、丸山薫も、北川冬彦も、その他の詩人たちも、それぞ
れにあたらしい詩境の提示であったが、結局それらは、いわば私の知的好奇心を触発する、というような印象しか残さず、歳月の波に洗われると、急速に記憶から去ってゆき、今日、私は、中也の諸詩篇以外には、神保光太郎の「よと」を思い出すばかりである。(略)

同じ書誌によれば、このとき『現代詩集1』に収められた中也の詩は、神保光太郎選による合計29篇で、総題を『帰郷』とし、冒頭に「羊の歌Ⅰ(祈り)」を置き、『山羊の歌』から19篇、『在りし日の歌』から10篇をえらんだものであった。分量的に制約があったとはいえ、『山羊の歌』の比重の大きいこの構成には、編者もまた詩人であった神保の個性をはっきり反映していたはずである。

私がその後、『山羊の歌』および『在りし日の歌』の全貌を知ることを得たのは、昭和22年秋ごろ、大岡昇平編の創元選書『中原中也詩集』の発刊をまってのことであった。それで、その間に敗戦をふくむ20歳前後の数年にわたって、私にとっての中原中也のイメージとは、神保光太郎選による29篇によって形づくられていた、ということになる。
(※改行を加え、洋数字に変えました。傍点は‘ ’で表示しました。編者。)

平井啓之は
詩人・神保光太郎が編集した「現代詩集」で
初めて現代詩を知った昭和初期の
若者たちの中の一人でした。

その2

私の前後の世代、つまり戦中派世代に属する中也愛好者の多くにとっても、事情は同じであったと思われる

――と、サルトル研究で名高い学者・平井啓之(ひらいひろゆき)は続けます。
「事情は同じ」というのは、
戦中派はみな神保光太郎選の「現代詩集」で現代詩を知った、ということを指します。

三高で私の2年後輩であった花木正和は、その『中原中也論考』のなかで、彼が「中原中也として軍服を着たつもりであった」と形容する私たちの共通の友人宮野尾文平(※)に、『山羊の歌』の詩篇を見せた思い出を記している。

昭和19年のある朝、当時航空通信学校で訓練中の宮野尾がひょっこり京都の下宿に花木を訪ね、花木は誰かから借りて筆写していた『山羊の歌』を宮野尾に見せるのであるが、やがて半年後、沖縄雷撃隊の一員として爆死する宮野尾は、「それらの詩篇を、オアシスにめぐりあった旅人のように目をかがやかせてむさぼり読んだ」。

この挿話は、戦中派の世代、殊に私や宮野尾のような学徒出陣組にとって、中原中也の詩がもっていた痛切な意味をあざやかに物語っている。宮野尾は三高で花木と同期で、私とは文芸部の仲間であり、昭和17年9月、繰上げ卒業で私が去ったあとを受けて、文芸部のキャップとなった。

当時は今日とはちがって、戦時下のひっぱくした状勢下に同人雑誌やクラス雑誌を出すことはまったく不可能で、年3回発行される校友会雑誌『嶽水』の文芸欄が、文学好きの青年たちのただ一つの発表機関であった。それであの戦時下にあっても、文学的な表現意欲をもつ少数の学生たちは、ほとんど文芸部の周辺に集っていたと言えるだろう。中也の詩と梶井基次郎の散文、それに、小林秀雄訳を通じてのランボー、および米川訳のドストイェフスキー、を加えれば、当時の私たち、つまり三高文芸部の青年たちが醸していた文学的気圏の構成要素はほぼつくされるだろう。
(青土社「テキストと実存」所収「わが中也論序説」より)

平井啓之は、ここで(※)後注を付して
宮野尾文平について紹介する中で
この「わが中也論序説」の「3」を
「中原中也を継ぐもの」として書き継ぐ意志のあったことを記述し、
書物の構成上から断念したことを明らかにしています。

「わが中也論序説」が書かれたのは1974年のことですから
宮野尾文平の作品や人物に関する言及は
狭い範囲でしか知られていませんでしたが、
インターネットが普及した今、
検索すれば作品「星一つ」を読むことができます。

三高校友会の雑誌「嶽水」第7号(1943年2月)に載った
「遠日」というタイトルの詩を
参考までに読んでおきましょう。

遠日

――前だけを見てゐたんです

色彩は風に吹かれてみんな捨てた
無色の風景に
電信柱が一本立つてゐる
あの頃は
まだ廃家(くずれや)も美しかつた

あれから毎日歩いて来た
――随分と遠い道
蒼空がまるい
向日葵がまはる
  約束はもう駄目になつた
肩に重たい同じ言葉が
――遠い道なんだきつと

今ははや
廃屋の柱も傾き
いつか
おぼつかない足もとになつた
けふ日も過ぎれば
石廊はうつろに響く
  ほろほろと
  ろんろんと

階段をもう下りてしまつた――

その3

当時、中原中也の詩(それは前にも触れたように、厳密に神保光太郎選の29篇に限定された中也である)が、私たちに対してもった意味を伝えるのに恰好の事実を今思いだす。

――と書いて、平井啓之は続けます。
「神保光太郎選の29篇」とは
昭和14年12月刊の「現代詩集」(河出書房)第1巻所収の
中原中也の詩のことです。

私の繰上げ卒業も程近かった或る日、文芸部の部屋で、数人の仲間が、自分の好きな詩を数篇書き出して、投票をしたことがある。その場には、宮野尾、私、京都の人文研の多田道太郎、石上相(彼もまた、輸送船で南方へ送られる途中、南支那海に沈んだ)、それに、今法政大学の先生をしている吉川経夫らもいたように思う。

「朝の歌」「汚れつちまつた悲しみに……」「寒い夜の自我像」など、中也の傑作とみられる作品は、もちろんそれぞれに票を得たが、満票でのこったのは、「春と赤ン坊」であった。3行詩節4聯から成るこの小詩は、中村稔によれば、放送用原稿として書かれたものであり、決して悪い作品ではないが、「朝の歌」その他の秀作を差しおいて、私たちの一致した愛着をかち得たことは、考えてみればやや奇異である。だがこのことは、当時の私たちが置かれていた息苦しい状況を思えば納得のいくことであった。

同じ年の4月半ばには米機の東京初空襲があり、6月初めにはミッドウエー海戦があった。伝えられるニュースはもちろん捷報ばかりであったが、事実はすでに日米の戦いの明暗を分けるような決定的な出来事が生じていたのである。それに私たちはいずれも、やがては確実に兵士として戦場に立つ身であった。肌身で感じているこの息苦しさのなかで、私たちはいずれも、真実に息のつける人間的なやすらぎを、ほとんど本能的に希求していた。

「春と赤ン坊」を私たちがあれほど憧愛したことの意味は、この戦時下の青年たちの心の状況を考えることなしには、解ってもらえないだろう。「春と赤ン坊」の、菜の花畑に眠る無心の赤ん坊のイメージは、幸福な幼年期への限りない郷愁のような思いをそそる。しかし普通、私たちは、苛烈な生存競争に耐えて大人になるための努力のなかに、そうした幼児期への郷愁をふりすててすすむ。しかし近い将来のなかに、死をのぞみ見ることを避け得なかった当時の私たちに対して、幸福の幻影は、ただ幼年期という形でだけ、その束の間の瞥見をゆるした。

『山羊の歌』に比重の秤のかたむいた『現代詩集』29篇の中也の詩篇は、こうした当時の私たちの内面からの要求に、この上なく応ずる一つの世界を形づくっていた。
(以下略)

3回に分けて引用しましたが、
この量で、「わが中也論序説」(B5版)の32ページほどの論考で、
引用したのは冒頭の約4ページですから
「序説の序」の部分ということになります。

「現代詩集」第1巻は
高村光太郎、草野心平、中原中也、蔵原伸二郎、神保光太郎の
5人の詩人のアンソロジー(詞華集)です。

中原中也の作品は
「帰郷」のタイトルが選者の神保光太郎によってつけられ
以下の29篇が収録されています。

祈り
サーカス
朝の歌
臨終
黄昏
冬の雨の夜
帰郷
悲しき朝
港市の秋
秋の夜空
少年時
妹よ
寒い夜の自我像
心象I
心象II
汚れつちまつた悲しみに……
無題

みちこ

六月の雨
冬の日の記憶
冷たい夜
春と赤ン坊
曇天
一つのメルヘン
幻影
蛙声
月夜の浜辺



ちなみに
第2巻は、丸山薫、立原道造、田中冬二、伊東静雄、宮沢賢治、
第3巻は、萩原朔太郎、北川冬彦、高橋新吉、金子光晴、三好達治
――というラインアップで
全3巻で合計15人が選ばれています。

「春と赤ン坊」を載せておきます。

 *  
 
 春と赤ン坊

菜の花畑で眠つてゐるのは……
菜の花畑で吹かれてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

走つてゆくのは、自転車々々々 向ふの道を、
走つてゆくのは
薄桃色の、風を切つて……

薄桃色の、風を切つて 走つてゆくのは
菜の花畑や空の白雲(しろくも)
――赤ン坊を畑に置いて  

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

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