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中原中也の手紙から

安原喜弘宛の書簡

※安原喜弘著「中原中也の手紙」(講談社文芸文庫)より

 
【昭和5年】
 
手紙1 昭和5年5月4日(封書)(東京 中高井戸)
 
 ゆうべは寝る時寂しかった。電灯が暗いような気がした。
 今日は意外に落付いた。先刻はうとうとさえした。よしゑというのは妙にこびりついちゃったよ。但し誰にも言ったら不可(いけ)ない。
 汽車では眠れなかった。着くとすぐ宿に行っても眠れそうもないから、文部省にゆき、内海の役所に行き、夜に入って河上を訪ねた。村井が来ていた。阿部が今日あたり学校の近くへ越すんだと言っていた。河上は元気だし非常に落付いている。三時間ばかりいた。帰りに村井と仲店でビールを。飲むとじきに眠たくなった。
 京都では、正宗が身に沁んだ。          さよなら
    四日                        中也
   金が手に入り次第しばらく出掛けてって相談するよ。
 
手紙2 昭和5年5月6日(はがき)(市外 中高井戸)
 
 蚊がもう沢山だ。何にも書かない、読むっきり。仏蘭西には大変行きたい。やっぱり五十円やそこらでは辛いらしい。八十円あればやれるらしい。今年中にはまず行けない。昨日「しばらく」に行った。「あの方はもうこちらですか、まだ、京都でございますか」と訊ねていた。相変らず、行ってる客はイヤな奴ばかりで、何かかか謂う所の智的喋舌。それに近頃はナマを飲みに、沢山来る。
                     さよなら
 
手紙3 昭和5年5月8日(封書)(市外 中高井戸)
 
 頭は支離滅裂だ。尤も楽しいんだ。好いお天気だもんだから朝から歩いている。昨晩はスルヤだった。時計が間違ってて半分聴いただけだった。内海のものはカッタリしていて面白かった。君の兄さんに会った。ゆっくり会っていたかったのだが、少し用事があったんで失敬した。
 レッテのヴェルレーヌ訪問記を翻訳しようと思っている。これが恐らく今春の全労働となることだろう。ヒルハモニーには六月号に載るだろう。今日音楽新潮の塩入に会った。何か書けと言うのだが、格別書きたいこともない。君何か音楽に関係した感想があったら、二三枚以上あればいいのだから書いて呉れないか。今晩徹っちゃんに会う。雑誌は茲(ここ)二三ケ月は放っておく僕のつもり。
 ──なんてえと却々働いているようだが、御存知の通り、はしゃいだりふさいだりしてるみたいなものだ。なにしろ空気に対してまで恋々として生きてる以上、どうせまあこんなところだ。しかし
意識ないアメーバは讃えられてあれだ。それよ抒情詩人とは、過不足なき感と亦謂えはしないか。                                                    さよなら
                        中也
 
 君学校の成績分ったか。小包料出来次第ベルグソンとサジエス送ります。
 
手紙4 昭和5年5月9日(封書)(市外 中高井戸)
 
 朝目が覚めたって、それから何処へ出かけたにしたって、誰もいない、役所にいるか学校にいるかの人ばっかりだ。そうでない人の一人は河上で、もう一人が山口だ。昨日は山口の所に行った。夜九時すぎまで小田急沿線の田圃路を歩いた。九時に別れて僕は高田の馬場の野口という男の下宿に行った。まだ帰っていなかった。で、近所を歩いてまた後程来ますといって出かけた。持っている金が十銭で、空腹だし、煙草がない。しるこ屋のショウインドーに「いなりずし」が見えた。いなりずしを食うことにした。
 煙草が吸えないことを観念して、月があんまりよかったし、夜気と埃は青猫のように感じられる江戸河沿いの道を、随分歩いた。そのうち切手を持ってることに気がついて、三銭切手を五枚出してエアシップ一つ買った。煙草が手に入ると随分嬉しかった。ひとしお悠然と歩いたものだった。──野口の下宿に十一時頃引返すとまだ帰らない。「じゃ上って待ってます」というと「何も言わずに出かけられました、あなたがおいでになることを野口さんは知ってらっしゃいますか」といって、聊(いささ)か困ったことだった。ともかく上がって週刊朝日の増刊を読んでいると十二時半になって野口が帰って来た。
今朝七時に野口は出かけて、僕は十二時半に朝飯を食わせてもらって、出て来て河上に電話をかけて留守で、中村屋に来てボンヤリしてるんだ。今日はけぶたい睡い日だ。曇ってて交番のおまわりもみんな手を背に廻して、愁然と立っている。──
 僕はこの手紙を読み直すことなしに出そう。          
                      さよなら
  九日                      中也
 今晩は国響をききにゆく。
 また京都へ行きたくなった。さよなら。
 
手紙5 昭和5年5月12日(封書)(市外 中高井戸)
 
 昨日「しばらく」に行った。客がいなくて、ポツポツと三十分くらい話した。体(てい)のよいことばかり云って、結局要領を得ないが、お友達として御交際下さるのなら喜んで御交際致しますというのだ。何しろ君の印象が、まるでまだ浅いようだ。許嫁があるというようなことも云うには言ったが、今遠方にいるんだの、小さい時から遊んでいたんだの、一寸親戚に当っているんだの──要するに殆んど何んでもないことなんだと僕は見る。君が何科だと訊くから、美学だと答えたら、にっこり笑って、あたくし不思議と美学の方とは御縁があるんでざんすのよと云った。暫らく黙った後、君のとしをきいたので、答えると、ああ、それじゃああたくしよりずっとお若くいらっしゃるんでざんすね、と云った。秋子は二十六。伊予今はるの者。──
 かくては僕事なんだか不甲斐ないような気がするのだが、今の所君が七月に帰ってからのことだと申上げる。それまでに、格別どうするとかこうするとかってことに触れないでの、手紙を出すことは好いことと存上げる。
明日は大掃除。庭の草くらいとらなくっちゃならない。屋主が、桐一本と杉三本を植えてった。もう僕の家(うち)は、暑い。トタン屋根だからね。胃が少し悪い。酸過多だ。日本酒より、ビールの方が胃にはズッと悪いらしい。
 
 昨晩は、銀座を歩いててグライルに会った。たびたび複製をありがとうと言ったら、雑踏の中で、一声、アスタ・ニールズン! といった。
 僕はどうしても秋か春には巴里へゆくのだ。君が今年中に残ってる科目を終えちゃうことを所望。秋には大谷久寿雄が行くんだそうだ。大谷というのは、先達(せんだって)見たよ。偉いかどうかは分らんこったが、僕は好きでもない。喋舌(しゃべ)りあうだけなら好いだろうが、あいつを眺めて居られはしない。
六月の五日頃、京都に行くよ。弟と重なるようなら、見合せよう。
明日、ベルグソン発送する。新保に会うか。
                      さよなら
   十二日夜                   中也
 
手紙6 昭和5年5月21日(封書)(市外 中高井戸)
 
 手紙ありがとう。
 その後「しばらく」に二度出掛けて飲んだ。秋子という女は、知れば知る程アラが見えてくる。まるでウソつきだ。まるでフザケて生きている。七月に君自身もう二三度眺めれは分ることだが、近頃ヒドイ。二三日前行った時は夜の十一時で、文士が四人来ていたが、その時の秋子なんてなのは、見てて癪に障った。ナンセンスだのジャナリズムだの、スランプに理窟をつけて世間に吹聴してくれるくらい非良心的な、まことに小児病者等の天下に、気の利いた女等こそあられもな、情けのセメントに砂利まぜてローラーの麻痺に自らを馴らすのだ。
 
 僕が言うまでもなく、学校はチャンと出ておいた方が好い。世間はオオザッパで、学校に出られれば出るにこしたことはないと、僕にしてからが思ったりする。
 
 大岡と富永──表裏がないだけ富の方が結局よいのかも知れぬ。
 高田は相変らず砂利まじりの馬鹿笑いをしている。酒も飲めない日が多いので二三日に一皮くらい高田にゆく。古谷は出版を始めるそうだ。咋夜は藤原という法政の哲学を出た男に一本飲せてもらった。木村と言う東京、国文を出た詩人に会った。「都会を去ることは逃避だとは思いますが、浜松へ行って百姓をしようかと思う」なぞと言っていた。生田春月が自殺した。
 高田はフランスヘ行くために後援会を計画している。大屋は今日あたりフランスヘ向け出発するのだとか。
 佐規子のことさえ忘れられれば、僕も飛んで行きたい。
 
 近頃の夜歩きは好い。月が出ていたりすると僕は何時まででも歩いていたい。実にゆっくり、何時までも歩いていたいよう! 一輪清うして咬潔(きょうけつ)、却て黒雲に乗ぜらる候。
 そのうち、四五日君のところへ出掛けてゆくでしょう。今度は、帰りの汽車賃くらい用恵してゆけそうだ。但し君の都合がどうか、なるべく早く知らせてくれたまえ。
   廿一日                  中也
 
手紙7 昭和5年5月29日(はがき)(市外 中高井戸)
 
 手紙ありがとう。
 借金を払ったらいくらも残らなかったので京都行は暫時中止だが、何処かで調達する勇気が起れば、ゆくことになるだろう。
 ヒルハモニーは、載っけたそうだが、切符を呉れるだけだそうだ。
また夏だね。いやになっちゃう。出来たら七月八月と、大島で暮すつもり。
 バルザックを久し振りに読んだ。面白い! ドストエーフスキなぞよりよっぽどいい。
 
手紙8 昭和5年6月24日(はがき)(市外 中高井戸)
 
 胃酸過多で、食欲がないのが、いやな気持だ。煙草の味まで大変悪い。
 文藝春秋の七月号の小林の論文は面白い。徹ちゃんは悧巧そうな理屈を言っている。
 僕は湿気の多い時分には頭が働くものではないと決めて、長篇小説類をポリボリ読んでいる。
 将棋をしているが、勝ったということなし。      失敬
 
手紙9 昭和5年9月28日(封書)(代々木 山谷)
 
 先日は有がとう。
 毎日欠かさないで、出席している。ラスコルニコフか、二重人格か、ドミイトリーかイヴァンかアリョーシャか知らないけれど、命題と反対命題とは、自我と逆説とは、何時でも並んで歩いて来た男が、その自分の中での戦いに疲斃(ひへい)し果てた揚句、多分はネルヴァル風に現象自体になって、そうなったはよいが猶、過ぐる日の自分の中の戦いの余影を離れ切れずに、寧ろその余影に耳を傾けようとするようになるのを、ただ不条理に抑えつけて、僕は目覚し時計を掛ける、朝六時半にはそれが鳴る、僕は学校に行く。お茶の水の駅を出ると、直ぐニコライの方に向けてゆくと突当りはお寺みたいな感じの井上眼科病院だ。門から玄関までの小砂利の上に、下男が水を撒いたばっかりで、朝日が無邪気に光っている。そこで僕は右向け右だ。それからはずっと学校迄、僕の左手には塀ばかりがある。その塀は朝日を遮っていて、朝は泌々暗い。お天気続きの時にも、だから敷石の接目接目は夜露に湿っている。その上を踏んでスルガ台下の方に降ってゆく。学校が済むと、大抵学校のすぐそばの図書館に行く。街の方から郊外の方に、さっさと帰りたくならなくって不可(いけ)ない。         
                      さよなら
   二十八日夜                  中也
喜弘様
 東京評論のことたのむ。
 
手紙10 昭和5年10月19日(はがき)(代々木 山谷)
 
 受験準備が辛い。代数を毎日三十問くらいずつ解いている。解き方が分っても、運算なら大抵間違える。これでも試験場ではよくやるつもりなんだが。
 酒をやめているので食欲が旺盛だ。うまいものが食べたい。中央の食堂では解決がつかない。おまけに学期の始めより味が落ちた。
 新潮社の(世界文学全集の)近代詩人集を通読して、少々厭気がさしている。ドッコデモ、テーシタコターネー。
 君は成績が好いんだってね、十日ばかり前にきいた。近頃ホガラカな話です。
  “Ceux qui se divertissent trop s'ennuient”
 僕この頃そう思っている。
                      さよなら
 
【昭和6年】
 
手紙11 昭和6年2月16日(封書)(代々木 山谷)
 
 暫らく。
「ドルジェル伯の舞踏会」読んで感服しました。
 試験が近づきます。今度は殆ど学校に出なかったので没々(ぼつぼつ)準備にかからなければならず、憂鬱です。終るのは三月十五日。
 四月からは外語の専修科に行きます。二ケ年で卒業。文字通り仏語だけ。午後五時から七時迄。土曜日は休み。因みに、免状を呉れます。
 君にデディケートする筈だった詩は、流産しちまいました。
 麻雀は三四日前からイヤ気がさして来ました。底の知れたものです。僕事、多分初段位ではあるでしょう。三四日前までは、正月以来、毎日三卓はやっていました。
 今夜、消え残りの雪の上に雨が降って来ました。タマに今夕は下宿にいます。ウマイ煙草が吸いたいです。
                      さよなら
   十六日                    中也
 
手紙12 昭和6年5月5日(封書)(代々木 山谷)
 
 お手紙とかわせありがとう。
 形而上学がカッチリしているということは、カッチリした人間が出来るということの予想です。
       君の素質を重んじ
       君の目下の思念に聴かざるもの
   五日                     中也
 
手紙13 昭和6年5月18日(封書)(代々木 山谷)
 
その後如何お暮しですか。   僕
 学校は、余り行きません。講義が易しいからでもありますが、好い気な生徒達がいるせいもあります。でも、もう没々精勤しないと、受験資格を失くします。(半分出てなければ駄目なんです。)
 赤ん坊は、段々物覚えしているようです。次第に可愛くなりますが、愛というよりもっと憐(れん)情といった風のものらしく淋しい気がします。──それで尚更可愛いくなります。……
 
 末筆ながら、君が「六号室」にてほとび、而して沈澱されんことを!
   十八日                 中原中也
 
手紙14 昭和6年6月14日(はがき)(代々木 山谷)
 
 早く帰って来ませんか。僕は今月末まで東京にいます。
 会って話したいと思います。先日の君の手紙に、僕は返事をしてしませんが、僕には君の今の気持に手紙で返事したくなかったのです。十日までには会えるとあったので僕は待っていましたが今日になっても通知もないので、どうかと思って河上に聞きましたら借金で帰れぬとか。しかし僕は早く会って話してみたいのです。君はあんまり無言すぎます。それでは誰もどうにもなりません。匆々不備
 
手紙15 昭和6年6月17日(はがき)(代々木 山谷)
 
 随分暑い日がありはじめました。君にはいかがお暮しですか。
 僕は十日頃帰省します。祖母と弟と病人になっていますので、君に山陽を見せるという約束はこのたび果すことが出来ません。七十過ぎの祖母のこととて何れにしろ先が短いので、ことによったら僕の北海道行もみ合せることになりそうです。
 九月の初旬には東京で君に会えることと思います。
 色々話したいこともありますが、手紙に書くと自己責任感ばかりが露出(むきだ)しになるので、いやになります。
 御身御大切に。                匆々
 
手紙16 昭和6年7月24日(はがき)(代々木 山谷)
 
 御病気はどんなですか、知らせてください。
 
 僕の今度の下宿、先達教えたのよりもっと近道がありました。千駄ケ谷新田駅ワキの小田急事務所の裏について廻ると直ぐドブです。それを渡ればすぐそこに高橋秀男と板の表札があります、四方に窓があって、あたりは静かです、明日越します。
                        匆々
 二十四日
 
手紙17 昭和6年8月26日(絵はがき)
 
 夜は早く寝、朝は早く起きる生活をしています。
 三時半に目が覚めて、潮騒(しおさい)を聞いています、娘のような溜息が出ます
 九月十日頃上京します             さよなら
  弟氏によろしく
                     長府にて 中也
 
手紙18 昭和6年9月23日(封書)(代々木 千駄ケ谷)
 
 十八日、朝日講堂でエリ・フォールの講演を聴きました。エリ・フォール、仏国当代の一流美術批評家です。いいおじいさんでした。我々の時代は、個性と集団化の間に蹟鰭しているというのです。全くだと思いました。
 そこで僕達はどうしたらいいかと考えたのですが、分りはしません。僕自身としては、次第に痼疾的に趣味に執着してゆくようです。茲(ここ)で他人の言葉を二つ、何かのために記すこととします。
 『その時以来、二つの陣営のようなものが生じた。一方は昂奮し苦悩する精神で、無限を必要とする感激的な魂は、みなうなだれて涙に沈んだ。彼等は病的な夢に包まれた。そして、最早目に見えるものは、苦酸の海のほとりのひ弱な葦だけであった。他の方では、肉的な人間達が実質的な享楽の只中にたゆまず立ちつづけた。そして、彼等の心を捕えたものは、ただ自分らの持っている金を算える懸念だけであった。かくて涕泣と哄笑とがあるのみだった。一は魂から、他は肉体から来るのであった』(ミュッセ、世紀児の告白より)
『いかなる本能も、もしそこに一点の混り気だにとどめぬ時は、何人の心にも讃美の情を起さずには置かない所の強くして清純無垢なる何物かを常にもっている。その中には我等人間のいかに洗練されたる感情にあっても得難くして、只動物や植物のみが有する所のあの清純さがある。本能に走る心こそ、そこに何等の道学的観念も入り来ることなくして清く、而して酒のごとく、石のごとく、或は又毒のごとく清きものである』(ジョセフ・ケッセル「清き心」の序文より)
 
 昨日は詩を三つばかり書きました。頭が混乱していますので、どうせろくなものではありません。
 黙って黙っていたいのです。学校の帰り喫茶店に寄って、ぐずぐずしております。
 明日は秋季皇霊祭。残りの蝉がまだ鳴いている。──
                   センチメンタル
                       中原中也
   二十三日
 
手紙19 10月8日(はがき)(代々木 千駄ケ谷)
 
 どうも賑やかにしすぎました.神経不調の折柄、──はいなきことでありました。
 
 昨夜アルキペンコを買ってきました。
 自然の形態に恭順でない、二十世紀初頭簇生(そうせい)の美術家中では、一番個性的で、完成していると思われます。僕のダダ時代、僕は大好きであったものです。
 ピカソの円心的諧調希求(とでもいうか)は、それ自体神聖ですが、僕の勝手をいうならば、ピカソは自由を求めて不自由に到る最短距離上の科学的天使です。
 古人等を、花と心得、蜜蜂たるべきこと。己が求心力の傾向に、傾聴すべきこと。
 今僕はそう思って、却々(なかなか)忙しい気持でいます。  ではまた。
 
手紙20 昭和6年10月16日(封書)(代々木 千駄ケ谷)
 
 元気もなんにもありません。自分ながら情けない気持で生きています。
 新宿の空に、気球広告が二つあがっています。あれの名は「エヤー・サイン」です。
 ものものの、核心だけを愛することなら、こんなに元気がなくとも心得ています。核心が成長し、色々の形態をとったもの、殊には作品なぞというものの評価は、大学の先生が、お金を儲けるためになされることと考えちまっています。──と申すは、過日来ブランデスの文学史を読んで、少し頭がゴタゴタしたからのことです。
 時にかの『月の浜辺』なる曲は、核心のまわりに、多分のエナをつけていて、未進化なものではありますが、そのかわり猶、濃密に核心がこれと分るように見付かります。──昨夜は関口と飲みました。氏は、酒のいい店を御存知です。僕拳『月の浜辺』を賞揚したら、氏はこんこんとそ愚作たることを説かれました。
 僕はあやまりながら、その歌詞を書取って帰りました。『月影白き、波の上、ただひとりきく調べ。告げよ千鳥、姿いづこかの人。あゝ狂ほしの夏の夜。こころなの、別れ。』
                      さよなら
                          中也
   十六日
 
手紙21 昭和6年10月23日(封書)(代々木 千駄ケ谷)
 
 退屈です。毎日手紙を書かないことはありません。手紙を書くことは楽しみです。失敬な話だが、カンベン。
 外務書記生の規則書取寄せました。試験課目は、日本と外国の地理、歴史、法学通論、経済学大意、算術、仏訳、作文、書取、会話。可なり大変です。
 一、外務書記生其他判任以上ノ官ニ在職シテ満五年以上外務部門ノ事務ニ従事シ判任官五級俸以上ノ俸給ヲ受ケ成績優秀ノ者ハ外務理事官、大使館理事官、公使館理事官、副領事、貿易事務官ニ陞進(しょうしん)スルコトヲ得。とあります
 佐規子も此の頃では陞進して、グレタ・ガルボになりました。御存知ですか、今度奴は主演で撮影するのだそうです。僕はちっとも会っていません。赤ン坊には時々会いたくなります。
 学校には欠かさず出ております。詩も書きます。三日に一度は、少しでもいいからお酒がはいらないと、身も心もニガリきります。
 ヌエットには、一緒に行くことにしていた男が退学させられたので一寸会いにゆけません。一人で行っては、話がなさすぎます。何分日本語が十分わかりませんから。でもそのうちゆくでしょう。
 面白いことがあったら知らせて下さい。
    二十三日              中也
 
手紙22 昭和6年11月4日(はがき)(代々木 千駄ケ谷)
 
 お手紙ありがとう。
 ル・ミリオンみました。面白くありました。
 今月の改造、君も読んだでしょう。僕も五十銭玉を置いて、久しぶりで雑誌というものを買って来ました。小林の小説は、余り面白くありません。河上の時評は、分らない箇所がありました。先達上田と河上を訪ねました。「この男をどう解釈すべきか」「いかなる見地よりみるべきか」、べきかべきかと絶えずやっているような所がみえて、話もなんにも出来ませんでした。新興文字派一派の、何ともいえない根のなさ加減はなんとなく気になります。
 この頃はよく活動をみます。本も可なり読みます。酒は買って来てヒヤでやります。肚(はら)の底からなみなみと、地声で歌がうたいたいです。
    Allons donc!                                  さよなら
 
手紙23 11月16日(封書)(代々木 千駄ケ谷)
 
 その後飲みますか。飲むことに、なんとも結構なことで、例えばマサムネホールを出れば、前の石畳には何時も水が打たれてあるので、提灯はペカンと映り、人生身に泌んで感深いことであります。今小生酔いてあり。ヒヤをやっているのです。今日は学校で叱られました。何時も二十分くらいしか授業しない滝村仏語部主任、短いテームを八題やるきりなんです、それでもう少しやってくれといったら「君の顔はあんまり勉強好きにも見えないが」なぞとイヤミを言って行きました。奴横暴です。生徒の質問には大概シャレで応じます。皆んな不服です。他の先生達はペコペコしています。それにしても学校は今の僕には面白い所です。殆ど無欠席です。
 フランシス・カルコ、「追いつめられる男」読みました。一寸面白いです。映画「パリッ子」みました。役者がうまくて面白いです。ドストエフスキー「罪と罰」を読んでいます。ゴルキーの「四十年間」には打たれました。
 今晩は生暖い風が吹きます。かなり強い風です。上田敏雄と遊んでいます。此の頃はネルヴァルの「夢と生」を訳しています。怠けなければ、此の冬君が帰る頃までには、「オーレリア」が訳了せられてある筈です。法学通論も読んでいます。忙しいです。人生は忙しいです。
                                                さよなら
    十六日夜                  中也
 
手紙24 昭和6年12月30日(はがき)(代々木 千駄ケ谷)
 
 この手紙が着く頃は御帰京のことと思います。
 お訪ねしたくも電車賃もない有様、その代り毎日籠っているだけは確実に付、何卒やって来て下さい。実は急に先の下宿を変らなければならなくなり、先の下宿は月末払いであったのが、今度の下宿では先払いということになり、それに今度の方は玄人(くろうと)下宿なもんですから、すくなくも今はゆうずうがつかないのです。   失敬
 
【昭和7年】
 
手紙25 昭和7年1月12日(はがき・速達)(代々木 千駄ケ谷)
 
 如何なされ候や
 お渡しするもの有之、小生待侘候間御来駕願候      匆々
 
手紙26 2月2日(はがき)(代々木 千駄ケ谷)
 
 どうしていますか僕は元気です
 論文返された話聞きました
 毎日誰か知らと飲んでいますが、自愛からあまり遠くまでは行かないですまされています
 少し正気づいて来ました 夢にはカデンツがついて来ました
 佐規の子供に会いました 面白いです 酒を飲んでる真ッ際中奴のことを思いだしたりしてどうも大変甘いです、今月末は金に少し余裕がある筈なので、汽車の玩具でも買ってやろうと思います             不備
                       さよなら
 
手紙27 昭和7年2月5日(はがき・速達)(代々木 千駄ケ谷)
 
 昨夜は留守をして失敬しました
明土曜夕刻(七時半頃)伺います
(今夜は高森と一緒に辰野さんの所へ出掛ける約束です。もしよろしかったら渋谷駅に八時に来て下されば、辰野の所へ行きましょう。一時間くらいいるつもりです。)
                         匆々
 
手紙28 昭和7年2月7日(はがき)(代々木 千駄ケ谷)
 
 前略
日大の方運動してみられることよいと思います
阿部は日大とも何かの連関を持っているでしょう。日大の欠員のこと阿部に話しましょう。大学ならば、時間も少く、朝八時からとぱかりも限らなく、専門的だから却てしらべも楽でしょう。
君一流の謙遜で中学にしたり、其他一時的なことを始められるより大学か予科はよいと思います。
右借越ながら取急ぎ述べ候
   七日                    中也
 
手紙29 2月15日(封書)(代々木 千駄ケ谷)
 
毎日飲めています。幸福です。
阿部は今九州に行っています。帰り次第会って就職のこと頼んでみましょう。 
ヴイロンの翻訳はじめました。今月中にPetit Testamentだけ、ブローカーに渡します。
 
手紙30 昭和7年2月21日(封書)(代々木 千駄ケ谷)
 
Que la beauté soit.
Renaissance de l'art.
Revue de l'art ancien et moderne.
Revue des Beaux-Arts.
Vie et l'arts liturgiques.
Art et Travaile.
Artisan Pratique.
Beaux-Arts.
Bulletin de la vie artistique.
Byblis.
Estampe galante.
Feuillet d'Art.
Gazette des beaux-arts.
Gazette du bon ton.
Gout du jour.
journal des arts.
Peinture,Arts,Lettres.
Le livre et l'estampe.
Perles,pierres,bijoux.
Pont des Arts.
Amateur d'estampes.
Amour de L'art.
L'Art et les artistes.
L'Art et bijoux.
Art en Europe.
Art et Décoration.
Art de France.
Art,Gout,Beaute.
 
 以上三才社ニアル雑誌カタログ中.美術雑誌ノ全部デス、内容見本ガアリマセヌノデ、ドレガドンナモノカ分ラズ、オ役ニ立タナイカト思イマスガ、トニカクオ送リシマス。
 
手紙31 昭和7年2月29日(封書)(代々木 千駄ケ谷)
 
春らしくなりました、プチ・テスタマンの翻訳すましました。
 日大のこと、銅直氏が骨を折られる由、阿部がそう云っていました。「日大の何に欠員があるんだろうか、大学か予科か、そうしてその何科なんだろう」と阿部が銅直に話を持出した時銅直氏はいっていたそうです。銅直氏はとにかく日大に関係があるのだそうです。
 僕の京都通過は七日か八日頃になるでしょう。嘉村礒多と言う男の小説、これは立派だと思いました。僕には新吉以来のメッケモノのような気がします。
                       さよなら
 
手紙32 昭和7年3月4日(はがき)(赤坂局発)
 
 明五日夕刻七時五十分頃京都着します
       四日朝
 
手紙33 昭和7年3月7日(はがき)(山口市 湯田)
 
──尾道へは寄らないで、今朝こちらに着きました.尾道を通過したのは一時過ぎで、眠っていました。目が覚めたらもう広島でした。降りだしていました。
この葉書をかきながら、窓外をみると、山のてっぺんの、樹と樹とのすき間をとおして雲の流れてゆくのがみえます。(煙は空に身を慌(すさ)ぴ、日陰恰(たの)しく身を鰯(なよ)ぷ※)昔の歌。おいで待ちます。二十二日迄は高校受験者が二人ばかり来ていますので、二十三日着かれること好都合ですが、尤も君の都合次第では、何時だって結構です 何卒、お待ちします、田舎だってヒト味です。
一緒に山登りをしましょう
 
※「早春の風」「在りし日の歌」──著者註
 
手紙34 昭和7年3月22日(はがき)(山口市 湯田)
 
 先日来、雨や雪がよく降りましたが、今日あたりから晴がつづくだろうと思われます。
 
手紙35 4月19日(はがき)(赤坂局発)
 
金子ありがとうございました
本朝ランボウの翻訳お送りしました
山口宛のお手紙有難一昨日くにより廻送して来ました
春は、悩ましゅう候          匆々
                   中原生拝
 
手紙36 昭和7年5月2日(はがき)(東京駅にて)
 
先日は失礼しました。
これから一寸京都へ行って来ます。高森と一緒です。
立命館の友達が法律事務所を開き、それの披露式が土曜日にあります、それに是非来いといいますし旁々(かたがた)行って来ます。
京都で英倫に会ったら詫びを云います。
万が一御用の節は
    京都市河原町丸太上ル三筋目西入
      電、上、四六七八 田中伊三次気付
ゆらりゆらりと、しずかに酒を飲んできます
                     さよなら
 
手紙37 昭和7年5月7日(はがき)(奈良局発)
 
 五日から奈良におります
 おとといきのう曇小雨で、今日はじめてのお天気です
 いま猿沢池畔で陶然としておりますよう
                     中也
 
手紙38 昭和7年5月19日(はがき)(赤坂局発)
 
同便にて短文お送りしました
こんなものでどうかと思いますが、採れれば日大新聞にお願いします
Bon Marchandは、仏大使館の通訳官で、忙しく、とても教えなぞしないだろうとのこと、外語の先生が言っていました。
                                                              匆々
 
手紙39 同日(封書)(代々木 千駄ケ谷)
 
昨日は失礼しました。
 
云い忘れていましたが、岡崎の雑誌へは、先日お送りしたランボオの中から、選んで下さいませんか。
猶ラテン街の屋根裏の切符、お送り下さる様お願いします
                     匆々
                     中也
 
   安原喜弘様
 二伸、若しランボオより、もっと他のものがよさそうなら、その旨お知らせください。
 
手紙40 昭和7年6月8日(はがき)(赤坂局発)
 
前略
航海練習科は、日本丸等、学校の練習船の事務所如きものだそうです。
来週はパリイの方にします。
   八日                匆々
                     中也
 
手紙41 昭和7年7月19日(はがき)(代々木 千駄ケ谷)
 
先夜は失礼
ゴッホは、クルト・ピスタア(中川一政アルスにあるもの)を土台にして、処々に少しずつ自分の意見を加えて書くことにしましたがどうでしょうか。なかなか僕なんかが考えて書くよりもクルト・ピスタア氏の方がよっぽど有益だと思うのです。剽盗にならないためには、最初にクルト・ピスタアに拠るとしましょう。印刷界の常識から云えばそんな必要さえ殆んどありません。現にこのアルスは翻訳なのを一政著とあります。相手が辞典ですから、権威ある専門家のものの方が勿論よいでしょう。今三分の一位書いた所です。四五十枚になりましょう。若しそれで君が嫌ならば、没書にして下さい。
今日大岡の所でベルレーヌ全部写して来ました。非常に面白いです。一日で写したんでクタクタになりました。何れお目にかけます。
予約の方大抵、早くやると使っちまうと云っている模様です。とんだ見当ちがいです。そうではありませんか。        匆々(十八日夜)
 
手紙42 7月26日(はがき)(山口市 湯田)
 
先日はありがとうございました
こちらも、暑いです ごはん食べたい時食べられるのだけ、仕合せです。
弟はガンとして学校をいといます。四五日したら僕同道して、豊前の或るお寺の修道院に入れることに、今母との相談が成立ちました。
弟を修道院に入れて二三日しましたら、高森の家に向います、詩集の方のことは大丈夫です、ゴッホやっています。       匆々さよなら
 
手紙43 昭和7年7月27日(はがき)(山口市 湯田)
 
偶(たま)に来る行商が.鮎を持って来ましたからお送りします
例の祗園祭りが、(八日間続くのですが)今日でおわりです 昨日晩は行って 花火をかいました 中学の時の同級生で、今は少尉殿であるのに会って 一緒にビールを飲みました 何処にいるかと云いますから、「外語の夜学」といいますと、「夜学かア」といわれたんでガッカリしました。田舎では夜学といえば、東京の三倍くらいわるい響を持っています。それでも五六日ぶりで人と一緒に飲む僕は、愉快なことでありました。きかんに悪口を云ってやりますと、微苦笑をしておりました。げに落伍者というものは、悪口を云う権利のある、所以です。
蝉の音のほか、何にも聞えません、寝ころんでいますと、何だかいたずらにかなしくなって来ます 飛行機にでも乗って飛び出したい気持と、このままジッとしていたい気持と、両々相俟(あいま)って湧いて来ます。詩を書こうと思えば、いくらでも書けそうです。だが万事急がないことにしています。出来るだけのんびりと、のんびりと怠けていよう、そう思っております、いたずらに唾するものは生気を失う──貝原益軒先生が、僕には身に泌んでありがたくあります。いたずらに唾するものは生気を失う。蝉の声のほかなんにも聞こえません。ナムアイダ、ナムアイダ。
                     さよなら
 
手紙44 昭和7年8月5日(封書)(山口市 湯田)
 
僕事毎日あんまり刺激がないので、──それが半ばよく半ばやりきれないことなので、自分で落付いているんだか憔立(いらだ)っているんだか分らないような気持です。明日からは高森の所へ行きますので、好いです。
それで明日からの居所は宮崎県東臼杵郡東郷村山蔭 急行がないので、十三、四時間かかります、関門海峡を渡るのがたのしみです    匆々不備
    五日                      中也
 
手紙45 昭和7年8月8日(絵はがき)(車中にて)
 
今日此処に来ました
島を一時間ばかりで見て、大急ぎで吉松行に乗りました 今夜吉松に一泊、明日は天草島に渡ります
高森と一緒です
金のない旅行たるや、げに惨憺たるものです。   さよなら
 
 海燕の声を、はじめてききましたが、いいですね。
 
手紙46 昭和7年8月10日(絵はがき)(天草 本渡にて)
 
本渡は天草の首府です 人口四千。のんびりした所です、人がみんなにこにこしています。他所から来ている者は殆どない様な風です。酒はいいです。
言葉は、四十以上の年配者のは、皆目わかりません。但しこっちのいうことはよく分ります。 
 
手紙47 昭和7年8月16日(はがき)(山口市 湯田)
 
 拝復
十日附のお手紙本日落手しました 十二日天草より帰ってきました
ゴッホは本名でも又、千駄木八郎でも宜しくお願いします。
毎日甲子園を聞いています、退屈です。上京したく、茂ぽっぽにもあいたいですが、二十二三日迄は立てないようです
昨日今日、夜は盆踊りの太鼓が 小さな天地の空に響いています
髪を刈って、イガグリ頭になりました 従って間もなくイガグリ頭で、出現のことと相なります
                     匆々不備
 
天草はよかったです、路の向うから支那の荷車でもゴロゴロ来そうな、一寸そんな所です
 
手紙48 昭和7年8月23日(絵はがき)(金沢にて)
 
金沢に寄りました
気分は昔のとおりですが、距離の記臆などは随分違っています
 
匂いを臭いで歩いているようなものです
二十年の歳月が流れたとは思えません
                     さよなら
 
手紙49 昭和7年9月23日(はがき)(大森 北千束)
 
先日は失礼
今日美鳳社から手紙が来ました 表紙と扉は木版にするそうでして、それと地の色との校正が二十七八日頃出来るから一度来てみてもらいたいとのことです 何れ電話差上げますからその節は又御足労お願いします
地の色は鼠ばかりでなく、淡い緑の含まった鼠がよいような気もします 勿論現物を見た上で、専ら君の判断されんことをお願いします
佐規の山岸に於ける状態は、目下小康を得ています
                     匆々万方
 
手紙50 昭和7年10月21日(はがき)(大森 北千束)
 
昨日は失礼
玉川学園の原稿すっかり忘れて来ました
二三日うちにとりに行きますからお留守でも分るようにしておいて下さい
取りにさえ行けばその日のうちに校正して送りますから遅れることにはなるまいかと思います
右要用のみ
 
手紙51 昭和7年10月24日(はがき)(大森 北千束)
 
先日はお疲れの所御免なされ。
ゴッホの挿画は、文章と章との間に、適宜に、次の十三枚の絵を、お好きな順序に、入れて下さいとて、とにかくその十三枚をだけ、抜き出しておきました。あの文章の、どこにどの画が入ったとて、効果は殆んど夫々に等価であると思ったからです。
昨夜吉田一穂を訪ねて、その時頼まれたのですが、「新評論」(クオタリイ)正月号に、寄稿しませぬか。可なり長い方がいい、四五十枚が最も格構です。翻訳でも結構なのです。締切は来月の十五日。何れまた会った時、お分りならない点は質問に応じます。
                     不備
                     中也
 
【昭和8年】
 
手紙52 昭和8年1月12日(はがき)(大森 北千束)
 
 郵便で御免下さい、怠けています。益々なまけたくあります。何分、本で覚えたことだって僅かですが、実際で覚えたことは尚更僅かですので、こうして怠けていることが十分勉強となるのです。でもまあ学校の出席だけはすることにしています 先日の煎薬は仙女湯と申し、下谷区谷中初音町四丁目一四二皇栄堂で売っております。
御退屈の時はお呼び下され度、十四日は桜の園を見に行きます。(荏原三、二六八枡札)
 
手紙53 昭和8年1月29日(封書)(大森 北千束)
 
昨夜は失礼しました。
其の後、自分は途中から後が 悪いと思いました。といいますわけは、僕には時々自分が一人でいて感じたり考えたりする時のように、そのままを表でも喋舌ってしまいたい、謂ぱカーニバル的気持が起ります。その気持を格別悪いとも思いませんが、その気持の他人に於ける影響を気にしだすや、しつっこくなりますので、そこからが悪いと思いました。取乱した文章乍ら、右今朝から考えましたことの結果、取急ぎ お詫旁々おしらせ致します。
    二十九日     一人でカーニバルをやってた男
                          中也
 
手紙54 昭和8年3月22日(はがき)(山口市 湯田)
 
二十一日無事帰り着きました 当地はまだ冷たい風が吹きすさんでいます 山の梢ばかりが目に入るというふうです
奈良には二泊しました
 鹿がいるということは
 鹿がいないということではない
 奈良の昼
     と日記に書きました
                  匆々
 
手紙55 昭和8年4月7日(はがき)(東京 目黒局)
 
六日夜帰って来ました お変りありませんか
 家では弟が病名の分らな病気に苦しんでいましたので、憂鬱でした おかげでいらいらしています 少し落着き次第、お訪ねしようと思います では拝眉の上
                  匆々
 
手紙56 昭和8年4月25日(封書)(大森 北千束)
 
 前略──今日お宅を出ると間もなく思いついて急に芝書店に詩集をみせに行きました、結局製本屋への紹介は便宜を与えるということにとどまりましたが、一寸一時は動きかけていました、もう少し雄々しく此ちらが出れば、引き受けたのかもしれませんでした。紙や組み方は立派なものだといって感心していました。ここまでやっている上は製本もよくなくちゃ、とも言っていました。鳥の子で高くも四銭(表紙)といっていました。製本共に三、四十円なら上りそうなので、なまなか本屋に持ってってもらうよりはピンカラキリマデの自製本としようかとも思いますが。どっちにしても出しとけば売れると云っていました。(定価は実費のまず二倍とするものだそうです。)──生れて初めて本屋に持込みました.却々(なかなか)の勇気でした。
今晩フランス語教えました。知らない人に教えたのははじめてで、相手の気持が分らないので少々周章(あわ)てました。加之(のみならず)、ジンマシンになり、教えているうちにも、みるみる、からだ中赤くなり、痒くなりました。今もう指の先まで赤くなっています。ジンマシンたるや、いかにも此の頃の自分の総勘定のような気がしまして、これが癒ったらさっぱりするだろうというようなことを思います。また雨です。
 つまらない詩を同封します。            中也
   二十五日夜
 
善弘様
 
二伸 今京都の高森から手紙か来ました、友達がなくてまいっているようです、出来たら関西美術のお知合に紹介して下さいませんか。
『左京区田中大堰町一九 愛知館 高森淳夫』
 
 
 
 
無題
 
此の年、三原山に、自殺する者多かりき。
 
 とにもかくにも春である、帝都は省線電車の上から見ると、トタン屋根と桜花(さくらばな)とのチヤンポンである。在曇りの空は、その上にひろがつて、何もかも、睡がつてゐる。誰ももう、悩むことには馴れたので、黙つて春を迎へてゐる。おしろいの塗り方の拙い女も、クリーニングしないで仕舞つてをいた春外套の男も、黙つて春を迎へ、春が春の方で勝手にやつて来て、春が勝手に過ぎゆくのなら、桜よ咲け、陽も照れと、胃の悪いやうな口付をして、吊帯にぶる下つてゐる。薔薇色の埃りの中に、車室の中に、春は来、睡つてゐる。乾(ひ)からびはてた羨望のやうに、春は澱んでゐる。
 
 
 
 
無題
 
パツバ、ガーラガラ、ハーシルハリウーウカ、ウハバミカーキ
シヤヨ、キシヤヨ、アーレアノイセイ
 
十一時十五分下関行終列車
窓から流れ出してゐる灯光(ひかり)はあれはまるで涙ぢやないか
送るもの送られるもの
みんな愉快げ笑つてゐるが
 
旅といふ、我等の日々の生活に、
ともかくも区切りをつけるもの、一線を画するものを
人は喜び、大人なほ子供のやうにはしやぎ
嬉しいほどのあはれをさへ感ずるのだが、
めづらかの喜びと新鮮さのよろこびと、
まるで林檎の一と山ででもあるやうに、
ゆるやかに重さうに汽車は運び出し、
やがてましぐらに走りゆくのだが、
 
淋しい夜(よる)の山の麓、長い鉄橋を過ぎた後に、
──来る曙は胸に泌み、眺に泌みて、
昨夜東京駅での光景は、
あれはほんとうであつたらうか、幻ではなかつたらうか。
 
 
 
無題
 
闇に梟が鳴くといふことも
西洋人がパセリを食べ、朝鮮人がにんにくを食ひ
我々が葱を常食とすることも
みんなおんなしやうなことなんだ
 
秋の夜、
僕は橋の上に行つて梨を囓つた
夜の風が
歯茎にあたるのをこゝろよいことに思つて
 
寒かつた、
シヤツの襟は垢じんでゐた
寒かつた、
月は河波に砕けてゐた
 
 
 
 
無題
        おお、父無し児、父無し児
 
 雨が降りさうで、風が凪ぎ、風が出て、障子が音を立て、大工達の働いてゐる物音が遠くに聞こゑ、夕闇は迫りつつあつた。この寒天状の澱んだ気層の中に、すべての青春的事象は忌はしいものに思はれた。
 落雁を法争の引物にするといふ習慣をうべなひ、権柄的気六ケ敷さを、去にし秋の校庭に揺れてゐたコスモスのやうに恩ひ出し、やがて忘れ、電灯をともさず一切構はず、人が不衛生となすものぐさの中に、僕は溺れペンはくづをれ、黄昏に沈没して小児の頃の幻想にとりつかれてゐた。
 風は揺れ、茅はゆすれ、闇は、土は、いぢらしくも怨めしいものであった。 
 
手紙57 昭和8年5月16日(はがき)(大森 北千束)
 
先日は失礼しました
今日になってもまだ青山からの返事来ませんので、何卒よろしくお願いします
高森の弟は藤井勇氏に会って、喜んでいる模様です、直ぐに上京する筈だったのですが、今月一杯は猶京都にいるそうです
『文芸万才』(九月創刊予定) の同人となりました、随分大勢で二十人くらいです
一生懸命温(おとな)しくしています
                    匆々
 
手紙58 昭和8年5月25日(封書)(大森 北千束)
 
成城の方で忙しい由聞きました
僕は生徒の一人が家出をし、そのことでクタクタになりました、他の一人の生徒は遠くに引越したのでやめになり、ここの所三人です
高森が京都から帰って来ました、賑やかになりました、これを機会にお酒をあまり飲まないことにしようと思っています、此の間から毎日飲みつづけで、昼間はまるで元気がありません、寝ころんでばかりいます セザンヌが、近頃一段と面臼くなりました、コロオなぞはおおまかなものだと思うのです 何処へも行きません、電話もかけません 新聞を隅から隅まで読みます 
成城の方がすみましたらお知らせ下さい、御身御大切に
                       さよなら
    二十五日                   中也
 
手紙59 昭和8年5月31日(はがき)(大森 北千束)
 
前略
腎臓炎になりました 二三週間は絶対安静を申付かりました
貴下には猶成城学園の方で御多忙のことと思いますが、その方が済みましたら、御来駕の程、待侘ぴます。
                       匆々
 
 熱がある時にひどくけだるい以外には、苦痛といって左程ありません。ただ顔はヒドク腫れて、日によっては目が細くなります。
 
手紙60 昭和8年6月19日(はがき)(大森 北千束)
 
御無沙汰しています 成城の方は一先ず落付いたようですね 僕の生徒は又又七入(但し五組)お酒はやめています 出掛けたりしても、翌日はムクんだりします 毎日毎夜籠って、持っている本が少しずつ読まれてゆくというのがたのしいという、いたって無事な暮しです、此の分ですと借金も、八月一杯には全部キレイになってしまいます
小山で巴里祭見ました、ひどく凝ったもので、水も洩らさぬ仕組ですね。時々印象的な場面がありましたが、モロッコなぞのように面白いとは思いませんでした、青山の方のこと、そのうちお願いします
    十九日                匆々
 
手紙61 昭和8年7月3日(封書)(大森 北千束)
 
ごぶさたしています、先達は雨に相当やられたでしょう、ハシゴ段を降りるや傘のことを忘れました。すみませんでした。
その後まだ一度も外出しません。夕万大岡山まで歩いたっきりです。からだは、極めて徐々に回復しています。自然に対する感性が少しずつ帰ってくるので、そうと思われます。読売の五百円はとりにがしました。這入ったら房総方面で二夕月暮らそうと思っていましたのに。小林は未だ来ません。
今年は夏が嬉しいです。空が美しく見えます。部屋はよく風が通しますので、顔の上に新聞をかぶせて午睡しているとよい気持です。変な話ですが、僕には夏のよさと印刷インキの匂いとが非常によいとりあわせを、もとから感じさせます。──佐渡なぞというのはあんまり一時的な思い付でした。此の夏房総でゆっくりしたいという夢は却々(なかなか)現実性がありました。
まだ手足の力がちっともありませんので、当分外出は控えようと思います。少しまた元気になりましたら、伺います。
ここの所生徒が夏休みになって暇ですから、午睡などしに何卒おいで下さい 匆々
    三日
                    中也
 
手紙62 昭和8年7月20日(はがき)(大森 北千束)
 
先日は失礼
『紀元』に富永の這入ることすっかりみんなに了解を求めました。安吾も承知です。君も這入るかも知れないといって了解を求めておきました。それでもし這入られるならば、二十三日午後六時(但し七時頃となりましょう)菊正に来ませんか。当日の会費一円。そしてその日までなら八円にて、七月分までの同人費全部済のこととなるのだそうです。雑誌が続きさえすれば、是等顔ぶれにても結構第二の川端が出、横光が出るというものなんだろうと思っています。別に五月蝿(うるさ)いこともないのですから、ともかく這入ってみられればよいと思います。
 富永にはこれと同時に手紙出しますが、もし会われることがあったら、よろしく話して下さい(戯曲ならばテアトル・コメディに同人よりわたりをつけられるという人もありました。)
 奈良の長谷川は遂々(とうとう)開店しました。あいつも同人になるかもしれません。
    廿日               匆々
                       中也
 
手紙63 昭和8年7月30日(はがき)(大森 北千束)
 
昨言あれから同人に会いましたら、五日は二三人しか集らないから、十五日がいいと言っていました。十五日は雑誌の出来上る日で、全部集る筈になっているのです。
                     右まで
原稿締切は毎月十五日です
 
手紙64 昭和8年8月5日(絵はがき)(山口市 湯田)
 
無事帰着きました 病人があまり痩せているのでチトがっかりしました
この分では多分、九月まで山口住みとなりそうです 失敬
 
手紙65 昭和8年8月18日(封書 速達)(大森 北千束)
 
 明日はよほど寝坊しそうなので、これにて
 明日(十九日)「こころ」での出版記念会には(この間いなかった同八四五名と)「青い馬」の連中というのも四五名来る筈ですから、出席されればよいと思います
芥川の甥なぞも来るでしょう。僕は行きます。
 猶、今度の号は僕が編輯しますから、何卒何なりと書いて下さい。二十五日の午前中に僕まで届けば結構です。
 
明晩は、ワルプルギスの酒場がおっぱじまるでしょう。僕はみんなの今迄の仲間をよく知りませんので、みんなの話をきいていてもわからないことがよくありますので、新顔が七八名来そうだとあっては、行くことにしました。
    とりあえず右まで
    十八日夜                  中也
 
手紙66 昭和8年9月18日(はがき)(大森 北千束)
 
昨晩は失敬しました
うっかりしていましたが、野口は毎日勤めていますので、夜七時以後か、日曜日にしか行けないのですが、夜、編輯主任の私宅へでも出向くというようなことは出来ないでしょうか。僕が代理ということになって行きましょうか。明日ともかく電話をかけましょう、お午頃です。
       英倫にはがきを出しておきました
       古谷に寄贈するよう発送部に云っておきました
    十八日
 
手紙67 昭和8年11月2日(はがき)(山口市 湯田)
 
立つ時には、色々とどうもありがとうございました
汽車は随分ガラ空きで、楽でした 例のアブサンは杏仁水(きょうにんすい)と糖酎の混合液であること、一人でシミジミ飲んでいると分るのでした。胸がわるくなって来て、あの瓶の、三分の一も飲めませんでした
今加藤の小説読みました 面白いですけれど、なんか気持ばかり見えるといったふうの点は、物足りなく思いました。
田舎は、稲が刈られんばかりで、その上を風が吹いております。東京よりは、寒いようです。              では又、
 
手紙68 昭和8年11月10日(封書)(山口市 湯田)
 
御無沙汰しました お変りありませんか
紀元の十二月号まだ印刷屋にも廻っていない由云って来ましたが、出せるものならもう二三号は出したいものと思います 僕女房貰うことにしましたので 何かと雑用があり 来ていただくことが出来ません 上京は来月半ば頃になるだろうと思います ランボオの書簡とコルビエールの詩を少しと訳しました 自分の詩も三つ四つ書きましたが、書直して送る勇気が出る程のものではありません お天気の好い日は、野道を歩きますが、まぶしくて、眼の力が弱ったことを感じます
 コルビエールの訳詩を一つ書きます
 
 
巴里
 
クレオルとブルトンとの合ひの子の
彼も亦、雑踏の巷にやつて来た。
其処市場には石出来のものとてないので、
太陽は、てんで調子を欠いてゐた。
 
──ぼやぼやするねい! のろくさしてらあ……
やいこの間奴け奴、押すんぢやないよ!
……火事は消えたよ、すつかり消えたよ。
──バケツは往き来す、空のや重いの。
 
其処に、哀れな小さな娘は
辻君通りに現れる、男等は云ふ
 
あの小娘は、何を売るんだ?
 
──何にもよ。──愚かな女は立どまったまゝ
空のバケツの音さへ聞こゑず
吹き行く風を見送つてゐた……
 
大概どの詩にも会話体が這入っています上に、それが外国の町言葉なので訳しにくくて仕方ありません、おまけに原詩もシラブルの点など寧ろ目茶苦茶です。
 
 
 「えゝ?」といふ詩の一節
 
随筆だと?──なにはさて、私は随筆書きはせなんだ!
研究?──のらくら者の私は剽窃でさへもしなかつた!
本だって?──製本するにもあんまり粗略で……
原稿か?──いやはや悲しい、百文にもならぬ!
 
詩だつて?──へえ有難う、私は詩才を洗濯しました。
書物だと?──……書物とは猶、読むものなりだ!……
紙だつて?──いや、感謝する、綴られまする!
アルバムか?──それは白くはございません、それにあんまりグザグザです。
題韻詩?──何処に韻?……かんばしくもない!
著作だと?──つやもなければ光もござらぬ。
小唄だと?──そいつはいいや、いとしのミューズ!……
 
                  ではまた書きます
     十日                  中也
 
手紙69 昭和8年12月6日(はがき)(山口市 湯田)
 
お手紙拝見しました、文字通り忙しかったものですから失敬しました 今日漸く暇になり、荷造りを始めようと思っています 上京の上は、今度はアパートに這入りますので、電話もあり、何卒ユルリとお遊びに来て下さいまし
とりあえず右迄 拝顔の上             匆々
 
手紙70 昭和8年12月15日(はがき)(東京 四谷 花園町)
 
表記に移りました
御帰京次第に電話下さいませんか
 まだ何かとごたごたして 気持が落着きません 買物に出掛けては必ず一つ二つ忘れて帰って来ます                   匆々
 
【昭和9年】
 
手紙71 昭和9年2月10日(封書)(四谷 花園町花園アパート)
 
お葉書拝見僕こそ大層御無沙汰しています
御風邪の由何卒御養生専一に願上げます
蓄音器は先月末に買ったのですが、吉田が欲しがっていましたからその方へ葉書出してみましょう
僕事 シェストフの本を読んだり、小林から「おまえが怠け者になるのもならないのも今が境いだ」と言われたりしたことから、ここもと丹田に力を入れることが精一杯になっているのです
池谷が死んだり嘉村が死んだり佐々木味津三が死んだり なんだか砂混りの風が吹いているような気がします どうもウスラ悲しい時代だと言うことはどうもほんと 考えあぐんだ上で、からだの調子がよいということが万事にまして大事だと思います 
その次にはハキハキするということ。尠くも文壇は決してハキハキしていません これが神経のある者のからだを損う一大原因だと思います
街の灯 一昨日みました 余り面白くは感じませんでした クーガンが硝子(ガラス)を割って歩くと、あとからガラス屋のチャップリンが修繕にゆく──あの頃のチャップリンが一番歌っていました「こうしたい」という所で凝らないで「こうしたらどう見える」と言う所で凝っています うまさが目的になった人の 力の空虚が街の灯全篇に漂っているということは あんまり主観的な云分でしょうか。
 御養生専一に何時かまたシタタカあおりましょう
    二月十日               中也
 
手紙72 昭和9年2月11日(はがき)(四谷 花園町)
 
前略 蓄音器吉田秀和今日来て是非いただきたいとのこと。受取る場所は何処でしょうか。何卒僕まで知らせて下さいまし。
右要用のみ。
 
二伸、ポタブルならよすとのことです
三伸、金は出来ました。
 
手紙73 昭和9年3月15日(はがき)(四谷 花園町)
 
先日は失礼 二ちゃんは一昨日帰ってまた昨夜三崎の方へ行きました また二三日したら帰って来るだろうと思いますが、当公病人が三崎にいる間そんな調子だろうと思いますから、気の向いた時電話してみられるのがよいと思います 一昨日話はしておきましたから
 
(アパートでは)雨の音が静かです 風さえなければアパートの雨は甚だ結構です
少しずつ本が読めます 風景画が沢山みたいような気持です    失敬
 
手紙74 昭和9年3月18日(封書)(四谷 花園町)
 
 同封の切符貰しましたが 行けなくなりましたのでお送りします
 二ちゃんは昨夜はまだ帰っていませんでしたが、今日は妻君が来る日なので帰って来て、明、明後日位はいることと思います
    三月十八日            中也
 
手紙75 昭和9年6月2日(封書)(四谷 花園町)
 
 今日は失礼しました あれから暫く歩いて、まだ時間があると思って荷物がありましたので一度家に帰り、直ぐ行ったのですが、二時三十五分でした それから三十分待っていましたが、多分もう出かけられたことと思い、帰って来ました メンチョウもうなんでもありませんが、一時は内心心配でした、もとからあった小さなおできにビックを貼りましたら、そのビックにバイキンがあったか、バイキンのいた上にビックを貼ったかです 顔がはれて、ボクレツ以上でした
 酒をすっかりやめて、彼是(かれこれ)一ケ月になります 朝も割合早く起きます からだを丈夫にしなければサンサシオンが働かず、サンサシオンが生々していない限り人生に幸福はないのだとテッキリ感じましたので、ひとまず酒を全然とにもかくにもよしました
 今「詩とその伝統」という感想を書いています 此のあとで、物のあわれがなかったら、この世にはどうにも仕方のない焦慮と、他にあればホクソエムことだけくらいだという、誰でも感じていながら、通念とはなっていないこのことを、書いてみたいと思っています
 それを書いたら、一先ず安心出来そうです それからは近頃割合閑がたのしく過ごせますので、チットは身のある詩が書けだすかと思っています 書けても書けなくても 三四日前熱が大変出て夜中眠らなかった時 ひととき感性が大変生々しく、昔の気持を思い出し、その時は色んな夢が湧きましたし面白かったので、──神経を和やかにすることが一番いいと思ったのでした
 どうもよく書けません 何れゆっくり書こうと思いますが
 おまけに自分ばかり喋舌りましたが、実以て神経和やかの祈念で一杯で、他のことくすぐったいばかりな次第です
 右御詫び旁々、近頃感想迄           匆々
 
手紙76 昭和9年6月5日(封書、速達)(四谷 花園町)
 
昨晩は失礼、今日生徒が来る日ナノヲ忘れていましたし、医者ノ宅診が午前中だけなので此の手紙午前中に出すこと出来ませんでした 山岸氏が来られての話には佐規子が入院しているとのことです 病名岸さんにもよく本人が話さぬようです もう二週間入院しているそうです、金を出す人は(岸さん以外の)人がいるようです、癒ればその人とのことやなんかで、ちょっとゴタつくようです 岸さんもゴク遠くから見ているだけで、今度ハ本人自身ニ整理させるようしむけることとしました 茂樹の方は岸さんが引受けるそうですから大変有難い。
──いや一寸、今日此のことで頭が一杯なんで書きました。
昨夜は論文論文と少し論文のこと云過ぎましたが、書くにしても詩の範囲にトドメますし、あまり論文は書きたくありません 手をひろげてはガサツになるばかりと思っています
                      匆々
    六月五日                中也
 
手紙77 昭和9年6月24日(絵はがき)(四谷 花園町)
 
御無沙汰しています 本屋の方まだ定まらない由大岡から聞きました いかがお暮しかと存じます
僅事女房の眼が両方となり、せいぜい二時間しか外出することが出来ません あわてて大学病院にも見せました もう半年はかかると思っていなければならないとのことです
二ちゃんが軽い胃カイヨウをやりましたがもう直き癒ることと思います コマゴメのおできの薬もう十日ばかり飲んでいます 看病の暇に本を読むのが唯一のたのしみです 何卒御退屈の時お遊びにおいで下さい。 先は右まで
                  匆々  中也
 
手紙78 昭和9年8月25日(封書)(山口市 湯田)
 
 御手紙有難うございました 御変りもなくて何よりです 僕はブラブラと暮しています 甲子園がある間は毎日聞いていました 昨日は朝から汽車で二時間位の海辺の町に出掛けて来ました 懶(ものう)げな風物が何のことはない面白いのです 女房の眼は次第によくなりつつあります
 般若心経読まれた由、森ラ万象が畢寛(ひっきょう)気だとしたらやりきれないと僕も思いますが、森ラ万象を傍観したら結局気で運転していることになっているので、各当人現在としたら、潜在意識層を外れず意識の働いている有様なれば気に満ちているわけにて、潜在意識層というのは必寛感性のことにて、感性の新鮮さは精神統一と謂われる状態にて得られるもので、精糊統一とは何か或る一事の統制ではなく放心的生活のことにて、即ち「無」にて、「無」とは「不在」ではなく一切が出発するかもしれぬ点のことにて、子供がいるのはその点にです──と、般若心経を知らないのですが、かにかくにそう僕は心得ていたいと思います。
 それにつけても僕事はノンビリとしたいです 昨日はその海岸の近くの人も行かない、石の川床がヒデリのためにアラワレていて、川のそばの高いヤブのために陽の当らないその川床の上に、二時間ばかりネコロンでいました 自分のノボセを去ることも困難ですが、時代的なノポセを去ることは一届の困難です 時代的なノボセを避けようというのではありませんが、時代的なノボセをそれがどんな性質のものだと、ゆっくり述べられるようになりたいと思っているのです
 陶酔の線がヒヨワくなっているということはどっちにしても幸福なことではありませんし、何時までもヒヨワくては国が駄目になります ナミナミとしたタルミのある線というものが現代のように稀になったこともないでしょう オーケストレーションをもっと簡素にして今と同様の感銘を持たさせるようなジャズというようなものが、生れなくてはならないのだろうと思います
 油一滴、屈もひらず──こういう一種の呪文が心を往来しています 弗(フツ)これがまた呪文です
 まとまりもないことを申しましたが今日はこれで失礼します
    八月二十五日                 中也
 
手紙79 昭和9年9月10日(封書)(山口市 湯田)
 
 御手紙拝見しました。詩集のこと、出していただければ結構です 条件といって別にありませんが、紙型は渡さないで、初版だけを先ず出すということにして、猶二百部限定ということは、刷込むなり広告に害入れるなりして、分らせた方が何かと当今よいのだそうですから左様したいと思っております 其の他のことは、小生が当地にて独り考えたところで、何の決るものでもありませんので、万事御考えの通りに御取や捗い下さいませんか。取敢えず御返事まで。
    九月十日              中也
 
安原妻弘様
 気候の変り目なんとなくあわただしく、それでもまた希望も湧くようなものにて、それにしても日々は退屈、今日から近くの競馬など見にゆきます
 
手紙80 昭和9年9月18日(封書)(山口市 湯田)
 
拝復 変りがないどころか大いに退屈してしるのですが、どうも「無」の演説をする手前退屈を喞(かこ)ってもいられないみたいです
御手紙拝見しました 大変よく分りました 隆章閣では余りイワユル凝った出版にしたくないようですが、もしそれなら僕とて普通に、まず五百部なり八百部なりの出版にしていいと思います もともと自費出版しようと思ってしたことですし、それならイワユル当今流行の少部数にしてムッチリと構えるより仕方もあるまいとて二百部としたことですし、それをそのまま隆章閣に引受(ひきつ)いで貰うような気分でしたから二百部ということは固守しようとしたのでしたが、隆章閣で普通の出版にして、勘定の合うように、適当な部数を出して貰えれば幸甚に思います 定価も、三円でも三円五十銭でも僕には分りませんから 適当にやって貰いたいと思います ただ紙が、あれと同しのがあるかどうかよく分りませんが、あればなるべくあれと同様のものにしていただきたいつもりです それでもし引受けてもらえれば結構です 装幀はやはり、五十銭位かける方が、普通な出版とするとしても、当今装幀の悪い詩集は売れないことに相場がきまっているようですから、可なり金のかかったものにしたいと思います 勿論五百部にしたって何百部にしたって、限定の文字は入れておく方よいかと思います(例えば今ゴーゴリ全集は千部限定です)
 猶自費の形にして二百部で出すとも結構です が大概なら普通の出版みたいにしてすっかり隆章閣で出して貰える方がいいと思います
 大層お手数かけてすみません 出産がすみ次第なるべく早く今月末か来月初めには上京しようと思っておりますが、出たって余り足しにもなりませんので、ウカウカと出しゃばることはよそうと思っておりますから、何分宜敷(よろしく)お願いしなければなりません
 いっそはじめから、編集しかえて、菊判で十二ポを使って出そうかとも思ってみますが、万事お考えの通りに、お願します
 御存じかと思いますが、二ちゃんが夫婦別れをしたそうです 別に後口のわるいような仕儀にもなっておらず、妻君の方も余り気の毒な風ではないようです
 右とりあえず御返事迄 其の内上京面談の上    匆々
    九月十八日                 中也
 
安原喜畢弘様
 二伸、箱はコーゾか何かを使えば安くて、却(かえっ)て西洋紙よりはいいかと思います、
 
手紙81 昭和9年9月21日(封書)(山口市 湯田)
 
拝復 十八日附お手紙落手しました どうもたびたび恐入ますす すっかり秋になりました 毎日毎日雨 昨夜はまた大風にて十町ばかり先では一軒家が倒れました 今朝からもずっと雨でしたが一時間ばかり前から急に晴れてカラットした日が射しております これからその倒れた家を散歩の旁々見に行くつもりでいます 陸軍の道路政策とかで人道車道と分けられた田圃の中を走っている立派な道路を、カランコロンと十丁ばかり行くとその家が見られるというわけです それはその道路に沿って建っている酒屋なんだそうですが、今此の日射しを受けて倒れている多分はグサグサに腐った家が、その店の中では瓶詰などがゴチャゴチャと冷たく光っていよう有様なぞ、思ってみても大変な興味が湧きます それを片付けているその家の人達や、通りがかりにジロリと見て通ってゆく人々等、僕はそういうものへの興味──興味というよりは寧ろ一種の愛着ですが、その愛着をどう説明していいか分りません カラリと晴れた空の前のその倒れた家は、多分沢山のファンテジイを与えてくれることでしょう 尤もそういう喜ぴは、極く短時間のもので、おまけにめったに遭遇することが出来ませんから、そういう喜ぴの蒐集が何々蒐集と名前の付くものとはなりませんけれども、もしそれが名前のつくものとなる程のものであったら、ホフマンもゴーゴリもチャップリンも、無用の長物になるかもしれないと思います──こう書けば少々オッタマゲタようにも見えましょうが、僕としてからがかなり厳粛な話で、ただその「愛着」の特性を自分でもよく何と言うべきかを知らないだけが、オッタマゲタ感じを与えることともなるのだと思います
籾(さて)詩集のこと、増刷を承知ならば自費の形でなくもよいことに、なるべくはそうしていただきたく思います 十六日附のお手紙では、二百部の中売出せるのは百四五十部と聞いて本屋氏考えこんだ由ありましたので、増刷承知なら全部引受けてくれることとして御返事書きましたが、十八日附のお手紙では自費出版の形にすることとした上でのお手紙になっていますから、ここもと行違いにて、一寸御返事しにくく感じていますが、何れにしても出したいと思っておりますし、増刷承知として全部引受けて貰うことが叶いません場合は勿論自費出版の形で出したいと思います その節は申兼ますがお立替お願いしていただきます 自分で持って上京すればよいのでありますが、実は先日これは自分の詩集の出版ではなく、出版業なるものを始めようと考え母にその資本をねだったのでありますが、相手にしてくれず、その時しまいに怒鳴ってしまいましたので、恰度今ねだりにくくなっている次第ですから、宜敷お願いします
猶、推薦文は本屋の出版となるにしても自費出版となるとしても使いたく思います
右御返事旁々お願迄 子供が生れ次第上京致します
    九月二十一日              中也
 
 安原喜弘様
追伸、二ちゃへの手紙直ちに出しておきます
 
手紙82 昭和9年11月1日(はがき)(四谷 花園アパート)
 
ごぶさたしました 御静養のことと思っております 僕事部屋の掃除をしたり本を読んだりです 毎日三人位は誰かが来ますので仕合せです 偶に誰も来ない日があると淋しくてやりきれません 夜の九時に至って遂におでん屋に出かけるというようなことになります 過日十八日男の子供が生れました ちと勉強しなけあなりません 御退屈の時御遊びにおいで下されば幸甚です 二ちゃんは口今金沢に行っています 来春ランポオ全集を出すことになりました
 
手紙83 昭和9年11月15日(封書)(四谷 花園アパート)
 
 ごぶさたしています 御変りありませんか 御訪ねしようと時々思いますが 又合うとお酒を沢山飲み始めそうで大変重い気持になります 会ったら酒となるということは、どうも我々の時代の青年の不文律でなんとも悲しい気持がします 此間から二度ばかり(一度は朗読会、一度は出版記念会)に出ましたが、一生懸命飲まないようにしていながらとうとうは一番沢山飲んでしまいました 何しろ来年二月迄 毎日二十行ずつランボオを訳さねばならぬのですからたまりません 完全に事務です 尤も詩も童話も書いています『鶴』はつぶれて気の毒です 広告がまずかったのです発売所を名前だけでも大きい所のを借りてやればよかったのです 一つには余りに身近かの人の物が多過ぎたのです 気の毒といっては妙ですが、なんだか気の毒でなりません
 僕の詩集、その後建設社の伊藤さんより話があり、それよりも文圃堂にしたいと云いましたらそうなり 却々(なかなか)うまく運びそうでもありますが、また流れてしまいそうな風でもあります 早く御知らせすべき処 そんな風で、おまけに詩集ではもうクサクサしていますから、よっぽどはっきりしてからでないとお知らせしたくなかったのでした 隆章閣からは少部数の詩集を出すことは一寸似合わない気がしているのです 何しろ装幀者旅行中でまだ海のものとも山のものとも行きませんが、なるべく骨惜しみしないで且つは強引に今度はどうにか片付けたいと思っています
 気がむいたら新宿にやって来ませんか 新宿なら行きつけの玉屋もあります 此節は二十ですから、あまり御迷惑もかけないですむでしょう
 御健康祈ります 活気があることがどうも一番いいようです 今日僕は日光治をしました
    十五日              では又
                         中也
 
手紙84 昭和9年12月30日(封書)(山口市 湯田)
 
御端書拝見致しました。おたよりしようと思乍ら遂に今日にないました自分がいやで何もかも億劫となるのでございます
先日は詩集の案内書お送り被下有難うございました
本日は又結構な物頂戴致し難有厚御礼申し上ます 季内一同大喜ぴ致しました 
 右とりいそぎ御礼迄 最近書きましたもの同封致します
 
 
薔薇
 
開してゐるのは、
あれは、花かよ?
何の、花かよ?
薔薇の、花ぢやろ。
 
しんなり、開いて、
こちらを、むいてる。
蜂だとて、ゐぬ、
小暗い、小庭に。
 
あゝさば、薔薇(さうび)よ、
物を、云つてよ、
物をし、云へば、
答へよう、もの。
 
答へたらさて、
もつと、開(さ)かうか?
答へても、なほ、
ジツト、そのまゝ?
 
      一九三四、一二、
 
【昭和10年】
 
手紙85 昭和10年1月12日(はがき)(山口市 湯田)
 
其の後如何お暮しですか 七日の青い花同人会には出席されましたか 古谷に詩集送るの忘れていましたが春に上京の時送ろうと思っていますからお会いの節は一寸御伝え願います 詩集はその後売れたかどうか伊藤さんからは何の返事もありません 京都のそろばん屋にも行ってはいないのではないかと思っています 病人は立枯れつつあり赤ん坊は太りつつあります 活動写真が沢山見たくて仕方ありません 今色んなものが書けます それで翻訳の方はどうも怠りがちでどうせ締切前に馬車馬になる運命だろうと妙な覚悟です 本日萩の蒲鉾お送りしましたから御笑味下さい
御健康祈ります             匆々
 
手紙86 昭和10年1月23日(封書)(山口市 湯田)
 
御手紙有難うござしました だいぶ御退屈の模様 いっそ読書でもされてはしかがでしょうか フィードレルの芸術論おすすめしたい気がします 放心と努刀の限界みたいなものがハッキリして 何かと面白い本だと思います 詩集おかげ様にて「収支つぐのったから今後ボツボツ売上げを渡してやる」と言って来ました 当地は寒くて仕方ありません やっぱり山間気候とて底冷えがします 毎冬東京で暮していて、子供の時はひどく寒さを感じたものだったと思っていましたが、今度十二年目の冬をこちらで送ってみますと、やっぱり矩健(こたつ)の中にぱかりいます ホンヤクすれば辞書の表紙が冷たいのでどうも不可(いけ)ません その代り読書はイヤでも出来ます ここんとこ習慣になりました 習慣になると何を読んでも命がマダラになるといったアトクチが殆どしません 二十七日(日)午后二時から丸の内蚕糸会館にてマチネー・ポエチクがあるそうです 山宮允 柳沢健 白秋 丸山定夫 照井瓔三等の顔ぶれです 余り面白くもないことと思いますが暇つぶしにいかがですか 二月五日迄に宮沢賢治論書けと云われていますので御手数恐入りますが同氏の詩集「春の修羅」御送り下さいませんか 何時ぞや檀等と東中野で飲んだ帰り御願いしたのですが、酪酊時のこととて御記憶ないでしょう その時もその本よくお分りないようでしたが、弟さんの書棚にあります
檀といえば心平をショイナゲくらわしたというゴシップがあるそうです 心平から云って来ました
雪が降って静かなことです 朝は五寸位積っていたのが今はだいぶへって二寸五分位になっています 手紙書く段となりますと急にマトマリがつかなくなるという甚だ落付のない生活をしている自分が、何べんも製本しなおした辞書みたいに無惨に思えて来ます せめて乱筆でもってその落付のなさにフサワシイ着物でもきせる気持になって自分のイヤサから逃亡したいような気持になる次第です これにて失礼します 御身大切に祈り上げます。
                        中也
    一月二十三日
 
手紙87 昭和10年1月29日(はがき)(山口市 湯田)
 
前略 其後如何お暮しですか 「春と修羅」落手有難うございました 少し田舎に倦いて来ました 女房の眼病がまた再発して弱っております 尤も今度は先のように角膜と虹彩との併発ではありませんから先のにくらべれば余程楽ですが 翻訳は漸く半分と一寸すませました 今日は偶によいお天気で久しぶりでいい気持です 段々春になるにはなるんです 早く翻訳をすませてさっぱりしたいと思います では又、呑気にお暮しの程祈上げます         不一
 
手紙88 昭和10年2月16日(はがき)(山口市 湯田)
 
御無沙汰しました お変りありませんか 此の間から大変寒くとてもやりきれませんでした 二三日前ひばりを聞きました これからはもう暖かくなることでしょう 祖母は三日死去しました 葬式と重なって風邪ひきがうちの中に二人も出来て困りました 葬式がすんでから僕も二日ばかり発熱臥床しました
シェークスピヤ全集を片っ端から読んでいます 面白いですね 有名なものでほんとに面白いものもあればあるもんです
翻訳はあともう三分の一です 早くやって上京したいです 女房眼病再発で都合によれば今度もまた一人で上京します どっちにしても四月に這入りますでしょう 伊藤さんからはそのご何たることもないのみか返事を怠ってすまぬすまぬとだけのたよりがありました なんともかんとも云えたことじゃありません
末筆乍ら御自愛の程祈上ます           さよなら
 
手紙89 昭和10年3月2日(はがき)(山口市 湯田)
 
御無沙汰致ました 其の後お変りもございませんか 小生もはやすっかり退屈致しました なるべく早く仕事して今月末までには上京したいものと思って居ります お訊ねの「宮沢賢治研究」(月刊)まだ出ませんが出たらお送りしましょう 但し小生のものは駄目な上に祖母の危篤と締切がカチ合いましたので二三枚しか書けませんでした
其の内 御自愛祈上ます     匆々
 
手紙90 昭和10年4月29日(封書)(四谷 花園町)
 
 昨晩は失礼しました 左に書きます所は何も今日此の頃という日に書かなくてはならぬ事柄ではないのですが、一寸書いてみたいと思います
 安さんがひどく沈黙家であるわけは、自分の判断を決して話すまいとする、非常に遠慮深い気持から来るのだと思います そこでその事が相手にとってはどういうことになるかを、聊(いささ)か独断的になるかも知れませんが、書いてみます 相手としては、可なり気味の悪い感じが先ず尠くも最初はするのです 何を考えられているのか分らないので。で結局カンに頼ってあと話しつづければつづけるということになりますが、カンという奴は瞬間的な役には立ちますが、長いことには間に合いません 従てカンに頼って話しつづける限り随分見当を違えて話すことも出て来ます それにまた、話の極く具体的な点で、(つまり例で以て云いますと)「昨夜はAと一緒だった」と云って、またBも其処にいた場合、あとでBの話が出ると、「アラBもいたのか」ということになり、またAと自分とで起った而もBがいては起りそうもないことの話が出ると、事実はBはもうその時帰っていたとします「変だな」ということになり、それを「変だ」と言われないとすると、相手はただ顔色が変ったことだけを気付き、さりとてベンメイするのも妙な場合はともあれ話しつづけて行かなければならないのです。すると話す方は余計な気を使って、使っただけ話は一層不慥(たし)かとなったりするようなわけです。勿論世間一般では此のような場合話し手の方はともかくキマリキッタことだけを云うことにするのですが、僕なぞそんな芸当のない者ですから、なんだか辛いことになります。それが二人だけの場合はまだいいのですが、もう一人誰かいて、そいつに向って話すことを、沈黙家が自分も聞いて判断しつつある場合、その人はどう聞きつつあるかがまるで分らないので、ともかく沈黙家を非常に避けるようにして話をするより他なくなるのです
 こう書いていると甚だ自分の根性が悪いのかとも思ったりしますが、相手が意見をドンドン吐いて呉れないということは、最も普通な点で不親切だと考えられます。僕の場谷では「間の置けない」ということも勿論ありますが、間が置けたとしても、そして表情をたよりにするとしても、表情というものは要するに言葉としては賛不賛を示すものにすぎないものです 賛のうち、不賛のうちの種々性は表示しかねるものですから、こっちはどうしていいか分らなくなり、ただもう恐縮するより他なくなります
 それに沈黙家というものは、事実誤解を屡々しているのではないでしょうか。それに、多少とも独善的でない沈黙家というものは僕には考えられません。勿論どんなことにも欠点はともなうと承知の上でのことですが。沈黙家は、世界を鑑賞ばかりしているのではないでしょうか? それで沈黙家があたたかい気質を持っている場合にも猶、一種の冷たさを感じさせるものではないでしょうか。此の場合あたたかい気質であればあるだけ、その一種の冷たさを感ずる相手を、沈黙家の方では意想外に感ずることになるだけ相手は一層辛くなると云えます。又此の場合、沈黙家が如何に相手に添っているようでも、事実は平行しているというだけのものではないでしょうか。
 思っていることの半分も現せませんし、もともと余程僕には表現困難な事柄なのですが、一口に云えば、「もっと苦情を云って欲しい 察しだけで話が始まるとは思えない」というようなことなのです こっちは五里霧中で、そこで気のよさだけでしゃべれば、相手は益々五里霧中ではなくなり こちらは益々五里霧中を深めるのでは堪りませんし又、その上でではどうしようと考えようもないことなのです。
 右不躾け且乱文で失礼ですが、かにかくに感情披瀝したいと思いました もっとよく整理してから書き直そうかとも思いますが、とにかく投函することにします 悪しからず御諒承下さい 猶御意見聞かせていただきたいです 匆々万々
  四月二九日                  中也
 
手紙91 昭和10年6月5日(封書)(四谷 花園町)
 
御端書拝見しました その後如何お暮しかと存じていました 唐突な手紙差上げ、唐突には如何にも唐突だと、その後日を経るにつれて感じていましたので、また手紙書こう書こうと思いながら、その日その日の倦怠に引摺られて、今日に及びました、御免下さい。僕事は只今大変呑気に暮しております。チョッピリ詩名を覚えられましたので、周囲では色々の音(ね)が立っておりますが、また時に酔った時など喋舌ったり演じたりすることを、人は色々に話しておりますが(でもしそれをお聞及びのこともあらぱ、僕が呑気に暮しているなぞと申すことはちょっと頷(うなず)けないことかも知れませんが、)自分としては当今非常に簡明な気持にて、従って周囲で立つ色々な音(ね)は自分の勉強の具になっていると申上げることが出来ます。「ちょいとベネチア派であんしょう」なぞと自分で思っております。これをも少し具体的に書いてみますなら、例えば色々の人と飲んでいて.僕は人の不純を感じてきずつなくなって来たりしますと、そこで何か云いたくなります。それは最初の程は、その座に新鮮な風を吹入れることにもなるので、誰でもむしろ喜びます。だが次の瞬間に、人は「自分」を思い出すと、「不純」に未練を感じ出すこととなるのです。すると何かの形で僕を虐待することにとりかかります。そこで僕が憤慨すれば、却て事態は円く進行するのですが、仮りに「虐待されてやるよ」ということにしますと、うまくは行かないのです。「六ケ敷(むつか)しいもんだ」ということになりますが、その実は大したことではありません。要は「不純」はホンの世間の一局部にて面白いものであるにせよ、世間全体はやはり「純粋」を面臼く感ずるのでありますし、そして「不純」も「純粋」も共々に存在するわけですから、「不純」と「純粋」が出遭った時、圧轢が生じたとしても、生じたその圧轢をただ困ったこととしないで、それが此の世だと覚悟して、この場谷寧ろ「純粋」側の方が、その圧轢の相貌を味ってみる程のことが出来さえすれば、双方結局意味(きょうみ)を覚えることとなるのですし、「純粋」は「純粋」の対象を持つことになりますし、「不純」は更めて空を眺める、ということになるのです。却々(なかなか)現実的なベネチヤ派でありましょう。
甚だ率直に云って、先の手紙の気持が全然変ったのではありませんが、尠くも甚だガタビシした手紙でありましたから、何卒あんな手紙は書かなかったこととして、忘れていただきましょう。
二三日中に引越します。牛込区市ケ谷谷町六二(呼出電話四谷二二○○)余丁町郵便局から三四十間ばかり河田町寄りです。落付きましたら電話差上げますから、御都合よろしい所でビールでも飲みましょう。
河上のサジエスの原稿は別に何とも云いませんから不用のことと思います。全然新たに訳したのに想遅ありません。そうでないまでも貴下の御手許にある原稿の清書したものを当人は持っていると思いました。
右取急ぎ御返事迄。              中也
    六月五日
 
手紙92 昭和10年11月22日(封書)(市ケ谷 谷町)
 
御筆紙拝しました。こちらこそ申訳ありません。大島からの御端書にいただいておりませんが、その前の御手紙には御返事しようと思い乍ら、──何時もの調子の御返事をする位なら、却てしない方がましだと考えたりしまして遂にそのままになっており誠に恐縮致しております。仰せの「心情」は思い出されて御無沙汰なぞしてはいられないのですが、それかといって自分はお友達としてただお話を聞くだけのことにしましても健康な自然に充実したものが、貴兄に対して出て来ない、力不足だと感じますと、却て「心情」も、キコクとなり、いっそ精々冷たくなる方がよいと暫時考えないではいられませんでした。ブッキラ棒に申しますが、お手紙を拝見すると、これでは貴下のおからだも大変だと思います。さりとてお話してお慰めすることだけさえ甚だ不十分にしか出来ないと思いますと、全く混乱して参ります。勿論最初から自分に何程のことが出来ようとも考えてはいませんが、これ程抽象的なことしか出来ないとも考えてはいませんでしたのに。何時も小生としたことが具体的な、響きをさえ持つことが出来ないのが事実であることを思い出しますと全く苦しくなります。
右の様な気持から、先月末頃から、小生自身としましては、日に一定量のフランス語の勉強とフランスの詩集を読むことを日課にしているような次第にて、それだけは体操の如くに致し、そして気忙しい性分らしくその性分の呼吸に忠実に暮らしたりしているような次第です。つまり無能な自分の出来ることの精々をしていることとでも申すより致し方もない始末だと申しているのです。(どうも悪文にてお許し下さい。)不潔な申分ですが、其の後も仰せの「心情」は思い出されると右の様な次第にて辛く、ただただ焦々(いらいら)して参りますから、友達にも一時お別れしたと云い、そしてただ体操をして暮しております。そう云っことは、云った後ではまた云うべきではなかったと思われまして、一口に申せば寝覚めが悪いのです。だから何にまれ小生は詩を読むだけなら面白く出来、それにしばりついているのだと申上なければなりません。まるで自分が精々一杯でいるというだけのことを持出して何に対しても弁解しなければならないという、なってはいない次第です。ですから此の手紙はまるで御無沙汰の申訳だけのものでしかなく、そのほかのことは、此の手紙と一緒に書く力がありません。ただ、自分としまして詩集を読むだけのことでも此の頃著々(ちゃくちゃく)と出来ていますから、ほんの気分の話ですがお会いしても今吃一より幾分か具体的であることが出来るかと存じます。
 右御無沙汰のお詫びをするだけとしましてなら漸く書く勇気の出せましたことです。御返事にも何にもなりません。お暇にお訪ね下されば幸甚に存じます。こちらからお訪ねしましても、神経の弱い小生としては却て失礼な結果になるよりほかもないと考えますから。
                       右まで
    十一月二二日夜               中也
 
【昭和11年】
 
手紙93 昭和11年8月4日(はがき)(牛込 谷町)
 
先日は無礼しました
あの時お話しました「文芸」の随筆は其の後読返してみて 余り途中で切れた感じがひどすぎますので 全然別のを送りましたから一寸お知らせしておきます
別のというのは ごくつまらないもので 読んでいただきたくはないものです 何れあの時お話した主題は 更めて詳しく書きたいものと思っております 御身御大切に
                          匆々
 
手紙94 昭和11年11月16日(はがき)(牛込 谷町)
 
昨夜はありがとうございました
 
                         中也
【昭和12年】
 
手紙95 昭和12年2月18日(はがき)(牛込 谷町)
 
前略
先日は失礼しました 小生十五日退院致しましたから 何意志岬安心下さい
何れ近日中お目にかかりたいと存じます 御帰京の節一寸お電話下されば幸甚に存じます
 右取急ぎ御知らせ迄
 
手紙96 昭和12年4月6日(封書)(鎌倉 扇ケ谷)
 
前略 御無沙汰しました 実は最後にお会いしましたあと神経衰弱はだんだん昴じ「一寸診察して貰いにゆこう」といいますので従いてゆきました所 入院しなければならぬというので、病室に連れてゆかれることと思って看護人に従いてゆきますと、ガチャンと鍵をかけられ、そしてそこにいるのは見るからに狂人である御連中なのです。頭ばかり洗っているのもいれば、終日咳いているのもいれば、夜通し泣いてるのも笑っているのもいるという風です。──そこで僕は先ず、とんだ誤診をされたものと思いました。子供を亡くした矢先ではあり、うちの者と離れて、それらの狂人の中にいることはやりきれないことでした。余儀ないままに一日二日と暮らすうち看護人が自分の面白半分に別に騒暴でもない患者をなぐったり胴上げしたりするのが癪に障って紙は院長が破いた由、退院の後母が御礼に行った時院長がべんかいした由今女房が、ひょっこり話しました。実はその手紙を書いて翌日か翌々日の注射の時、院長が「あなたは海東の小父さん(その療養所を紹介した男)を大変恨んだ手紙をお書きですな」といってニガイ顔をしますので、(つまり紹介者を悪くいうことによって、せめて陥っている窮境をお伝えしようとしたのです)これはまずいと思って、「先日はどうもわけのわからない手紙を差上げました、何しろ昂奮していたものですから、悪しからず御諒承下さい。」というハガキを書いて看護人に渡したわけです。はじめの手紙を破いたからには、次のその詫びの手紙も破いたことと思われますが、それを知る今の今迄、勿論その前便をただただ否定してあやまったハガキを出したりして何のことやらお分りになるまいと思いましたから、退院したら早速会って詳しくお話しようと思っていましたが、三十八日間の其処での生活を終り、帰宅すると亡児と暮らしたその家が一刻も早く移りたくなり、からだはへとへとで、横浜へ行く気がしないのです。無理して行ってもろくに話しが出来なくなり、すると感情が脱線する経験はもう沢山だと思いました。それに第一汽車の窓なんかのニス塗の上に、砂埃りがしてるのを思い出したりしても脳貧血の時みたいになる状態でしたから、安さんが日曜日にでも帰京の時知らせて下されば、一寸伺って話そうと思い、とりあえず、退院の翌々日かに端書を差上げた次第ですが何の御返事もいただけませんから、てっきり入院中に出した手紙にあいそを尽かされたのだろうと思い、尚更だから手紙はすべて院長が目を通すとか、誤診をきっかけに狂人の中にいては遂にほんとに狂っちまうなどという杷憂があり、全く死ぬ思いであったことなど急いでお知らせしようと思いましたが、何しろ三十八日間、病院で見た色々のこと、院長と雇傭員間の感情の動き等、まざまざと見たことに圧倒されていて、適度にその間の事情を表現することが出来ません。気にかければかける程出来ません。そのうち、また気にかけたりするのが神経衰弱の元なんだなぞと思うより仕方なくなり、神様は万事御存知だと思いました。今此の手紙にしろ、一昨日から気管支カタルで床につき、ゆうべ三十九度六分の熱で、今七度六分で、なんだか妙に爽々(すがすが)しい気持ですから、非常に不十分な、思ってることの五分の一も表れてないような手紙ではありますが、とにかく書き付けてゆくことが出来ますので、秋頃までもかからなければ、とにかく入院前後の感想、客観的には書けないと思っていました。
 とにかく、決定的にへとへとになったということです。鎌倉に来ましてから、甚だ少しずつ恢復はしつつあるように思いますが、まだ一ケ月と一寸なのに、もう二度目の臥床です。シンが抜けたみたいになっているのです。一寸風のある日にはのぞの具合がわるかったり、町外れの田舎道を歩きながらふと自失状態になっていたり、です。
 弘明寺ゆきのバスをみるたんびに、気がかりになりますが、岩山に陽の当っているまたよいかな、己が心動揺せるに何ぞ人を求むるぞ、如かす十坪の庭に天地を感ずるにみたいな気持が反動的に起って来まして、その上考えることはただ善良のひょっとこ踊りになるだけだと考えます。
読み返したらもう出したくなくなるような手紙です。何卒御判読被下度お願申します。何れお訪ねしてお話しようと思いますが、一ケ月内にもお訪ねするやら、半年後に伺いますやら何分へトヘトのこと、それに何をでも約束したりしますと、それが念頭に絶えずあるくらい神経が表面にとび出しちゃっていますから何卒御諒恕願上ます。
 末筆乍ら、御健康祈上ます。            匆々
    四月六日                    中也
 
手紙97 昭和12年9月2日(封書)(鎌倉 扇ケ谷)
 
御無沙汰しています 申訳のしようもありません まことに元気のないままに何処へゆく気もしないでいるのです 悪しからず御恕(おゆる)し下さい お変りもないことと思います そしてまた学校は始ったことと思います どうぞ愉快にお暮しのよう、押し寄せる倦怠が少いよう、祈ります
僕事はお陰様で、近頃ではそれでもまあ少しは元気に暮しています 元気というよりか、ほんとは、此の春以来加わった退屈の度に、幾分馴れた、──馴れざるを得ないからというような有様です とにかく此の間からランボオ詩集の校正がありましたし、今日は自分の詩の清書をしています。何かかにか機械人形のようにでもしているという次第です。いよいよ仕方のない時は、朝でも昼でもビールを飲みます。小瓶を二本でまあ一時は凌げます。──鎌倉は、暮してみればみる程駄目です。あんまり箱庭なので、散歩する気もしません。散歩しても体操してるみたいな気持しかしません。スケジュールが常におのずと立ちすぎているのです。いっそもっとうんと田舎なら、遠景があります。しかしまあ、あんまり悪くは云いますまい。僕としてはもし元気であったとしてもやはり鎌倉にはくたびれると思っているのですが、元気がないから何もかも不服なのだと岡田に云われていますから。
 大岡からお聞及びのことと思いますが、十月の末頃田舎に引上げます。京王電車の沿線、終也点に近いあたりにゆこうかとも一時思いましたが、やっぱり引上げることにしました。帰ってもまあ、あんまりいいこともないのですが、ほんのつまらぬ道の曲り角にも、少年時代がこびりついていますし、まあ、なんとな粘着力は感じられます。それに帰れば近県旅行くらいはチョクチョク出来ます。何しろ女房と子供を抱えてこちらで貧乏しているのでは、行脚がアガッタリです。行脚がアガッタリだと元気も何もアガッタリになることは、此の二年間まるで汽車に乗らないでいてハッキリと分りました。気がついてみれば僕は旅情の我鬼です。──まあどんなことになりますやら、自分でも分りません。はかなくあわく、さてなんと云いましょうか、雨の上った秋の日の、甍(いらか)の色とでもいいましょうか。
 もう少しお喋舌りさせて下さい。──僕は淋しい所が好きだといっても、一日くらいならともかく三日四日といようとなると、山の中の野天の温泉、なぞにしろ、人口一万か二万はいる所でないといる気がしません。東京の近くで人口一万か二万の町はもう可なりせわしないのですが、中国の人口二万の町なぞというのは、随分静かです。尤も山陽線沿いではもう駄目です。私設線なぞで、少し山陽線を離れる必要があります。つまり、登山趣味なぞというのは僕にはあんまり分りません。「山小屋の一夜」──なんて一寸いいようですが、それくらいなら、小島だの広原の方がいい.高山の上なんぞは原始性の原料みたいです。原料というのは僕にはあんまり酷烈すぎます。原始性が、すこうし覚めたような所が一番面白いです。人口がいくら一二万でも、名所みたいな所はたまりません。いろいろ文句を云うと、行く所もないようですが、ところで行く所は、中国だけでも百、二百とあります。(世界中を調べてみたら、何処へも行く前に諦らめちゃわなければなりますまい。)汽車の窓からあたりをつけて、フト途中下車をしてみると、思いがけない所に、面白い所があったりします。地理書でも、新聞でも見たことも聞いたこともない所で面白い所は山程あります。
 小説も批評も、もう読みたくはありません。読むとすればやっぱり詩です。結局詩だけはいやでも読むようなことになりましょう。県庁の衛生課にでも這入れば、出張が多いし、呑気だし、いいと考えたりもしますが、もう十年前ですと、学歴なんかどうでも這入れたのですが、今はどうかと思います。
 うまい酒と、呑気な旅行と、僕の郵想の全てです。問題は陶然と暮せるか暮せないかの一事です。「さば雲もろとも溶けること!」なんて、ランポオもういやつではありませんか。
 然しまあ、秋になりました! お訪ねしたいと思いますが、お暇の日時を知らせて下さいませんか。勝手な云分乍ら、もし何処かで待苔すことにしていただけるのでしたら、アムステルダムという店と博雅なら知っていますからそのおつもりで。
 先は右まで
    九月二日               中也
  安原喜弘様
 学校の終る時が分っていましたら、お迎えにゆきます。これが一番僕には好都合です。
 
※この十五日頃野田書房から、ランボオの詩全部の訳集を出すことになりました。
 
手紙98 昭和12年9月11日(封書、速達)(鎌倉 扇ケ谷)
 
 御端書只今拝見 早速お訪ねしたいのですが、子供が二三日前より発熱、只の風邪ですがいっこう下熱しませぬので、今日は失礼させていただきます そのうちまた更めてお暇の日時お訊ねしたいと存じます 右悪しからず御諒承下さい
 
 怪我をされました由、どんな具合でございますか。兵役の方は又、どんな模様でございますか。
               取り急ぎ右まで
   九月十一日               中也
 
手紙99 昭和12年9月28日(はがき)(鎌倉 扇ケ谷)
 
御端書拝見しました 弟さんが出征された由、色々御感想もあることと思います
ではこの次の土曜、五時頃電話します
嵐にでもならない限り、間違いはありません
                   では拝顔の節
   九月二十八日
 
手紙100 昭和12年10月5日(封書)(鎌倉 扇ケ谷)
 
昨日は失礼しました(序で乍ら失礼といえば却て失礼になるというような場合、どんな語法があるのでしょうか)
ですが安さんには、相手に観念運動を起させ過ぎるというくせがあると思います 観念運動とは相手をジーッとみていて急に手を頬に上げると相手もフト手を上げかけるというあれです それは催眠術の学者等が催眠に導く第二次の状態と呼びますもので、ネルヴァルの書簡集序文には、それを以て霊感を受ける状態としてあります
 相手に観念運動を起させ過ぎるという一つのくせは、生活的以外にはあんまり物を考えなさ過ぎるということに該当すると思います ともあれ生活的にのみ物を考える人は、思想が高翔しかけるや下向し始める筈だと思います つまり一生一シ処をドードーメグリするのではないかと思います 又その人は現実的ですけれど限定された現実的です
 生活的にのみ物を考えて、厳密には少しも不足はないわけですけれど、それがそうであるためには、極めて現在的な持続としてのみ、生活をみるのでなければなるまいと思います つまりあらゆる人為的知識を忘却してです そうでなかったら生活をもみているのではない、生活の処理法を主としてみていることとなりましょう
 安さんの生活の見万は、現在的で持続的でもあるとも思いますが、つまり安さんの時々刻々の観察を統制しているものはあまりに現世的知識に限られてはいますまいか。言葉が不十分だと思いますが、エラン・ヴィタールに乏しいです。謂わぱ即時即決的でありすぎると思うのです。
 まあ色々と拙い云い方を並べましたが、悪しからず御推読を願います
 それから又、云いたいことがあるならば、此方にいるうちに云っといた方が一層よいかと思いますが、嘗て僕が北千束にいて神経衰弱を患った頃一度叱られましたが、その時は僕はその前日あたり目蒲の駅の出口に待合していて安さんが一時間も遅れたので愚痴ったことを叱られたのだと思っておりましたが、その後次第に何かの折に勘付いた所によると、妹さんに対してとんでもない考えを抱いたというので叱られたのではないかと思うのです。今以て果して何れかハッキリは分りませんので、(今頃になってそんなこと云うと仰(おっしゃ)いますな。僕としては訊ねそびれたのですし、訊ねようと思ってもひどく訊ねにくかったのです)がもし後者の方で叱られたのでしたら僕としては心外のことです。又どうしてそんなことを思われだしたのかも見当が付きません。僕が時々余り無頓着に女の人のことを語るからでしょうか。それとも一週間不眠の頃お喋舌(しゃべ)りしました時に、云い違いか間違いが起ったのでしょうか。こういうことは信じていただくより仕方もないのですが、僕としては心外ですし、しらばくれているのではありません。序で乍ら、その前者か後者か不明として心に留って以来、僕は一層カタクなるようになりました。ただもう世間が怖くなるという気持が増えたわけです。とにかく安さんとしては、主語を一と口も出さずに叱られたのでした。右に付、もしなお疑義を抱かれるのでしたら、何時にてもおしらべ下さい。(どうぞ今になって古い事を持出すと思わないで下さい。僕としては気になっていることなのですから。)
 どうも出発間際まで七面倒なことを申すのも不本意なことですが、悪しからず御諒承下すって、この手紙には一筆御返事がいただきたく思います。もし後者なのでしたら、「まあまあいいよ」というような意味の御返事でなく「どういうことで、そう思ったわけだ」というようなことをいっていただければ最も明瞭にお答え出来ると思います。
 先ハ右感想とお訊ねまで。乱筆多謝。御返事鶴首。
    十月五日                中也
安原喜弘様
 二伸、勇を鼓して右のお訊ねに上るかも知れませんが、さなきだにMaladroit à la lutteですから、頭痛のない日にしたいと思います。
 
 

「一筆啓上、安原喜弘様」昭和3年〜・出会いの頃

その1
 
「中原中也の手紙」の中で
安原喜弘が詩人との「距離」を漏らしたことは
詩人が新宿・花園アパートへ転居した頃にもありました。
 
「手紙71 昭和9年2月10日」へのコメントで
「しかし私はこれらの仲間からは意識して次第に遠のいていった。私達は前程頻繁には会わなくなった。」と書いているのがその初めての例でしょう。 
 
 
「手紙90 4月29日 (封書)」へのコメントでは
「私達の在り方に対する痛烈な批判」とこの手紙を呼んでいますが
次の「手紙91 6月5日 (封書)」へのコメントでは
「彼の昇天に至る最後の2年間をあわただしく叙(かた)り終ろうとする。」と書いて
およそ9年間に及んだ2人の交友の
最後に訪れた悲劇的結末について案内していきます。
 
 
「中原中也の手紙」は、
あと10通を残すだけなのですが
詩人との最後の2年間を追っていく流れにどうも乗れません。
 
終わりが近づくに連れて
始まりのおぼろげなさが気になりはじめるのです。
 
上京後の詩人が安原と出合った頃には
「山羊の歌」に収められた詩の大半を歌い終わっていたと安原は言いますが
「生の歌」を果敢に歌っていたこの頃に
もう少し佇(たたず)んでいたい気持ちです。
 
ここで2人が出会った昭和のはじめへと
時計の針を巻き戻すことにします。
 
 
 中原が初めてその仮借なき非情の容貌を私の前に現わしたのは昭和3年秋のことであった。当時私は高等学校の学生であり、情熱の赴くまま常に行動を共にする一群の文学青年の中にあった。その中の一人大岡昇平が或晩彼を伴って私の家に来た。大岡はそのフランス語勉強の先輩小林秀雄の紹介で既に中原と知り彼と足繁く交際していたので、私も中原の存在についてはかねて大岡達の口を通じて聞いてはいたのであるが会うのはこの時が初めてであった。
 
――と安原喜弘は、「中原中也の手紙」をこのように書き出しました。
 
この初対面の日は
 
その晩はベートーヴェンの第9シンフォニーのレコードを3人して聴いて帰って行った。私はこの時から彼に惹き付けられて行った。
 
――と続けられて終わります。
 
初対面は、大岡昇平、中原中也、安原喜弘の3人だったのです。
大岡昇平と詩人は、昭和3年春、小林秀雄を通じて知り合っていました。
大岡が、詩人と成城グループの橋渡しをした一人ということになります。
 
 
次に私が彼に会ったのはそれから数日後に行われた私の高等学校の運動会の最中であった。
 
その日彼は黒のルパシカに5尺に足らぬその体を包んで黒のお釜帽子をかぶり「スルヤ」の発表会の切符を持って私の前に現れた。このいでたちは当時彼の制服であり、後にルパシカは黒の背広に代えられ、更に後にはお釜帽子が黒ベレーに代えられたのである。
 
冬にはこれもやはり黒の外套がその身を包んだ。本書の巻頭にのる彼の肖像写真はそれより少し前に写されたものであって、当時はこの写真より遥かに酷烈さを湛えていたのだが、その帽子は当時と同じもので、余程後まで彼の頭上にあった。
 
私が初めて彼の手紙を受けとったのはこの時の音楽会の切符依頼に関するものであったが今は見当たらない。
 
 
昭和3年の秋は、このようにたわいもなく過ぎていったようですが
翌昭和4年は、同人雑誌「白痴群」が発刊される年でした。
背後ではその準備に追われる詩人らの姿があります。
 
昭和4年3月には、成城学園を卒業した安原、大原、富永次郎は京都帝大に進んでいます。
4月に「白痴群」は出るのですが
その間、創刊打ち合わせのための会合が東京であり
安原らはこれに参加するために上京、
それが終るとまた京都へ戻る、といったあわただしさの中にありました。
詩人も5月には「白痴群」の打ち合わせで京都を訪れました。
 
 
7月に入って我々は早々に東京に引き上げ一夏を過ごした。8月私は雑誌に小さな詩を発表した。中原と私との交遊が始まったのはこの詩を機縁としてである。この時から私と中原との市井の放浪生活は始まったのである。
 
私達は殆ど連日連夜乏しい金を持って市中を彷徨した。いつも最初は人に会いに行くのであったが。3度に2度は断わられた。それから又次の方針を決定し、疲れると酒場に腰をすえるのである。時には昼日中から酒を飲んだ。酔うとよく人に絡んだ。そしてこの国の宿命的な固定観念と根気よく戦った。
 
 
昭和4年の夏がこうして過ぎていきました。
 
 
その2
 
この頃の彼は既に「初期詩篇」のいくつかと「少年時」に出て来る苛烈な心象風景を歌い終っていた。
――と安原喜弘は、昭和4年の夏を振り返って記しています。
 
 
「歌い終わっていた」詩とは
どの詩を指しているでしょうか?
 
安原が例示するのは
「失せし希望」(少年時)
「盲目の秋」(少年時)
「木蔭」(少年時)
「夏」(少年時)
「いのちの声」(羊の歌)
「寒い夜の自我像」(少年時)
――です。
 
主に「少年時」から取り上げていますが
「朝の歌」(初期詩篇)の初稿が作られたのが大正15年で
「初期詩篇」のほとんどが「朝の歌」の制作と前後しているものでしょうから
「朝の歌」以後の詩境を見せる「少年時」の詩群が
安原には肉感的にも鮮烈な印象を与えていたことが想像できます。
 
「少年時」の詩群を引っさげて
詩人は安原の前に現れたと見ることができるでしょう。
いうまでもなく
「少年時」収載の詩篇のほとんどは
「白痴群」に発表したものでした。
 
中でも、最も強く印象に残ったのは
「盲目の秋」のようでした。
繰り返し、「盲目の秋」のフレーズを引用しています。
 
 
盲目の秋
 
   Ⅰ
 
風が立ち、浪(なみ)が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。
その間(かん)、小さな紅(くれない)の花が見えはするが、
  それもやがては潰(つぶ)れてしまう。
風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。
もう永遠に帰らないことを思って
  酷薄(こくはく)な嘆息(たんそく)するのも幾(いく)たびであろう……
私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。
それはしずかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)え、
  去りゆく女が最後にくれる笑(えま)いのように、
 
厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでいて佗(わび)しく
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……
      ああ、胸に残る……
風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。
 
   Ⅱ
 
これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。
これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、
そんなことはなおさらどうだっていいのだ。
人には自恃(じじ)があればよい!
その余(あまり)はすべてなるままだ……
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行(おこな)いを罪としない。
平気で、陽気で、藁束(わらたば)のようにしんみりと、
朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!
 
   Ⅲ
 
私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  とにかく私は血を吐いた! ……
おまえが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまいってしまった……
それというのも私が素直(すなお)でなかったからでもあるが、
  それというのも私に意気地(いくじ)がなかったからでもあるが、
私がおまえを愛することがごく自然だったので、
  おまえもわたしを愛していたのだが……
おお! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  いまさらどうしようもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――
ごく自然に、だが自然に愛せるということは、
  そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、そう誰にでも許されてはいないのだ。
 
   Ⅳ
 
せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、
  その時は白粧をつけていてはいや。
ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に副射(ふくしゃ)していて下さい。
  何にも考えてくれてはいや、
  たとえ私のために考えてくれるのでもいや。
ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、
いきなり私の上にうつ俯(ぶ)して、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径(みち)を昇りゆく。
 
 
そしてこの後で、
「寒い夜の自我像」の最終連
 
陽気で、坦々(たんたん)として、而(しか)も己(おのれ)を売らないことをと、
わが魂の願うことであった!
――を呼び出します。
 
この頃の詩人の姿は
ここに最も的確に現れていることを案内するのです。
 
「この国の宿命的な固定観念と根気よく戦った」詩人の
傷だらけの日々がこうして語られます。
 
 
その3
 
「宿命的な固定観念との戦い」とも
「魂の平衡運動」とも安原が名付ける
詩人の傷だらけの日々は
何月何日どこそこでという特定された具体的な日付けを持ちません。
 
それは、たとえば、
(昭和5年の)9月に入って以後の「冬休みと次の年の春休み」に繰り返された
「遍歴と飲酒の日課」のことでした。
 
 
彼の呼吸は益々荒く且乱れて、酔うと気短かになり、ともすれば奮激(ふんげき)して衝突した。彼の最も親しい友人とも次々と酒の上で喧嘩をして分れた。
 
私は廻らぬ口で概念界との通弁者となり、深夜いきり立つ詩人の魂をなだめ、或は彼が思いもかけぬ足払いの一撃によろめくのをすかして、通りすがりの円タクに彼を抱え込む日が多く続いた。
 
「白痴群」はいろいろの都合で休刊になっていた。
 
――などと安原は記します。
 
また、たとえば、
時をやや遡(さかのぼ)った、この年(昭和5年)の4月末から5月の初めに
詩人が京都の安原の住まいを訪ねた時のことでした。
 
 
彼は深夜宿の2階で同宿の学生と喧嘩をして血を流した。それでも彼はその小躯に満々の自信を以て6尺に近い大男に尚も立ち向った。そして私は血にまみれた彼を抱き深夜医者を起こして彼の瞼に2針3針の手当を乞うのであった。
 
又或時は彼は裏街の酒場で並居る香具師(やし)の会話にいきり立ち、その一つ一つに毒舌を放送して彼等を血相変えて立ち上らせるのであった。そして彼は、取り巻く香具師の輪の中で何か呪文のようなものを唱え、やがてそこを踊りつつ脱け出すのである。
 
学者達の会話は特に彼の奮激(ふんげき)の因(もと)となった。誰彼の見境なく彼はからんだ。
 
――と報告します。
 
 
昭和5年4月には、「白痴群」第6号が発行され
この号で廃刊が決まっていました。
その4月末に訪れた京都でのことでした。
詩人は京都に5日間滞在。
その間、安原と共に奈良に遊び
カソリック教会のビリオン神父を訪ねたりしています。
 
京都滞在中の「遍歴」については
さらに詳しく安原は記します。
 
 
私達は初めいつも静かに2人して酒を飲むのであるが、彼の全身は恰(あたか)も微妙なアンテナの如く様々な声を感得して、私と語る彼の言葉はいつしか周囲の会話への放送と変るのである。その為め私はいつも彼の注意をそらさせないよう細心の配慮をするのであるが、その努力は殆ど徒労であった。
 
例えば一部の数奇者以外殆ど客とてもない南禅寺境内の湯豆腐屋であるとか、東山山中の人の知らない小店であるとか五条辺の袋小路の奥店など、私はつとめて静かな場所を選んで彼を導くのであるが、そこも結局は彼を長くは引留めることは出来ず、やがて又四条あたりの喧騒の中に腰を据えるのがおきまりであった。
 
そこでも私は座席の位置、衝立(ついたて)の在り方、光線の具合、彼と私との向き、周囲の客の種類や配置、私達の会話の内容等それとなくいろいろに心を配るのであるが、それもこれもすべて無駄である。私が気がついたときには既に彼の声は凡(あら)ゆる遮蔽物を乗り越えて遥か彼方に飛んでいるのである。私は又彼をかかえて次の場所を求めねばならなかった。
 
(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。「改行・行アキ」を加え、「洋数字」に変えてあります。編者。)
 
 
長い引用になりましたが
「中原中也の手紙」のイントロの部分で安原が書いている
「戦い」「遍歴と飲酒」「喧嘩・からみ」……は
このようなものです。
 
手元にある玉川大学出版部発行のものと講談社文芸文庫ともに
この部分に関して異同はありませんから
昭和15年に「文学草紙」に書き出されたものと同じということになります。
このイントロ部分は
詩人の死後3年ほどして書かれたということになります。
 
 
こうして5月の3日には彼は又東京に帰って行った。
――と、このイントロは結ばれて、
「中原中也の手紙」の第1便は
5月4日、東京・中高井戸発からはじまります。
 
 
その4
 
「白痴群」は
昭和4年4月に創刊号を出してから
6月に第2号
9月に第3号
11月に第4号
昭和5年1月に第5号
4月に第6号
――と一見順調な歩みを見せるのですが
この第6号で廃刊に追い込まれます。
 
大岡昇平や富永次郎との詩人の「喧嘩」が発端といわれる
有名な事件の結果でした。
 
 
安原は
「白痴群」第2号に「詩一篇」、
第4号に「暁」、
第5号に「午后四時」の3篇の詩を発表しています。
 
この詩について
 
7月に入って我々は早々に東京に引き上げ一夏を過ごした。8月私は雑誌に小さな詩を発表した。
中原と私との交遊が始まったのはこの詩を機縁としてである。
――と安原は「中原中也の手紙」のイントロ部で記しました。
「小さな詩」とは
この3篇の詩のうちのどれかです。
 
 
先ごろ神奈川近代文学館で行われていた企画展
「中原中也の手紙――安原喜弘へ」の公式パンフレット(中原中也記念館発行)には
安原が作った詩が1篇だけ紹介されています。
 
この詩が
「白痴群」第2号に載った「詩一篇」です。
 
 
詩一篇
 
なごみてあれや我が心、我も人技(ひとわざ)なすものなり
かつて
まこと持たぬ我心は
熱病んだ肉の身をそのままに
のたうち廻る痴れ心地
身のうちに、唯一つ
信ずるもののあるを忘れ
虚空を掴んだはかなさよ。
 
人皆目醒めの朝は、いで我も
手に触れるものを打ち振って
祈ろうではないか
そして又泥酔の一時に
若しも思出が蘇ったなら、嘗ての
血迷った無信を詫びようではないか
              ―1929、5、―
 
(「新かな」「洋数字」に変えました。編者。)
 
 
この「詩一篇」の「返歌」として
中原中也が作ったのが「詩友に」でした。
実際にはその逆だったのかもしれません。
 
「詩友に」は
はじめ「白痴群」創刊号に全4連のソネットとして発表されましたが(第1次形態)
第6号で「無題」とタイトルを変えられ、
5節構成に作り変えられた長詩の一部となりました。
 
「詩友に」は「無題」の第3節になったのです(第2次形態)。
「山羊の歌」でも、この第2次形態が維持されましたから
現在、発表詩篇の中に「詩友に」のタイトルを見つけることはできません。
 
 
「無題」は
「山羊の歌」の「みちこ」の章に収められ
「汚れっちまった悲しみに……」の次に配置されています。
その「無題」の第3節で「本文」を読むことができます。
 
ここでは
「無題」全文を読んでおきましょう。
 
 
無 題
 
   Ⅰ
 
こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまえと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまえのやさしさを思い出しながら
私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂い廻(まわ)る。
人の気持ちをみようとするようなことはついになく、
こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに
私は頑(かたく)なで、子供のように我儘(わがまま)だった!
目が覚めて、宿酔(ふつかよい)の厭(いと)うべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配(けはい)を感じながら
私はおまえのやさしさを思い、また毒づいた人を思い出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みずか)ら信ずる!
 
   Ⅱ
 
彼女の心は真(ま)っ直(すぐ)い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲(く)んでも
もらえない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真っ直いそしてぐらつかない。
 
彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きている。
あまりにわいだめもない世の渦(うず)のために、
折(おり)に心が弱り、弱々しく躁(さわ)ぎはするが、
而(しか)もなお、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!
 
甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめていたかは!
しかしいまではもう諦めてしまってさえいる。
我利(がり)々々で、幼稚な、獣(けもの)や子供にしか、
彼女は出遇(であ)わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯(ただ)、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。
そして少しはいじけている。彼女は可哀想(かわいそう)だ!
 
   Ⅲ
 
かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがえば
なが心、かたくなにしてあらしめな。
 
かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。
 
おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、
 
おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、
人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき
熱を病(や)む風景ばかりかなしきはなし。
 
   Ⅳ
 
私はおまえのことを思っているよ。
いとおしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸っているよ、
まるで自分を罪人ででもあるように感じて。
 
私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考えられもするが、考えられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。
 
またそうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
そうすることは、私に幸福なんだ。
 
幸福なんだ、世の煩(わずら)いのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!
 
 
   Ⅴ 幸福
 
幸福は厩(うまや)の中にいる
藁(わら)の上に。
幸福は
和(なご)める心には一挙にして分る。
 
  頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛(まぎ)らす。
  そして益々(ますます)不幸だ。
 
幸福は、休んでいる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。
 
  頑なの心は、理解に欠けて、
  なすべきをしらず、ただ利に走り、
  意気銷沈(いきしょうちん)して、怒りやすく、
  人に嫌われて、自(みずか)らも悲しい。
 
されば人よ、つねにまず従(したが)わんとせよ。
従いて、迎えられんとには非ず、
従うことのみ学びとなるべく、学びて
汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!
 
 
「みちこ」の章には
「みちこ」という詩もそうですが
(泰子を歌った)恋愛詩ばかりではなく、
中也の詩で最もポピュラーといってよい「汚れっちまった悲しみに……」があり、
宗教性の漂う「更くる夜 内海誓一郎に」や「つみびとの歌 阿部六郎に」があり
この「無題」も配置されています。
 
 
「みちこ」や「泰子」を歌った恋愛詩にまぎれて
「無題」には安原との交感が隠された印象です。
こんなところに「無題」とタイトルされた詩が置かれている意味が
ぼんやりと見えてきて
驚かされるばかりです。
 
 
その5
 
中原中也が初めて詩集の発行を考えたのは
昭和2〜3年頃と推定されています。
 
京都で知り合った富永太郎が急逝して2年後の昭和2年に
家族らによって私家版「富永太郎詩集」が刊行されましたが
それに刺激を受けたことなどが
詩集発行計画のきっかけでした。
 
このときは原稿用紙への清書までで終わり
計画は実現されませんでした。
 
 
中也が所持していたこの清書原稿の「束」を
諸井三郎や関口隆克が目撃したという証言があります。
 
これらの証言を
現存している原稿の「用紙」の種類によって分類し
原稿(詩)の内容(制作日など)と照合・分析した結果
13篇が「第1詩集用清書原稿群」とされています。
 
この原稿群を列挙しますと
 
「夜寒の都会」
「春と恋人」
「屠殺所」
「冬の日」
「聖浄白眼」
「詩人の嘆き」
「処女詩集序」
「秋の夜」
「浮浪」
「深夜の思い」
「春」
「春の雨」
「夏の夜」
――の13篇です。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ解題篇)
 
ほとんどが「未発表詩篇」です。
「深夜の思い」が「白痴群」に
「春」が「生活者」に発表されているだけです。
(「深夜の思い」は「山羊の歌」に
「春」は「在りし日の歌」に収録されます。)
 
つまり「山羊の歌」には
計画だけに終わった「処女詩集」の内容は
ほとんど反映されていないということができますが
見方を変えれば、
「深夜の思い」を収録することによって「連続」し
また「在りし日の歌」に「春」を収録することによって
「処女詩集」の頃との「連続」を意図したということが見えてきます。
 
 
ここで「深夜の思い」と「春」を読んでおきましょう。
 
 
深夜の思い
 
これは泡立つカルシウムの
乾きゆく
急速な――頑(がん)ぜない女の児の泣声(なきごえ)だ、
鞄屋(かばんや)の女房の夕(ゆうべ)の鼻汁だ。
 
林の黄昏は
擦(かす)れた母親。
虫の飛交(とびか)う梢(こずえ)のあたり、
舐子(おしゃぶり)のお道化(どけ)た踊り。
 
波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は猫背を向(むこ)うに運ぶ。
森を控えた草地が
  坂になる!
 
黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄(よ)する
ヴェールを風に千々(ちぢ)にされながら。
彼女の肉(しし)は跳び込まねばならぬ、
厳(いか)しき神の父なる海に!
 
崖の上の彼女の上に
精霊が怪(あや)しげなる条(すじ)を描く。
彼女の思い出は悲しい書斎の取片附(とりかたづ)け
彼女は直(じ)きに死なねばならぬ。
 
 
 
春は土と草とに新しい汗をかかせる。
その汗を乾かそうと、雲雀(ひばり)は空に隲(あが)る。
瓦屋根(かわらやね)今朝不平がない、
長い校舎から合唱(がっしょう)は空にあがる。
 
ああ、しずかだしずかだ。
めぐり来た、これが今年の私の春だ。
むかし私の胸摶(う)った希望は今日を、
厳(いか)めしい紺青(こあお)となって空から私に降りかかる。
 
そして私は呆気(ほうけ)てしまう、バカになってしまう
――薮かげの、小川か銀か小波(さざなみ)か?
薮(やぶ)かげの小川か銀か小波か?
 
大きい猫が頸ふりむけてぶきっちょに
一つの鈴をころばしている、
一つの鈴を、ころばして見ている。
 
 
それにしても、
計画だけにとどまった「処女詩集」の詩篇が
「山羊の歌」にほとんど採用されず
それに引きかえ
「白痴群」に発表された詩篇は
すべてが「山羊の歌」に収録されたということになり
このことの意味は重大といえます。
 
 
その6
 
「深夜の思い」は「白痴群」第2号(昭和4年7月1日発行)に発表されたあと
「山羊の歌」の「初期詩篇」に収録されました。
 
幻の処女詩集にラインアップされた「深夜の思い」だけは
「山羊の歌」の「初期詩篇」に収録されたのですから
「山羊の歌」以前と「山羊の歌」を結ぶ
「かすがい」の役割があると読んでも無理はないことでしょう。
 
同様に
「春」には
「在りし日の歌」への「かすがい」の役割があると考えることができるでしょう。
 
ついでに「春の日の夕暮」には
京都時代のダダと「山羊の歌」を結ぶ
「かすがい」の役割があったということも思い出しておきましょう。
 
 
「深夜の思い」は
第1連、
 
これは泡立つカルシウムの
乾きゆく
急速な――頑(がん)ぜない女の児の泣声(なきごえ)だ、
鞄屋(かばんや)の女房の夕(ゆうべ)の鼻汁だ。
 
――にダダっぽさが残り
 
第2連や第3連
 
林の黄昏は
擦(かす)れた母親。
虫の飛交(とびか)う梢(こずえ)のあたり、
舐子(おしゃぶり)のお道化(どけ)た踊り。
 
波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は猫背を向(むこ)うに運ぶ。
森を控えた草地が
  坂になる!
 
――にランボーっぽさが現われ
 
第3連、第4連には
ゲーテの「ファウスト」に登場する女性「グレートヒェン」を「マルガレエテ」として呼び出して
泰子を歌っています。
 
 
彼女の肉(しし)は跳び込まねばならぬ、
厳(いか)しき神の父なる海に!
――とは、彼女=泰子が神の前に跪(ひざまず)き
懺悔(ざんげ)することを要求する意味の詩句です。
 
断罪を願ううらはらに
はげしく彼女を求めるアンビバレンツ(二重性)が
泰子との別離のその日に
彼女の引っ越しの荷物を片づけたことを思い出させるのです。
 
精霊が飛び交うのは
第1連の
舐子(おしゃぶり)のお道化(どけ)た踊りを
今、詩人は見ているのと同じ想像(幻覚)の世界にいるからです。
 
深夜の思いは
ラムネ・サイダー(カルシウム)のあわのように
生れてはすぐさま消え行く
はかなげではありますが
聞き分けのない女児の泣声のようでもあるし、
鞄屋の女房が夕方に鼻汁をすするような
しぶとさをも持っています。
 
振り払おうとしても
振り払おうとしても
こびりついて離れない思いなのです。
 
 
ダダっぽさや
ランボーっぽさが残るのは
この詩に限ることではないのですが
それが隠されようもなく残るのは
「初期詩篇」の未完成度ではあっても
優劣を示すものではありません。
 
中原中也は
それが詩になるのであれば
あらゆるところに目を光らせていました。
それは終生変わることがありませんでした。
 
鞄屋の女房も
ランボーの詩に現れる精霊も
はじめはありふれて手垢(てあか)のついた「なんでもない言葉」でしたが
詩人が格闘した末に「詩の言葉」になったのですし
この格闘の末に同じ「場」に存在しています。
同じ場所に詩と化してしまうのです。
変成してしまうのです。
 
 
「山羊の歌」のここ「初期詩篇」の中の
「黄昏」の次の位置に
泰子との別離を歌ったこの詩が配置されたこと自体が
大きな意味を持っていそうです。
 
「深夜の思い」は
「山羊の歌」では
泰子を最も早い時期に歌った詩かもしれないのですから。
 

「一筆啓上、安原喜弘様」昭和10年4月29日

「転機」と安原が呼んだものの理由は
ほぼ2点にまとめられています。
 
その一つ。
「詩人の身辺に寄り添」うことの「必要」がなくなり、
「無用となるばかりか、詩人にとって負い目とすらなりつつあることを感じ出した」という理由。
家庭を持ち一児をもうけ、交友範囲も広がり、詩名も浸透しはじめたために
これまでと同じような関係を持続する意味がなくなったと感じた――。
 
「一人場末のおでん屋などで酒に親し」む日々。
 
もう一つは、
昭和8年1月を頂点とする「詩人の魂の動乱時代」に、
いつのまにか生じていたらしい詩人の私への疑惑、誤解。
それを思いがけなくも知った安原が
身の証を立てる決意に至った。
そして、詩人の周囲から身を引き、少しずつ離脱しようとしていた。
「青春との決別」を自身試みた――。
 
「一人だけの世捨人となった。」
 
 
ここはやはり安原の言葉で
読んでおきましょう。
 
一つ目の理由。
 
 
 昭和3年秋以来6年半に渡る詩人と私との交友にも今漸く転機が訪れた。
 
 詩人は家庭生活に入り、1児をもうけ、その交友の範囲も次第に拡がり、詩名も漸く一部の人々の間に認められるところとなった。この間私は私なりに唯一筋の心情を以て詩人の身辺に寄り添い、それは謂わば極めて個人的な雰囲気の中での持続であったのだが、この様な私の心情も私のささやかな努力も今はその必要を失った。心届かず、無能で失敗ばかりであった私の介抱も最早無用となりそれは寧ろ詩人のとって大きな負い目とすらもなりつつあることを私は感じ出していた。私もまた漸く疲労と困憊の極にあり、時偶友人の関係する劇団などの仕事に引張り出される他は一人場末のおでん屋などで酒に親しんで暮す日が多く続いた。
 
 
二つ目の理由。
 
 
 尚又、昭和8年の1月頃を絶頂とする彼の魂の動乱時代、日々のあわただしい行き来の間にふと生じた様々な疑惑――私は彼の些細な思い違いとしてその時限り跡かたもなく忘れ去っていたのだが――が私に対しても解き得ぬ誤解としてその儘彼の心に残り、彼の心の淵深く固定しているのを思いがけなくも知った時、私は唯々呆然とするばかりであったのだが、私は何か身の証をたてたいと希い、既に或る決意をしたのである。私は彼の周囲から身を引きつつあった。殊更らにそれと気付かぬ如く、意識して少しずつ詩人の世界から離脱しつつあった。私は華やかでもない私の青春の激情と一と度訣別し更めて当てのない旅路に向って一人ひそかに逍遥(さまよ)い出すのであった。私はこうして次第に独りの生活に沈み込んだ。嘗つて燃えたささやかな希望も捨て、私はこの時より謂わば一人の世捨人となった。
 
(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。)
 
 
そうはいっても時々2人は落ち合います。
詩人が電話で安原を呼び出すのです。
 
「それは私がひそかな孤独に浸れば浸るほど愈々温かい心づかい」を安原に感じさせたのですが
 
今私達も互いに離れて眺め合う機会が次第に多くなりつつあった。私達の波瀾に満ちた苦難の遍歴も茲に終ったのである。
――と総括されるような段階でした。
 
 
これら総括文が記されたのは
次の「4月29日の手紙」への導入のためでした。
4月29日以降の手紙への序章といえます。
 
「手紙90 4月29日 (封書)」のコメントでは
「私達の在り方に対する痛烈な批判」と安原は呼んでいますが
この「痛烈な批判」を読む前に
「転機」を告げ
「苦難の遍歴の終わり」を予告したのです。
 
 
そして、さらに次の「手紙91 6月5日 (封書)」のコメントでは
 
私は次に、今手許に残された僅かの手紙により、私にとってはまことに心重い彼の昇天に至る最後の2年間をあわただしく叙(かた)り終ろうとする。
――と記して
「中原中也の手紙」の最終章へと進んで行くことになります。

「一筆啓上、安原喜弘様」昭和10年1月29日、2月16日、3月2日

引き続き
長期帰省中の昭和10年はじめに
中原中也が安原喜弘に宛てた手紙を読みます。
すべてが「はがき」に書かれました。
 
 
「手紙87 1月29日 (はがき)」
 
前略 其後如何お暮しですか 「春と修羅」落手有難うございました 少し田舎に倦いて来ました 女房の眼病がまた再発して弱っております 尤も今度は先のように角膜と虹彩との併発ではありませんから先のにくらべれば余程楽ですが 翻訳は漸く半分と一寸すませました 今日は偶によいお天気で久しぶりでいい気持です 段々春になるにはなるんです 早く翻訳をすませてさっぱりしたいと思います では又、呑気にお暮しの程祈上げます                     不一
 
 
「春と修羅」は、宮沢賢治論を書くために必要としていたものでしょう。
遠い日に読んだ本は、東京に置いてきたか
すでに失われていたのかもしれません。
前の手紙に「弟さんの書棚にあります」と書かれていたものを
安原が送り届けました。
 
孝子夫人は昭和9年春頃にも眼病を患い
同年9月には治癒していました。
 
ランボー翻訳「漸く半分」とは
着実な歩みというほかありません。
 
 
「手紙88 2月16日 (はがき)」
 
御無沙汰しました お変りありませんか 此の間から大変寒くとてもやりきれませんでした 23日前ひばりを聞きました これからはもう暖かくなることでしょう 祖母は3日死去しました 葬式と重なって風邪ひきがちの中に2人も出来て困りました 葬式がすんでから僕も2日ばかり発熱臥床しました
 
シェークスピア全集を片っ端から読んでいます 面白いですね 有名なものでほんとに面白いものがあればあるもんです
 
翻訳はあともう3分の1です 早くやって上京したいです 女房眼病再発で都合によれば今度もまた一人で上京します どっちにしても4月に這入りますでしょう 伊藤さんからはそのご何たることもないのみか返事を怠ってすまぬすまぬとだけのたよりがありました なんともかんとも云えたことじゃありません
 
末筆ながら御自愛の程祈上げます                         さよなら
 
 
祖母とあるのは、養祖母コマのこと。
今度の帰郷初日に、長男文也と初対面した足で見舞いました。
カトリックでした。
教会葬のあと自宅で仏式葬が行われました。
(「新全集」より。)
 
ランボー翻訳は「あともう3分の1」。
順調です。
 
「伊藤さん」は建設社から文圃堂へ移った編集者で
やがて頓挫することになる「ランボオ全集」の経緯や
「山羊の歌」や「宮沢賢治全集」の刊行についても
営業から制作まで並々ならぬ関与があった人物です。
 
その人から「すまぬすまぬとだけのたよりがありました」というのですから
先行き不安が残ったのでしょうか
まだそこまでは意識されていなかったでしょうか。
 
 
「手紙89 3月2日(はがき)」
 
御無沙汰致ました 其の後お変りもございませんか 小生もはやすっかり退屈致しました なるべく早く仕事して 今月末までには上京したいものと思って居ります お訊ねの「宮沢賢治研究」(月刊)まだ出ませんが出たらお送りしましょう 但し小生のものは駄目な上に祖母の危篤と締切がカチ合いましたので23枚しか書けませんでした
其の内 御自愛祈上ます                 怱々
 
 
前年12月のはじめに帰郷したのですから
はや4か月が過ぎようとしています。
「田舎暮らし」が退屈なことは
都会生活を一度味わった者なら誰でも知るところですが
その裏には
東京でもっとバリバリ仕事に励みたいという詩人の
強い希望があったからでもありましょう。
 
「山羊の歌」の売れ行きはどうか
反響はどうか
ランボー全集はどのようなイメージになるだろう
「紀元」「文学界」「歴程」「四季」などへ載せる詩や
「散文」も書かなければ
……
 
意欲に満ち
充実した日々でした。
 
 
安原はしかし
これら山口から出された手紙の一つ一つにはコメントを付けず
(※返信しなかったということではありません。安原が中原中也に出した手紙は、一つも残っていないのです。)
 
昭和3年秋以来6年半に渡る詩人と私との交友にも今漸く転機が訪れた。
――とはじまる長めの総括文を書くのです。

「一筆啓上、安原喜弘様」昭和10年1月23日

昭和10年に入って
詩人が安原喜弘に宛てた手紙は
1月12日付けを第1便として
1月23日付け(封書)
1月29日付け(はがき)
2月16日付け(はがき)
3月2日付け(はがき)
――の計5通が残りますが
これらはみな山口市湯田発のものです。
 
この帰郷は
第1子を得たことのうえに
ランボオ全集のための翻訳の仕事を片付ける目的があり
はじめから長期滞在になる予定でした。
 
 
安原は
1月12日付けを除く4通の手紙に
コメントを加えていません。
個別のコメントを加えないのですがこれが
やがて「大きな総括のコメント」を明らかにする布石となります。
 
詩人のこの4通の手紙を
まず読んでおきましょう。
 
 
「手紙86 1月23日 (封書)」(新全集では「169」)
 
御手紙有難うございました だいぶ御退屈の模様 いっそ読書でもされてはいかがでしょうか フィードレルの芸術論おすすめしたい気がします 放心と努力の限界みたいなものがハッキリして 何か面白い本だと思います 
 
詩集おかげ様にて「収支はつぐのったから今後ボツボツ売上げを渡してやる」と言って来ました
 
当地は寒くて仕方ありません やっぱり山間気候とて底冷えがします 毎冬東京で暮していて、子供の時はひどく寒さを感じたものだったと思っていましたが、今度12年目の冬をこちらで送ってみますと、やっぱり炬燵(こたつ)の中にばかりいます ホンヤクすれば辞書の表紙が冷たいのでどうも不可(いけ)ません その代り読書はイヤでも出来ます ここんとこ習慣になりました 習慣になると何を読んでも命がマダラになるといったアトクチが殆どしません
 
27日(日)午后2時から丸の内蚕糸会館にてマチネー・ポエチクがあるそうです 山宮(さんぐう)允 柳沢健 白秋 丸山定夫 照井要三等の顔ぶれです 余り面白くないことと思いますが暇つぶしにいかがですか 
 
2月5日までに宮沢賢治論書けと云われておりますので御手数恐入りますが同氏の詩集「春と修羅」御送り下さいませんか 何時ぞや檀等と東中野で飲んだ帰り御願いしたのですが、酩酊時のこととて御記憶ないでしょう その時もその本よくお分りないようでしたが、弟さんの書棚にあります
 
檀といえば心平をショイナゲくらわしたというゴシップがあるそうです 心平から云って来ました
 
雪が降って静かなことです 朝は5寸位積っていたのが今はだいぶへって2寸5分位になっています 手紙書く段となりますと急にマトマリがつかなくなるという甚だ落付きのない生活をしている自分が、何べんも製本しなおした辞書みたいに無惨に思えて来ます せめて乱筆でもってその落付のなさにフサワシイ着物でもきせる気持になって自分のイヤサから逃亡したいような気持になる次第です 
 
これにて失礼します 御身大切に祈り上げます。
                      中也
    1月23日
 
(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。「行アキ」を加えてあります。編者。)
 
 
フィードレルは、ドイツの美学者コンラッド・アドルフ・フィードラーのことで
玉川学園出版部から「フィードラー芸術論」(清水清訳)が出ていました。
詩人が読んだのはほかの訳らしいのですが
その内容は「芸術論覚え書」へ影響を与えているといわれています。
 
宮沢賢治論とは、
草野心平が編集する「宮沢賢治研究」に載せるための原稿。
これはやがて評論「宮沢賢治全集」として
同全集に収録されます。
(以上「新編中原中也全集」第5巻・日記書簡解題篇より)
 
「何時ぞや檀等と東中野で飲んだ帰り御願いした」とあるのは
「檀といえば心平をショイナゲくらわしたというゴシップがあるそうです」とは異なる時のことでしょうが
坂口安吾の小説「二十七歳」で有名な「乱闘」に
どこか通じる雰囲気のある記述です。
安吾が中也と会ったのは京橋の「ウインザー」でしたが。
中也が太宰治に「モ・モ・ノ・ハ・ナ」と
無理矢理言わせた事件(檀一雄著「小説太宰治」)が中野でしたから
こちらをも思い起こさせます。
 
ランボーの「酩酊船」(酔いどれ船)を日本語に初訳した柳沢健の名がここにあります。
詩人もランボオと取り組んでいたわけで
「ランボーという事件」の蠢(うごめ)きのようなものがここでかすかに感じられます。
白秋も現われます。
 
これらが突然降って湧いたのではなく
詩人の活動の累積が
中央文壇・詩壇で活躍する作家詩人学者らの名を
「手紙」の中の話題にさせているということが言えそうです。

「一筆啓上、安原喜弘様」昭和10年1月12日

「山羊の歌」は出版され
売れ行きは詩集にしては悪くはなかったようでした。
 
少し前に戻りますが
安原は「手紙83」へ寄せたコメントで
 
 売行はなかなかよかったようである。然しながら当時この詩集に対する反響は殆ど見られなかった。一つの新聞も一つの雑誌も、一人の詩人も一人の批評家もこれを採り上げるものなく、当時1行の紹介文も寡聞にして私は見聞しなかった。それがこの当時の詩人の運命であった。以て当時の詩人の境涯が容易に想像されよう。ただしあとで知ったことだが、友人の小林秀雄が「文学界」の翌年1月号に短い紹介文を書いたということである。
 
 これについて私は今にありありと思い出すのであるが、この詩集が出版されて僅か1週間程してのこと、或日私は神田の古本屋の店先で「山羊の歌」を見出したのである。それは詩人自らによって文壇・詩壇の知名士に寄贈されたもののうちの貴重なる1冊であった。それには詩人の達筆で墨黒々と「室生犀星様 中原中也」と記されてあるのだ。私は其時言い様なき怒りが全身を馳け廻るのを暫し如何とも出来なかった。
 
――と報告しました。
 
詩人への無理解、不遇を憤る口調はいつになく激越です。
 
 
これは、11月15日の手紙へのコメントですが
この時点で「山羊の歌」への反響は出ていないはずです。
「山羊の歌」が市販され
実際に本屋の店頭に並び始めたのは
12月29日以降(「新全集」)です。
 
このように書いたのは
「中原中也の手紙」の著者・安原喜弘が
「山羊の歌」が市販を開始された後の反響を聞き知って
11月15日の手紙に付したコメントとして読む必要があります。
 
ここは時系列の報告になっているわけではなく
この本のための「編集」ということになります。
 
 
市販開始直後の反響はそうであったし
中原中也への世間および詩壇・文壇およびジャーナリズムの「評価」が
不当に低いことを安原は訴えたのですが
いっぽう「山羊の歌」の詩人として
中原中也の名はじわじわと広まり
活動は多忙になっていったことも事実でした。
 
活動への報酬が微々たるものであるにもかかわらずです。
 
 
昭和10年になって
初めて安原に出した手紙はまだ山口からのものです。
 
今度の帰省は
ランボオの翻訳があり
その仕事を当地で済ませる計画でした。
 
 
「手紙85 昭和10年1月12日 (はがき)」(新全集は「165」) 山口市 湯田
 
其の後如何お暮しですか 7日の青い花同人会には出席されましたか 古谷に詩集送るのを忘れていましたが春に上京の時送ろうと思っていますからお会いの節は一寸御伝え願います 詩集はその後売れたかどうか伊藤さんからは何の返事もありません 京都のそろばん屋にも行ってはいないのではないかと思っています 
 
病人は立枯れつつあり赤ん坊は太りつつあります 活動写真が沢山見たくて仕方ありません 今色んなものが書けます それで翻訳の方はどうも怠りがちでどうせ締切前に馬車馬になる運命だろうと妙な覚悟です 
 
本日萩の蒲鉾お送りしましたから御笑味下さい
御健康祈ります                 怱々
 
 
「青い花」は、
昭和9年12月に創刊された文学同人誌。
第1号で休刊します。
檀一雄の紹介で詩人は同人になりました。
安原も中也の薦めで創刊同人になりました。
ほかに太宰治、津村信夫、木山捷平、森敦らの名前があります。
 
「紀元」「文学界」「四季」「歴程」など
これまで発表してきたメディアはもとより
新しい動きにアンテナをはって
積極的に関わろうとする姿勢のようなものが見えます。
 
「今色んなものが書けます」という通り
この手紙を書いた前日(1月11日)には
(おまえが花のように)
「初恋集」
「月夜とポプラ」
「僕と雪」
「不気味な悲鳴」
――の5作を制作しました。

「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年12月30日番外篇

詳しい年譜(「新編中原中也全集」別巻<上>)によると
「山羊の歌」が完成したのは
昭和9年12月7日の夜でした。
 
以後の消息を見ると、
 
12月8日朝、文圃堂へ行き、予約者と寄贈者へ署名、発送を済ませました。
詩人の高森文夫が、この発送作業をサポート。
同日夕刻、東京を出発、
12月9日午後、山口着。
実家で長男文也と初対面しました。
同じ日、山口市の病院に入院中の養祖母コマを見舞いました。
 
12月16日、「星とピエロ」「誘蛾燈詠歌」を制作。
同20日、この日発行の「四季」第3号に「秋の1日」を発表。
同29日、(なんにも書かなかったら)を制作。
同30日、安原喜弘宛に「薔薇」を送付。
――などとなっています。
 
 
「秋の1日」は、
「白痴群」「紀元」にすでに発表したものの再発表ですから
「星とピエロ」「誘蛾灯詠歌」と
(なんにも書かなかったら)だけが新作になります。
 
 
ここで
「星とピエロ」と「誘蛾燈詠歌」を読んでおきましょう。
 
両作品ともに
宮沢賢治の影響が指摘されています。
 
中原中也は
大正14年末か15年初頭に
賢治の「春と修羅」を購入、その時から愛読するなど
早くからの「発見者」であったことはよく知られていますが
「山羊の歌」の装丁に際しても
「宮沢賢治全集」を強く意識していました。
 
自作の詩にも
幾つか賢治の詩の言葉や童話の題材との類似例が見つかります。
 
 
星とピエロ
 
何、あれはな、空に吊るした銀紙じゃよ
こう、ボール紙を剪(き)って、それに銀紙を張る、
それを綱(あみ)か何かで、空に吊るし上げる、
するとそれが夜になって、空の奥であのように
光るのじゃ。分ったか、さもなけりゃ空にあんあものはないのじゃ
 
そりゃ学者共は、地球のほかにも地球があるなぞというが
そんなことはみんなウソじゃ、銀河系なぞというのもあれは
女共(おなごども)の帯に銀紙を擦(す)り付けたものに過ぎないのじゃ
ぞろぞろと、だらしもない、遠くの方じゃからええようなものの
じゃによって、俺(わし)なざあ、遠くの方はてんきりみんじゃて
 
         (一九三四・一二・一六)
 
見ればこそ腹も立つ、腹が立てば怒りとうなるわい
それを怒らいでジッと我慢しておれば、神秘だのとも云いたくなる
もともと神秘だのと云う連中(やつ)は、例の八ッ当りも出来ぬ弱虫じゃで
誰怒るすじもないとて、あんまり仕末(しまつ)がよすぎる程の輩(やから)どもが
あんなこと発明をしよったのじゃわい、分ったろう
 
分らなければまだ教えてくれる、空の星が銀紙じゃないというても
銀でないものが銀のように光りはせぬ、青光りがするってか
そりゃ青光りもするじゃろう、銀紙じゃから喃(のう)
向きによっては青光りすることもあるじゃ、いや遠いってか
遠いには正に遠いいが、そりゃ吊し上げる時綱を途方ものう長うしたからのことじゃ
 
 
誘蛾燈詠歌
 
ほのかにほのかに、ともっているのは
これは一つの誘蛾燈(ゆうがとう)、稲田の中に
秋の夜長のこの夜さ一と夜、ともっているのは
誘蛾燈、ひときわ明るみひときわくらく
銀河も流るるこの夜さ一と夜、稲田の此処(ここ)に
ともっているのは誘蛾燈、だあれも来ない
稲田の中に、ともっているのは誘蛾燈
たまたま此処に来合せた者が、見れば明るく
ひときわ明るく、これより明るいものとてもない
夕べ誰(た)が手がこれをば此処に、置きに来たのか知る由もない
銀河も流るる此の夜さ一と夜、此処にともるは誘蛾燈
 
   2
 
と、つまり死なのです、死だけが解決なのです
それなのに人は子供を作り、子供を育て
ここもと此処(娑婆(しゃば))だけを一心に相手とするのです
却々(なかなか)義理堅いものともいえるし刹那的(せつなてき)とも考えられます
暗い暗い曠野(こうや)の中に、その一と所に灯(ともし)をばともして
ほのぼのと人は暮しをするのです、前後(あとさき)の思念もなく
扨(さて)ほのぼのと暮すその暮しの中に、皮肉もあれば意地悪もあり
虚栄もあれば衒(てら)い気もあるというのですから大したものです
ほのぼのと、此処だけ明るい光の中に、親と子とそのいとなみと
義理と人情と心労と希望とあるというのだからおおけなきものです
もともとはといえば終局の所は、案じあぐんでも分らない所から
此処は此処だけで一心になろうとしたものだかそれとも、
子供は子供で現に可愛いいから可愛がる、従って
その子はまたその子の子を可愛がるというふうになるうちに
入籍だの誕生の祝いだのと義理堅い制度や約束が生じたのか
その何れであるかは容易に分らず多分は後者の方であろうにしても
如何(いか)にも私如き男にはほのかにほのかに、ここばかり明(あか)る此の娑婆というものは
なにや分らずただいじらしく、夜べに聞く青年団の
喇叭(らっぱ)練習の音の往還(おうかん)に流れ消えゆくを
銀河思い合せて聞いてあるだに感じ強うて精一杯で
その上義務だのと云われてははや驚くのほかにすべなく
身を挙げて考えてのようやくのことが、
ほのぼのとほのぼのとここもと此処ばかり明る灯(ともし)ともして
人は案外義理堅く生活するということしか分らない
そして私は青年団練習の喇叭を聞いて思いそぞろになりながら
而(しか)も義理と人情との世のしきたりに引摺(ひきず)られつつびっくりしている
 
   3
      あおによし奈良の都の……
 
それではもう、僕は青とともに心中しましょうわい
くれないだのイエローなどと、こちゃ知らんことだわい
流れ流れつ空をみて赤児の脣(くち)よりなお淡(あわ)く
空に浮かれて死んでゆこか、みなさんや
どうか助けて下されい、流れ流れる気持より
何も分らぬわたくしは、少しばかりは人様なみに
生きていたいが業(ごう)のはじまり、かにかくにちょっぴりと働いては
酒をのみ、何やらかなしく、これこのようにぬけぬけと
まだ生きておりまして、今宵小川に映る月しだれ柳や
いやもう難有(ありがと)って、耳ゴーと鳴って口きけませんだじゃい
 
   4
      やまとやまと、やまとはくにのまほろば……
 
何云いなはるか、え? あんまり責めんといとくれやす
責めはったかてどないなるもんやなし、な
責めんといとくれやす、何も諛(へつら)いますのやないけど
あてこないな気持になるかて、あんたかて
こないな気持にならはることかてありますやろ、そやないか?
そらモダンもええどっしやろ、しかし柳腰(やなぎごし)もええもんどすえ?
(ああ、そやないかァ)
(ああ、そやないかァ)
 
   5 メルヘン
 
寒い寒い雪の曠野の中でありました
静御前(しずかごぜん)と金時(きんとき)は親子の仲でありました
すげ笠は女の首にはあまりに大きいものでありました
雪の中ではおむつもとりかえられず
吹雪は瓦斯(ガス)の光の色をしておりました
 
   ×
 
或るおぼろぬくい春の夜でありました
平(たいら)の忠度(ただのり)は桜の木の下に駒をとめました
かぶとは少しく重過ぎるのでありました
そばのいささ流れで頭の汗を洗いました、サテ
花や今宵の主(あるじ)ならまし
 
           (一九三四・一二・一六)
 
(※「新編中原中也全集」第2巻 詩Ⅱより。「新かな」「洋数字」に変えました。編者。)

「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年12月30日

その1
 
ようやく「山羊の歌」は出版されることになります。
 
安原喜弘は努めて冷静に
報告します。
 
 
 詩集「山羊の歌」は遂に同年12月10日を以て東京文圃堂から出版されることとなった。本文印刷より丸2年余、いろいろの経緯を踏んだこの詩集もここに日の目を見ることとなったのである。
 
 これは大正13年春から昭和6年頃まで足かけ8年間の彼の魂の結晶の中から詩人の手によって44篇の作品が撰ばれ収録されたものである。
 
 四六倍判、薄鼠色コットン紙使用、番号入り200部限定自費出版、うち150部市販、50部を予及び各方面への寄贈本とした。頒価3円50銭。
 
 装幀は高村光太郎氏である。薄クリーム色の厚紙の地に朱と黒と金泥を以て「山羊の歌・中原中也」と達筆な毛筆書の題字のみの簡素な出来栄えであった。
 
 (講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。「洋数字」に変え、「行アキ」を加えました。編者。)
 
 
「出版決定」のニュースにとどまらず「出版後」へも言及され
いつしか詩集の売れ行きや評判などへのコメントが続けられます。
 
そして、文末に至って
 詩人は詩集の出版をすませると、妻子の待つ山口に帰り、そこに翌昭和10年の春まで留まった。
――と詩人のその後を追います。
 
 
10月18日に生まれた長男は、文也と命名されましたが
詩人はまだ顔を見ていません。
眼病を患っていた妻孝子のその後はどうだろう、元気にしているだろうか。
 
寄贈本へ、献辞を添え、署名し
あわただしくそれらを発送した足で
詩人は郷里へ向いました。
 
この帰郷が長い滞在になるのは
「ランボオ全集」の翻訳という仕事があるためでした。
 
詩人の「命」そのものともいえる詩集の出版を果たし
結婚そして第一子誕生と「公私」ともに充実したこの時期の帰郷――。
 
新年を親族兄弟のいる実家で迎える詩人の
初めての大きな仕事が「ランボオ全集」でした。
 
 
詩集の出版をすませ
妻子の待つ山口に帰り
翌10年の春まで
――と、安原は簡明に詩人のその後を記したのです。
 
これが11月15日発の詩人の手紙へのコメントでした。
 
 
そして……。
1か月半の時が流れます。
 
この1か月半の間に
詩集発行のための実作業が行われます。
装幀を高村光太郎に依頼したのもこの期間です。
 
年も押し迫って
12月30日発の手紙が
安原の元へ届きます。
 
 
「手紙84 12月30日 (封書)」(新全集は「161」) 山口市 湯田
 
御葉書拝見致しました。おたよりしようと思乍ら遂に今日になりましたが自分がいやで何もかも億劫となるのでございます
先日は詩集の案内書お送り被下有難うございました
本日は又結構な物頂戴致し難有厚御礼申し上ます 家内一同大喜び致しました 
 右とりいそぎ御礼迄 最近書きましたもの同封致します
 
 
 
その2
 
「山羊の歌」が
出版決定から装幀、印刷・製本、出版へと至るには
越えねばらないヤマがまだ一山(ヒトヤマ)二山(フタヤマ)とありましたが
その間の報告は「中原中也の手紙」にありません。
 
この1か月半に
手紙の交換はなかったか
あっても手紙が残らなかったのです。
 
この間の消息は
したがって、想像するほかに
知人、友人、関係者らの証言・資料に頼るほかにありません。
 
 
「山羊の歌」が文圃堂から出版されるのには
小林秀雄のバネのような役割があったようです。
文圃堂社主・野々上慶一を詩人に紹介したのが小林秀雄でした。
 
小林は「文学界」の編集責任者であり
今や文壇をリードする勢いの位置にありました。
小林の薦めで文圃堂が「文学界」の発行元になったのは
昭和9年の春からです。
 
「山羊の歌」の出版元が決まるいっぽうで
「装幀者旅行中」のピンチヒッターとして登場したのが
高村光太郎でした。
 
先に行われた「歴程」の朗読会で
「サーカス」を朗読した詩人は
主催者の草野心平と昵懇(じっこん)になります。
 
草野が高村の装幀を薦めたのか
文圃堂から刊行中の「宮沢賢治全集」を見ていた詩人が
草野に高村の装幀を仲介してくれるよう頼んだのか
どちらが言い出したかというより
自然の流れで高村の名があがり
詩人も高村の装幀を強く希望したということらしい。
 
文圃堂の野々上慶一が草野を通じて
高村に頼んだというルートの話も同時的にあったようです。
草野心平は高村光太郎、横光利一とともに
「宮沢賢治全集」の編集を担当していました。
 
 
安原が
この間の経緯に触れないのは
手紙が残されていないからでした。
 
この期間に詩人と安原は「沈黙」を残したのです。
この沈黙こそ、
「中原中也の手紙」の中の
おそらくは最も美しいシーンです。
「中原中也の手紙」が後世に残した
最も感動的な伝説の源(もと)です。
 
 
大晦日の前日に
詩人は安原にこの年最後の手紙を送りました。
 
 
「手紙84 12月30日 (封書)」(新全集は「161」)に同封されていたのは
「薔薇」とタイトルのある毛筆の詩でした。
 
第1連に「ばら」の振りガナがあり
第2連には「さうび」の振りガナがあるので
タイトルを「バラ」と読むか
「ソウビ」(古語)「ショウビ」(現代語)と読むか
読み手に委ねられた格好です。
 
 
薔薇
 
開いて、いるのは、
あれは、花かよ?
何の、花か、よ?
薔薇の、花じゃろ。
 
しんなり、開いて、
こちらを、むいてる。
蜂だとて、いぬ、
小暗い、小庭に。
 
ああ、さば、薔薇(そうび)よ、
物を、云ってよ、
物をし、云えば、
答えよう、もの。
 
答えたらさて、
もっと、開(さ)こうか?
答えても、なお、
ジット、そのまま?
 
(1934、12、)
 
 
詩人は
年内最後になる創作詩を12月29日に作りました。
(なんにも書かなかったら)という3節構成の未完成作品でした。
 
「山羊の歌」出版直後に制作した詩は
「星とピエロ」「誘蛾燈詠歌」と
この(なんにも書かなかったら)だけです。
 
第1詩集を江湖に問うた詩人が
あわただしさから解放されて
じっくり「詩集」を歌った詩でした。
 
その第2節を独立した詩として
安原にプレゼントすることにしたのです。
 
 
山口、湯田温泉の
自室の机に向かう詩人の姿が浮かんできます。
 
昨日書いた(なんにも書かなかったら)を取り出し
筆を走らせる詩人の胸のうちに
のぼってくる暖かい暖かい思い。
 
闇に浮かんでくるのは
薔薇のような――。
 
 
その3
 
「薔薇」の元になった詩を
ここで読んでおきましょう。
 
この詩の第1節末尾にだけ日付けがあることから
第1節がはじめに作られ
次に第2節、3節が作られたものと解釈されています。
(「新全集」第2巻 詩Ⅱ解題篇)
 
「山羊の歌」の1冊を手にして
ひと通りめくってみた詩人が
感慨を込めて自己批評したような内容です。
 
ふと口を洩れ出たのは
「何をくよくよ川端やなぎ」という小唄でしたが
「よくも言ったもんだよ、くよくよするなよ、川端やなぎ、とはね!」 と
その小唄を「だ」と突き放す詩人がいます。
 
風に吹かれて
おもむくままの柳の木に
自身を重ねて見ていたことに違いはありません。
 
 
(なんにも書かなかったら)
 
なんにも書かなかったら
みんな書いたことになった
 
覚悟を定めてみれば、
此の世は平明なものだった
 
夕陽に向って、
野原に立っていた。
 
まぶしくなると、
また歩み出した。
 
何をくよくよ、
川端やなぎ、だ……
 
土手の柳を、
見て暮らせ、よだ
 
    (一九三四・一二・二九)
 
   2
 
開いて、いるのは、
あれは、花かよ?
何の、花か、よ?
薔薇(ばら)の、花じゃろ。
 
しんなり、開いて、
こちらを、向いてる。
蜂だとて、いぬ、
小暗い、小庭に。
 
ああ、さば、薔薇(そうび)よ、
物を、云ってよ、
物をし、云えば、
答えよう、もの。
 
答えたらさて、
もっと、開(さ)こうか?
答えても、なお、
ジット、そのまま?
 
   3
 
鏡の、ような、澄んだ、心で、
私も、ありたい、ものです、な。
 
 鏡の、ように、澄んだ、心で、
 私も、ありたい、ものです、な。
 
鏡は、まっしろ、斜(はす)から、見ると、
鏡は、底なし、まむきに、見ると。
 
 鏡、ましろで、私をおどかし、
 鏡、底なく、私を、うつす。
 
私を、おどかし、私を、浄め、
私を、うつして、私を、和ます。
 
鏡、よいもの、机の、上に、
一つし、あれば、心、和ます。
 
ああわれ、一と日、鏡に、向い、
唾、吐いたれや、さっぱり、したよ。
 
唾、吐いたれあ、さっぱり、したよ、
何か、すまない、気持も、したが。
 
鏡、許せよ、悪気は、ないぞ、
ちょいと、いたずら、してみたサァ。
 
(「新編中原中也全集」第2巻 詩Ⅱより。「新かな」に直しました。編者。)
 
 
追加された第2節、第3節の
第2節が独立して「薔薇」と題され
安原喜弘に贈られました。
 
第3節は
「鏡」をモチーフにした
「私」への励ましのようでした。

「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年11月15日

また2週間が経ちました。
 
「山羊の歌」の行方を追うために
「手紙83 11月15日 (封書)」(新全集は「157」)の
後半部を先に読みます。
 
 
 僕の詩集、その後建設社の伊藤さんより話があり、それよりも文圃堂にしたいと云いましたらそうなり 却々(なかなか)うまく運びそうでもありますが、また流れてしまいそうな風でもあります 
 
 早く御知らせすべき処 そんな風で、おまけに詩集ではもうクサクサしていますから、よっぽどはっきりしてからでないとお知らせしたくなかったのでした 
 
 隆章閣からは 少部数の詩集を出すことは 一寸似合わない気がしているのです 何しろ装幀者旅行中でまだ海のものとも山のものとも行きませんが、なるべく骨惜しみしないで且つは強引に今度はどうにか片付けたいと思っています
 
 気がむいたら新宿にやって来ませんか 新宿なら行きつけの玉屋もあります 此節は20ですから、あまり御迷惑もかけないですむでしょう 
 
 御健康祈ります 活気があることがどうも一番いいようです 今日僕は日光浴をしました
    15日          では又
                           中也
 
(※「中原中也の手紙」より。「行アキ」を加えてあります。編者。)
 
 
「文圃堂」の名が現われ
この出版社が「山羊の歌」の出版元になったことはよく知られていますから
これで「出版間近」と感じる読者は少なくないことでしょう。
 
先の手紙にコメントした安原も
すでに
隆章閣への出版交渉が頓挫したことを読者に伝えています。
 
この手紙の詩人は
文圃堂からの出版に「脈」を感じつつも
ふたたび頓挫するかもしれない不安を述べますが
安原には進行を初めて明かした様子です。
 
 
もっと早く知らせなくてはいけなかったんだけど
また流れてしまいそうで
(そうしなかったんだ)
よっぽどはっきりしてからでないと
知らせたくなかったんだよ
 
それに、隆章閣から少部数出版っていうのも
ちょっと似つかわしくない気もするし。
 
何しろ、装幀者の二ちゃんが旅行中だし
海のものとも山のものともわからない状態でもあるけどね
 
でも骨惜しみしないで、そして強引に
今度こそはどうにか片付けたいと思うんだ
 
――と出版交渉を決着する姿勢を表明したのです。
 
 
この手紙を書いた直後に
詩人は、文圃堂社主・野々上慶一と直接交渉し
「山羊の歌」の出版を自分で決めたようです。
 
装幀者である青山二郎が旅行中のため
急遽、画家(詩人)である高村光太郎へ依頼、
トントントンと「山羊の歌」は刊行へ急展開します。
 
 
前半部をここで読んでおきましょう。
 
 
 ごぶさたしています 御変りありませんか 御訪ねしようと時々思いますが 又合うとお酒を沢山飲み始めそうで大変重い気持になります 会ったら酒となるとは、どうも我々の時代の不文律でなんとも悲しい気持がします 此間から2度ばかり(1度は朗読会、1度は出版記念会)に出ましたが、一生懸命飲まないようにしていながらとうとうは一番沢山飲んでしまいました 
 
 何しろ来年2月迄 毎日20行ずつランボオを訳さねばならぬのですからたまりません 完全に事務です 尤も詩も童話も書いています
 
 「鷭」はつぶれて気の毒です 広告がまずかったのです発売所を名前だけでも大きい所のを借り手やればよかったのです 一つには余りに身近かの人の物が多過ぎたのです 気の毒といっては妙ですが、なんだか気の毒でなりません
 
 
酒を飲むことが「重い気持」とは
詩人にしては珍しく「弱気」な感じですが
これは「ランボオ全集」のための翻訳の「仕事」が入ってきて
身辺が急激に変化していることの証明でしょう。
 
「弱気」というよりも
「充実」を示すものといえそうです。
 
朗読会
出版記念会
ランボウの訳
詩も童話も
「鷭」
……
 
これらの話題が
詩人としての「充実感」を滲(にじ)ませています。
 
手紙の後半部には
玉屋=ビリヤードへの誘いもありました。
 
 
朗読会は、
「歴程」主催で、麻布・龍土軒で開かれたもの。
このとき、草野心平と出会いました。
この朗読会で
詩人が「サーカス」を朗読したことは
いまや伝説となっています。
 
出版記念会は
「詩精神」主催の「1934年詩集」の出版記念会のこと。
新宿・白十字で行われました。
(「新編中原中也全集 第5巻 解題篇)
 
 
親友安原が
これらの詩人の状況の変化を喜ばなかったわけがありません。
 
が……。
 
会えば酒になる習慣を
悲しいと書かれれば
その嬉しさは複雑であったことが思われます。
 

「一筆啓上、安原喜弘様」昭和9年11月1日

詩集の出版は彼の非常な期待にも拘らず又しても失敗に終ってしまった。
 
「手紙81 9月21日 (封書)」へのコメントを
安原は1行で終わりにします。
 
 
それから40日あまりの時が流れ
詩人は、東京・四谷の花園アパートに戻っています。
 
この間に何が起こったのでしょうか?
連続が断ち切られ、しかし連続している。
「断続」を感じざるをえません。
 
何か新しいことが起こっているような感じ
今まであったものがなくなっていく感じ。
それが何であるかを特定できませんが。
 
 
「手紙82 11月1日 (はがき)」(新全集は「156」)
 
ごぶさたしました 御機嫌のことと思っております 僕事部屋の掃除をしたり本をよんだりです 毎日3人位は誰かが来ますので仕合せです 偶に誰も来ない日があると淋しくてやりきれません 夜の9時に至って遂におでん屋に出かけるというようなことになります 過日18日男の子が生れました ちと勉強しなけあなりません 御退屈の時御遊びにおいで下されば幸甚です 二ちゃんは只今金沢に行っています 来春ランボオ全集を出すことになりました
 
 
とりわけ、「詩集」に何か変化があったのかが気になります。
しかし、「詩集」は表面に出てきません。
 
詩集というよりも
第一子が誕生し
詩人は「ドメスティックな幸福」のひとときを味わっていた時期でした。
 
ですから、詩集のことは
触れられていませんが……。
 
 
「詩集」の動きと関係ありそうなのが
「二ちゃん」と「ランボオ全集」です。
 
二ちゃんが金沢へ行っているというのは
骨董の買出し旅行か何かに出ているということに違いなさそうです。
「詩集の装丁」はすでにその二ちゃん(青山二郎)が一任されていたはずなのに
金沢に出かけていて
詩集は進捗していない……
 
代りにといえば語弊(ごへい)が大いにありますが
「ランボオ全集を出す」という話が詩人に湧いていたのです。
 
詩人として食っていく身に
「翻訳」は一つの大きな「手段」でした。
建設社という出版社の企画で
ランボオ全集発行の計画があり
詩人は「韻文詩の翻訳」を担当することになったのです。
 
小林秀雄が「散文詩(地獄の季節)(飾画)」
三好達治が「書簡(散文)」という布陣でした。
 
 
この企画の担当編集者は伊藤近三という人で
「手紙83」に「伊藤さん」として登場しますが
この伊藤の動きが「ランボオ全集」と「山羊の歌」を結んでいることが想像できます。
 
建設社は「ジイド全集」を刊行中で
その編集長をしていた伊藤は
「山羊の歌」を出すことになる文圃堂社主の野々上慶一と小林秀雄を仲介した人ですから
伊藤の出現が「山羊の歌」の発行に
大きなスプリング・ボードの役割を果たしたことは間違いありません。
 
 
花園アパートの「人脈」が
中原中也を「文壇」とか「メージャー」とか「中央」とかへ
グイグイと引っ張っていく、そのはじまりのような光景です。
 
「手紙81」は
長男誕生のさりげない報告のようですが
背後には花園アパ-トの「蠢(うごめ)き」がありました。
 
建設社の企画は、結局は流産するのですが
中原中也はこの時から
ランボーの翻訳に没頭します。

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