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中原中也について

「草稿詩篇」(1933年〜1936年)について

 
 
 「草稿詩篇」(1933年〜1936年)には、65もの詩篇が集められています。1933年は中也26歳の年。1936年は29歳の年。4年間の未発表詩篇です。
 
 1933年は、「山羊の歌」が未だ刊行できず苦しい状態にありながらも「紀元」「半仙戯」「四季」などに詩やフランス詩の翻訳を発表、年末には結婚し、後に「青山学院」と呼ばれるようになる新宿・四谷の花園アパートに新居を構えるなどの転機が訪れた年です。1934年は長男・文也が誕生し「山羊の歌」がようやく出版された年。1935年は、文也の成長に喜びを感じる日々のなか「四季」「日本歌人」「文学界」「歴程」などに詩・翻訳などを盛んに発表、若き詩人・高森文夫との交友もはじめました。1936年は、引き続き「四季」「文学界」「紀元」などへ発表、詩人としての評価が高まりつつありました。しかし、この年の11月、長男・文也が急逝します。直後の12月には次男・愛雅(よしまさ)が誕生しますが……。
 

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「早大ノート」について

 
 
 そもそもなぜ「早大ノート」と呼ばれているかというと、中原中也が昭和5年9月初旬から同6年7月下旬まで住んでいた東京・代々木山谷112近間方に、早大専門部の学生、福田嘉一郎が住んでいて、この福田が所有していた早稲田大学の校章や「WASEDA.UNIV.」などの文字が印刷されたノートを詩人が譲り受けて使用していたものに多くの詩が書かれていたのを、角川版旧全集編集の過程で「早大ノート」と呼ぶことにしたのです。
 
 このノートの最も古い記述はしたがって、昭和5年(1930年)9月以降であると考えられ、その最初の詩作品が「干物」で、最も遅くなって書かれたのが昭和12年(1937年)の「こぞの雪今いずこ」と推定されています。
 
 1930年から1937年までの間に作られた作品42篇が、この「早大ノート」に記されたということになり、8年間、このノートが使われたことになりますが、この間、満遍なく詩が書き継がれたというわけではありません。
 
 全42篇のタイトルを制作年順にみておきます──。
 
<1930年>
干物
いちじくの葉
カフェーにて
(休みなされ)
砂漠の渇き
 
<1931年>
(そのうすいくちびると)
(孤児の肌に唾吐きかけて)
(風のたよりに、沖のこと 聞けば)
Qu'est-ce que c'est que moi?
さまざま人
夜空と酒場
夜店
悲しき画面
雨と風
風雨
(吹く風を心の友と)
(秋の夜に)
(支那というのは、吊鐘の中に這入っている蛇のようなもの)
(われ等のジェネレーションには仕事がない)
(月はおぼろにかすむ夜に)
(ポロリ、ポロリと死んでゆく)
(疲れやつれた美しい顔よ)
死別の翌日
コキューの憶い出
細心
マルレネ・ディートリッヒ
秋の日曜
 
<1932年>
(ナイアガラの上には、月が出て)
(汽笛が鳴ったので)
(七銭でバットを買って)
(それは一時の気の迷い)
(僕達の記憶力は鈍いから)
(何無 ダダ)
(頭を、ボーズにしてやろう)
(自然というものは、つまらなくはない)
(月の光は音もなし)
(他愛もない僕の歌が)
嬰児
(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)
 
<1936年>
酒場にて(初稿)
酒場にて(定稿)
 
<1937年>
こぞの雪今いずこ
 
 以上のように1、5篇は1930年制作(推定)のもの。2、22篇が1931年制作(推定)。3、12篇が1932年。4、2篇が1936年(昭和11年)。5、1篇が1937年(昭和12年)でした。1933、34、35年(昭和8、9、10年)に制作された詩は、「早大ノート」の中にはありません。合計42篇の未完成詩篇や完成作品が記録されているということは、1冊の詩集を編むことのできる数ですが、詩人にその意図はありませんでした。
 

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「ノート小年時」について

 
 
 「ノート小年時」とは、中原中也が詩の清書用に使っていたノートで、表紙に詩人の手で「小年時」と記され、その回りが菱形の罫線で飾られてあることから呼んでいるもので、全部で16篇の詩が記されました。
 
 詩人が、このノートのタイトルを「小年時」と、アルチュール・ランボーの散文詩「少年時」(Enfance》にヒントを得てつけたのは、単なる偶然ではなく、「運命的で必然的」といえるような出会いがあったからで、さまざまなエピソードが伝わっています。
 
 そもそも、後に「山羊の歌」中に「少年時」という章題をもつ第2章が設けられているのは広く知られたことですが、「山羊の歌」の編集は昭和7年4月─6月のことですから、「ノート小年時」の最後の詩「湖上」が制作されてから2年後のことになります。
 
 中原中也がランボーの名を知ったのは、京都時代に正岡忠三郎や冨倉徳次郎やとりわけ富永太郎との交友をはじめてからのことです。上京して太郎を介して知った小林秀雄ら帝大仏文科の学生に、ランボーを知らない者は多くはありませんでしたし、大正14年後半には、鈴木信太郎訳「近代仏蘭西象徴詩抄」に収められたランボーの「少年時」を原稿用紙7枚に筆写しています。
 
 ノートは、昭和2年(1927年)から使われはじめたことが推定されていますが、詩篇としては昭和3年(1928年)12月18日制作の「女よ」が最も古く、昭和5年(1930年)6月15日制作の「湖上」が最新です。
 
 ノートの使用の最古は昭和2年にさかのぼることができ、昭和5年以降も詩人はこのノートを開いては発表のために推敲を加えたり、詩集発行のための作品にチェックを入れたりしていますが、「新全集」以来、詩篇の制作日順に配置したものを「ノート小年時」(1928年〜1930年)と表記することになっています。
 
 

「生前発表詩篇」について

 
中原中也が、生前に発表した詩作品は、第一詩集「山羊の歌」に収められているほかに、新聞や雑誌などのメディアに発表された詩篇があります。(第2詩集「在りし日の歌」は、詩人の没後に印刷・発行されましたから、生前発表ではありません。)
 
当ブログでは、生前に発表された作品のうちの、「短歌」を除いた詩作品を「生前発表詩篇」として扱っています。「詩を以て本職とする覚悟をした日から詩生活と称すべきなら、15年間」(「在りし日の歌」後記)と、詩人自らが記した意図を汲んで、ここでは「詩生活」から「短歌」を切り離しました。
 
 「山羊の歌」と「在りし日の歌」に収録されないで、さまざまなメディアに発表された作品は、現在わかっているもので40篇あり、早いもので昭和5年の「暗い天候(二、三)」、遅いもので昭和12年の「夏日静閑」(文芸汎論)です。メディアも「桐の花」「紀元」「四季」「歴程」「早稲田大学新聞」「日本歌人」「文学界」「文芸懇話会」「少女画報」「作品」「改造」などと、極めて多岐にわたっていますから、中原中也の詩活動の広がり(可能性)や多様性を見ることができます。
 

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「未発表詩篇」について

 
 
 中原中也の詩作品は、なんらかの形で公開されたり作品として発表されたりしたもののうち、詩人自らが編集した「山羊の歌」(第一詩集)、「在りし日の歌」(第二詩集)のほかに、雑誌や新聞などに発表した作品が「生前発表詩篇」として収集されています。
 
 これらの分類に属さない作品が「未発表詩篇」に集められて、まず作品が記録されたノート別に、次に作品が記録された草稿の制作年代別に整理・分類されています。
 
 角川書店が2004年までに編んだ3次にわたる「中原中也全集」の成果として、この分類・整理がスタンダードになり、いたるところで踏襲されています。
 
「未発表詩篇」に分類されたノート別、草稿別の作品群は、
「ダダ手帖」(1923年〜1924年)…2篇
「ノート1924年」(1924年〜1928年)…51篇
「草稿詩篇」(1925年〜1928年)…20篇
「ノート小年時」(1928年〜1930年)…16篇
「早大ノート」(1930年〜1937年)…42篇
「草稿詩篇」(1931年〜1932年)…13篇
「ノート翻訳詩」(1933年)…9篇
「草稿詩篇」(1933年〜1936年)…65篇
「療養日誌・千葉寺雑記」(1937年)…5篇
「草稿詩篇」(1937年)…6篇
──となります。
 
 合計で229作品ありますが、これは「新編中原中也全集」(2000年〜2004年)で数えたものです。
 

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「在りし日の歌」について

「在りし日の歌」 中原中也:著 創元社版 精選名著復刻全集 近代文学館 /昭和49年発行 ほるぷ出版

 「在りし日の歌」は、中原中也の自作自選の第2詩集で、昭和13年(1938年)4月に発行されました。詩人は、前年の昭和12年10月に急逝したために、この詩集を実際に手にすることはありませんでした。死ぬ直前に編集・清書の全てを終え、原稿を親しい友人である小林秀雄に託しました。それが死後半年ほどで本になったものですが、期せずして、詩人の『在りし日の歌』になった格好です。しかし、この詩集が遺書のつもりで書かれたものでないことをまずは確認しておかなければなりません。
 
第1詩集「山羊の歌」は、編集開始から数えて足かけ2年半にわたる難航の末の刊行でした。この難航の中で、突然、舵を切るようにして、詩人は遠縁の上野孝子と結婚します。昭和9年(1934年)10月には、長男文也が誕生、その2か月後の発行でした。「山羊の歌」の評判は上々で、職業詩人としての名声は徐々に高まり、雑誌や詩誌への寄稿、座談会への出席、酒席での談論と多忙な日々を送るようになった矢先の、昭和11年11月、2歳になったばかりの愛児・文也を亡くします。第2詩集「在りし日の歌」は、「亡き児文也の霊に捧ぐ」の献辞が付されてあるように、文也の追悼詩集なのです。そのうえに、詩人の死がかぶさったために、詩集「在りし日の歌」へのアプローチの道筋を複雑にしているのです。
 
愛児を亡くした衝撃で、詩人の精神はバランスを失いました。被害妄想やノイローゼが高じたために、昭和12年(1937)1月から2月にかけての約1か月、千葉県の中村古峡療養所へ入院します。退院直後に、文也の思い出の詰まった東京・市谷から鎌倉の寿福寺敷地内に転居し、近くに住む小林秀雄、大岡昇平、今日出海、島木健作ら旧知や新しい友人との交流を活発にします。この地で力を注いだのがアルチュール・ランボーの翻訳であり、「在りし日の歌」の出版でした。9月には「ランボオ詩集」を刊行、続けて「在りし日の歌」の編集のフィニッシュにかかり、清書原稿を同月中に小林秀雄に預けました。この時、詩人は1か月後に迫った自らの死を夢にも思っていません。
 
「在りし日の歌」の出版計画は、文也の死に先立つ、昭和11年(1936年)秋頃にはじめられたことが明らかになっています。はじめは「山羊の歌」以降の発表詩篇や「ノート少年時」「早大ノート」から50作品を選びましたが、文也の死、自身の千葉療養所への入退院、一家の鎌倉への引っ越しなどで身辺あわただしく、計画は中断します。しかし、詩人が鎌倉へ転居したのは、心機一転を図り、再生を期すためでした。鎌倉で再び、「在りし日の歌」の編集ははじめられ、この過程で文也追悼詩集の色合いが濃く打ち出されたために、当初の意図である「過ぎ去りし日」「生前」「幼かりし日」などとの、多様な「在りし日」が混在することになったのです。
 
こうして「在りし日の歌」は、「含羞」を冒頭に置く「在りし日の歌」42篇と、「ゆきてかえらぬ」を冒頭に置く「永訣の秋」16篇の2部構成に仕立てられました。
 
「在りし日の歌」は、「含羞」から「湖上」までの20篇が「山羊の歌」以前と以後の詩が約半数ずつのグループ、もう一つのグループが「冬の夜」から「北の海」までの10篇で昭和8年〜10年の制作、第3のグループが「頑是ない歌」から「蜻蛉に寄す」までの12篇で昭和11年発表──と三つのグループに分類が可能です。「永訣の秋」は、昭和11年11月〜12年10月発表の16篇です。
 

「山羊の歌」について

山羊の歌 (愛蔵版詩集シリーズ)

 「山羊の歌」は、中原中也が生きているうちに手にしたたった1冊の自選詩集です。1934年(昭和9年)末に発行されたとき、詩人は27歳。生まれて間もない長男文也を見るのは、製本されたばかりの「山羊の歌」の何冊かに献呈用のサインを入れ、郵送の手配を終えた足で東京駅から飛び乗った汽車が、翌日に山口県湯田温泉の実家へ着いてからのことでした。何度目の帰郷になるのでしょうか。この時も、「おまえは何をしてきたのだ──」という幻の声が聞えていたでしょうか。

 
 「山羊の歌」には、「大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり。」と後年「詩的履歴書」(1936年)に記したように、ダダイズムの詩「春の日の夕暮」に始まり、生命への讃歌である「いのちの声」までの中原中也の心の歴史がぎっしりと詰まっています。「大正十二年」(1923年)は「文学に耽けりて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思いなり」と書かれた時を指しますし、「昭和八年十月」(1933年)は上野孝子との結婚が決まった時を示しています。
 
 ピタリ10年間の足跡になりますが、この10年、詩人が歩き通したという場所は、京都、東京、横浜といった大都会であったことが特徴です。山口県の片田舎、ひなびた山村で生まれ育った詩人が歌った詩は、オルガンのようなビルが林立する都会の道を歩いて作られたものでした。それは、西行や芭蕉が荒野を行き山間の道を辿ったのに似た営みとさえ言い得るものでしょう。中原中也もまた歩く詩人でした。
 
 中也が足を棒にして歩いたのは、都会であったにもかかわらず、詩には季節、草原・海山、自然が満ち溢れています。昭和初期の都会には、まだ野原や小川や自然が残っていたからでもありますが、それは生地・山口県吉敷の自然とオーバーラップするように作られているからで、そのことで詩は厚みを増し単調さを排除します。
 
 詩人は、毎日歩き通したと記していますが、歩くのが目的でなかったことは言うまでもないことです。歩き通したその夜、詩人の言葉との格闘ははじめられます。電灯の明かりの下に白々と広がる原稿用紙を前に、その日探し当てた詩の切れ屑を手繰り寄せ、はじめの1行を書くのです。この書き出しの言葉が、詩の出来不出来を決定しますから、何枚も何枚も反古を生み、1行1行言葉を紡いでは打ち消し、何度も何度も推敲を加えて、ようやく一篇の詩が完成する頃には鶏鳴を聞くというような日がしょっちゅうありました。それでも完成しないこともあれば、1行も生まれないこともあったはずです。このようにして作られた詩が、時に、難しい言葉に満ちたものであっても、詩人が感じたところに感じてゆけば、詩はだれにでも読まれることになるはずです。

▶音声ファイル(※クリックすると音が出ます)



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中原中也年譜

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故郷山口

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<中也誕生>

 1907年(明治40年)4月29日、山口県山口町吉敷郡下宇野令村(現山口県山口市湯田温泉)に、父謙助、母フクの長男として生まれる。生後6か月して旅順へ。以後、6か月を生地・山口で一時的に過ごしたほか、柳樹屯、広島、金沢と、父の赴任地に従って移り住んだ。小学校入学時に山口へ帰る。1914年(大正3年)下宇野令小学校入学。学芸会での朗読が参観者を驚かした。

 

<亡弟を歌ったのが最初の詩作>

 1915年1月、弟・亜郎の死を悼む詩を作った。1918年、県立山口中学受験のため、山口師範付属小学校へ転校。1920年4月、県立(旧制)山口中学に成績12番で入学。1学期末試験では80番に落ちた。「防長新聞」などへ短歌の投稿をはじめ、2年時、友人と歌集「末黒野」発行。露西亜詩人ベールイの破格語法を在学中に知った。文学熱高じて3年生を落第。京都の立命館中学に4年生として転入した。親元を離れた、波乱万丈の青春がはじまる。

 

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京都時代

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<長谷川泰子と知り合う>

 京都で暮らしはじめて文学熱はいよいよ高まり、16歳の1923年(大正12年)、高橋新吉の詩集「ダダイスト新吉の詩」に共感。ダダ詩を書きはじめ、一時は「ダダさん」と仇名で呼ばれた。「大空詩人」と称されていた永井叔を知り、女優志願生・長谷川泰子を紹介される。1924年4月、中也が作ったダダ詩に好感を示した泰子と意気投合し同棲。東京外国語学校生で詩を書く富永太郎との交流をはじめ、ランボー、ベルレーヌらのフランス象徴詩に啓発される。東京行きを決意した。

 

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東京転々

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<中也・泰子・小林の奇怪な三角関係>

 1925年(大正14年)、泰子と連れ立って上京、豊多摩郡戸塚町(現・新宿区西早稲田)に住む。早稲田高等学院、日本大学予科への進学を試みるが失敗。4月、富永の紹介で、東京帝大仏文科に入学したばかりの小林秀雄を知る。5月、杉並町高円寺に転居、小林の住む馬橋が至近。この頃、小林と泰子の恋愛関係が生まれた。11月、富永は肺結核で死亡、まもなく泰子は小林と杉並町天沼で同棲する。中也は中野へ転居した。1926年(大正15年・昭和元年)、19歳。4月、日本大学予科文科へ入学、9月、親に無断で退学。アテネ・フランセへ通う。この年、「朝の歌」「臨終」を書く。中也・泰子・小林の「奇怪な三角関係」(小林の発言)が続く。

 

<音楽集団「スルヤ」との交流>

 1927年(昭和2年)春、河上徹太郎を知り、10月には河上の紹介で音楽集団「スルヤ」のリーダー格・諸井三郎を知り、作曲を依頼する。1928年(昭和3年)、21歳。1月、内海誓一郎、3月、大岡昇平を知る。同月、父・謙助胃ガンを発病、見舞いのため5月までの間に2度、帰郷する。

 

<同人雑誌「白痴群」創刊>

 1929年(昭和4年)、22歳。1月、渋谷町神山(現・渋谷区神山)に転居、近くに大岡昇平、阿部六郎の家があった。4月、同人雑誌「白痴群」創刊。河上徹太郎、大岡昇平、安原喜弘、阿部六郎、内海誓一郎、富永次郎、古谷綱武、村井康男が参加。「白痴群」を牽引したのは中也と河上徹太郎であったが、河上はピアノをよくし、「スルヤ」のメンバーでもあるから、中也は「スルヤ」の集いにも参加するなど、東京での交友関係を広げた。「白痴群」は第4号までを、年内に発行。5月、北豊島郡長崎町(現・豊島区長崎町)に転居。7月、豊多摩郡中高井戸(現・杉並区松庵)に転居、近くに高田博厚のアトリエがあった。

 

<「白痴群」第6号で廃刊>

 1930年(昭和5年)、23歳。1月「白痴群」第5号、4月第6号と旺盛に作品を発表したが、同誌は第6号で廃刊した。5月、「スルヤ」第5回発表会で、「帰郷」「失せし希望」「(内海誓一郎作曲)、「老いたるものをして」(諸井三郎作曲)初演。8月、豊多摩郡代々木山谷(現・渋谷区代々木)に転居。9月、中央大学予科に編入学。秋、吉田秀和を知り、フランス語を教える。12月、長谷川泰子、山川幸世の子を生む、中也が名づけ親になり、「茂樹」と命名した。

 

<「山羊の歌」編集を開始>

 1931年(昭和6年)、24歳。4月東京外語専修科仏語部(夜間)入学。高森文夫を知る。5月、青山二郎を知る。7月、豊多摩郡千駄ヶ谷町872(現・渋谷区代々木)に転居。9月18日、満州事変勃発。26日、弟・恰三死去、葬儀のため帰郷。12月、千駄ヶ谷町874へ転居。1932年(昭和7年)、25歳。3月、安原喜弘、山口訪問、長門峡などへ案内。5月、「山羊の歌」編集を開始。予約募集の通知を出すが、申し込みは10人余。8月、宮崎県の高森文夫を訪問。高森と延岡〜青島〜長崎を旅行。山口に帰り、金沢経由で帰京。荏原郡馬込町北千束(現・大田区北千束)へ転居。高森の伯母の家で、弟・惇夫が同居した。この頃、ノイローゼ状態になる。

 

<上野孝子と結婚>

 1933年(昭和8年)、26歳。1月頃、坂本睦子にプロポーズするが断られる。3月、東京外語専修科修了。4月、「山羊の歌」の出版を芝書店と交渉するが不調。以後、出版に至る翌年まで、江川書房、建設社、隆章閣との交渉を安原喜弘が行うがすべて不調。5月、牧野信一、坂口安吾の紹介で同人雑誌「紀元」に参加。6月以降、同誌のほか「半仙戯」「四季」などに詩を発表。12月、遠縁の上野孝子と結婚。「ランボウ詩集(学校時代の詩)」を翻訳・刊行。四谷区花園町の花園アパートに住む。同アパートには青山二郎が住み、小林秀雄、大岡昇平らがよく訪れた。

 

<長男文也誕生。詩集「山羊の歌」出版>

 1934年(昭和9年)、27歳。7月、身重の孝子夫人と帰省。高森文夫を訪ねる。ランボーの翻訳に没頭。9月下旬、単身帰京。10月18日、長男文也誕生。11月、「山羊の歌」が文圃堂発行に決まる。草野心平を知る。太宰治を知る。12月初め、「山羊の歌」刷り上り、帰省、文也と初対面。ランボーの翻訳に専念する。1935年(昭和10年)、28歳。1月、小林秀雄が「文学界」編集責任者になり、中也の発表の場も広がる。3月末、単身上京。5月、逸見猶吉、高橋新吉、草野心平らと第一次「歴程」発刊。6月、牛込区市ヶ谷谷町(現・新宿区住吉町)に転居。12月、「四季」同人になる。

 

<文也死去>

 1936年(昭和11年)、29歳。「文学界」「四季」「歴程」「改造」「文芸懇話会」「むらさき」「隼」などに詩・評論を次々に発表。6月、「六月の雨」が「文学界賞」の選外一席となる。秋、親戚の中原岩三郎の斡旋で放送局(現・NHK)入社の面接に臨んだが不調。11月10日、長男文也、小児結核で死去。悲しみの底で「文也の一生」「夏の夜の博覧会はかなしからずや」「冬の長門峡」を書く。15日、次男愛雅(よしまさ)出生。

 

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鎌倉に転居

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<中也永眠>

 1937年(昭和12年)、30歳。1月、精神の変調に気づいた夫人の知らせで、母フク、弟思郎が元旦に上京。中也は事情を知らされないまま、千葉県の中村古峡療養所に2月中旬まで入院。退院後、神奈川県鎌倉町扇ケ谷(現・鎌倉市扇が谷)の寿福寺敷地内の住家に転居。近辺には小林秀雄、大岡昇平らが住んでいた。7月7日、盧溝橋事件起こる。この頃、帰郷を決意。9月15日、「ランボオ詩集」(野田書房)を発行。同月、「在りし日の歌」の原稿を清書し、小林秀雄に託す。10月4日、安原喜弘を訪問、頭痛と視力障害を訴える。同6日、鎌倉養生院に入院、22日、永眠。病名は結核性脳膜炎ということが現在、判明している。
 

(編集:iPLANET)

 

中原中也アウトライン

中原中也(1907〜1937)

1907年(明治40年)4月29日、山口県山口町吉敷郡下宇野令村(現山口県山口市湯田温泉)に、父謙助、母フクの長男として生まれる。県立(旧制)山口中学時代、文学に熱中し3年時に落第、京都の立命館中学4学年へ転入。16歳の1923年(大正12年)、高橋新吉の詩集「ダダイスト新吉の詩」に共感、ダダ詩を書きはじめ、富永太郎らと交流する。

 

翌年、そのダダ詩に好感を示した女優志願の長谷川泰子と同棲し、1925年(大正14年)、連れ立って上京。富永の紹介で小林秀雄を知るが、まもなく泰子は小林の元へと去り、中也・泰子・小林の「奇怪な三角関係」がはじまる。この頃から、東京を転々と引っ越す生活をはじめ、その先々で交友関係を広げた。

 

1927年(昭和2年)春、河上徹太郎を知り、9月に河上を通じて諸井三郎を知って音楽集団「スルヤ」と交流を開始、翌1928年には、諸井三郎作曲で「臨終」「朝の歌」が初演された。

 

1929年4月、同人誌「白痴群」を河上徹太郎、大岡昇平らと発刊、詩人としての活動を始め、その後も、「生活者」「紀元」「半仙戯」「四季」などへ、詩やランボーの翻訳を発表した。

 

1933年(昭和8年)、遠縁の上野孝子と結婚、翌1934年、長男文也が誕生した頃、ようやく第一詩集「山羊の歌」を刊行した。「文学界」「歴程」などへ盛んに発表し、次第に声望を高める中、文也が1936年11月に死亡。ノイローゼで、千葉県の中村古峡療養所へ入院。退院後は神奈川県鎌倉に転居して再起をはかったが、1937年(昭和12年)10月22日、同地で死去した。享年30歳だった。

 

およそ370篇の詩を残し、その一部は、自選詩集「山羊の歌」「在りし日の歌」に収録されている。また、「ランボオ詩集」を出すなど、フランス詩の翻訳にも心血を注いだ。

 
 

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