「草稿詩篇」(1933年〜1936年)について
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「山羊の歌」は、中原中也が生きているうちに手にしたたった1冊の自選詩集です。1934年(昭和9年)末に発行されたとき、詩人は27歳。生まれて間もない長男文也を見るのは、製本されたばかりの「山羊の歌」の何冊かに献呈用のサインを入れ、郵送の手配を終えた足で東京駅から飛び乗った汽車が、翌日に山口県湯田温泉の実家へ着いてからのことでした。何度目の帰郷になるのでしょうか。この時も、「おまえは何をしてきたのだ──」という幻の声が聞えていたでしょうか。
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故郷山口
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<中也誕生>
1907年(明治40年)4月29日、山口県山口町吉敷郡下宇野令村(現山口県山口市湯田温泉)に、父謙助、母フクの長男として生まれる。生後6か月して旅順へ。以後、6か月を生地・山口で一時的に過ごしたほか、柳樹屯、広島、金沢と、父の赴任地に従って移り住んだ。小学校入学時に山口へ帰る。1914年(大正3年)下宇野令小学校入学。学芸会での朗読が参観者を驚かした。
<亡弟を歌ったのが最初の詩作>
1915年1月、弟・亜郎の死を悼む詩を作った。1918年、県立山口中学受験のため、山口師範付属小学校へ転校。1920年4月、県立(旧制)山口中学に成績12番で入学。1学期末試験では80番に落ちた。「防長新聞」などへ短歌の投稿をはじめ、2年時、友人と歌集「末黒野」発行。露西亜詩人ベールイの破格語法を在学中に知った。文学熱高じて3年生を落第。京都の立命館中学に4年生として転入した。親元を離れた、波乱万丈の青春がはじまる。
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京都時代
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<長谷川泰子と知り合う>
京都で暮らしはじめて文学熱はいよいよ高まり、16歳の1923年(大正12年)、高橋新吉の詩集「ダダイスト新吉の詩」に共感。ダダ詩を書きはじめ、一時は「ダダさん」と仇名で呼ばれた。「大空詩人」と称されていた永井叔を知り、女優志願生・長谷川泰子を紹介される。1924年4月、中也が作ったダダ詩に好感を示した泰子と意気投合し同棲。東京外国語学校生で詩を書く富永太郎との交流をはじめ、ランボー、ベルレーヌらのフランス象徴詩に啓発される。東京行きを決意した。
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東京転々
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<中也・泰子・小林の奇怪な三角関係>
1925年(大正14年)、泰子と連れ立って上京、豊多摩郡戸塚町(現・新宿区西早稲田)に住む。早稲田高等学院、日本大学予科への進学を試みるが失敗。4月、富永の紹介で、東京帝大仏文科に入学したばかりの小林秀雄を知る。5月、杉並町高円寺に転居、小林の住む馬橋が至近。この頃、小林と泰子の恋愛関係が生まれた。11月、富永は肺結核で死亡、まもなく泰子は小林と杉並町天沼で同棲する。中也は中野へ転居した。1926年(大正15年・昭和元年)、19歳。4月、日本大学予科文科へ入学、9月、親に無断で退学。アテネ・フランセへ通う。この年、「朝の歌」「臨終」を書く。中也・泰子・小林の「奇怪な三角関係」(小林の発言)が続く。
<音楽集団「スルヤ」との交流>
1927年(昭和2年)春、河上徹太郎を知り、10月には河上の紹介で音楽集団「スルヤ」のリーダー格・諸井三郎を知り、作曲を依頼する。1928年(昭和3年)、21歳。1月、内海誓一郎、3月、大岡昇平を知る。同月、父・謙助胃ガンを発病、見舞いのため5月までの間に2度、帰郷する。
<同人雑誌「白痴群」創刊>
1929年(昭和4年)、22歳。1月、渋谷町神山(現・渋谷区神山)に転居、近くに大岡昇平、阿部六郎の家があった。4月、同人雑誌「白痴群」創刊。河上徹太郎、大岡昇平、安原喜弘、阿部六郎、内海誓一郎、富永次郎、古谷綱武、村井康男が参加。「白痴群」を牽引したのは中也と河上徹太郎であったが、河上はピアノをよくし、「スルヤ」のメンバーでもあるから、中也は「スルヤ」の集いにも参加するなど、東京での交友関係を広げた。「白痴群」は第4号までを、年内に発行。5月、北豊島郡長崎町(現・豊島区長崎町)に転居。7月、豊多摩郡中高井戸(現・杉並区松庵)に転居、近くに高田博厚のアトリエがあった。
<「白痴群」第6号で廃刊>
1930年(昭和5年)、23歳。1月「白痴群」第5号、4月第6号と旺盛に作品を発表したが、同誌は第6号で廃刊した。5月、「スルヤ」第5回発表会で、「帰郷」「失せし希望」「(内海誓一郎作曲)、「老いたるものをして」(諸井三郎作曲)初演。8月、豊多摩郡代々木山谷(現・渋谷区代々木)に転居。9月、中央大学予科に編入学。秋、吉田秀和を知り、フランス語を教える。12月、長谷川泰子、山川幸世の子を生む、中也が名づけ親になり、「茂樹」と命名した。
<「山羊の歌」編集を開始>
1931年(昭和6年)、24歳。4月東京外語専修科仏語部(夜間)入学。高森文夫を知る。5月、青山二郎を知る。7月、豊多摩郡千駄ヶ谷町872(現・渋谷区代々木)に転居。9月18日、満州事変勃発。26日、弟・恰三死去、葬儀のため帰郷。12月、千駄ヶ谷町874へ転居。1932年(昭和7年)、25歳。3月、安原喜弘、山口訪問、長門峡などへ案内。5月、「山羊の歌」編集を開始。予約募集の通知を出すが、申し込みは10人余。8月、宮崎県の高森文夫を訪問。高森と延岡〜青島〜長崎を旅行。山口に帰り、金沢経由で帰京。荏原郡馬込町北千束(現・大田区北千束)へ転居。高森の伯母の家で、弟・惇夫が同居した。この頃、ノイローゼ状態になる。
<上野孝子と結婚>
1933年(昭和8年)、26歳。1月頃、坂本睦子にプロポーズするが断られる。3月、東京外語専修科修了。4月、「山羊の歌」の出版を芝書店と交渉するが不調。以後、出版に至る翌年まで、江川書房、建設社、隆章閣との交渉を安原喜弘が行うがすべて不調。5月、牧野信一、坂口安吾の紹介で同人雑誌「紀元」に参加。6月以降、同誌のほか「半仙戯」「四季」などに詩を発表。12月、遠縁の上野孝子と結婚。「ランボウ詩集(学校時代の詩)」を翻訳・刊行。四谷区花園町の花園アパートに住む。同アパートには青山二郎が住み、小林秀雄、大岡昇平らがよく訪れた。
<長男文也誕生。詩集「山羊の歌」出版>
1934年(昭和9年)、27歳。7月、身重の孝子夫人と帰省。高森文夫を訪ねる。ランボーの翻訳に没頭。9月下旬、単身帰京。10月18日、長男文也誕生。11月、「山羊の歌」が文圃堂発行に決まる。草野心平を知る。太宰治を知る。12月初め、「山羊の歌」刷り上り、帰省、文也と初対面。ランボーの翻訳に専念する。1935年(昭和10年)、28歳。1月、小林秀雄が「文学界」編集責任者になり、中也の発表の場も広がる。3月末、単身上京。5月、逸見猶吉、高橋新吉、草野心平らと第一次「歴程」発刊。6月、牛込区市ヶ谷谷町(現・新宿区住吉町)に転居。12月、「四季」同人になる。
<文也死去>
1936年(昭和11年)、29歳。「文学界」「四季」「歴程」「改造」「文芸懇話会」「むらさき」「隼」などに詩・評論を次々に発表。6月、「六月の雨」が「文学界賞」の選外一席となる。秋、親戚の中原岩三郎の斡旋で放送局(現・NHK)入社の面接に臨んだが不調。11月10日、長男文也、小児結核で死去。悲しみの底で「文也の一生」「夏の夜の博覧会はかなしからずや」「冬の長門峡」を書く。15日、次男愛雅(よしまさ)出生。
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鎌倉に転居
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<中也永眠>
1937年(昭和12年)、30歳。1月、精神の変調に気づいた夫人の知らせで、母フク、弟思郎が元旦に上京。中也は事情を知らされないまま、千葉県の中村古峡療養所に2月中旬まで入院。退院後、神奈川県鎌倉町扇ケ谷(現・鎌倉市扇が谷)の寿福寺敷地内の住家に転居。近辺には小林秀雄、大岡昇平らが住んでいた。7月7日、盧溝橋事件起こる。この頃、帰郷を決意。9月15日、「ランボオ詩集」(野田書房)を発行。同月、「在りし日の歌」の原稿を清書し、小林秀雄に託す。10月4日、安原喜弘を訪問、頭痛と視力障害を訴える。同6日、鎌倉養生院に入院、22日、永眠。病名は結核性脳膜炎ということが現在、判明している。
(編集:iPLANET)
中原中也(1907〜1937)
1907年(明治40年)4月29日、山口県山口町吉敷郡下宇野令村(現山口県山口市湯田温泉)に、父謙助、母フクの長男として生まれる。県立(旧制)山口中学時代、文学に熱中し3年時に落第、京都の立命館中学4学年へ転入。16歳の1923年(大正12年)、高橋新吉の詩集「ダダイスト新吉の詩」に共感、ダダ詩を書きはじめ、富永太郎らと交流する。
翌年、そのダダ詩に好感を示した女優志願の長谷川泰子と同棲し、1925年(大正14年)、連れ立って上京。富永の紹介で小林秀雄を知るが、まもなく泰子は小林の元へと去り、中也・泰子・小林の「奇怪な三角関係」がはじまる。この頃から、東京を転々と引っ越す生活をはじめ、その先々で交友関係を広げた。
1927年(昭和2年)春、河上徹太郎を知り、9月に河上を通じて諸井三郎を知って音楽集団「スルヤ」と交流を開始、翌1928年には、諸井三郎作曲で「臨終」「朝の歌」が初演された。
1929年4月、同人誌「白痴群」を河上徹太郎、大岡昇平らと発刊、詩人としての活動を始め、その後も、「生活者」「紀元」「半仙戯」「四季」などへ、詩やランボーの翻訳を発表した。
1933年(昭和8年)、遠縁の上野孝子と結婚、翌1934年、長男文也が誕生した頃、ようやく第一詩集「山羊の歌」を刊行した。「文学界」「歴程」などへ盛んに発表し、次第に声望を高める中、文也が1936年11月に死亡。ノイローゼで、千葉県の中村古峡療養所へ入院。退院後は神奈川県鎌倉に転居して再起をはかったが、1937年(昭和12年)10月22日、同地で死去した。享年30歳だった。
およそ370篇の詩を残し、その一部は、自選詩集「山羊の歌」「在りし日の歌」に収録されている。また、「ランボオ詩集」を出すなど、フランス詩の翻訳にも心血を注いだ。
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