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コラム

2013/08/02

主な参考文献

 
 
新編中原中也全集(角川書店、2000〜2003)
中原中也の手紙 安原喜弘著(講談社文芸文庫、2010)
中原中也必携 吉田凞生編(学燈社、1979)
新潮日本文学アルバム 中原中也 秋山駿編(1985)
私の上に降る雪は わが子中原中也を語る 中原フク述・村上護編(講談社、1973)
ゆきてかへらぬ─中原中也との愛 長谷川泰子述・村上護編(講談社、1974)
私のこだわり人物伝 中原中也 町田康解説(日本放送出版協会、2008)
中原中也 大岡昇平著(角川文庫、1979)
中原中也 大岡昇平著(講談社学芸文庫、1989)
日本のアウトサイダー 河上徹太郎著(新潮文庫、1965)
私の詩と真実 河上徹太郎著(講談社文芸文庫、2007)
Xへの手紙・私小説論 小林秀雄著(新潮文庫、1962)
作家の顔 小林秀雄著(新潮文庫、1961)
考えるヒント4 ランボオ・中原中也 小林秀雄著(文春文庫、1980)
ソロモンの歌 一本の木 吉田秀和著(講談社文芸文庫、2006)
モーツアルト 吉田秀和著(講談社学術文庫、1990)
高級な友情 野々上慶一著(講談社文芸文庫、2008)
小説太宰治 檀一雄著(岩波現代新書、2000)
暗い青春・魔の退屈 二十七歳 坂口安吾著(角川文庫、1970)
テキストと実存 平井啓之著(青土社 1988)
青い階段をのぼる詩人たち 現代詩の胎動期 菊池康雄著(1965)
愛と孤愁の詩人たち 島岡晨著(1975)
無用の告発 秋山駿著(河出書房新社、1969)
知れざる炎 評伝中原中也 秋山駿著(河出書房新社、1977)
中原中也の世界 北川透著(紀伊國屋新書、1968)
詩と思想の自立 北川透著(思潮社、1970)
中原中也 わが展開 北川透著(国文社、1977)
抒情の遠景 清水昶著(アデイン書房、1976)
詩のこころを読む 茨木のり子著 (岩波ジュニア新書、1979)
詩的言語 篠田一士著(小沢書店、1985)
詩を読む人のために 三好達治著(岩波文庫、1991)
日本鉄道詩紀行 きむらけん著(集英社新書、2002)
中原中也 悲しみからはじまる 佐々木幹郎著(みすず書房、2005)
誰も語らなかった中原中也 福島泰樹著(PHP新書、2007)
日本近代文学の名作 吉本隆明著(新潮文庫、2008)
中原中也を読む 中村稔著(青土社、2001)
中原中也 天体の音楽 樋口覚著(青土社、2007)
永遠の詩 中原中也 高橋順子選・解説(小学館、2010)
残響 中原中也の詩によせる言葉 町田康著(NHK出版、2011)
中原中也とランボー 宇佐美斉著(筑摩書房、2011)

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2013/08/01

中原中也30歳の死

中原中也の27歳、1934年は
長男文也の誕生、
「山羊の歌」の出版という
公私ともに充実した年で
ありました。

上昇気流に乗って、そのまま、
大空に翔ぶ鷹のような
力強い人生が期待されますが……

しかし
まったく不運にも
この充実ぶりは
1936年11月の文也の死によって
消え去り
その翌1937年10月には、
また不運にも
結核性脳膜炎を発症し、
急逝してしまいます。

あまりにもあっけなく
あまりにもはかない……
30歳の命でした。

29歳から死までの年譜を
ここで見ておきます。
「中原中也詩集『在りし日の歌』」
(佐々木幹郎編、角川文庫クラシックス)
からの引用です。
*同文庫は、当然ながら縦書きで、漢数字表記ですが、ここでは洋数字に改めているほか、改行を適宜加えています。

1936年(昭和11) 29歳
「四季」「文学界」「改造」「紀元」などに詩・翻訳を多数発表。
1月、「含羞」、6月「六月の雨」(「文学界賞」佳作第一席)、7月「曇天」など。
6月、山本文庫「ランボオ詩抄」刊行。
秋、親戚の中原岩三郎の斡旋で放送局入社の話があり面接を受ける。
11月10日、文也死す。
12月15日、次男愛雅(よしまさ)生まれる。神経衰弱が昂じる。

1937年(昭和12) 30歳
1月9日、千葉市の中村古峡療養所に入院。2月15日退院。
同27日、鎌倉の寿福寺境内に転居。同月「また来ん春……」、4月「冬の長門峡」、5月「春日狂想」を発表。
8月、草野心平がJOAKで「夏(血を吐くやうな)」を朗読。
9月、野田書房から「ランボオ詩集」を出版。
同月、関西日仏学院に入会を申し込む。
同月、「在りし日の歌」を編集、原稿を清書。小林秀雄に託す。
10月、結核性脳膜炎を発病。同6日鎌倉養成院に入院。
同22日永眠。戒名は放光院賢空文心居士。郷里山口市吉敷の経塚墓地にある「中原家累代之墓」に葬られる。

 

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魂の動乱時代・中也25歳

一方詩人の魂には漸く困乱の徴が見え始めた。

「中原中也の手紙」の「手紙四十九 九月二十三日(はがき)(大森 北千束)」の解説で、著者・安原喜弘は、昭和7年(1932)秋の詩人・中原中也25歳の状態を、こう記して、次のように続けています。

この時まで辛くも保たれた魂の平衡運動は遂にこの疲労した肉体のよく支え得るところでなく、夢と現実と、具体と概念とは魂の中にその平衡を失って混乱に陥り、夢は現実に、具体は概念によって絶えず脅迫せられた。人はこの頃の状態を神経衰弱と呼ぶかもしれない。然しながら私は詩人のこの時代の消息については今は単に詩人の動乱時代と呼ぶに止めたいと思う。

詩人27、28、29歳の上昇機運の前に
「魂の動乱時代」とか「魂の惑乱時代」があった、と
中也の晩年、最も近くに存在し続けた
僚友・安原喜弘が書いているのです。

安原喜弘は、
「白痴群」以来の中也の友人で
詩集「山羊の歌」中の「羊の歌」が
献呈されている、当の人です。

1932年、25歳の年譜を
中原中也詩集『在りし日の歌』」
(佐々木幹郎編、角川文庫クラシックス)で
見ておきます。
* 同文庫は、当然ながら縦書きで、漢数字表記ですが、ここでは洋数字に改めているほか、改行を適宜加えています。

1932年(昭和7)
4月 「山羊の歌」の編集を始める。
5月頃から自宅でフランス語の個人教授を始める。
6月、「山羊の歌」の予約募集の通知を出し、10名程度の申し込みがあった。
7月に第2回の予約募集を行うが結果は変わらなかった。
8月、馬込町北千束の高森文夫の伯母の家に移転。高森と同居。
9月、祖母スエ(フクの実母)没、75歳。母からもらった300円で「山羊の歌」の印刷にかかるが本文を印刷しただけで資金が続かず、印刷し終えた本文と紙型を安原喜弘に預ける。
秋以降、高森の従妹に結婚を申し込む。ノイローゼ状態となり、高森の伯母が心配して
年末フクに手紙を出した。

「中原中也の手紙」に付された「中原中也略年譜」も
ここで見ておきましょう。

*青土社版2000年発行の「中原中也の手紙」に収められた、この略年譜は、だれがいつ編集したものか明らかでありませんが、ここでは安原喜弘が作ったものと判断します。佐々木幹郎編の中原中也詩集『在りし日の歌』」(角川文庫クラシックス)の年譜は、これより新しい制作のようです。

1932年(昭和7年) 25歳
3月 上旬、京都を経て帰省。下旬、安原、山口を訪れ、5日間滞在。秋吉鍾乳洞(秋吉洞)、長門峡などを案内する。
5月 これまでの詩作をまとめて第1詩集「山羊の歌」の編集に着手。
6月 「山羊の歌」の編集を終り、7月出版の予定にて一口4円の予約募集をするも、応ずるもの十数名にすぎず。
7月 「山羊の歌」予約の訂正通知を出す。応募〆切りを7月20日とし、発行を9月に延期することを告げ、重ねて予約を勧誘する。しかし結果は思わしからず、結局全部自費で出版することを決意し、ひとまず帰省。
9月 郷里よりあるていどの資金を用意して上京、「山羊の歌」を印刷する。しかし資金不足のため装丁、出版までにいたらず、本紙、紙型を引きとって安原宅に預ける。
この頃より長年にわたる疲労と苦難から神経衰弱の徴候を現わし、次第に激しくなる。年末から年初にかけて絶頂に達し、ほとんどの友人たちと断絶する。
 
 

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「白痴群」の中也と大岡昇平

「白痴群」は昭和四年四月創刊の同人雑誌である。同人は中原中也のほかに、河上徹太郎、阿部六郎、村井康男、内海誓一郎、古谷綱武、富永次郎、安原喜弘、それに私を入れた九人。

と、記すのは、もちろん、大岡昇平であります。

はっきりした主義主張があるわけでなく、中原の交友範囲の文学青年が十円の個人費を持ち寄っていたずら書きを活字にしただけのものである。従っていつも原稿の集まりが悪く、翌五年四月までに六号を出して廃刊になった。
(「白痴群」大岡昇平、「文学界」1956年9月号)

大岡昇平は、
いつもの通りの、
綿密な文献的考証によって、
「白痴群」の史的意味、
文学史的意味、
中原中也という詩人にとっての意味を
考えています。

中原中也自身が、「白痴群」についてふれた
「詩的履歴書」
「千葉寺雑記」
の二つの文章へ
注釈を加え、補足し、
自らの所見を述べるという形で
中也を語り、
中也を語る中で
大岡昇平自身を語っているのです。

ここに
「千葉寺雑記」から大岡昇平がとりあげた部分を引いておきましょう。
中也の「散文」は、
張りのようなものがあって
詩とはまた異なった味わいがあります。
それにふれるのもいいでしょうし、
中也自身が、生い立ちにふれていることも
中也を知る手がかりになりますし……

(以下、大岡昇平「白痴群」からの孫引き)

十二年二月七日附院長宛。
(略)何しろ小学に這入りましてからは、這入るとまづ、一番(成績順)にならなければ家を出すとお父さんが仰ったと母に聞かせられますし、学校に這入りましてからの家庭生活は、実に蟻地獄のやうでございました。

それでもまづ中学一二年の頃までは、可なり従ってをりましたが、三年に到ってやり切れず、遂に落第。それより京都の中学に転校。何はあれ好きな道で早く恰好をつければ親も安心しようものと、勉強に勉強を致し、漸く昭和三年の春、今では有名な連中の出す雑誌創刊に招かれ、やれやれと思ひましたものの会って見ると赤い気持を持ってゐる様に思はれましたので、少しぐづりましたら相手も怒りましたので、いいことにして其処を去り、翌年「白痴群」なる雑誌を出しましたが、何分当時の文壇は大方赤く、雑誌が漸くだれてゐました所へ同人の一人と争ひといふやうなわけでその雑誌はやめになりました。其の後その一人その時は皆に可なりよく取入ってゐましたのでむしろよく思はれておりましたが、今ではみんなからシャーシャーした奴だとの様思はれてをります。

その雑誌がやめになってみすれば、他に共に雑誌を始むべき者も見当らず、独りでコツコツ書いては数人に見せて、お茶漬けくらゐならどうにか一生食ってゆける境遇に甘んじて、四五年を過しました。(略)

*一部を現代語表記にしたほか、改行・行空きを加えました。

大岡昇平が書いた「白痴群」(「文学界」1956年9月号初出)に引用された中原中也の「千葉寺雑記」で

雑誌が漸くだれてゐました所へ同人の一人と争ひというやうなわけでその雑誌はやめになりました。

と、ある「同人の一人」こそ、大岡昇平でありました。

大岡昇平は
「白痴群」の頃、つまり、昭和4、5年の頃を回想して、「白痴群」というタイトルの論評(これも中原中也評伝の一つにすぎない)を、戦後およそ10年を経てまとめているのですが、これをもしも中也が読んだら、どんなかことになるのか、また二人は取っ組み合いをしはじめるのか……。

そんなことを想像するだけでワクワクしてくるような、中也との「争い」をリアルに描いているのです。

「俘虜記」(1949年)
「野火」(1952年)

より後のことです。
1956年(昭和31年)のことです。

中也没後およそ20年が経過していました。
中也は1937年(昭和12年)に30歳で亡くなりました。
大岡昇平は、1909年(明治42年)生まれで、中也より2歳年下です。

中也への眼差しは、愛情にあふれたものですから、ぜひとも、このくだりは大岡昇平「白痴群」を読んでいただきたいのですが(*角川文庫「中原中也」大岡昇平著で読めます)、こんなふうに書いています。

中原も酔うと安原を除いて、我々を罵ることが多くなった。問題の喧嘩の時は、私は二重廻しを着ていたから、五年の一月「白痴群」第五号が出た時の同人会の時だったと思う。目黒不動の裏の安原の家だった。中原が富永次郎を罵り出した。「帰れ」「帰るとも」というような問答で、なぐり合いになりそうだったので、私が間に入ると、そんなら貴様が相手だということになった。富永は先に帰った。

「表へ出ろ」
ついでに散会ということになり、阿部六郎も村井康男も一緒に外へ出た。ほんとの喧嘩になろうとは誰も思っていなかったのだが、だんだん中原が私をなぐる気らしいのがわかって来た。「こっちへ来い」といって二重廻しの袖をつかんで、外の連中から引き離し、道傍の立木の間へ連れ込んだ。

仕方がないから、先へ立って歩いて行くと、いきなり後から、首筋をなぐった。歩いている人間をうしろからなぐるんだから、あんまり衝撃はない。私は向き直ったが、スタヴローギンになったつもりで、手を二重廻しのポケットから出さなかった。

中原は抵抗しないのに安心して「中原さんの腕前を見たか」とか何とかいいながら、跳躍しながら、拳骨で突きを入れて来た。これは少し痛かったが、私は最初の方針通り手を出さなかった。

私の中原への政策は、反抗してもいい負かされてしまうから、何もいわずに、ただ背を向けるということであった。外で会ったら、出来るだけ早く「さよなら」し、家へ来そうな日は外へ出てしまうのである。

理由をいわないのは卑怯だが、いう理由など実はなかったかもしれない。しかしとにかく何もいわずに反いている以上、鉄拳ぐらい我慢してやるというのが、スタヴローギン的感傷だったが、私も人になぐられたのは物心ついてからこれが初めてである。怪我にはならなかったが、なぐられた跡が、精神的に変にうずいた。

それから中原が酒席で罵る時、こっちから手を出すことにした。この時のなぐり方で、おとなしくしていれば、かさにかかって来る奴だということがわかったからである。
(改行を適宜、入れてあります)

太宰治とか、坂口安吾とか、中村光夫とか……。
中也から遠い文学者たちとの喧嘩と
大岡昇平との喧嘩とは
異なっていたと見るべきなのかもしれません。

何よりも
同人内部のことでしたから……。

しかし、大岡昇平は
「白痴群」を冷ややかな眼で見ています。

「白痴群」がつぶれたのは、決して中原と私が喧嘩したためではない。第五号も半分以上中原の原稿である。最初から書きたいものを持っていたのは、中原と河上だけで、あとはただ何となく書いたものが活字になるのがうれしいという程度で、熱心というものが全然なかった。

▼大岡昇平:1909年に生まれ1989年に亡くなった作家。戦争体験を小説化した「野火」「レイテ戦記」や、恋愛小説「武蔵野夫人」「花影」などで知られる一方、中原中也との生前の交流をもとに永年にわたって書いた評伝集「中原中也」は、詩人中原中也の評価を確立した。これまでに出版された中原中也全集は、1951年の創元社版(全3巻)、1960年の角川書店版(全1巻)、1967年の角川版全集(全5巻別巻1、旧全集)とあり、そのすべてに関わり、死後に刊行された2000~2003年の角川版新編全集(全5巻別巻1、新全集)にも、編集委員として名を連ねている。
 
 

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中也が安吾に挑む時

「(前略)私はこの酒場で中原中也と知り合った。」と、
坂口安吾は「ウヰンザア」という酒場での
中也との初対面について書いています。
「二十七歳」という標題の年代記的小自伝で、
27歳の自らを回想し、
中也を初めて知った時の事件にふれます。

――中原中也は、この娘にいささかオボシメシを持っていた。そのときまで、私は中也を全然知らなかったが、彼の方は娘が私に惚れたかどによって大いに私を呪っており、ある日、私が友達と飲んでいると、ヤイ、アンゴと叫んで、私にとびかかった。
 とびかかったとはいうものの、実は二、三メートル離れており、彼は髪ふりみだしてピストンの連続、ストレート、アッパーカット、スイング、フック、息をきらして影に向かって乱闘している。中也はたぶん本当に私と渡り合っているつもりでいたのだろう。私がゲラゲラ笑いだしたものだから、キョトンと手をたれて、不思議な目で私を見つめている。こっちへ来て、いっしょに飲まないか、とさそうと、キサマはエレイ奴だ、キサマはドイツのヘゲモニーだと、変なことを呟きながら割りこんできて、友達になった。非常に親密な友達になり、最も中也と飲み歩くようになったが、その後中也は娘のことなど嫉く色すらも見せず、要するに彼は娘に惚れていたのではなく、私と友達になりたがっていたのであり、娘に惚れて私を憎んでいるような形になりたがっていただけの話であろうと思う。
(角川文庫「暗い青春・魔の退屈」『二十七歳』より)

「不思議な目」とはどんな目だろう。
安吾は、中也の目に
ただならぬものを感じたに違いありません。
小僧をつかまえて、
からかってやろうなどという優越が、
微塵もありません。

安吾の本能になにかが伝わりました。
なにかが電撃的に伝わりました。
一瞬のうちに、二人は友達になりました。

それにしても
みかけ上はまるで異なる風貌をしていたに違いない二人の
出会い。
 
 

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太宰治にからむ中也 by檀一雄

その1

中也の歩行は、

たいていの場合、酒場で終着し、
たいていの場合、一騒ぎありました。

中原中也と交流のあった
多くの文学者、創作家がその一騒ぎについて書いています。

檀一雄の「小説 太宰治」から引用します。

――――寒い日だった。中原中也と草野心平氏が、私の家にやって来て、ちょうど、居合わせた太宰と、四人で連れ立って、「おかめ」に出掛けていった。初めのうちは、太宰と中原は、いかにも睦まじ気に話し合っていたが、酔が廻るにつれて、例の凄絶な、中原の搦みになり、
「はい」「そうは思わない」などと、太宰はしきりに中原の鋭鋒を、さけていた。しかし、中原を尊敬していただけに、いつのまにかその声は例の、甘くたるんだような響きになる。
「あい。そうかしら?」そんなふうに聞こえてくる。
「何だ、おめえは。青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって。全体、おめえは何の花が好きだい?」
太宰は閉口して、泣き出しそうな顔だった。
「ええ? 何だいおめえの好きな花は」
まるで断崖から飛び降りるような思いつめた表情で、しかし甘ったるい、今にも泣き出しそうな声で、とぎれとぎれに太宰は云った。
「モ、モ、ノ、ハ、ナ」云い終って、例の愛情、不信、含羞、拒絶何とも云えないような、くしゃくしゃな悲しいうす笑いを泛べながら、しばらくじっと、中原の顔をみつめていた。
「チェッ、だからおめえは」と中原の声が、肝に顫うようだった。
そのあとの乱闘は、一体、誰が誰と組み合ったのか、その発端のいきさつが、全くわからない。
少なくとも私は、太宰の救援に立って、中原の抑制に努めただろう。気がついてみると、私は草野心平氏の蓬髪を握って掴みあっていた。それから、ドウと倒れた。
「おかめ」のガラス戸が、粉微塵に四散した事を覚えている。いつの間にか太宰の姿は見えなかった。私は「おかめ」から少し手前の路地の中で、大きな丸太を一本、手に持っていて、かまえていた。中原と心平氏が、やってきたなら、一撃の下に脳天を割る。
その時の、自分の心の平衡の状態は、今どう考えても納得はゆかないが、しかし、その興奮状態だけははっきりと覚えている。不思議だ。あんな時期がある。
幸いにして、中原も心平氏も、別な通りに抜けて帰ったようだった。古谷綱武夫妻が、驚いてなだめながら私のその丸太を奪い取った。すると、古谷夫妻も一緒に飲んでいたはずだったが、酒場の情景の中には、どうしても思い起こせない。
(檀一雄「小説太宰治」岩波現代文庫より)

それにしても
青鯖が空に浮かんだような顔しやがって
には笑えますね。

中也はきっと
書かれた言葉の魅力に劣らない
喋り言葉の迫力をもっていたのでありましょう
機関銃のように飛び出す
言葉。

檀一雄はさらに続けます。
ここでは、
中也が太宰に「挑んだ」時、
そのとばっちりを受け、
やむなく中也を雪の道に放り投げたことが記されています。

――第二回目に、中原と太宰と私で飲んだ時には、心平氏はいなかった。太宰は中原から、同じように搦まれ、同じように閉口して、中原から逃げて帰った。この時は、心平氏がいなかったせいか、中原はひどく激昂した。
「よせ、よせ」と、云うのに、どうしても太宰のところまで行く、と云ってきかなかった。
雪の夜だった。その雪の上を、中原は嘯くように、
夜の湿気と風がさびしくいりまじり
松ややなぎの林はくらく
そらには暗い業の花びらがいっぱいで
と、宮沢賢治の詩を口遊んで歩いていった。
飛鳥氏の家を叩いた。太宰は出て来ない。初代さんが降りてきて、
「津島は、今眠っていますので」」
「何だ、眠っている? 起せばいいじゃねえか」
勝手に初代さんの後を追い、二階に上がり込むのである。
「関白がいけねえ。関白が」と、大声に喚いて、中原は太宰の消燈した枕許をおびやかしたが、太宰はうんともすんとも、云わなかった。
あまりに中原の狂態が激しくなってきたから、私は中原の腕を捉えた。
「何だおめえもか」と、中原はその手を振りもごうとするようだったが、私は、そのまま雪の道に引き摺りおろした。
「この野郎」と、中原は私に喰ってかかった。他愛のない、腕力である。雪の上に放り投げた。
「わかったよ。おめえは強え」
中原は雪を払いながら、恨めしそうに、そう云った。それから車を拾って、銀座に出た。銀座からまた、川崎大島に飛ばした事を覚えている。雪の夜の娼家で、三円を二円に値切り、二円をさらに一円五十銭に値切って、宿泊した。
明け方、女が、
「よんべ、ガス管の口を開いて、一緒に殺してやるつもりだったんだけれど、ねえ」そう云って口を歪めたことを覚えている。
中原は一円五十銭を支払う段になって、また一円に値切り、明けると早々、追い立てられた。雪が夜中の雨ににまだらになっていた。中原はその道を相変わらず嘯くように、
汚れちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
と、低吟して歩き、やがて、車を拾って、河上徹太郎氏の家に出掛けていった。多分、車代は同氏から払ってもらったのではなかったろうか。

今や、遠き日のことです。
これを書いた檀一雄も逝って久しく
これら遠き日のことどもを知っている文士たちは、
おおかた死んでしまって、
この世にいません。

記録の中にしか存在しなくなった詩人たち、小説家たち、評論家たち…
その足跡を、しかし、
記録の中に辿ることができるだけでも、
この人々は幸せと言い得るのではないでしょうか。

ことあげもされずに、
死んでいった無名の詩人たちはいくらでもいます。

記録に残されなかった詩人たちの代わりにといってよいほどに
いろいろなところで
中也は書き記されました。

それはやはり偉大なことであります。

中原中也という詩人は
「喧嘩」一つが、
書かれる価値を持っていました。

その2

「第二回目に、中原と太宰と私で飲んだ時には、心平氏はいなかった。」と、

檀一雄が「小説 太宰治」に記し、
それに続けて語られた中原中也のある日のことは、
色々なことを考えさせられます。

檀一雄は、中也と飲んだ2回目の時を回想した中で
中也が太宰に「夜襲」をかけた1件を書きます。
太宰の住処を訪ねる道すがら、
中也が宮沢賢治の詩を口ずさんだことを記しています。

太宰の家に着き
「奥様」の初代さんの応対を無視して
太宰の寝ている枕元に上がり込んだ中也を見かねた檀一雄は
ついに雪の道に中也を投げ出してしまいます。
「わかったよ。おめえは強え」と
中也が観念する場面です。

それから、「二人は」銀座に出、その後川崎の娼家で夜を明かします。
翌朝、追い立てられるように外に出た雪の道で
中也は「汚れつちまつた悲しみに…」を口にします。、

「小説」とわざわざ檀一雄が断っている作品の中でのことですから
事実との間にはいくらかの断絶があるのかもしれません。

しかし
「汚れつちまつた悲しみに…」という詩が
この世の中に現れた時の
その登場の仕方の一つ形を
想像できるという点で
この場面は注目に値します。

中原中也が、
宮沢賢治の詩に感心し、
自らの詩作に影響を受けたことは
よく知られています。

その賢治の詩を口ずさみ
また
自作「汚れつちまつた悲しみに…」を低吟して歩く中也の姿は
実際にはなかったことなのかもしれませんが
強く印象に残るのです。
 
 

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歩く詩人、東京転々

中原中也は、どんな所を歩いたか、
どこの街を歩いたのか、
と気にしながら、調べてみても、
そうやすやすと分かるわけもなく……

かわりにといってよいのか
住居を転々としていたことが見えてきます。

長谷川泰子とともに上京した1925年(大正14年)から
短い生涯を終える1937年、昭和12年までの間に
手元にある「新潮日本文学アルバム」の略年譜でたどるだけで

早稲田鶴巻町
早稲田戸塚町
中野西町
中野上町
中野西町

高井戸町下高井戸
渋谷町神山

北豊島郡長崎町
高井戸町中高井戸

代々木山谷

千駄ヶ谷872
千駄ヶ谷874

馬込町北千束

四谷区花園町

市谷谷町

神奈川県鎌倉町扇が谷

といった具合です。

上京した1925年は中也18歳
結核性脳膜炎で死去する1937年は30歳
その12年の間のことです。

2008年現在の住宅事情とは異なるとはいえ、

引越しのこの頻度に驚かされます。

歩く詩人は、住居を転々と変える人でもありました。

大岡昇平は「中原中也の思い出」の中で、「昭和三年に連れ立って東京の街をうろつき廻った頃の我々は全く呑気なものであった」と記したのに続けて……。

――歩くのはまだあまり舗装の侵入していなかった中央線沿線の檜葉垣の多い裏通りであったり、震災後めっきり増えた擬西洋風のファサードを持った商店の並ぶ旧市内の電車通りだったりするが、そういう道の先にはたいてい我々の数少ない友人の家があって、我々は昨夜夜通しで喋った疲れた頭をいわばそういう友人の家へ休めに行くのである。

と書いている。

省線の駅で三つや四つほどの距離を、
すたすた歩いてゆく詩人らの姿が
鮮やかに見えてきます。

若き日には、
詩人でなくとも、
こうした時間を過ごしたことがある

そのような時間です。

――そういう友人はたいてい留守のことが多く、結局我々はどっかそこいらの喫茶店か飲み屋に入って、永い午後をすごすことになる。

こういう時間です。

歩くといっても、このような時間を「歩く」と呼ぶ場合もあるのです。
 
 

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詩の出来不出来

織物の方法として知られるタペストリーとは、麻、羊毛(ウール)、絹などを使い、風景や模様を織り出した、つづれ織りのことです。

表は、完成された「絵」になって、その絵を壁掛けなどとして楽しむのですが、裏側は、描きかけの絵のような、未完成で、荒削りな乱れた織り目や、布くずが散らばっている状態です。裏は、人目に触れないから、それでよいのです。裏は、表を完成させるために存在し、表は裏がなければ存在しませんし、双方がそれぞれを必要としていて、どちらかが「偉い」という関係ではありません。

このタペストリーにたとえれば、詩集「山羊の歌」や詩集「在りし日の歌」に選ばれた詩篇が表なら、発表されなかった詩篇は裏であり、どちらも、中原中也が歌った歌に違いはありません。表と裏とを、たとえ、出来不出来の関係と見なしたとしても、どちらも中原中也の作品であることは変わりません。

このような意味で、小林秀雄が、次のように言っていることは、すこぶる重大な指摘です。

――詩の出来不出来なぞ元来この詩人には大した意味はない。それほど、詩は彼の生ま身の様なものになっていた。どんな切れっぱしにも彼自身があった。
(「中原中也の遺稿」昭和十二年十二月「文学界」)

小林秀雄が、中原中也の詩は、出来不出来を論じても無意味だ、というようなことを記したのは中原中也という詩人によって作られた詩が、ことごとく生の肉体、生身の感動を経て選び取られた言葉の切れ端であり、その切れ端は他人によっては分解できない血のようなものへと変成されそれを詩にした、そのことを抜きに巧拙を云々することの馬鹿馬鹿しさを言いたかったからで、だからといって、中原中也の詩に出来不出来がなかった、ということではありません。

中原中也の詩の一つひとつに中原中也という詩人の血脈が流れ作品のどれもが斬れば血しぶきのほとばしるようなものばかりであってもそれらには、出来不出来が当然のことながらありました。

詩人は、自作の出来不出来のために日々、苦闘し、大都会を彷徨い、酒場に通い、討論し、とっくみあいの喧嘩もし…… と言えるほどに「言葉」や「詩句」とたたかいました。

たたかう、という言葉が最も相応しい、と言えるほどに、悲しみの詩人が詩を生み出す有様はまさに、傷だらけ、満身創痍でした。そうであるからこそ、中原中也作品のことごとくが、あの、名指し得ない、なんともいえない、透明感を帯びているというわけなのです。
 
 

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詩集「山羊の歌」の「女」たち

詩集「山羊の歌」の全篇のいくつかには「女」が登場します。

その「女」のほとんどが長谷川泰子をモデルにしている

といわれています。中原中也は、京都で知り合い、同棲しはじめた泰子と連れ立って上京し、東京での生活をスタートしました。1925年、大正14年3月のことでした。

その泰子が、文学仲間である小林秀雄のところへ逃げ出してしまうのは、その年の11月でした。中也と泰子の関係は、ここで断たれたわけではなく、小林秀雄自らが名づけたように「奇怪な三角関係」が、以降、ずっと続きます。

泰子を失った中也の苦しみやあわてぶり……は、後になって「私は口惜しい人であった」(「我が生活」)と記されるように、中也の心を支配し中也の悲痛ははじまります。この悲痛が歌われないわけがありません。

いま、詩集「山羊の歌」の初期詩篇22篇に表現された詩句だけをたどってみても「女」は随所に見られ、直喩、暗喩といったメタファー、シンボライゼーション(象徴化)

擬人化……など、レトリックの中に登場する「女」もあちこちに散らばっています。

例えば「春の夜」の第1連、燻銀なる窓枠の中になごやかに 一枝の花、桃色の花。とあるのは、明らかに「女」です。これはどうみても長谷川泰子ではなさそうで、長谷川泰子でなければいったい誰なのだろう、という疑問が湧いてくるのは当然です。

それを追求することは無意味ではありませんが、ここでは作品鑑賞を目的にしており伝記的事項はメーンでありませんから、作品の読みに支障がない限り詩に現れる女性が

現実の誰それであるということにはこだわりません。

とはいえ、詩集「山羊の歌」の詩の中に喩やシンボルとしてではなく現れる「女」を全篇に当たって拾ってみたら……当然過ぎる結果が出ました。

「臨終」

神もなくしるべもなくて 窓近く婦の逝きぬ

窓際に髪を洗へば その腕の優しくありぬ

「深夜の思ひ」

黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄する

ヴェールを風に千々にされながら。

彼女の肉は跳び込まねばならぬ、

厳しい神の父なる海に!

「盲目の秋」

私の!

とにかく私は血を吐いた!……

「わが喫煙」

おまへのその、白い二本の脛が、

夕暮、港の町の寒い夕暮、

によきによきと、ペエヴの上を歩むのだ。

「妹よ」

夜、うつくしい魂は涕いて、

もう死んだつていいよう……といふのであつた。

「寒い夜の自我像」

人々の焦懆のみの愁しみや

憧れに引廻される女等の鼻唄を

わが瑣細なる罰と感じ

「みちこ」

そなたの胸は海のやう

おほらかにこそうちあぐる。

「無題」

こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、

私は強情だ。

「雪の宵」

ホテルの屋根に降る雪は

過ぎしその手か、囁きか

ほんに別れたあのをんな、

いまごろどうしてゐるのやら。

「時こそ今は……」

いかに泰子、いまこそは

しづかに一緒に、をりませう。

どうですか? 「臨終」と「みちこ」を除いて、すべてが長谷川泰子であることがはっきりと分かります。 泰子は、このほかにも「秋」では詩人と会話する相手であり、語り手として登場しますし、

「羊の歌」に、

九才の子供がありました

女の子供でありました

と書き出され、

私は炬燵にあたつてゐました

彼女は畳に坐つてゐました

と歌われる女性も

泰子であっておかしくはありません。
 
 

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中也の恋愛と作品

大岡昇平は、角川書店版「中原中也全集解説」の「詩Ⅰ」(1967年)で

「(略)昭和三年五月小林と別れてから、中原は再び求愛したが容れられない。松竹へ入って映画女優となり、小林と同棲中から親交があった男と同棲した。その男がパリへ行くと、東中野に下宿して、駅前の芸術的カフェーに出入りして不安定な生活を送っていた。たまに中原の中高井戸の家へ来て泊ることがあるという程度に愛情を分配することもあったが、昭和五年末若い学生の子供を生んだ。これが恋愛関係においては決定的な別れとなり、八月、中原は代々木山谷の下宿に移転する。「少年時」「みちこ」「秋」に収められた詩篇は、大体この苦しい恋の経過から生れた。」

と、書いています。

この文の主語は長谷川泰子です。小林は、もちろん小林秀雄のことです。これは綿密な実証的探求の結果の発言です。

1967年に刊行がはじまった「中原中也全集」(全5巻別巻1、角川書店)は、後に「旧全集」と呼ばれることになりますが、この全集への編集参画は中原中也全集への大岡昇平としては、3回目のもので集大成となった仕事でした60代後半の仕事です。

1回目は1951年の創元社版全3巻で40代はじめ、2回目は1960年の角川書店版全1巻で50代はじめでした。

その大岡が、詩集「山羊の歌」の半分を占める「初期詩篇」以外の「少年時」「みちこ」「秋」に収められた詩がほとんど長谷川泰子への求愛から失恋の過程で創られたものと断言しているのですから、この点には耳を傾ける必要がありましょう。

しかし「ほとんど」がそうであってもこの時期の作品すべてが恋愛詩とはいえないかもしれません。それに、

「ただ、こういう風に、詩人の生活、特に恋愛から、その創造のすべてを解釈するのは誤っていよう。詩人は結局のところ、恋人より作品を大事にしている。『恋愛を夢みるほかに能がない』という歎きは彼の生活感情であるが、それをそう表出する時、彼はより普遍的なものを目指しているのである。

とも書かれていることを見落とすことはできません。

中原中也という詩人は結局のところ、恋人より作品を大事にしていた……のです。

とはいえ、「初期詩篇」の中にも長谷川泰子をモデルにした「黄昏」や「深夜の思ひ」の2作品がありますから「初期詩篇」以外の作品の「ほとんど」が「泰子がらみの詩」であるなら、詩集「山羊の歌」全体のざっと半分の詩は、長谷川泰子を元にした作品という計算になり、大岡昇平の読みを見過ごすことはできません。
 
 

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