私は十七で都会の中に出て来た。
私は何も出来ないわけではなかった。
しかし私に出来るたった一つの仕事は、
あまり低俗向ではなかった。
誰しも後戻りしようと願う者はあるまい、
そこで運を天に任せて、益々(ますます)自分で出来るだけのことをした。
そうして十数年の歳月が過ぎた。
母はただ独りで郷(くに)で気を揉んでいた。
私はそれを気の毒だと思った。
しかしそれをどうすることも出来なかった。
私自身もそれで気を揉む時もあった。
そのために友達を会ってても急に気がその方に移ることもあった。
そのうちどうもあいつはくさいと思われた時もあった。
あとでは何時(いつ)でも諒解(りょうかい)して貰(もら)えたが。
しかしそのうち気を揉むことは遂に私のくせとなった。
由来憂鬱な男となった。
由来褒められるとしても作品ばかり。
人間はどうも交際(つきあ)いにくいと思われたことも偶(たま)にはあった。
それは誤解だとばかり私は弁解之(これ)つとめた。
そうして猶更(なおさら)嫌われる場合もあった。
そうこうするうちに子供を亡くした。
私はかにかくにがっかりとした。
その挙句が此度の神経衰弱、
何とも面目ないことでございます。
今もう治療奏効して大体何もかも分り、
さてこそ今度はほがらかに本業に立返りたいと思っても、
余後の養生のためなのか、
まだ退院のお許しが出ず、
日々訓練作業で心身の鍛練をしておれど、
もともと実生活人のための訓練作業なれば、
まがりまりにも詩人である小生には、
えてしてひょっとこ踊りの材料となるばかり。
それ芸術というものは、謂(い)わば人が働く時にはそれを眺め、
人が休む時になってはじめて仕事のはじまるもの、
人が働く時にその働く真似をしていたのでは、
とんだ喜劇にしかなりはせぬ、しかしながら、
これも何かの約束かと、
出来る限りは努めてもおれど、
そんな具合に努めることは、
本業のためにはどんなものだか。
たった少しの自分に出来ることを、
減らすことともなるではあるまいかと
時には杞憂(きゆう)も起るなれど、
院長に話すは恐縮であるし
万事は前世の約束なのかと、
老婆の言葉の味も味わい、
こうして未だに患者生活、
「泣くな心よ、怖るな心」か。
追記、詩は要するに生活側より云えば観念的現実なれば、実生活的現実には非(あらざ)れど、聊(いささ)か弁解を加え置かんこと何れにせよよきことと思えば、左に一言附加え申す。
この詩でみれば、小生院長を怖れいるかの如く見ゆるかも知れねど、病院迄余を伴いたる母を怖れるなり。而(しか)も母を悪く思うどころにはあらねど、母のいたってさばけぬ了見が人様に物申す時、兎角(とかく)事実を尨大(ぼうだい)にすることを怖るなり。これは幼稚園以来のことにて、幼稚園の先生に会いにゆきて「少しうちの子をひどくして下され」なぞ申すなり。格別小生が悪いのでもなんでもないなり、ただだよい上にもよくしようとの母の理想派的気性より出ずるなり。何のことはない、急に幼稚園の先生がこわい顔したりする日ありけり。考えてみれば前日あたり母が幼稚園に来たのなり。
母を悪く申すではなけれど、謂わば母のあまりに母らし過ぎたるは及ばざるが如しとか、母の愛も過ぎては、害生ずる時もあり得るなるか。
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