茨木のり子の「ですます調」その3・高村光太郎「伝」−170
(前回からつづく)
「うたの心に生きた人々」の中の「高村光太郎」の章は
1 高村光雲のむすこ
2 パリでの人間開眼(かいげん)
3 父と対立
4 『智恵子抄』の背景
5 日本人の「典型」
――という構成ですが、
「『智恵子抄』の背景」では、
光太郎と智恵子の出会いから
「上高地の恋」を経ての結婚
第一詩集「道程」の出版
そして智恵子が狂気を発症し死に至るまでを描きます。
その口ぶりの特徴あるところを
この流れにそってところどころ拾うと
こんなふうです。
◇
智恵子はそんなことにはおかまいなく、純粋に光太郎の心の中めがけて、パッと飛びこんでしまったのです。
光太郎はびっくりし、たじろぎ、ショックでその不良性をさえ失ってしまいました。
「あの頃」という詩のなかで、
智恵子のまじめな純粋な
息をもつかない肉薄に
或日はっと気がついた。
わたくしの眼から珍しい涙がながれ、
わたくしはあらためて智恵子に向った。
智恵子はにこやかにわたくしを迎え、
その清浄な甘い香りでわたくしを包んだ。
わたくしはその甘美に酔って一切を忘れた。
わたくしの猛獣性をさえ物ともしない
この天の族なる一女性の不可思議力に
無頼(ぶらい)のわたくしは初めて自己の位置を知った。
と書いています。
*
光太郎と智恵子が、結婚に賭けた夢は、ひとりの彫刻家と、ひとりの画家が、共同生活をいとなみ、
それぞれの精進をつづけてゆくといった、永遠の学生生活のように若々しく意欲あふれるものでした。
*
智恵子はだれの目にも美人とうつる、いわば万人向きの美人ではなく、(略)
*
だれからも美人とみられるより、ひとりのひとによって発見された美のほうが、
よりすてきではないでしょうか。
*
昭和7年(1932)智恵子が47歳になったとき、とつぜん、睡眠薬アダリンを飲んで、
自殺未遂に終わるという事件が起こりました。
*
昭和9年は、父、光雲が83歳でなくなるという不幸があり、そのうえ、千葉県九十九里浜に療養させていた
智恵子の症状もますます悪化しました。
*
狂気の智恵子を考えるとき、たった一つの救いとなるものは、マニキュア用の小さなはさみで、
子どものように、無心に切って、じつに美しい紙絵をつくっていることです。
*
南品川のゼームス坂病院に入院していた、死の前年の、1年半くらいのあいだに、
千数百枚も切ったのでした。
*
光太郎がいくと、それはうれしそうな顔をして、そのひざに抱かれて、だれにも見せなかった紙絵を、
うやうやしく見せるのが、あわれでした。
光太郎がほめると、うれしそうに、はずかしそうに、何度も何度もおじぎをするのでした。
……等々。
(※読みやすくするために、改行をいれたり、洋数字に変えたりしてあります。編者。)
◇
引きずり込まれ
引用がついつい長くなってしまいますが
これは抜粋(ばっすい)です。
原文を味わうものではありません。
◇
うれしそうに、はずかしそうに、何度も何度もおじぎをするのでした。
――というところにさしかかっては
読み手のだれしもが書き手の茨木のり子の「こころ」と
直(じか)に触れるような共鳴をおぼえるにちがいありません。
光太郎と智恵子の結びつきが
まっすぐに伝わってきて
何度も読み返したくなるようなところですが
茨木の書き振りはむしろ控えめです。
◇
夢中になって
書物を読み進めるこの感覚――。
それで思い出すのが
少年少女のための冒険物語とか偉人伝などの文体です。
エジソン伝とか
ナイチンゲールの物語とかが、
記憶の古層から
ふっと抜け出してくるのです。
茨木のり子が
偉人伝や冒険譚をイメージしていたかはわかりませんが。
◇
このくだりにさしかかる頃、
この感覚とはまったく異なる
ある重要なことに気づき
思わず、あっと、息を飲みました。
中原中也の「山羊の歌」の表紙が
光太郎のこのような状況で制作されたことを思い出したからです。
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