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茨木のり子の「ですます調」その3・高村光太郎「伝」−170

(前回からつづく)

 

「うたの心に生きた人々」の中の「高村光太郎」の章は

 

1 高村光雲のむすこ

2 パリでの人間開眼(かいげん)

3 父と対立

4 『智恵子抄』の背景

5 日本人の「典型」

――という構成ですが、

 

 

「『智恵子抄』の背景」では、

光太郎と智恵子の出会いから

「上高地の恋」を経ての結婚

第一詩集「道程」の出版

そして智恵子が狂気を発症し死に至るまでを描きます。

 

その口ぶりの特徴あるところを

この流れにそってところどころ拾うと

こんなふうです。

 

 

智恵子はそんなことにはおかまいなく、純粋に光太郎の心の中めがけて、パッと飛びこんでしまったのです。

光太郎はびっくりし、たじろぎ、ショックでその不良性をさえ失ってしまいました。


「あの頃」という詩のなかで、



智恵子のまじめな純粋な

息をもつかない肉薄に

或日はっと気がついた。

わたくしの眼から珍しい涙がながれ、

わたくしはあらためて智恵子に向た。


智恵子はにこやかにわたくしを迎え、

その清浄な甘い香りでわたくしを包んだ。

わたくしはその甘美に酔て一切を忘れた。


わたくしの猛獣性をさえ物ともしない

この天の族なる一女性の不可思議力に

無頼(ぶらい)のわたくしは初めて自己の位置を知た。



と書いています。

 

 

光太郎と智恵子が、結婚に賭けた夢は、ひとりの彫刻家と、ひとりの画家が、共同生活をいとなみ、

それぞれの精進をつづけてゆくといった、永遠の学生生活のように若々しく意欲あふれるものでした。

 

 

智恵子はだれの目にも美人とうつる、いわば万人向きの美人ではなく、(略)



だれからも美人とみられるより、ひとりのひとによって発見された美のほうが、

よりすてきではないでしょうか。

 

 

昭和7年(1932)智恵子が47歳になったとき、とつぜん、睡眠薬アダリンを飲んで、

自殺未遂に終わるという事件が起こりました。

 

 

昭和9年は、父、光雲が83歳でなくなるという不幸があり、そのうえ、千葉県九十九里浜に療養させていた

智恵子の症状もますます悪化しました。

 

 

狂気の智恵子を考えるとき、たった一つの救いとなるものは、マニキュア用の小さなはさみで、

子どものように、無心に切って、じつに美しい紙絵をつくっていることです。

 

 

南品川のゼームス坂病院に入院していた、死の前年の、1年半くらいのあいだに、

千数百枚も切ったのでした。

 

 

光太郎がいくと、それはうれしそうな顔をして、そのひざに抱かれて、だれにも見せなかった紙絵を、

うやうやしく見せるのが、あわれでした。

光太郎がほめると、うれしそうに、はずかしそうに、何度も何度もおじぎをするのでした。

 

……等々。


(※読みやすくするために、改行をいれたり、洋数字に変えたりしてあります。編者。)

 

 

引きずり込まれ

引用がついつい長くなってしまいますが

これは抜粋(ばっすい)です。

 

原文を味わうものではありません。

 

 

うれしそうに、はずかしそうに、何度も何度もおじぎをするのでした。

――というところにさしかかっては

読み手のだれしもが書き手の茨木のり子の「こころ」と

直(じか)に触れるような共鳴をおぼえるにちがいありません。

 

光太郎と智恵子の結びつきが

まっすぐに伝わってきて

何度も読み返したくなるようなところですが

茨木の書き振りはむしろ控えめです。

 

 

夢中になって

書物を読み進めるこの感覚――。

 

それで思い出すのが

少年少女のための冒険物語とか偉人伝などの文体です。

 

エジソン伝とか

ナイチンゲールの物語とかが、

記憶の古層から

ふっと抜け出してくるのです。

 

茨木のり子が

偉人伝や冒険譚をイメージしていたかはわかりませんが。

 

 

このくだりにさしかかる頃、

この感覚とはまったく異なる

ある重要なことに気づき

思わず、あっと、息を飲みました。

 

中原中也の「山羊の歌」の表紙が

光太郎のこのような状況で制作されたことを思い出したからです。

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