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那珂太郎の「氷島」否定論補遺8/「青猫以後」の詩「猫の死骸」−142

「青猫・以後」の最後に
那珂太郎が読むのは「猫の死骸」です。
 
 
猫の死骸
 
海綿のような景色のなかで
しっとりと水気をふくんでいる。
どこにも人畜のすがたは見えず
へんにかなしげなる水車が泣いているようす。
そうして朦朧とした柳のかげから
やさしい待びとのすがたが見えるよ。
うすい肩かけにからだをつつみ
びれいな瓦斯体の衣裳をひきずり
しずかに心霊のようにさまよっている。
ああ浦 さびしい女!
「あなた いつも遅いのね」
ぼくらは過去もない未来もない
そうして“現実のもの”から消えてしまった。……
浦!
このへんてこに見える景色のなかへ
泥猫の死骸を埋めておやりよ。
 
(新潮文庫「青猫他」より。新かな・新漢字に変え、適宜、洋数字に変えました。傍点は“ ”で示し
ました。編者。)
 
 
この恋人は
あらゆる即物的な官能性を剥落し
ほとんど肉体をなくしてしまった
「びれいな瓦斯体の衣裳をひきずり
しずかに心霊のようにさまよ」う――。
 
那珂太郎はこのように記して
「猫の死骸」を案内しはじめますが
それは詩人・金子光晴がこの詩を
「発想から表現すべてがもうマンネリズムの兆候だ」と評したことへの
反論の意図も込められています。
 
 
那珂は
この詩「猫の死骸」が
朔太郎が作った恋愛詩の究極点を示すものと絶賛するのです。
 
どのように?――。
 
 
「猫の死骸」が歌っているのは
生から超絶しようとする詩人の意識に
なおも残っている「不思議な情欲のビジョン」なのである。
 
「どこにも人畜のすがたは見え」ない虚無的な空間に
なおも否定しきれないで存在する「水車」が
「へんにかなしげ」に「泣いている」
 
「しっとりと水気にふくらんでいる」
「海綿のような景色」というような表現が
金子光晴の言うような「マンネリズム」であるわけがなく
これ以上戦慄的な、虚無化した世界の形象化(造形)は不可能で
その中を
虚無そのものであるような恋人のビジョンがさまようのである
ここには時間すらもない。
 
ぼくらは過去もない未来もない
そうして現実のものから消えてしまった――。
 
 
これらの詩行は
完全であればあるほど
パラフレーズ(言い換え)することはできない
究極の詩語であることを伝えようとします。
 
 
そうしてこの詩の末尾2行、
このへんてこに見える景色のなかへ
泥猫の死骸を埋めておやりよ。
――にいたり、
作者は、ここでおのれの過去の生のいっさい
それはこれまで構築してきた「青猫」の世界すべてを
「泥猫の死骸」のイメージにして
葬りさろうとする
 
これは「青猫」の世界への別離宣言なのである
――と読むのです。
 
 
青猫から泥猫へ。
こうして結論にいたります。
 
 
「猫の死骸」は
先に読んだ「仏陀」とともに
「青猫」の完結を示すもの。
 
完結とはいえ哲学は終わっても
生は終わるわけにはいかないから
詩人はこれからも詩を書かざるを得ない。
 
その後も詩人は詩を書いたのだが
その詩は真のビジョンの創造力を失う
 
やむを得ぬ必然によって
発想上、現実世界へのなんらかの復帰を余儀なくされ
己の宿命を繰り返し反芻するほかになかった
 
――と結びます。
 
 
詩が究極点に達したのですから
次に来るものは下降(のイメージ)でしかないことを
那珂の読みは予感させることになります。
 
 
こうして「郷土望景詩」の世界が目前にあります。
「氷島」の世界も見えてきます。

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