那珂太郎の「氷島」否定論補遺8/「青猫以後」の詩「猫の死骸」−142
「青猫・以後」の最後に
那珂太郎が読むのは「猫の死骸」です。
◇
猫の死骸
海綿のような景色のなかで
しっとりと水気をふくんでいる。
どこにも人畜のすがたは見えず
へんにかなしげなる水車が泣いているようす。
そうして朦朧とした柳のかげから
やさしい待びとのすがたが見えるよ。
うすい肩かけにからだをつつみ
びれいな瓦斯体の衣裳をひきずり
しずかに心霊のようにさまよっている。
ああ浦 さびしい女!
「あなた いつも遅いのね」
ぼくらは過去もない未来もない
そうして“現実のもの”から消えてしまった。……
浦!
このへんてこに見える景色のなかへ
泥猫の死骸を埋めておやりよ。
(新潮文庫「青猫他」より。新かな・新漢字に変え、適宜、洋数字に変えました。傍点は“ ”で示し
ました。編者。)
◇
この恋人は
あらゆる即物的な官能性を剥落し
ほとんど肉体をなくしてしまった
「びれいな瓦斯体の衣裳をひきずり
しずかに心霊のようにさまよ」う――。
那珂太郎はこのように記して
「猫の死骸」を案内しはじめますが
それは詩人・金子光晴がこの詩を
「発想から表現すべてがもうマンネリズムの兆候だ」と評したことへの
反論の意図も込められています。
◇
那珂は
この詩「猫の死骸」が
朔太郎が作った恋愛詩の究極点を示すものと絶賛するのです。
どのように?――。
◇
「猫の死骸」が歌っているのは
生から超絶しようとする詩人の意識に
なおも残っている「不思議な情欲のビジョン」なのである。
「どこにも人畜のすがたは見え」ない虚無的な空間に
なおも否定しきれないで存在する「水車」が
「へんにかなしげ」に「泣いている」
「しっとりと水気にふくらんでいる」
「海綿のような景色」というような表現が
金子光晴の言うような「マンネリズム」であるわけがなく
これ以上戦慄的な、虚無化した世界の形象化(造形)は不可能で
その中を
虚無そのものであるような恋人のビジョンがさまようのである
ここには時間すらもない。
ぼくらは過去もない未来もない
そうして現実のものから消えてしまった――。
◇
これらの詩行は
完全であればあるほど
パラフレーズ(言い換え)することはできない
究極の詩語であることを伝えようとします。
◇
そうしてこの詩の末尾2行、
このへんてこに見える景色のなかへ
泥猫の死骸を埋めておやりよ。
――にいたり、
作者は、ここでおのれの過去の生のいっさい
それはこれまで構築してきた「青猫」の世界すべてを
「泥猫の死骸」のイメージにして
葬りさろうとする
これは「青猫」の世界への別離宣言なのである
――と読むのです。
◇
青猫から泥猫へ。
こうして結論にいたります。
◇
「猫の死骸」は
先に読んだ「仏陀」とともに
「青猫」の完結を示すもの。
完結とはいえ哲学は終わっても
生は終わるわけにはいかないから
詩人はこれからも詩を書かざるを得ない。
その後も詩人は詩を書いたのだが
その詩は真のビジョンの創造力を失う
やむを得ぬ必然によって
発想上、現実世界へのなんらかの復帰を余儀なくされ
己の宿命を繰り返し反芻するほかになかった
――と結びます。
◇
詩が究極点に達したのですから
次に来るものは下降(のイメージ)でしかないことを
那珂の読みは予感させることになります。
◇
こうして「郷土望景詩」の世界が目前にあります。
「氷島」の世界も見えてきます。
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