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那珂太郎の「氷島」否定論補遺7/「青猫以後」の詩「大砲を撃つ」−141

「青猫・以後」がどんな詩群であるか

那珂太郎の鑑賞は

大詰めにさしかかりました。

 

次には

「大砲を撃つ」が読まれます。

 

 

大砲を撃つ

 

わたしはびらびらした外套をきて

草むらの中から大砲を曳きだしている。

なにを撃とうというでもない

わたしのはらわたのなかに火薬をつめ

ひきがえるのようにむっくりとふくれていよう。

そうしてほら貝みたいな瞳(め)だまをひらき

まっ青な顔をして

こうばうたる海や陸地をながめているのさ。

この辺の奴らにつきあいもなく

どうせろくでもない 貝肉の化物ぐらいに見えるだろうよ。

のらくら息子のわたしの部屋には

春さきののどかな光もささず

陰鬱な寝床のなかにごろごろとねころんでいる。

わたしを罵りわらう世間のこえこえ

だれひとりきて慰さめてくれるものもなく

やさしい婦人(おんな)のうたごえもきこえはしない。

それゆえわたしの瞳(め)玉はますますひらいて

へんにとうめいなる硝子玉になってしまった。

なにを食べようというでもない

妄想のはらわたに火薬をつめこみ

さびしい野原に古ぼけた大砲を曳きずりだして

どおぼん! どおぼん! とうっていようよ。

 

(新潮文庫「青猫他」より。新かな・新漢字に変えました。編者。)

 

 

なにを撃とうというでもない

なにを食べようというでもない

 

詩のはじまりとおしまいの方にある

目的も手段もないこの状態。

 

この世になすべき事を一切なくしてしまった

虚無と倦怠の情。

 

それがユーモラスなまでの幻想にデフォルメされている

――と那珂は読みます。

 

 

「倦怠」とは――。

 

倦怠とは、生そのものの無動機性、無目的性からくるところの、解放不可能の情緒である。

 

なすべき事がないために

解放することもできない情緒は

「はらわたのなかに火薬をつめ

ひきがえるのようにむっくりとふくれて」いるだけである、と那珂は解説します。

 

 

中也の「倦怠(けだい)」と

まるで異なる「倦怠(アンニュイ)」のようでいて

考えてみれば

「憔悴」に現われる「青空を喫う蛙」も

「ひきがえる」の仲間ではあります。

 

 

「ひきがえる」という喩(ゆ)が

直喩以上、暗喩以上を語る(意味する)ような

卓抜な言語感覚がもたらすものであるのは

さすがに「月に吠える」の詩人ですね。

 

那珂はこのあたりを

読み取ります。

 

 

「ひきがえる」は

外部世界と係わり合う契機を持たない心のことであり

外部は一切の意味を喪って

ものの個別性が消えてしまう

「こうぼうたる海や陸地」としか見えない。

 

内部と外部のこの乖離(かいり)は

「月に吠える」に現われる

「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」と

同じものだというのです。

 

内部外部の乖離――。

 

 

この詩ではそれが、

ひきがえるのようにむっくりとふくれていよう。

こうばうたる海や陸地をながめているのさ。

どうせろくでもない 貝肉の化物ぐらいに見えるだろうよ。

――の「いよう」「のさ」「だろうよ」というなげやりな口つきにはじまり、

 

第11行から16行までの

凡庸な詩行を経て、

 

それゆえわたしの瞳(め)玉はますますひらいて

へんにとうめいなる硝子玉になってしまった。

――という2行の絶妙なつくりを絶賛します。

 

 

このような外部への無関心、無感動の表出は

当時、朔太郎以外のだれもが生み出せなかったものであろう。

 

とどめを刺すように

どおぼん どおぼん

――という世にも不思議な悲しげともわびしげともいえる愚かな大砲のひびきは

読者の胸にいつまでも鳴りつづける。

 

 

「青猫・以後」のここに至っても

「月に吠える」との連続と断絶とが読み取られました。

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