思い出ではなく/「雪の宵」その5
昭和5年1月~2月に「雪の宵」を書いたとき
中原中也は「思い出」というには手が届きそうな「過去」の中にありました。
◇
「雪の宵」で
いまごろどうしているのやら
いまに帰ってくるのやら
――とある「別れたあのおんな」への思いは
断ち切られたものでないことは明らかですが
「別れた」という意識もいっぽうに存在する
「過渡期の状態」にありました。
(「恋はいつも過渡期」ともいえますが。)
いまごろどうしているのやら
――というからには「他人」のようですし
いまに帰ってくるのやら
――というからには「近い間柄」のようでもあるし。
◇
雪の宵
青いソフトに降る雪は
過ぎしその手か囁きか 白 秋
ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁(ささや)きか
ふかふか煙突(えんとつ)煙吐(けむは)いて、
赤い火の粉(こ)も刎(は)ね上る。
今夜み空はまっ暗で、
暗い空から降る雪は……
ほんに別れたあのおんな、
いまごろどうしているのやら。
ほんにわかれたあのおんな、
いまに帰ってくるのやら
徐(しず)かに私は酒のんで
悔(くい)と悔とに身もそぞろ。
しずかにしずかに酒のんで
いとしおもいにそそらるる……
ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁きか
ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
「雪の宵」は
過去の恋(への諦念)と
現在の恋(の回復の希望)とが
同時に歌われた詩といえるでしょう。
◇
「過ぎしその手」の「囁き」を
「思い出」の過去へと追いやるには生々しくて。
「ふかふか煙突」に「赤い火の粉」がはね
やがては「燃えあがれ」と願望する気持ちが逸(はや)ります。
◇
この雪は
思い出を喚起させるものでありながら
遠い日の追憶ではありません。
ホテルの屋根に降る雪は
――としたのは
「青いソフト」の情調、思い出への傾斜を避けて
いまだ「現在」であり続ける
泰子(=あのおんな)への思いを歌いたかったからでした。
◇
雪は「青いソフト」という詩語が指示する
思い出に降るよりも
いま燃え盛ろうとするかの
「ホテルの屋根」の煙突に降るものであらねばならなかったのです。
「青いソフト」や「意気なホテル」の情調ではなく
いま煙の中で爆(は)ぜている「火の粉」が
詩人の境地を映していたので
ストレートに「ホテルの屋根」でよかったのです。
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