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思い出ではなく/「雪の宵」その5

昭和5年1月~2月に「雪の宵」を書いたとき
中原中也は「思い出」というには手が届きそうな「過去」の中にありました。

「雪の宵」で

いまごろどうしているのやら
いまに帰ってくるのやら
――とある「別れたあのおんな」への思いは
断ち切られたものでないことは明らかですが
「別れた」という意識もいっぽうに存在する
「過渡期の状態」にありました。
(「恋はいつも過渡期」ともいえますが。)

いまごろどうしているのやら
――というからには「他人」のようですし

いまに帰ってくるのやら
――というからには「近い間柄」のようでもあるし。

雪の宵

        青いソフトに降る雪は
        過ぎしその手か囁きか  白 秋

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁(ささや)きか
  
  ふかふか煙突(えんとつ)煙吐(けむは)いて、
  赤い火の粉(こ)も刎(は)ね上る。

今夜み空はまっ暗で、
暗い空から降る雪は……

  ほんに別れたあのおんな、
  いまごろどうしているのやら。

ほんにわかれたあのおんな、
いまに帰ってくるのやら

  徐(しず)かに私は酒のんで
  悔(くい)と悔とに身もそぞろ。

しずかにしずかに酒のんで
いとしおもいにそそらるる……

  ホテルの屋根に降る雪は
  過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「雪の宵」は
過去の恋(への諦念)と
現在の恋(の回復の希望)とが
同時に歌われた詩といえるでしょう。

「過ぎしその手」の「囁き」を
「思い出」の過去へと追いやるには生々しくて。

「ふかふか煙突」に「赤い火の粉」がはね
やがては「燃えあがれ」と願望する気持ちが逸(はや)ります。

この雪は
思い出を喚起させるものでありながら
遠い日の追憶ではありません。

ホテルの屋根に降る雪は
――としたのは
「青いソフト」の情調、思い出への傾斜を避けて
いまだ「現在」であり続ける
泰子(=あのおんな)への思いを歌いたかったからでした。

雪は「青いソフト」という詩語が指示する
思い出に降るよりも
いま燃え盛ろうとするかの
「ホテルの屋根」の煙突に降るものであらねばならなかったのです。

「青いソフト」や「意気なホテル」の情調ではなく
いま煙の中で爆(は)ぜている「火の粉」が
詩人の境地を映していたので
ストレートに「ホテルの屋根」でよかったのです。

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