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ループする悲しみ/「汚れっちまった悲しみに……」その7

「汚れる」という動詞は
「汚す」という他動詞でもなく
「汚される」という他動詞の受動態(受身形)でもなく
そのどちらでもない「自動詞」です。

「汚れる」の過去形「汚れた」が
「してしまった」という動詞(助動詞)と結びついて
「汚れてしまった」となったのですが
何者か他人によって「汚された」ものではないのです。

ここは「汚れた悲しみ」の
肝(きも)です。

「汚れてしまった悲しみ」が何であるかを知る
生命線です。

「狐の革裘」に近づくための
キーポイントです。

汚れっちまった悲しみに……
 
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

だれかを怨んで「汚れた」といっているのではない。

長い間親しんでいる悲しみに
もはや「客観的」とさえいえる距離感が生じ
「汚れた」となりました。

いつしか自然で自動的で自発的な「汚れ」になったのです。

「っちまった」という語尾に
悔しさや無念さが含まれてはいますが
これも他人に向けられているものではありません。

悲しみが向かっているのは
自分自身なのです。

「狐の革裘」は
生まれながらの悲しみを指しているでしょう。

あるいは
長い時間をかけて堆積した悲しみでしょう。

この世に生まれたものが
ことごとく有している悲しみを
詩人もまた抱いていたのでした。

その悲しみを
汚れてしまった悲しみと歌い
狐の革裘と歌いました。

ふだんは見えないこの悲しみが
折につけ出現します。

わきの下に
しまわれ隠れていた悲しみが
現われます。
ふとしたことで。

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