無邪気な戦士のこころ/「修羅街輓歌」その4
「Ⅲ 独語」にある
「モーションは大きい程いい。」は
前後もみないで生きてきた
あんまり陽気にすぎた?
無邪気な戦士
――に連なるものでしょう。
器の中の水が揺れないように、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
――という「喩(ゆ)」が示すのは
世間を渡っていくために
詩人が苦労して編み出した知恵(工夫)のようなことであったはずでした。
そうして生きてきた青春が
終わってしまったのです。
過ぎてしまったのですが
それは単に時間が過ぎていったということではなく
何かによって否定された響きをもちます。
◇
もはやそのような工夫をこれ以上凝らす余地もないというのなら
「神(恵)」を待つほかにないということを
「Ⅲ 独語」は
否応もなく歌っていることになります。
逆に見れば
無邪気な戦士である私の心を
詩人(私)は放棄していないということになります。
モーションを大きくするという工夫は
無邪気な戦士の戦略みたいなものなのです。
それを容易に手放すことはできません。
◇
修羅街輓歌
関口隆克に
序 歌
忌(いま)わしい憶(おも)い出よ、
去れ! そしてむかしの
憐(あわれ)みの感情と
ゆたかな心よ、
返って来い!
今日は日曜日
椽側(えんがわ)には陽が当る。
――もういっぺん母親に連れられて
祭の日には風船玉が買ってもらいたい、
空は青く、すべてのものはまぶしくかがやかしかった……
忌わしい憶い出よ、
去れ!
去れ去れ!
Ⅱ 酔 生(すいせい)
私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴(けいめい)よ!
私の青春も過ぎた。
ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあんまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!
それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。
いま茲(ここ)に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おお、霜にしみらの鶏鳴よ……
Ⅲ 独 語(どくご)
器(うつわ)の中の水が揺れないように、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
そうでさえあるならば
モーションは大きい程いい。
しかしそうするために、
もはや工夫を凝(こ)らす余地もないなら……
心よ、
謙抑(けんよく)にして神恵(しんけい)を待てよ。
Ⅳ
いといと淡き今日の日は
雨蕭々(しょうしょう)と降り洒(そそ)ぎ
水より淡き空気にて
林の香りすなりけり。
げに秋深き今日の日は
石の響きの如(ごと)くなり。
思い出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。
まことや我(われ)は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。
それよかなしきわが心
いわれもなくて拳(こぶし)する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
こうして詩人は
神(恵)を待ちますが……。
「待つ」あいだこそ
修羅のようです。
◇
縁側に陽があたる日曜日は
鶏鳴の聞こえる寒い朝を過ぎて
淡き今日の日になりました。
雨蕭々と降り洒ぎ
水よりも淡い空気の
林の香りのする晩秋です。
今日、石の響きのように
思い出もなく
夢もない――。
◇
石のように
影のように
生きてきました――。
呼ぼうとしても言葉にならない
空のように果てがない――。
なんとかなしいこころよ。
わけもなく拳固(げんこ)をにぎり
誰かを責めることができましょうか。
◇
呼ぶ(叫ぶ、訴える)
拳する(怒る、打つ)
責める(攻撃する)
そういうことが出来ない状態です。
◇
「修羅街輓歌」は
修羅街への訣別を意味する挽歌か。
修羅街から歌う挽歌か。
突き詰めれば同じことになるのかもしれません。
「挽歌」ではおさまらない。
「輓歌」ならば
改まった正規な「葬送歌」のニュアンスを帯びます。
ここでは「鎮魂歌(レクイエム)」に近いでしょうか。
心も新たにして
「輓歌」を歌ったのです。
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