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恋(人)ふたたび/「無題」その3

「汚れっちまった悲しみに……」を
「ヨゴレッチマッタカナシミニ」と発音するようになったのは
比較的に最近のことらしく
おそらく「テレビ以後」のことらしく
はじめは「ケガレッチマッタカナシミニ」だったらしいのは
中也と共同生活したことがある関口隆克の朗読から分かることです。

関口は、開成学園校長時代の1974年(昭和49年)秋に行った講演の中で
「汚れっちまった悲しみに……」の朗読を
オーディエンスである中学・高校生、父兄、教職員に披露しています。
(CD「関口隆克が語り歌う中原中也」ジャケットより)

原詩にルビは振られていませんから
詩人が「ヨゴレ」か「ケガレ」かのどちらかの発音を意図していたのか
すでにわからないことになっていますが
現在では「ヨゴレッチマッタカナシミニ」が圧倒的に多いようです。

「無題」第1節の「私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。」は
ひらがなで「けがらわしさ」と表記されていますから
「汚れ」を「ケガレ」と発声する可能性もあり
だとすれば
「ケガレッチマッタカナシミ」の可能性も出てくるのですが
そんなことを問題にするのは
ひとえに「汚れっちまった悲しみに……」と「無題」のつながりを知るためです。

つながりがあるのなら
「汚れっちまった悲しみに……」の制作背景がかなり限定されることになり
「無題」に具体的に歌われている「経験」は
「汚れっちまった悲しみに……」の「経験」と共通のものとなります。

詩集の中の詩は
連作詩でないかぎり独立したものですから
二つの詩の関連性はなくて当たり前ですが
つながりがあるのなら
新たな読み方や味わいが生じてきます。

ここでは「汚れっちまった悲しみに……」にさかのぼることはしませんが
「無題」を「汚れっちまった悲しみに……」の「影」を見ながら読むことも
無駄なことではなくなってくることでしょう。

「無題」に現われる「泰子」は
節によって異なります。

第1節では、こい人、おまえ
第2節では、彼女
第3節では、な
第4節では、おまえ
――といった具合です。

第5節には、「人よ」の呼びかけがありますが
この「人」は泰子であるとも詩人自らであるとも受け取ることができます。

このことは、第3節の「な」についてもいえることです。

どちらとも受け取れるような「同化」を
意図的に詩(人)はたくらみ
そのことによって
恋(人)との一体感を表わそうとしたのでしょうか。

一体感とは逆に
距離感を示そうとしたのが第2連です。

「彼女」と呼んで
第3者に訴えるかのようですが
距離は縮まったでしょうか?

おまえと呼ぶ第1連、第4連は
では、もっとも親密な距離感にあるといえるでしょうか?

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