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ドラマの内部/「つみびとの歌」その4

斥けていたビールを二杯ほどのんだ。

と、阿部六郎は昭和4年(1929年)3月26日の日記に記していますから
飲めないのではなくこの時期に禁じていたのか
大酒飲みの人でなかったようです。

桜の開くころか
夜、小雨の降る中を訪れた中也に付き合い
2杯のビールを飲んで切り上げる意志の人のようです。

「白痴群」は
まさにこの4月に創刊号を出しました。

創刊号を出した直後の阿部六郎の日記は
「白痴群」という固有名こそ記述しませんが
その磁場の中での出来事と内面を記録した以外のことに
触れていないようです。

昭和4年(1929年)5月12日。

この宿で私は歴史から没落した。そして、中原の烈しく美しい魂と遭った。中原との邂逅は、とにか
く私には運命的な歓びで、又、偶然には痛みでもあった。

中原はいま、幾度目かの解体期にぶつかっている。昨年初冬、私と一緒に入って行った義務愛に
破綻して、存在にも価値にもひどい疑惑に落ちている。そして、不思議な因縁で離合して来たも一
つの罰せられた美しい魂と一緒にいま、京都に行っている。生きるか死ぬかだと言う彼の手紙は
決して誇張ではないのだ。

「どっちがお守りをされているのか分からないわよ」と言った咲子さんの顫え声にも、私には勿体な
いほどのしんじつを感ずる。

だが、私にはそれをどうすることができよう。

(「新全集」別巻<下>より。一部を抜粋。「新かな」に変え、改行を加えました。編者。)

「咲子さん」は長谷川泰子のこと。

京都帝国大学へこの春進学した
「白痴群」のメンバーは
大岡昇平
富永次郎
若原喜弘の3人。

「白痴群」の打ち合わせを兼ねて
泰子とともに
中也は京都旅行に出かけたのです。

つみびとの歌

       阿部六郎に

わが生(せい)は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
由来(ゆらい)わが血の大方(おおかた)は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。

おちつきがなく、あせり心地(ごこち)に、
つねに外界(がいかい)に索(もと)めんとする。
その行いは愚(おろ)かで、
その考えは分ち難い。

かくてこのあわれなる木は、
粗硬(そこう)な樹皮(じゅひ)を、空と風とに、
心はたえず、追惜(ついせき)のおもいに沈み、

懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草(しぐさ)をもち、
人にむかっては心弱く、諂(へつら)いがちに、かくて
われにもない、愚事(ぐじ)のかぎりを仕出来(しでか)してしまう。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

しかし、重なるようで重なりません。
しかし、繋がっていないようで繋がっています。

原因があり結果があるというような関係が
阿部の日記と「つみびとの歌」にあるわけがありません。

ここでも「詩の外部」は
詩のなにものも明きらかにしません。

阿部の日記は
詩の外部のドラマに触れているし
「ドラマの内部から」の記述であるけれど
「つみびとの歌」とつながることはありません。

あくまでもヒントです。

詩は
状況からも背景からも
独立した世界です。

たとえ
そこにしか詩の世界への糸口がないものだとしても。

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