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秋深き日の泰子/「修羅街輓歌」その5

「Ⅳ」の第3、4連に
呼ばんとするに言葉なく
――とあるのは
何に向けられているのでしょうか?
相手があるのでしょうか?

それは「Ⅰ 序歌」の
「忌まわしい憶い出」と関係することでしょうか?

「忌まわしい憶い出」が
どのようなことなのかはいろいろと考えられますが
直近の「愚事愚行」(つみびとの歌)というより
長い歳月の中で積み重ねられた諸々のことであるようです。

少なくとも上京後の経験で
泰子が小林秀雄と暮らしはじめる「奇怪な三角関係」を指すか。
渋谷警察署へ連行・留置されたような特定の事件を指すか。

あるいは、安原喜弘が、

九月に入って彼は又飽くことなき巷間の巡歴とそしてフランス語の勉強に沈潜し、私は再び京都の学生生活に浸り込んだ。その年の冬休みと春休みには二人は又々遍歴と飲酒の日課を繰り返した。

彼の呼吸は益々荒く且乱れて、酔うと気短かになり、ともすれば奮激(ふんげき)して衝突した。彼の周囲の最も親しい友人とも次々と酒の上で喧嘩をして分れた。

私は廻らぬ口で概念界との通弁者となり、深夜いきりたつ詩人の魂をなだめ、或は彼が思いもかけぬ足払いの一撃によろめくのをすかして、通りすがりの円タクに彼を抱え込む日が続いた。
(「中原中也の手紙」より。改行を加えました。編者。)

――などと記しているような日々のことかもしれません。

修羅街輓歌

       関口隆克に

   序 歌

忌(いま)わしい憶(おも)い出よ、
去れ! そしてむかしの
憐(あわれ)みの感情と
ゆたかな心よ、
返って来い!

  今日は日曜日
  椽側(えんがわ)には陽が当る。
  ――もういっぺん母親に連れられて
  祭の日には風船玉が買ってもらいたい、
  空は青く、すべてのものはまぶしくかがやかしかった……

     忌わしい憶い出よ、
     去れ!
        去れ去れ!

   Ⅱ 酔 生(すいせい)

私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴(けいめい)よ!
私の青春も過ぎた。

ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあんまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!

それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。

いま茲(ここ)に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おお、霜にしみらの鶏鳴よ……

   Ⅲ 独 語(どくご)

器(うつわ)の中の水が揺れないように、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
そうでさえあるならば
モーションは大きい程いい。

しかしそうするために、
もはや工夫を凝(こ)らす余地もないなら……
心よ、
謙抑(けんよく)にして神恵(しんけい)を待てよ。

   Ⅳ

いといと淡き今日の日は
雨蕭々(しょうしょう)と降り洒(そそ)ぎ
水より淡き空気にて
林の香りすなりけり。

げに秋深き今日の日は
石の響きの如(ごと)くなり。
思い出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。

まことや我(われ)は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。

それよかなしきわが心
いわれもなくて拳(こぶし)する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

器の中に入っている水を
こぼさないようにこぼさないように
モーションを大きくしてきた努力は
報われなかったのです。

かえって
あちこちで衝突を生んだというパラドクスでした。

修羅場の数々が見えてきそうですが
その中に長谷川泰子が出てこないというのも
考えにくいことです。

「修羅街輓歌」の最終節の最終連へきて歌った
「呼ばんとするに言葉なく」には
やはり泰子の面影があると読むのが自然でしょう。

ここで泰子は
面影であるほどの淡いイメージとして
歌われているのです。

すでに秋深き今日の日です。

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