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恋(人)ふたたび/「無題」その5

「無題」を
もしも外国人、ことさら西欧人が読んだら
どのような感想を抱くだろうか。

ほかの言葉にすれば
「無題」を英語に翻訳したら
第2節末行の「彼女は可哀想だ!」はどうなるか。

――などと、ふと考えてしまいます。

恋文(ラブレター)を読むのと同じようには
恋の詩(歌)を読んでいないでしょう。

これは
日本語をしゃべっている人々への疑問でもあります。

特定の相手に向けた恋文(ラブレター)と
不特定多数の読者に読ませる詩とは異なるものですから
そのことを頭のどこかに入れていることによって
心穏やかに恋愛詩を味わっていられるのでしょう。

失恋のさなかにある女性(男性)が
失恋を歌った詩を読んで
では何を感じているでしょうか。
どんなふうに役立てているでしょうか。

中原中也が「無題」の「Ⅱ」で歌っている「可哀想」は
同情に他なりませんが
憐れみというよりも
「同苦同悲」の境地に近いのではないでしょうか?

恋人のこうむっている苦難や悲しみと
同じところに立とうとして
彼女は可哀想だ!と叫んでいるように聞こえてこないでしょうか?

そう聞こえてきたところで
第3節「Ⅲ」を読む番です。

破調を含んだ七五、五七、七七……の文語ソネットを
ここに置いた意図が見えるようです。

   Ⅲ

かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがえば
なが心、かたくなにしてあらしめな。

かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。

おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、

おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、
人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき
熱を病(や)む風景ばかりかなしきはなし。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

元は「詩友に」という独立した詩でした。

「詩友に」が呼びかけている相手「な」は
「詩の友だち」というより
「詩の同志(士)」の響きがありますが
彼女=泰子でありながら詩人自身でもありそうです。

ここにきて「同苦同悲」は
自らにも向けられ
「な」は相手である泰子でもあり
詩人でもあります。

詩人は泰子に同化しているのです。

かくは悲しき生きん世に(このように悲しく生きなくてはならない世の中に)
――は、明きらかに、
彼女(おまえ)にも自分自身にも言っています。

「白痴群」の創刊号に
「寒い夜の自我像」とともに発表され
マニフェストの役割を負った詩であることとは
このようなことです。

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