パラドクサルな人生/「修羅街輓歌」その3
「修羅街輓歌」の「Ⅱ 酔生」には
省略または飛躍がほどこされてあり
そのことによって
リアリティー(生々しさ)がもたらされるよい例になっています。
◇
ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあんまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!
この第2連、
前後もみないで生きて来た
あんまり陽気にすぎた?
無邪気な戦士、私の心
――は、まさしく「酔生」の実体なのでしょうが
そのように生きてきたことを励ます語調があります。
この中で「陽気にすぎた?」の「?」は
自身への疑問(迷い)ではなく
「陽気すぎたんだよ」とアドバイスする他者への反問ととらえると
くっきり見えてくるものがあります。
「?」には
問い返しの響きがあるのです。
陽気に生きてきたのだよ、私は。
――と相手に向かって言いたげな「?」なのです。
◇
修羅街輓歌
関口隆克に
序 歌
忌(いま)わしい憶(おも)い出よ、
去れ! そしてむかしの
憐(あわれ)みの感情と
ゆたかな心よ、
返って来い!
今日は日曜日
椽側(えんがわ)には陽が当る。
――もういっぺん母親に連れられて
祭の日には風船玉が買ってもらいたい、
空は青く、すべてのものはまぶしくかがやかしかった……
忌わしい憶い出よ、
去れ!
去れ去れ!
Ⅱ 酔 生(すいせい)
私の青春も過ぎた、
――この寒い明け方の鶏鳴(けいめい)よ!
私の青春も過ぎた。
ほんに前後もみないで生きて来た……
私はあんまり陽気にすぎた?
――無邪気な戦士、私の心よ!
それにしても私は憎む、
対外意識にだけ生きる人々を。
――パラドクサルな人生よ。
いま茲(ここ)に傷つきはてて、
――この寒い明け方の鶏鳴よ!
おお、霜にしみらの鶏鳴よ……
Ⅲ 独 語(どくご)
器(うつわ)の中の水が揺れないように、
器を持ち運ぶことは大切なのだ。
そうでさえあるならば
モーションは大きい程いい。
しかしそうするために、
もはや工夫を凝(こ)らす余地もないなら……
心よ、
謙抑(けんよく)にして神恵(しんけい)を待てよ。
Ⅳ
いといと淡き今日の日は
雨蕭々(しょうしょう)と降り洒(そそ)ぎ
水より淡き空気にて
林の香りすなりけり。
げに秋深き今日の日は
石の響きの如(ごと)くなり。
思い出だにもあらぬがに
まして夢などあるべきか。
まことや我(われ)は石のごと
影の如くは生きてきぬ……
呼ばんとするに言葉なく
空の如くははてもなし。
それよかなしきわが心
いわれもなくて拳(こぶし)する
誰をか責むることかある?
せつなきことのかぎりなり。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
陽気に生きてきた無邪気な戦士である私です。
そのことは認めます。
そうであるから……。
それにしても私は憎むのです。
それを押しつぶそうとするものを
私は憎むのです。
対外意識にだけ生きる人々を。
◇
このなんという
パラドクサルな人生であることか!
フランス語で「パラドックスparadox(逆説・矛盾)」は
男性名詞では「paradoxe」で
その形容詞形がparadoxal(パラドクサル)です。
英語はparadoxical(パラドキシカル)。
「パラドクサルな人生」を導くこの「――」は
ここでも「地の声」を表わすものです。
◇
「対外意識」にしても
「パラドクサル」にしても
分かりやすい言葉ではありません。
ここでは
「前後もみない」とか
「陽気な」とか
「無邪気な」とかの反意語として「対外意識」が使われていますが
一般的にそのようには使われません。
ここに飛躍や省略はあります。
◇
「Ⅱ 酔生」は
過ぎてしまった青春を歌います。
酔生夢死の青春が
傷つきはててしまったことを歌うのです。
詩人を傷つけたものこそ
対外意識にだけ生きる人々でした。
« 至福の時間のウラで/「修羅街輓歌」その2 | トップページ | 無邪気な戦士のこころ/「修羅街輓歌」その4 »
「死んだ僕を僕が見ている/「秋」」カテゴリの記事
- <死んだ僕を僕が見ている/「秋」インデックス>(2014.11.12)
- 泰子が明かす奇怪な三角関係/「時こそ今は……」その6(2014.11.09)
- 「水辺」の残影/「時こそ今は……」その5(2014.11.09)
- ヒッピーの泰子/「時こそ今は……」その4(2014.11.09)
- 目の前に髪毛がなよぶ/「時こそ今は……」その3(2014.11.09)