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冬の時代へ/「羊の歌」

いよいよ「山羊の歌」は
最終章「羊の歌」に差しかかりました。

高田博厚のアトリエから帰る道で
泰子が離れてしまったことを感じながらも
隣りを歩む泰子の呼吸に触れていた詩人は
親密な気持ちになる時(とき=瞬間)を味わっていました。

その時は
永遠に続くものであればよいという願望であり
かつて二人の間に確実にあった時間でした。

「時こそ今は……」は
その時を歌ったものであるがゆえに
たけなわの秋=頂点の輝きを放っています。

二人はかつて「わが喫煙」の親密さを共有しましたが
「時こそ今は……」で歌われた親密さには
頂点であるゆえのまばゆさに
「そこはかとない翳(かげ)り」が漂います。

頂点は頂点であるゆえに
下降の季節(=冬の時代)に向かっていきます。

「羊の歌」は
のっけに「死の時」を歌います。

羊の歌
        安原喜弘に

   Ⅰ 祈 り

死の時には私が仰向(あおむ)かんことを!
この小さな顎(あご)が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかったことのために、
罰されて、死は来たるものと思うゆえ。

ああ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

   Ⅱ

思惑(おもわく)よ、汝(なんじ) 古く暗き気体よ、
わが裡(うち)より去れよかし!
われはや単純と静けき呟(つぶや)きと、
とまれ、清楚(せいそ)のほかを希(ねが)わず。

交際よ、汝陰鬱(いんうつ)なる汚濁(おじょく)の許容よ、
更(あらた)めてわれを目覚ますことなかれ!
われはや孤寂(こじゃく)に耐えんとす、
わが腕は既(すで)に無用の有(もの)に似たり。

汝、疑いとともに見開く眼(まなこ)よ
見開きたるままに暫(しば)しは動かぬ眼よ、
ああ、己(おのれ)の外(ほか)をあまりに信ずる心よ、

それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興(きょう)ぜず

   Ⅲ

     我が生は恐ろしい嵐のようであった、
     其処此処に時々陽の光も落ちたとはいえ。
                    ボードレール

九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女の有であるように
またそれは、凭(よ)っかかられるもののように
彼女は頸(くび)をかしげるのでした
私と話している時に。

私は炬燵(こたつ)にあたっていました
彼女は畳に坐っていました
冬の日の、珍(めずら)しくよい天気の午前
私の室には、陽がいっぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶(みみのは)陽に透(す)きました。

私を信頼しきって、安心しきって
かの女の心は密柑(みかん)の色に
そのやさしさは氾濫(はんらん)するなく、かといって
鹿のように縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味(じゅくどくがんみ)しました。

   Ⅳ

さるにても、もろに佗(わび)しいわが心
夜(よ)な夜なは、下宿の室(へや)に独りいて
思いなき、思いを思う 単調の
つまし心の連弾(れんだん)よ……

汽車の笛(ふえ)聞こえもくれば
旅おもい、幼(おさな)き日をばおもうなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思わず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……

思いなき、おもいを思うわが胸は
閉(と)ざされて、醺生(かびは)ゆる手匣(てばこ)にこそはさも似たれ
しらけたる脣(くち)、乾きし頬(ほお)
酷薄(こくはく)の、これな寂莫(しじま)にほとぶなり……

これやこの、慣れしばかりに耐えもする
さびしさこそはせつなけれ、みずからは
それともしらず、ことように、たまさかに
ながる涙は、人恋(ひとこ)うる涙のそれにもはやあらず……

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「山羊の歌」最終章は「羊の歌」ではじまりますが
「羊の歌」は章のタイトルでもあります。

その冒頭詩のはじまりが「死の時」で歌い出されるのは
前章「秋」の冒頭詩「秋」にパラレルな(相似した)位置づけで
このようにして詩集は章と章、詩と詩、詩と章……とが
相互に反響し引っ張り合う効果を企(たくら)まれています。

「羊の歌」は
「憔悴」「いのちの声」との3作で最終章を構成する
一つのパーツですが
この最終章はまた詩集「山羊の歌」を締めくくるパーツであり
「羊」が「山羊」へと成り変わる「ばね」となります。

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