内海誓一郎への感謝/「更くる夜」その3
「スルヤ」の第1回演奏会が開かれたのは昭和2年12月で
中也が諸井三郎を知った直後ということですが
内海誓一郎は中原中也追悼文「追憶」の冒頭で
「中原中也とは、昭和3年の正月以来の交友」と記述していますから
「スルヤ」メンバーとの交流の中でも
諸井三郎、河上徹太郎に次いで
早い時期に面識があったことがわかります。
◇
内海誓一郎は
「スルヤ」にも「白痴群」にも同人として参加していたのは
河上徹太郎と同じようなスタンス(距離感)だったのでしょうか
二人ともにピアノを弾き
文学にも関心を寄せる学生(知識人)でした。
◇
内海はまた
「社会及国家」を詩人に紹介しました。
「白痴群」廃刊で発表の場を失った中也は
フランス文学・思想の翻訳に傾注しますが
「社会及国家」(昭和4年11月1日発行)に
ポール・ベルレーヌが書いた詩人論「呪われた詩人たち」の一つ
「トリスタン・コルビエール」を訳出し発表します。
その後も
「マックス・ヂャコブとの一時間」
「ヴヱルレエヌ訪問記」
「オノリーヌ婆さん」
――などを発表し続けます。
京都で富永太郎に感化されたフランス象徴詩派の翻訳を
「白痴群」でも発表していましたが
「社会及国家」でその仕事を継続する形となったのです。
◇
更くる夜
内海誓一郎に
毎晩々々、夜が更(ふ)けると、近所の湯屋(ゆや)の
水汲(く)む音がきこえます。
流された残り湯が湯気(ゆげ)となって立ち、
昔ながらの真っ黒い武蔵野の夜です。
おっとり霧も立罩(たちこ)めて
その上に月が明るみます、
と、犬の遠吠(とおぼえ)がします。
その頃です、僕が囲炉裏(いろり)の前で、
あえかな夢をみますのは。
随分(ずいぶん)……今では損(そこ)われてはいるものの
今でもやさしい心があって、
こんな晩ではそれが徐かに呟きだすのを、
感謝にみちて聴(き)きいるのです、
感謝にみちて聴きいるのです。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)
◇
ずいぶんと脱線したようですが
「更くる夜」を内海誓一郎に献呈した背景をすこし見てみました。
「帰郷」「失せし希望」に作曲し
「社会及国家」への橋渡しをしたのが内海誓一郎です。
「白痴群」廃刊後に陥っていたに違いない虚脱感のなかで
詩人は「仕事」を得ました。
ほとんど報酬もなく
第17回衆議院総選挙があった昭和5年(1930年)には
発行日が遅延してしまうマイナーメディアでしたが
ベルレーヌの散文を翻訳した先駆けでもあり
やがて中也がフランス文学の翻訳に「活路」を見い出すきっかけとなったメディアでもありました。
◇
内海が「失せし希望」に作曲しているさ中に
「更くる夜」は制作されたました。
献呈をサブ・タイトルとして明示することは
感謝の表明にほかなりませんが
「山羊の歌」編集時点でも
感謝の気持ちは継続したのでしょう。
◇
このようなことどもを知りながら読めば
また詩の味わいも深くなることでしょうか。
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