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中野・炭屋の2階/「更くる夜」その2

「更くる夜」を献呈した内海誓一郎は
「失せし希望」のほかに
「帰郷」にも作曲していることで有名です。

ピアノをよくし
後には化学者になりました。

中野の「炭屋の2階」に中也が下宿していたころのこと。

誘われてその下宿を訪れ
詩の束を読まされて作曲を頼まれたという話は
諸井三郎と同じような経験で
その場面が彷彿(ほうふつ)としてきます。

「炭屋の2階」というのは
「中野町大字西町小字桃園3398関根方」であることが
「新全集」などいろんなところに記述されていたり
関口隆克が肉声で残していたりしますから
いまや伝説になっている中也の下宿でした。

この下宿に
中也は上京した年(大正14年)の11月から翌15年の4月まで住み
1度引っ越したあと
また同年(大正15年)11月に戻り住んでいます。

気に入ったところがあったのでしょうか。

2度目は昭和3年9月まで住んでいますが
大正15年は天皇崩御の改元により12月25日で終わり
12月26日から7日間が昭和元年ですから
「炭屋の2階」は2度目だけで実質2年弱、あしかけ2年半住んだことになります。

小林秀雄を通じて河上徹太郎を知ったのは
昭和2年春。
河上を通じて諸井三郎を知ったのは
昭和2年11月でした。

諸井を知ってから
毎週水曜日に長井維理宅で行われていた「スルヤ」同人会へ出席するようになり
そこで「スルヤ」のメンバーをはじめ
周辺の人々との交友を広げていきます。

「スルヤ」のリーダー格であった諸井三郎は
中野駅の近くに住んでいて
そこは中也の住む「炭屋の2階」とは大通りをへだてただけの距離でしたから
初めから中也は諸井の住まいを知っていたのかもしれません。

詩人が諸井を訪れやがて「炭屋の2階」に招いたのは
水の流れのように自然な流れでした。
そこで詩の束を見せて作曲を依頼したのです。

スルヤとは
「7」を意味するサンスクリッド語で
今東光、日出海兄弟の父・武平(ぶへい)が
スタート時の「白痴群」同人が7人いたために命名したことを
関口隆克がCD「関口隆克が語り歌う中原中也」の中で語っていて貴重です。

諸井三郎によれば
今日出海は「スルヤ」のメンバーということですから
そのよしみで父君・武平の命名になったものでしょうか。
中也とも早いころから面識があったことが推測されます。

昭和3年(1928年)1月に内海誓一郎
3月に大岡昇平、古谷綱武
4月に関口隆克
6月に阿部六郎
秋に安原喜弘 
……などといった具合に
「白痴群」同人となる知遇をこうして広げていったのです。

村井康男とは
渋谷・富ヶ谷の富永太郎宅で知ったという村井の証言があり
それは大正14年秋のことでしたし
同じく富永次郎とは次郎の兄・太郎の死(大正14年11月)のころに知り合ったはずです。

関口と石田五郎との共同生活に
押しかけるようにして参加したのは
昭和3年9月から翌4年1月まで。

その後村井康男と同じ下宿に住んでいた阿部六郎の住まいの近くの渋谷・神山に引っ越しますが
そこは大岡昇平の実家が近い大向(おおむかい)にありました。
後に富永次郎も村井、阿部の下宿に入りますし、
次郎の実家は隣町の代々木富ヶ谷でした。

「白痴群」のために
渋谷近辺に同人が集結した観があります。

「白痴群」の同人は
もともと成城学園で文学や美術や演劇のサークル活動に加わっていましたし
教官である村井と阿部が住んだ洋館の下宿が
たまり場のような役割を果たしました。

成城学園の生徒が
渋谷を親しいテリトリー(活動領域)としていたことも
背景にあることでしょう。

安原喜弘の実家も目黒でしたから
至近距離です。

渋谷百軒店で飲食後に
酔った勢いで町会議員の居宅の軒灯を壊し渋谷署へ拘留されたのはこの年(昭和4年)の4月。
5月には「白痴群」の会議という名目で長谷川泰子と京都へ旅します。

7月、高田博厚のアトリエの近く(豊多摩郡高井戸町中高井戸37)へ引っ越しました。
「更くる夜」はここで作られたことが推定されています。
(「新全集」第1巻解題篇)

渋谷・代々木の内海誓一郎の近くに住んだのは
「白痴群」が廃刊した昭和5年4月の後で
中央大学予科に通うのに適していたというのが理由の一つでした。

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