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山羊の肉感/「いのちの声」その12

「羊の歌」を作ったときに
詩集タイトル「山羊の歌」が着想されていたということは断言できませんが
そのアイデアが胚胎(はいたい)していた可能性を否定できません。

言葉に結晶する以前のかすかな兆。
このとき予め「山羊」は孕(はら)まれていた――。

自覚されていなかったかもしれないが
やがて形(言葉)となる。

「山羊の歌」を読んできて

「春の日の夕暮」から「サーカス」を経て「朝の歌」へ
「黄昏」「秋の夜空」から「宿酔」に至る「初期詩篇」は
前進する一方。

「少年時」「みちこ」「秋」に入って
遡行(そこう)し
そして現在へ。

「羊の歌」へ辿りついては
立ち止まり振り返り
先を見ようとし。

詩人が
詩集を世に問おうとするのですから
これら一つひとつの作品をながめて
一つひとつの作品があっちこっちを向いているのを知ったとしても
これに「一つ」の名前を与えようとしたことが思いやられます。

ひたすら詩を読む。

詩の「外部」に引っ張り込まれないように
詩を一字一句読んできて
「羊」には静止させるものがあるのを感じないわけにはいきません。
「山羊」にも。

大岡昇平は
「山羊の歌」のタイトルが生まれた背景に照明をあてます。
詩の外部から内部から。

「羊の歌」の「小さな顎」が
詩人自身の細くとんがった顔の描写であることなど
いまや「定説」になりました。

いっぽう、「山羊」を
詩人の「実生活」の中からとらえた証言があります。

「山羊」 中也の父謙助は、湯田医院長のとき山羊を飼った。牡牝二頭。飼った当初は、小枝のような角が突き出ていたが、日が経つにつれて角は太くなり後ろに曲ってきた。やがて牝が妊娠し二頭の仔山羊を産んだ。

中也たちは分娩の現場を目撃し、溢れる羊水と、ブラリと垂れ下がった胎盤に衝撃を受けた。産後が悪く牝は死に、間もなく牡も何処かに消えた。
(略)

山羊健在の頃、中也たちは、近くの野原に山羊を連れていき、近所の子供たちに誇示するかのように山羊に巻きついて戯れた。山羊は首をのばしてメーメーと鳴いた。
(略)

中也の3番目の弟・中原思郎(4男)は「事典・中也詩と故郷」(中原中也必携、学燈社)で
このように記しました。
(※改行を加えました。編者。)

「山羊の歌」のタイトルを決めたときに
この幼時体験が詩人の想念をめぐっていたかどうか。
めぐっていなかったと考える理由は探せません。

詩人にとって「山羊」は
肉感のある存在でした。

今回はここまで。

いのちの声
 
          もろもろの業、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。
                            ――ソロモン
 
僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果(あきは)てた。
あの幸福な、お調子者のジャズにもすっかり倦果てた。
僕は雨上りの曇った空の下の鉄橋のように生きている。
僕に押寄せているものは、何時(いつ)でもそれは寂漠(じゃくばく)だ。

僕はその寂漠の中にすっかり沈静(ちんせい)しているわけでもない。
僕は何かを求めている、絶えず何かを求めている。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしく憔(じ)れている。
そのためにははや、食慾(しょくよく)も性慾もあってなきが如(ごと)くでさえある。

しかし、それが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それが二つあるとは思えない、ただ一つであるとは思う。
しかしそれが何かは分らない、ついぞ分ったためしはない。
それに行き著(つ)く一か八(ばち)かの方途(ほうと)さえ、悉皆(すっかり)分ったためしはない。

時に自分を揶揄(からか)うように、僕は自分に訊(き)いてみるのだ、
それは女か? 甘(うま)いものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいうのであろうか?

   Ⅱ

否何(いないず)れとさえそれはいうことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいうものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我(わ)が生は生(い)くるに値(あたい)するものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらわるものはあらわるままによいということ!

人は皆、知ると知らぬに拘(かかわ)らず、そのことを希望しており、
勝敗に心覚(さと)き程(ほど)は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!

併(しか)し幸福というものが、このように無私(むし)の境のものであり、
かの慧敏(けいびん)なる商人の、称(しょう)して阿呆(あほう)というものであろう底(てい)のものとすれば、
めしをくわねば生きてゆかれぬ現身(うつしみ)の世は、
不公平なものであるよといわねばならぬ

だが、それが此(こ)の世というものなんで、
其処(そこ)に我等(われら)は生きており、それは任意の不公平ではなく、
それに因(よっ)て我等自身も構成されたる原理であれば、
然(しか)らば、この世に極端(きょくたん)はないとて、一先(ひとま)ず休心するもよかろう。

   Ⅲ

されば要は、熱情の問題である。
汝(なんじ)、心の底より立腹(りっぷく)せば
怒れよ!

さあれ、怒ることこそ
汝(な)が最後なる目標の前にであれ、
この言(こと)ゆめゆめおろそかにする勿(なか)れ。

そは、熱情はひととき持続し、やがて熄(や)むなるに、
その社会的効果は存続し、
汝(な)が次なる行為への転調の障(さまた)げとなるなれば。

   Ⅳ

ゆうがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事(ばんじ)に於(おい)て文句はないのだ。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

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