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「中原中也が訳したランボー」のおわりに

その1

「中原中也が訳したランボー」のタイトルで
ランボーの詩を読んできましたが
一番はじめには、
「上田敏全訳詩集」(岩波文庫)に
ランボーの「酔ひどれ船」が訳出された、という「事件」があり、
中原中也が富永太郎や小林秀雄らを通じて初めて知った
ランボーのこの長詩「酔ひどれ船」を筆写した、という「事件」があり、
どうやら、後に小林秀雄が明らかにする「ランボーという事件」は
中原中也ばかりでなく、
あちこちで、様々な形で、色々な人に……
降りかかった「事件」であることを想像させるに十分な
(そして、2012年の今の今も続いている!)
言ってみれば、「巨大なマグマ」のようなムーブメントであることを
うっすらと予感させるものだった――という発見、
これもこのブログがぶつかった「事件」でありますから、
なんとか、この「事件」に面と向かっておこう
できるなら「事件」を読み解いてみようとして
とるものもとりあえずに
「ランボー&ランボー」というタイトルで出発した経緯があります。

これまでにおよそ1年かかりました。
中原中也がとらえたランボーの輪郭が
ようやく見えはじめた、といったところでしょうか。

「山羊の歌」や「在りし日の歌」や
生前発表詩篇や未発表詩篇や……
中原中也の創作詩の
ほんの一部を除いた大部分の詩(それは京都時代に作られたダダ詩を除いた詩ということです)が、
ランボーをはじめとして、ベルレーヌ、ラフォルグ、ネルバルらの
フランス詩の翻訳と平行して作られていた、という事実に
あらためて新鮮な驚きを覚えますが
それは時間をおいてみると
衝撃に変化していきます。

よくよく考えてみると
ダダ詩だけを書いていた詩人は
ランボーやベルレーヌ、ラフォルグ、ネルバルといった
フランス詩人の翻訳をはじめたのと同じ時期に
ダダ詩からの脱皮を図っていた、ということになります。

簡単に言えば、
フランス詩の翻訳を通じて
中原中也は自分の創作詩を作っていった、ということになります。

このことの中に
中原中也を見舞った「ランボーという事件」があったわけですが
この事件を通過した中原中也の詩を
どれほど読んできたかというと
かなり曖昧な態度であったことを認めざるを得ません。

そういう意味で
中原中也の詩は十分にはまだ読まれていない!
――という衝撃になります。

その2

「中原中也が訳したランボー」を終えるのに際して、
中原中也の詩が
早い時期からフランス詩を受容して作られていた、ということの再確認とは別に
もう一つ、昭和12年9月15日に発行された「ランボオ詩集」が
売れ行き好調だったことには
どうしても触れておかないわけにいきません。

『ランボオ詩集』は彼の死の直前の、12年9月、野田書房から出た。書房主人野田誠三は半ば道楽の犠牲的出版と自称していて、印税としては、またまた本を50部貰っただけである。「日記」によれば、9月15日上京発送、25日には林房雄、川端康成、深田久弥の家に自分で届けている。これは発病の10日前である。彼はこの訳著の評判を知らずに死んだ。

――と、大岡昇平が書いているところの「評判」のことですが、
「評判」には、
内容に対する評価(毀誉褒貶)と、書物の売れ行きという二つの側面があります。

まずは、売れ行きのことですが、
「ランボオ詩集」発行までの経過を
中原中也の日記から拾っておきます。

(8月11日) Mercredi
野田書房より「ランボオ詩集」の初校来る。
わりつけが目茶々々なので閉口。
(略)
(8月23日) Lunndi
午前1時起床。「ランボオの手紙」(版画荘)を読了。
(8月25日) Mercredi
ランボオ詩集三校発送。
(略)
(8月28日) Samedi
(略)
ランボオ詩集四校発送。(責任校了とす。)
どんな本になることやら、俺は知らない。「永遠の中耳炎氏」即ち野田誠三がやることだ。俺は知らない。奴は校正刷を送る以外、何を問合せても一度の返事もしない。虫のいい奴!
(9月15日) Mercredi
(略)
上京。野田書房よりランボオ詩集発送。
青山を訪ね、夜更け帰る。坊やまだ熱あり。
(9月25日)Samedi
(略)
林、深田、川端三先生に「ランボオ詩集」を届く。

野田書房に「ランボオ詩集」の出版を依頼したのは8月とされていて
相当なスピードで作業が進められたらしいのですが、
なぜ、そのように急がれねばならなかったのか
大きな謎です。

「ランボオ詩集」の「後記」末尾に
「昭和12年8月21日」の日付けが記されていますから
校正の途中で「後記」原稿を入れ、
3校、4校と進めて、4校で「責任校了」としたというのにも
急いでいる感じが表れていますが、
とにかく、9月15日には、印刷された「ランボオ詩集」を手にしたのです。

日記に、「ランボオ詩集」を手にした感想は記されず、
9月25日に「林、深田、川端三先生に「ランボオ詩集」を届く。」の記述があるほかは、
9月17日付け母フク宛の書簡に
「ランボオ詩集」出ました。お金の代りに50部呉れましたので方々へ送りました。」とあるだけです。

発行日直後(当日)の日記に、

上京。野田書房よりランボオ詩集発送。
青山を訪ね、夜更け帰る。(9月15日)

――の記述があるだけということになり、
10日後(9月25日)に、
「林、深田、川端三先生に「ランボオ詩集」を届く。」と書いて以降、
「ランボオ詩集」の一語も日記に現れることはなく、
この年の10月22日に詩人は急逝してしまいます。

死後、詩人にゆかりのあった雑誌が次々に追悼特集を出しましたが
野田書房社主・野田誠三は「手帖」第16号に
「中原中也の死」と題して追悼文を寄せています。
「昭和12年10月28日」の日付けのあるこの追悼文の中に
「ランボオ詩集」の発行と売れ行きのことが書かれています。

中原中也の死
        野田誠三

(略)
 今から思えば、やっぱり虫が知らせたのであろう。八月、突然、僕のところへ来られて、「ランボオ詩集」を本にして呉れ、もう随分、長いこと原稿は持っていたんだけれど、――と大変、本にすることを急いでおられた。従ってご承知のように「手帖」15号で予告もなしに刊行を読者諸氏にお知らせしたのだけれど、本が出来て、中原氏は「ああ、気持のいい本になった。これでやっと肩の重荷がおりたようだ。」と大変よろこんでおられた。自分の作った本を、著者に喜んでいただく位うれしいものはないので、私も共に大いに喜んだ。
 
 出してみると俄然、凄い売行だった。何日ならずして、手持品は全部売切、取次店からは追加注文が、しきりなしに来る。手元に一冊も本がないので、書房用の保存版から、自分のために残しておいた一冊も出してしまい、取次店に頼んで市内の売れてない店から引上げて来たものを注文に廻すという騒ぎだった。熱心なお客様は、市内の小売店どこを見てもないので、わざわざ遠い所を直接おいで戴いて、ついに無駄足をさせてしまった恐縮さも語り草の一つ。

 名実ともに慶賀すべきこの「ランボオ詩集」が、はかなくも中原氏最後の本になろうとは!(略)

(※「新編中原中也全集」別巻(下)資料・研究篇より。「新字・新かな」表記に直しました。「行アキ」を加えてあります。編者。)

発行部数がそれほどでなかったにせよ
小さな出版社の「嬉しい悲鳴」が伝わってきます。

 

「ランボオ詩集」は
同年11月18日に再版、
12月25日に三版が発行されたそうです。

その3

中原中也訳「ランボオ詩集」の
内容への評判はどうだったかを見ておきましょう。
こちらも、

春山行夫の書評(「新潮」昭和12年11月号)のような否定的なものもあったが、小林秀雄が「文学界」11月号で書評し、概して好評で、よく売れたらしい。その翻訳は今日の眼から見れば満足なものではない。春山の批判はその頃出始めたランボー=シュルレアリスト説に立つもので、「詩人の手になったものとは到底想像もつかない」と書いたが、そう書いた人間は詩人の手になったものとは想像もつかない詩を書いていた。

――と、大岡昇平が記したように、否定的な批評も存在しました。

否定的な批評は
「ランボオ詩集」に特定すれば
そう目立ったものではありませんでしたが
「ランボオ詩集」が発行される前から
「山羊の歌」の詩人への「否定の文脈」という流れがあり
その一部を形成するのが金子光晴でした。

そこのところを、
北川透が「ユリイカ」の「中原中也特集」(2000年6月号)で
少しばかり触れているところを読んでみれば……。

最初に『山羊の歌』を一刀両断に切り捨てたのは、金子光晴の「文芸時評」(『日本詩』昭和10年4月号)だった。まず、『山羊の歌』の装丁を立派だとした上で、ほめようと思えばいくらでもほめられるが、それだけのことで、《からみついてこない》し、知らん顔で素通りも出来る、《アマチュアクラブの詩人にすぎないこんなふうな詩人が、いか
に純粋づらして横行することよ》と書いている。具体的なことは何も言わないのだから、これは悪口に近いが、自分たちに《からみついてこない》というのは、左翼的な立場の詩人が共通にもっていた印象だろう。

――とあります。

金子光晴が属していた潮流などというものがあったかどうか
金子光晴を左翼的な立場の詩人とみなしているようですが
プロレタリア系の詩人の潮流なら
詩壇を二分するほどの勢力でしたから
金子のような考えがその詩人たちの共通の考えであるとすれば
中原中也がいかに居心地が悪かったかを
想像することができようというものです。

「否定の文脈」のもう一つの流れとして
北川透があげるのがモダニズムの春山行夫の発言です。
モダニズムといえば
プロレタリア系とともに詩壇の一大勢力です。

そのモダニズムの論客でもあった詩人である春山行夫の発言を
北川透は大岡昇平とは異なる角度で
やや詳しく取り上げたうえで批判していますから、
これを読んでおきますと……。

中也の詩集ではないが、ランボー翻訳について、春山行夫が《一読してランボオもひどいことになつた》と慨嘆していることはよく知られていることだろう。それは「中原中也訳『ランボオ詩集』」(「新潮」昭和12年12月号)という文章だが、さきの慨嘆に続けて《中原氏の訳だが、文語と口語、雅語と俗語、全くの無秩序で、これがいやしくも詩人の手になつたものとは到底想像もつかない。訳詩の困難なことは重々承知はしてゐるが、これでは全くの下書き、すくなくともランボオの「コップのように美しい」イメジなど、まるで浮びようもない》と述べている。

これはモダニズムの側からのほとんど嘲笑に近いことばだが、しかし、春山の尊大な批判は少しも自明ではない。翻訳の質自体をとってみても、今日では、小林との共同翻訳の性質が明らかになってきているし、決して軽んじられるべきものではない。

また、戦前の詩のレベルにおいて、文語と口語、雅語と俗語が混在することは、混在しないことに対して、先験的な優位を少しも保証するものではない。

――などとあります。
(※「行アキ」を加えてあります。編者。)

金子光晴にしても春山行夫にしても、
北川透の記すように
「悪意」や「嘲笑」に近い発言ですし、
80年近い歳月を経た現在読み返してみて
ピントが外れていることは明きらかです。

 

「ランボオ詩集」を批判した春山行夫については、
「文語と口語、雅語と俗語、全くの無秩序」と指摘しているところに
中原中也訳の魅力の一つはあり、
「コップのように美しい」イメージを破壊してしまうところに
ランボー詩の魅力の一つがあるということは
今日の常識であることを言っておかなくてはなりません。

その4

中原中也訳「ランボオ詩集」への
肯定的評価となると、

15年戦争が進み、一般に外国語を知る者が減ったので、当時の若者はみな小林、中原訳でランボーを読み、「季節が流れる、お城が見える」と歌ったのである。

――と、やはりこれも大岡昇平が記すように
ランボーの詩が実際に多くの人に読まれた、という事実の中に表われますが
書評としては小林秀雄が「文学界」昭和12年11月号に
「中原中也訳『ランボオ詩集』」のタイトルで寄せたのがあるだけです。

小林秀雄の書評は

中原君の訳は散文詩を除いた他の詩殆ど全部であり、又その殆ど全部が初めて邦
訳を見たものである。づい分骨の折れた仕事であっただろうと思う

――などという内容でした。

「新潮」11月号に春山行夫が書いた書評もこれと全く同じタイトルで、
「ランボオ詩集」の書評は
昭和12年末に現われたこの2点だけでした。
以後も書評として真っ向から論じられることはなく
時評や座談会などの中で話題になるほどのものでしたが
詩集そのものの売れ行きは好調だったのです。

昭和11年、2・26事件、
昭和12年、満州事変、
昭和14年、国家総動員法成立、
昭和15年、大政翼賛会発足と戦争の足音は高くなっていき
昭和16年、ついに太平洋戦争が始められました。

「ランボオ詩集」は、その後どのように読まれたのか――。
大変、興味深いことですが
いま、それを記すほどの材料がありません。

中原中也は、
「ランボオ詩集」を発行して直ぐに
かねて準備していた「在りし日の歌」の編集を終え
清書原稿を小林秀雄に預けます。
これが、9月26日(推定)のことですが
10月5日に発病し、10月22日に亡くなってしまいます。

小林秀雄に預けられた「在りし日の歌」は
詩人没後1年の昭和13年(1938年)4月に出版されます。

「ランボオ詩集」の「後記」に記された「8月21日」、
「在りし日の歌」の「後記」に記された「9月23日」。

二つの詩集の「後記」は
1か月も経たずして書かれました。
そして、この1か月後に詩人は死亡しました。

この機会に
二つの「後記」を同時に読んでおきましょう。

 *

 ランボオ詩集
 後記

 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。

 私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。

 出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
 語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。

     ★

 附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。
――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。

     ★

 いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。

 さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。

 所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!

 云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。

 もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと ルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯 ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
 ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。

     ★

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
                                      〔昭和十二年八月二十一日〕

※角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳・本文篇」より。「行アキ」を加えてあります。編者。

 *

 在りし日の歌
 後記

 茲(ここ)に収めたのは、『山羊の歌』以後に発表したものの過半数である。作つたのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。序(つい)でだから云ふが、『山羊の歌』には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを収めた。

 詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出来れば、私の詩生活も既(すで)に二十三年を経た。もし詩を以て本職とする覚悟をした日からを詩生活と称すべきなら、十五年間の詩生活である。

 長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは尠(すくな)くない。今その概略を述べてみようかと、一寸思つてみるだけでもゾッとする程だ。私は何にも、だから語らうとは思はない。たゞ私は、私の個性が詩に最も適することを、確実に確かめた日から詩を本職としたのであつたことだけを、ともかくも
云つておきたい。

 私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に托し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠るのである。別に新しい計画があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思つてゐる。

 扨(さて)、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。
 さらば東京! おゝわが青春!
                                 〔一九三七、九、二三〕

 

※角川書店「新編中原中也全集 第1巻 詩Ⅰ・本文篇」より。「行アキ」を加えてあります。編者。

その5

15年戦争が進み、一般に外国語を知る者が減ったので、当時の若者はみな小林、中原訳でランボーを読み、「季節が流れる、お城が見える」と歌ったのである。

――と、大岡昇平が記しているように
中原中也訳の「ランボオ詩集」は好評裡に迎えられ
売れ行きも好調でした。

戦時体制下であり
個人の読書体験、ランボー体験ということでもあるので
実態はなかなか見えにくいものでしたが
中原中也という詩人の全仕事が評価される中で
「中原中也が訳したランボー」は
相対的に客観的に評価されていきます。

「中原中也必携」(別冊国文学‘79夏季号、学燈社)に
「年表・中原中也への同時代評」(稲井牧子)がありますから、
ここから「ランボオ詩集」または「中原中也のランボオ」への言及を
これまでに紹介したものと一部重複しますが
ピックアップしておきます。

昭和12年(1937年)

9月、『ランボオ詩集』(野田書房)刊行。
 本邦唯一の完訳韻文詩集として好評、12月には3刷される。

11月 小林秀雄「中原中也『ランボオ詩集』」(「文学界」、のち『小林秀雄全集2』所収)
ランボオの翻訳は非常に困難だ、ほとんど全部が初めて邦訳を見たもので、ずいぶん骨の折れた仕事であっただろうと思う、と訳詩集を紹介している。

11月 春山行夫「中原中也『ランボオ詩集』」(「新潮」)
詩人の手になったものとは思えず「コップのように美しいイメジ」など浮かびようもない、ランボオもひどいことになった、と中原の訳し方を批判している。

12月 「中原中也追悼特集」(「文学界」、のち復刻版「『文学界』中原中也追悼号」昭
51・4、冬至書房所収)

萩原朔太郎「中原中也君の印象」(のち『萩原朔太郎全集9』、『現代詩読本』所収)
個人的には浅いつきあいだった、よくは似ているがランボオが「透徹した知性人」であったのに対し、中原は「殉情な情緒人」であり、それが最も尊いエスプリだった、と言っている。

12月 「中原中也追悼特集」(「四季」、のち復刻版「『四季』追悼号」昭和43・1、冬至書房所収)

阪本越郎「中原中也を憶う」
中原の詩的風格は、詩人より小説家・音楽家に認められていたようだ、ランボオの自我の拡充にほとんど達したように思われる、また、彼のキリスト教は聖書を読み、一人で泣き、祈るものだった、と言っている。

12月「中原中也追悼号」(「手帖」)

西川満「頑是ない歌―詩人中原中也氏を悼む」
生前の彼に会ったことはないが、作品からわが身近くにあたたかな氏の魂を感じた、とランボオを通して知った中原を書いている。

野田誠三「中原中也氏の死」
出来上がった『ランボオ詩集』を中原は大変喜び、これは旬日ならずして手持品は全部売り切れ、追加注文や直接買いに来た人に応じきれず、たいへんな騒ぎだった、と言っている。

昭和13年(1938年)

4月「在りし日の歌」(創元社)刊行。

第2詩集「在りし日の歌」を
詩人は手にすることができませんでした。
そのことを思えば
「ランボオ詩集」を手に取ったときの詩人の喜びようが
目に見えるようです。

自選作品集として完結しながら
実際の本を見ないで逝った詩人への評価は
こうして「没後評価」という形になり
詩人自ら、この没後評価をも知らないことになります。

「山羊の歌」(昭和9年)の詩人として
次第に評価が高まる中で
「ランボオ詩集」を刊行し
第2詩集「在りし日の歌」を畳みかけるように出す段になって
詩人・中原中也は急逝したのですから、
「評価という地平」で、
「没後」は「生前」と連続するというパラドクスのようなことが起こりました。

「ランボオ詩集」は
「ランボオ詩集」として評価されるというよりも、
中原中也の全仕事の中で評価される形にならざるを得なかったのです。

戦後になって、
大岡昇平の「中原中也伝―揺籃」(昭和24年)が発表されますが
これと同じ年に「ランボオ詩集」が書肆「ユリイカ」から出版されているのは
「中原中也が訳したランボー」への評価が
戦時下から戦後へ、脈々と継承されていたことを示すものの一つです。

 *

 ランボオ詩集
 後記

 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。

 私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。

 出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
 語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。

     ★

 附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。
――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。

     ★

 いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。

 さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。

 所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!

 云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。

 もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと ルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯 ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
 ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。

     ★

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
                                      〔昭和十二年八月二十一日〕

※角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳・本文篇」より。「行アキ」を加えてあります。編者。

 *

 在りし日の歌
 後記

 茲(ここ)に収めたのは、『山羊の歌』以後に発表したものの過半数である。作つたのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。序(つい)でだから云ふが、『山羊の歌』には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを収めた。

 詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出来れば、私の詩生活も既(すで)に二十三年を経た。もし詩を以て本職とする覚悟をした日からを詩生活と称すべきなら、十五年間の詩生活である。

 長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは尠(すくな)くない。今その概略を述べてみようかと、一寸思つてみるだけでもゾッとする程だ。私は何にも、だから語らうとは思はない。たゞ私は、私の個性が詩に最も適することを、確実に確かめた日から詩を本職としたのであつたことだけを、ともかくも
云つておきたい。

 私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に托し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠るのである。別に新しい計画があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思つてゐる。

 扨(さて)、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。
 さらば東京! おゝわが青春!
                                 〔一九三七、九、二三〕

 

※角川書店「新編中原中也全集 第1巻 詩Ⅰ・本文篇」より。「行アキ」を加えてあります。編者。

その6

「ランボオ詩集」を実際に手にしたものの
「在りし日の歌」を手にすることはなかった不運な詩人――。

詩人の急逝を
だれも予想することが出来なかったのは当たり前でしたが
詩人の訃報の陰に
「ランボオ詩集」への評価は隠れる形になり
追悼記事の中に
詩人の全仕事への評価として相対化されることになったのです。

小林秀雄と春山行夫の「ランボオ詩集」への書評は
おそらく、詩人の死の前に編集者の手に渡っていて
編集も最終段階を過ぎていたものと推測されます。

「没後評価」が
こうして、詩人・中原中也の評価の大きな比重を占めることになります。
そのはじまりが、追悼文でした。

中原中也が亡くなった昭和12年10月22日以後、
昭和12年11月の「紀元」をはじめに
12月に、「文学界」「四季」「手帖」と「コギト」
13年に「文芸」と、
関係のあった雑誌・同人誌が
次々に追悼号を出し、追悼記事を載せました。

各誌に寄せられた追悼記事のうちわけは、
以下の通りです。

「紀元」(12年11月)は、隠岐和一、片山勝吉、山之口獏の追悼文、
「文学界」(12年12月)は、島木健作、阿部六郎、草野心平、菊岡久利、青山二郎、
萩原朔太郎、河上徹太郎、関口隆克の追悼文、小林秀雄、菊岡久利の追悼詩、
「四季」(12年12月)は、佐藤正彰、関口隆克、内海誓一郎、阪本越郎、丸山薫の追
悼文、
「手帖」(12年12月)は、青山二郎、小林秀雄、佐藤正彰、西川満、平井弥太郎、野
田誠三の追悼文

「歴程」は、やや遅れて14年4月に
菊岡久利、草野心平、高村光太郎、藤原定、岡崎清一郎の追悼文を特集しました。

このほかに、「コギト」は、阪本越郎の追悼詩、
「文芸」は、高橋新吉の追悼文、
13年の「文芸」は、横光利一の「覚書」を掲載しました。

「在りし日の歌」は、
昭和13年4月の発行になりますから、
これに関する発言は
追悼をかねたものとなり
すべてが没後評価ということになります。

評者は、第2詩集「在りし日の歌」への批評や感想を
追悼文の中で表現せざるを得ない状態でした。
批評や感想や鑑賞が
詩人の死を悼む記述と切り離しては書けなかった場合が多かったのです。

昭和42年(1967年)は、中原中也没後30年の節目ですが
角川書店の「中原中也全集」がこの年に刊行開始されました。
この年までの「没後評価」の歴史が
「中原中也年譜」(吉田凞生編)の一部に概観されていますから
それを見ておくことにしましょう。

昭和13年(1938年) 没後1年

4月、「在りし日の歌」が創元社より刊行された。
7月、「山口県詩選」(白銀白新書店)に「除夜の鐘」など4篇が収録された。

昭和14年(1939年) 没後2年
「現代詩集1」(河出書房)に「サーカス」など29篇が収録された。

昭和16年(1941年) 没後4年
2月、「歴程詩集」(山雅房)に「閑寂」など7篇が収録された。

昭和22年(1947年) 没後10年
8月、「中原中也詩集」が大岡昇平による年譜、解説を付して創元社より刊行された。

昭和24年(1949年) 没後12年
2月、「ランボオ詩集」が大岡昇平の解説を付して書肆ユリイカより刊行された。

昭和26年(1951年) 没後14年
4~6月、「中原中也全集」全3巻が創元社より刊行された。

昭和35年(1960年) 没後23年
3月、「中原中也全集」全1巻が角川書店より刊行された。

昭和40年(1965年) 没後28年
6月、湯田温泉の井上公園に詩碑が建てられた。小林秀雄の筆になる「帰郷」の一節、
大岡昇平による碑文が刻まれている。

昭和42年(1967年) 没後30年
10月、「中原中也全集」全5巻、別巻1(角川書店)の刊行が始まった。同全集の本巻
は昭和43年に完結、別巻は昭和46年に刊行された。

 *

 ランボオ詩集
 後記

 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。

 私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。

 出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
 語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。

     ★

 附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。
――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。

     ★

 いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。

 さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。

繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務(つとめ)はすむといふものだ、

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。

 所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!

 云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。

 もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと ルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯 ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
 ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。

     ★

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
                                      〔昭和十二年八月二十一日〕

※角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳・本文篇」より。「行アキ」を加えてあります。編者。

 *

 在りし日の歌
 後記

 茲(ここ)に収めたのは、『山羊の歌』以後に発表したものの過半数である。作つたのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。序(つい)でだから云ふが、『山羊の歌』には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを収めた。

 詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出来れば、私の詩生活も既(すで)に二十三年を経た。もし詩を以て本職とする覚悟をした日からを詩生活と称すべきなら、十五年間の詩生活である。

 長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは尠(すくな)くない。今その概略を述べてみようかと、一寸思つてみるだけでもゾッとする程だ。私は何にも、だから語らうとは思はない。たゞ私は、私の個性が詩に最も適することを、確実に確かめた日から詩を本職としたのであつたことだけを、ともかくも
云つておきたい。

 私は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に托し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠るのである。別に新しい計画があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思つてゐる。

 扨(さて)、此の後どうなることか……それを思へば茫洋とする。
 さらば東京! おゝわが青春!
                                 〔一九三七、九、二三〕

 

※角川書店「新編中原中也全集 第1巻 詩Ⅰ・本文篇」より。「行アキ」を加えてあります。編者。

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