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わが放浪

 
私は出掛けた、手をポケットに突っ込んで。
半外套は申し分なし。
私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。
さても私の夢みた愛の、なんと壮観だったこと!

独特の、わがズボンには穴が開いてた。
小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻ってた。
わが宿は、大熊星座。大熊星座の星々は、
やさしくささやきささめいていた。

そのささやきを路傍(みちばた)に、腰を下ろして聴いていた
ああかの九月の宵々よ、酒かとばかり
額には、露の滴(しずく)を感じてた。

幻想的な物影の、中で韻をば踏んでいた、
擦り剥けた、私の靴のゴム紐を、足を胸まで突き上げて、
竪琴みたいに弾きながら。

 

 

 


ひとくちメモ その1

「わが放浪」Ma Bohèmeは
ランボー初期に多い
放浪詩篇と呼ばれる一群の詩の中で
放浪そのものを歌った
最もポピュラーと言ってよい作品です。

中原中也の訳でなくとも
どこかで聞いたことのあるフレーズが
これがランボーの作品だったのかと
あらためて知った人はきっと多くいることでしょう。

ポケットに手を突っ込んで
ぼくは歩いた
冬の夜の街を
空にはオリオン
突っ込んだポケットは底抜けだい

中学だったか、もう高校に入っていたか
語呂がいいからか
リズムがあるからか
「詩」っていうものがあることを
うっすらと知らされただけで
すぐに忘れてしまったのを
その後も何かのときに
読んだことが何度かありました。

足を胸の高さまでピョーンとあげて歩く
異様で滑稽感のある姿態を思い浮かべては
チャプリンやジャック・タチの
孤独な道化者の
自己に向ける眼差しの怜悧さを連想したこともありました。

中原中也に
「秋の一日」があり
これは
季節も情景もまったく違いますが
「詩のきれくずを探しに出かけよう」などと思い出し
ランボーと重なってしまうのが
いっこうにおかしくはないことも
いま、知ります。

いま
「秋の一日」を
読んでみれば

ぽけつとに手を突込んで
路次を抜け、波止場に出でて
今日の日の魂に合ふ
布切屑(きれくづ)をでも探して来よう。

――と、最終連はありました。

布切屑(きれくづ)をでも探して来よう。

この最終行は、詩の言葉を紡ぎ出す営みのことで
ランボーの詩で

第2連、
小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻つてた。

第4連、
中で韻をば踏んでゐた、

と、歌われているのと同じことです。

ひとくちメモ その2 

「わが放浪」Ma Bohèmeの同時代訳

中原中也訳「わが放浪」Ma Bohèmeの
同時代訳を読んでおきましょう。

角川の新全集(「新編中原中也全集」のこと)第3巻「翻訳・解題篇」に
三富朽葉訳が掲出されていますから、それと、
大木篤夫訳との2篇をとりあえず。

中原中也は
昭和11年10月30日の日記に
「先達(せんだつて)から読んだ本」として
「三富朽葉全集」を他の本とともにあげています。

他の本としては
リッケルトの「認識の対象」。
コフマンの「世界人類史物語」。
「パスカル随想録(抄訳)」。
「小林秀雄文学読本」。
「深淵の諸相」。
「芭蕉の紀行」少し。
――を列挙しています。

昭和11年10月といえば
詩人が死去するおよそ1年前のことです。
そして、
愛息・文也が死去する10日ほど前のことです。

この日の日記を
やや長くなりますが
引いておくと、

いよいよ今日からまた語学に入る。来春頃からはフランスの詩集が自在に読めるやうに、神に祈る。次第に、詩一天張に勉強してゐればよいといふ気持になる。

モツアルト、ヷイオリン・コンチェルト第五番イ長調をラヂオで聴いて感銘す。
もうもう誰が何と云つても振向かぬこと。詩だけでもすることは多過ぎるのだ。
22日以来外出せず。今月は外出せしこと四五回。月に五回も外出すれば沢山なり。プロザイックな連中を相手にするに及ばず。坊やでも大きくなつたら、もつと映画でも見るべし。

詩に全身挙げて精進するものなきは寧ろ妙なことなり。斯くも二律背反的なものを容易に扱へると思へるは、愚鈍の極みといふべきだ。
語学をやらねばならぬ。このことだけが大切なり。
(行空きを加えてあります。編者)

――とあります。

語学とは、もちろんフランス語のことで
「ランボオ詩抄」を6月に刊行したばかりでした。
翻訳の仕事に
ますます力を注ごうとしている
詩人の姿がここにあります。

ちなみに、
三富朽葉(みとみ きゅうよう)の生没年は、1889年~1917年
大木篤夫(おおき・あつお)の生没年は、1895年~1977年
中原中也の生没年は、1907年~1937年、
ランボーの生没年は、1854年~1891年です。

 ◇

 わがさすらひ
 三富朽葉訳

私は歩んだ、拳を底抜けの隠衣(かくし)へ、
上衣(うはぎ)も亦理想的に成つてゐる、
御空(みそら)の下を行く私は、ミュウズよ、私は御身の忠臣であつた、
オオ、ララ、どんなにすばらしい恋を私は夢みたであらう!

わが唯一のズボンは大穴ができてゐる、
一寸法師の夢想家の私は路路
韻をひねくつた。私の宿は大熊星に在つた。
わが空の星むらは優しいそよぎを渡らせた、

そして私はそれを聴いた、路傍(みちばた)に坐つて、
此の良い九月の宵毎に、露の雫の
わが額に、回生酒(きつけ)のやうなのを感じながら、

異様な影の中に韻を践みながら
七絃のやうに、私はわが傷ついた靴の
護謨紐(ごむひも)を引いた、片足を胸に当てて!

(角川書店「新編中原中也全集」「第3巻 翻訳・解題篇」より)

 ◇

 わが放浪
 大木篤夫訳

俺は行く、裂けた衣嚢(かくし)に 両の拳(こぶし)を突ッ込んで。
今では俺の外套も 理想ばかりになつてしまつた。
俺は行く、大空の下を、ミューズよ、私はあなたの賛美者です。
――まあ、まあ、何と、すばらしい愛を夢見るものだ!

この一張羅の半ズボンには 大きな孔が一つ、それでも、
夢想家プチイ・プセエのこの俺は、行く道すがら韻を踏む。
俺の宿は大熊星座のなかにある、
俺の星々は高い空から珊々(さんさん)と鳴る、

俺は恍(うつと)りそれに聴き入る、路ばたに腰を下ろして、
かうした九月の美しい晩、額にかゝる露のしづくを
俺は感じる、芳しい葡萄酒のやうに。

かうした夜(よる)は、幻めいた影のさなかで、詩の韻を合はすのだ。
片足を胸の上まで持ちあげて、七絃琴でも奏(ひ)くやうに
ピイーン・ピイーンと弾(はじ)くのだ、破れた靴のゴム絲を!

 

(ARS「近代佛蘭西詩集」より)

ひとくちメモ その3 

「わが放浪」Ma Bohèmeと西条八十「わが漂泊」

「わが漂泊」は、解放の楽しさ、かち獲た自由の歓喜を詠っている点で、「感覚」とほぼ軌を同じうしているが、「感覚」においては単に<散策>であった少年の心持が、ここでは<旅>にまで拡がり、「感覚」に無かった実生活が影を落している。

――と、記すのは、
詩人・作詞家の西条八十です。

西条八十は
こう記したのに続けて
ランボーの原詩と自らの訳を掲げたあとで
さらに続け、

思えば「感覚」を書いた3月から、この作を書いた10月までの間に、ランボオは実生活においてかつてない大きな変化を味わった。全然故郷の町以外知らない彼が、数度家庭から逃亡した。最初のパリ行で、無一文で汽車から下りた彼は、警察署にみじめな一週間を暮し、二回目のベルギーへの旅では宿もなく棒チョコレートを齧りながら月夜の村落を彷徨した。これらの旅が彼に<やぶれたポケット><穴のあいた半ズボン>の貧しい実生活を味わわせた。彼の生来の幻想的感性がこの作においては一層その濃度を増して、秋の夜空にかがやく大熊星座の中に褥あたたかい宿を夢み、星群の中に慈母のようなひとの優しい衣ずれの音を聴かせているのである。(略)

――と、「わが漂泊」に関して
突っ込んで鑑賞します。

「アルチュール・ランボオ研究」(昭和42年、中央公論社)は
「ランボオ詩研究」と「アフリカ時代」の2部仕立てで
「ランボオ詩研究」は
第一部「シャルルビル時代」
第二部「革命とランボオ」
第三部「見者」
第四部「イリュミナシオン」
第五部「地獄の一季節」の5部に分かれ

第二部「革命とランボオ」は
第一章「革命の理想」
第二章「革命の夕暮」
第三章「転機」
第四章「『初期詩篇』の総瞰」とあり
この第四章の中に
ここに掲げた記述があります。

「わが漂泊」は
「感動」と同じ流れの詩篇で
「自然への親愛」を歌った第5の詩群と分類整理されるのですが

これは彼の『初期詩篇』の中で<反逆>に対蹠する、もっとも顕著な詩群である。そうして、悪罵と呪詛と憤激の険悪な雰囲気にみたされた『初期詩篇』を読みゆく者に、忽如、一陣のたのしい野花の匂いをのせた微風の吹き入るを感じさせ、蘇生のおもいあらしめるものはこれらの詩篇なのである。

――と、
「たのしい」
「野花の匂いをのせた」
「微風の吹き入る」
「蘇生のおもいあらしめる」詩篇のグループと結んでいるのです。

西条八十は
1892年(明治25年)生まれで1970年(昭和45年)に亡くなりましたから
大木篤夫(おおき・あつお、1895年~1977年)や
金子光晴(1895年~1975年)とほぼ同時代を生きた詩人で
三富朽葉(みとみ きゅうよう)も1917年と早逝しましたが、
生年は1889年で同年代といってもよく
これら明治中期生まれの文学者が
同時にランボーの詩に関心を寄せていたことの背景に
どんな事情があったのでしょうか
どんな理由があったにせよ
ランボーをはじめとする
フランス詩の受容が盛況であったことが想像できます。

ランボーの生没年は、1854年~1891年ですから
ランボーの死んだ頃に生れたこれら日本の文学者が
青年期に入ってランボーの存在を知り
その詩に傾倒したということになります。

少し遅れて
中原中也(1907年~1937年)の世代が
これを追いかけます。

 ◇

「わが漂泊」の
西条八十訳は
第1連と第2連がありますので
ここに掲出しておきます。

 ◇

わが漂泊
西条八十訳(部分)

ぼくは出かけた、拳固をやぶれたポケットにつっこんで。
ぼくの外套は結構この上なしだ。
ミューズよ! ぼくは空の下を行った。そしてぼくはあなたに忠実でした。
おお! さてもぼくの夢見た愛の壮麗さよ!

 

ぼくの一つっきりの半ズボンには大きな穴があいていた。
――空想家の拇指小僧よ(プチ・プーセ)よ、ぼくは途々韻(リズム)を摘み摘みいった。
ぼくの宿は大熊星座に在った。
――大空の星の中に優しい衣(きぬ)ずれの音がきこえた。

ひとくちメモ その4 

「わが放浪」Ma Bohèmeのこだわり

中原中也訳の「わが放浪」Ma Bohèmeは
「ランボオ詩抄」(昭和11年6月発行)の印刷用原稿が残っており
これが第1次形態①とされ
「ランボオ詩抄」として印刷発行された詩篇が
第1次形態②とされ
「ランボオ詩集」(昭和12年9月発行)掲載の詩篇が
第2次形態とされ
それぞれ若干の異同があります。
(新編中原中也全集 第3巻 翻訳)

目立った異同は
第8行で

第1次形態①は
やさしくさゝやきさゝめいてゐた。

第1次形態②は
やさしくささやきささめいてゐた。

第2次形態は
やさしくささやきささやいてゐた。

――と改変されたところですが
この改変は、いずれも微妙な変更でしたが
この微妙な変更に精力を注いだところが
いかにも中原中也と言えましょうか。

やさしくさゝやきさゝめいてゐた。

やさしくささやきささめいてゐた。
としたのは、
繰り返し符号「ゝ」2箇所を排して
「ささやき」「ささめく」という動詞のイメージを明確にしようとしたものでしょうか

それでも飽き足らず
「ささめく」という動詞を排して
ささやきささやいていた
と、「ささやく」という動詞一本に絞りました。
結局は、リフレインを選んだところに
中原中也のこだわりが感じられます。

リフレインばかりでなく
「や」「さ」という音感
ヤ行とサ行の共鳴感
「ささめく」ではなく「ささやく」という語の響きを取った
詩人の音へのこだわりがここにあるということもできましょう。

さらに言えば
原詩
Mes étoiles au ciel avaient un doux frou-frou.に
忠実であろうとした翻訳へのこだわりを
ここに見ることもできることでしょう。
frou-frouとあるルフランとオノマトペを訳してみせてくれたのです!

参考のために
第7、8行を他の訳で見ておきます。

三富朽葉訳
私の宿は大熊星に在つた。
わが空の星むらは優しいそよぎを渡らせた、

大木篤夫訳
俺の宿は大熊星座のなかにある、
俺の星々は高い空から珊々(さんさん)と鳴る、

西条八十訳
ぼくの宿は大熊星座に在った。
――大空の星の中に優しい衣(きぬ)ずれの音がきこえた。

 

金子光晴訳
僕の旅籠(はたご)は、大熊星座。
空では星どもが、さらさらとやさしい衣(きぬ)ずれの音をさせた。

ひとくちメモ その5 

「わが放浪」付録篇・西条八十の分類

西条八十の「アルチュール・ランボオ研究」は
中で「『初期詩篇』の総瞰」の章を設け
ランボーの初期詩篇を6分類しているのですが
ランボー理解の手助けになりそうなので
ここでそれをひもといておきましょう。

「まず第一に反キリスト教の思想がある。」

――として挙げられるのは
「タルチュフの懲罰」
「悪」
「教会に集る貧乏人」などです。

「第二は、進んで、おのれがキリスト教徒であることへの反逆――洗礼の拒否である。」

――ここには
「最初の聖体拝受」
「太陽と肉体」
「正義の人」などが入りますが

このグループの中の
「鍛冶屋」
「音楽につれて」
「七歳の詩人たち」
「九二年と九三年の戦死者たちよ」
「皇帝たちの怒り」
「ザールブリュックの大勝利」は
現存の社会への憎悪・反感。

さらに
「パリの軍歌」
「パリは再び大賑い」
「ジャンヌ・マリイの手」
「おれの心よ、いったいなんだ……」の4篇は
ランボーのパリ・コンミューンへの熱狂的同情を詠った詩群とされています。

「第一、第二に続く、第三のモチーフとしては恋愛詩だが、異様なことに、この詩人にはどの詩人の場合にも在るように、ダンテがベアトリーチェを詠ったような清純な恋愛詩はまったくない。あまりにも、肉感的な作品ばかりである。」

――として挙げられるのは
「七歳の詩人たち」
「音楽につれて」
「最初の宵」
「みどり亭にて」
「いたずら好きな女」
「ニナの返答」
「小説」
「冬を夢みて」
「水から出るヴィーナス」
「慈善看護尼」などです。

「第四の詩群としては、この詩人の<醜悪なるもの、汚穢なるものへの特別な関心>が挙げられる。」

――として、
「水から出るヴィーナス」
「タルチュフの懲罰」
「七歳の詩人たち」
「最初の聖体拝受」
「ニナの返答」
「夕べの祈り」
「酔いどれ船」
「盗まれた心臓」
「しゃがみこんで」
「坐っている奴ら」
「首吊人の舞踏会」
「虱を探す女たち」。

「第五に挙げたいのは、彼の「わが漂泊」や「感覚」などに見る<自然への親愛>の詩群である。」

――として、
「感覚」
「太陽と肉体」
「オフェリア」
「わが漂泊」。

「最後に、第六のモチーフとしてわたしが特に挙げたいのは<幻覚>のモチーフとでも呼ぼうか、およそランボオの一切のものに対する感じ方、描き方が、幻覚的であり、幻想的である、その詩群である。この特質は他のどの詩群よりもひろく、ほとんど彼の作品全体を蔽っている。」

――として、
「感覚」
「わが漂泊」
「鍛冶屋」
「太陽と肉体」
「オフェリア」
「首吊人の舞踏会」
「盗まれた心臓」
「しゃがみこんで」
「坐っている奴ら」
「税関吏たち」
「冬に夢みて」
「夕べの祈り」
「最初の宵」
「最初の聖体拝受」
「正義の人」などを挙げています。
(※タイトルは西条八十の翻訳ですから、当然、中原中也訳と異なります。編者。)

以上を要約すれば、
ランボーの初期詩篇は、
1、反キリスト教
2、自らがキリスト者になることへの反逆・拒否
3、恋愛詩
4、醜悪・汚穢への特別な関心
5、自然への親愛
6、幻覚
――に分類・整理できるということですが
ご覧のように、各個の詩は
複数の詩群にまたがって分類されています。

 

西条八十独自の分類ですが
ランボー初期の作品を概観できて
いつか役に立つはずのものです。

ひとくちメモ その6 

「わが放浪」付録篇2・西条八十とランボー

西条八十が「アルチュール・ランボオ研究」を著わすに至った経緯を
同書「あとがき」に記していますが
中に最初のランボー論を書いた頃のことが書かれてありますから
それを読んでおきましょう。

 ◇

(略)
わたしは最初のランボオ論を昭和の初頭早稲田大学出版部発行の研究論文集に載せ、それは昭和四年、改造社発行の『新選西条八十集』(中)に再録された。

昭和十三年わたしはパリへ行ったが、たまたま亡友柳沢健とこの詩人の故郷シャルルビルを訪ねた。駅前の広場には、ささやかな彼の記念塔が立っていた。(この碑の建立日の光景を、エルネスト・レイノオは、その著『象徴主義者の群れ』の中で委しく面白く書いている。)しかし、その記念塔の上の肝心の詩人の頭像は無かった。第一次欧州大戦中この町を占領したドイツ軍が、砲弾に鋳直(いなお)してパリへ撃ち込んでしまったのだそうである。

わたしたちは携帯したパテルヌ・ペリションの『ランボオ伝』を案内書に、詩人の生家や学校や、ミューズ河畔や、さまざまな想い出のあとを辿って歩いた。そして、当時故郷でこの詩人の名を知っている人の少ないのに驚いたのである。

当時彼の詩集はポール・クロオデルが序文を書いたメルキュール版のそれが唯一のものであり、研究書はペリションの書いた伝記や、英人エジェル・リックワードの『ランボオ伝』などが主なものであった。(略)
(※行空きを追加してあります。編者。)

 ◇

上田敏に先立って
「酩酊船」を訳した柳沢健がここに登場します。
西条八十と柳沢健とは
かたや早稲田系、かたや東大系でありながら
昭和13年にはランボーの生地へ同道する旅人でした。

早稲田系の文学者と
東大系の文学者との交流は
まったく行われなかったということではなく
どちらかの活動がどちらかへと
伝播することも一切無かったわけでもないことが
はっきりとわかる二人の詩人の交友関係です。

メルキュール版のランボー詩集も
ここに登場します。
中原中也や小林秀雄や富永太郎らも
メルキュール版でランボーと出会いました。

西条八十の最初のランボー論は
昭和4年に発表されているのですから
これを中原中也が読まなかったという確証はありませんが
読んだという確証もまったくありません。
いまや、それは実証不可能なことがらです。

昭和4年は4月に
同人誌「白痴群」を発行し
翌5年には廃刊に至ってしまうものの第5号に
中原中也はベルレーヌの「ポーヴル・レリアン」を訳し
その中のランボー「フォーヌの頭」や「盗まれた心」を訳しています。
翻訳の発表をやや本格的にはじめた頃のことです。

昭和初期は
幾つかの星雲が
お互いの存在を遠巻きに見ながら
坩堝(るつぼ)のように活動していた時代だった――。

 *

 わが放浪

私は出掛けた、手をポケットに突つ込んで。
半外套は申し分なし。
私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。
さても私の夢みた愛の、なんと壮観だつたこと!

独特の、わがズボンには穴が開(あ)いてた。
小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻つてた。
わが宿は、大熊星座。大熊星座の星々は、
やさしくささやきささやいてゐた。

そのささやきを路傍(みちばた)に、腰を下ろして聴いてゐた
あゝかの九月の宵々よ、酒かとばかり
額(ひたひ)には、露の滴(しづく)を感じてた。

幻想的な物影の、中で韻をば踏んでゐた、
擦り剥けた、私の靴のゴム紐を、足を胸まで突き上げて、
竪琴みたいに弾きながら。

 

※講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」では、第8行を「やさしくささやきささめいてゐた。」としてあるため、今回は、角川書店「新編中原中也全集 第3巻 翻訳」より引用しました。編者。
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。編者。

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