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「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・10「秋の夜空」

その1
 
「秋の夜空」も「生活者」の昭和4年10月号に発表され
「山羊の歌」では「春の思い出」の次に配置されました。
 
秋の夜空で女性たちの宴(うたげ)が繰り広げられる様子が
ファンタジックに歌われた詩です。
 
「初期詩篇」の最後には「宿酔」が置かれていますから
「春の思い出」「秋の夜空」「宿酔」と
ファンタジックに仕立てられた(ファンタジックな表現を駆使した)
3作品が並んだことになります。
 
 
秋の夜空
 
これはまあ、おにぎわしい、
みんなてんでなことをいう
それでもつれぬみやびさよ
いずれ揃(そろ)って夫人たち。
    下界(げかい)は秋の夜(よ)というに
上天界(じょうてんかい)のにぎわしさ。
 
すべすべしている床の上、
金のカンテラ点(つ)いている。
小さな頭、長い裳裾(すそ)、
椅子(いす)は一つもないのです。
    下界は秋の夜というに
上天界のあかるさよ。
 
ほんのりあかるい上天界
遐(とお)き昔の影祭(かげまつり)、
しずかなしずかな賑(にぎ)わしさ
上天界の夜の宴。
    私は下界で見ていたが、
知らないあいだに退散した。
 
 
さーっと読めば
すんなりと宴会の風景がイメージできる不思議な詩です。
 
それはタイトルのせいでしょうか。
「秋の夜空」というタイトルを読んでから詩本文を読むと
夜空で宴が行われていても
違和感が生まれないからでしょうか。
 
それはなぜでしょうか。
 
 
よく読むと
「へんてこりんな」言葉の使い方に驚かされます。
 
言葉使いだけでなく
矛盾だとか荒っぽさだとか
人を食ったような表現だとか
「美しい日本語」の顰蹙(ひんしゅく)を買うような
統一されない文法だとか
……が見えてきます。
 
 
第一、いきなり
これはまあ、おにぎわしい、
みんなてんでなことをいう
――とは、だれか人間の台詞(セリフ)です。
劇の脚本のようなはじまりです。
これは誰がしゃべっている言葉なのでしょう。
 
次の、
それでもつれぬみやびさよ
いずれ揃(そろ)って夫人たち。
    下界(げかい)は秋の夜(よ)というに
上天界(じょうてんかい)のにぎわしさ。
――ではじめて「上天界」の賑わいが歌われ
「下界」は(静かな)秋の夜であることが示されているのが理解できます。
 
しかしこの賑わしさが第3連(最終連)では
しずかなしずかな賑わしさ
――に変わり
あかるさも
ほんのりあかるいものに変わってしまいます。
 
 
第二に、
第1連の
おにぎわしい
みんなてんでなことをいう
それでもつれぬみやびさよ
――と語る人は
第2連で
椅子は一つもないのです。
――と「です(ます)調」で語る人と同一人物か、という謎。
 
同じく
第2連で
上天界のあかるさよ、と語る人と
第3連で退散した人物は
第1連で語る人と異なる人か同じ人か
……など。
 
 
そもそも第1連に登場する「夫人たち」は何者なのか、とか。
第3連の下界で見ていた「私」に
なぜ上天界の言葉が聞えるのか、とか
 
おかしなこと、謎めいたことが
いっぱいあります。
 
 
その2
 
「秋の夜空」が
上天界に集う夫人たちのお祭り(影祭)を歌った詩であることは
初めて読んだときには
最終連を読んで理解します。
 
2度目に読んだときには
第1連冒頭の
これはまあ、おにぎわしい
――というセリフが
お祭りの賑わいへの感想であることを理解します。
 
 
ああ、夜空で夫人たちが宴に興じていて
おしゃべりをしているのだ
みんなてんでんばらばらなことを言っている
みやびやかだけどツンとしましたものだよ(第1連)
 
磨きのかかった床
金色に照明が輝いていて
小さな頭の八頭身美人たちが長い裾を引きずっているのだ
そこに椅子が一つも見当たりません。(第2連)
 
上天界はほんのりあかるく
遠い昔の影祭りだ
静かな賑わいだ
夜の宴なのだ。(第3連)
 
上天界の宴の様子だけを追えば
このようになります。
 
 
この宴を下界からのぞき見ているのが
私=詩人です。
 
ひっそりと息をひそめて
上天界の影祭りを眺めているのですが
しばらくして私の知らない間にどこかへ退散してしまいました。(第3連)
 
 
ここまで読み通して
「退散した」のは
夫人たちではなく私かもしれない、とか
これはまあ、おにぎわしい
――とまるで宴の中にいるようなセリフは
下界にいる詩人と辻褄があわない、とか
 
幾つか謎が出てきます。
 
そもそも
夜空の宴って何だろう、という疑問が生じてきます。
 
 
その3
 
秋の夜空に巨大スクリーンが浮かび出て
高貴な家柄の夫人たちが立食パティーに興じている
金色の灯りもまばゆく賑やかに……。
 
おやまあなんとおにぎわしいことと
思わず呟きのひとことも洩れ出る夜の宴。
 
やがて時は流れ
宴は遠い昔の影祭りへと変色し
人語も聞こえない遠景へ後退します……。
 
ほんのりあかるいだけの
静かな賑わしさに変わっています。
 
 
夜空の星々を夫人に見立てた擬人法の詩だなどと
理屈っぽいことを言わないでも
あり得ない「夜空の宴」がくっきりと鮮やかに見えます。
 
上天界の宴の中に入り(近景でとらえ)
ぐるりと一周し(眺め回し)
下界から見上げる(遠景)
 
何度も読んでいるうちに
次第にピントが合ってくる映像詩――。
 
 
近景から遠景への視点移動が逆であったら
もう少し分かりやすかったかもしれませんが
説明(描写)の順序をひっくりかえしたところに効果はあります。
 
 
行末の不統一も
それほど「へんてこりん」とは思えなくなってくる
不思議な魅力のある詩です。
 
おにぎわしい=形容詞、現在形
いう=動詞、現在形
みやびさよ=名詞+感嘆詞
夫人たち=名詞(体言止め)
にぎわしさ=名詞
点いている=動詞、現在形
裳裾=名詞
です=助動詞現在形(ですます調)
あかるさよ=名詞+感嘆詞
上天界=名詞
影祭=名詞
賑わしさ=名詞
宴=名詞
退散した=動詞、過去形
 
この程度なら
ダダの「ハチャメチャ」を遠く離れています。
 
 
秋の夜空に
ファンタジックな映像が見えるだけで
いいのです。
 
そういう詩を
遊んだのでしょうから。
 
 
こんな詩の中に
あえて詩人を探そうとすれば
「字下げ」された行、
 
    下界(げかい)は秋の夜(よ)というに(第1連、第2連)
    私は下界で見ていたが(第3連)
 
――や、
 
それでもつれぬみやびさよ
椅子(いす)は一つもないのです。
知らないあいだに退散した。
 
――という「行」などに存在するのかもしれません。
 
そう読まないで
詩(人)の遊びを味わうのがよいのかもしれません。

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