「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・10「秋の夜空」
その1
「秋の夜空」も「生活者」の昭和4年10月号に発表され
「山羊の歌」では「春の思い出」の次に配置されました。
秋の夜空で女性たちの宴(うたげ)が繰り広げられる様子が
ファンタジックに歌われた詩です。
「初期詩篇」の最後には「宿酔」が置かれていますから
「春の思い出」「秋の夜空」「宿酔」と
ファンタジックに仕立てられた(ファンタジックな表現を駆使した)
3作品が並んだことになります。
◇
秋の夜空
これはまあ、おにぎわしい、
みんなてんでなことをいう
それでもつれぬみやびさよ
いずれ揃(そろ)って夫人たち。
下界(げかい)は秋の夜(よ)というに
上天界(じょうてんかい)のにぎわしさ。
すべすべしている床の上、
金のカンテラ点(つ)いている。
小さな頭、長い裳裾(すそ)、
椅子(いす)は一つもないのです。
下界は秋の夜というに
上天界のあかるさよ。
ほんのりあかるい上天界
遐(とお)き昔の影祭(かげまつり)、
しずかなしずかな賑(にぎ)わしさ
上天界の夜の宴。
私は下界で見ていたが、
知らないあいだに退散した。
◇
さーっと読めば
すんなりと宴会の風景がイメージできる不思議な詩です。
それはタイトルのせいでしょうか。
「秋の夜空」というタイトルを読んでから詩本文を読むと
夜空で宴が行われていても
違和感が生まれないからでしょうか。
それはなぜでしょうか。
◇
よく読むと
「へんてこりんな」言葉の使い方に驚かされます。
言葉使いだけでなく
矛盾だとか荒っぽさだとか
人を食ったような表現だとか
「美しい日本語」の顰蹙(ひんしゅく)を買うような
統一されない文法だとか
……が見えてきます。
◇
第一、いきなり
これはまあ、おにぎわしい、
みんなてんでなことをいう
――とは、だれか人間の台詞(セリフ)です。
劇の脚本のようなはじまりです。
これは誰がしゃべっている言葉なのでしょう。
次の、
それでもつれぬみやびさよ
いずれ揃(そろ)って夫人たち。
下界(げかい)は秋の夜(よ)というに
上天界(じょうてんかい)のにぎわしさ。
――ではじめて「上天界」の賑わいが歌われ
「下界」は(静かな)秋の夜であることが示されているのが理解できます。
しかしこの賑わしさが第3連(最終連)では
しずかなしずかな賑わしさ
――に変わり
あかるさも
ほんのりあかるいものに変わってしまいます。
◇
第二に、
第1連の
おにぎわしい
みんなてんでなことをいう
それでもつれぬみやびさよ
――と語る人は
第2連で
椅子は一つもないのです。
――と「です(ます)調」で語る人と同一人物か、という謎。
同じく
第2連で
上天界のあかるさよ、と語る人と
第3連で退散した人物は
第1連で語る人と異なる人か同じ人か
……など。
◇
そもそも第1連に登場する「夫人たち」は何者なのか、とか。
第3連の下界で見ていた「私」に
なぜ上天界の言葉が聞えるのか、とか
おかしなこと、謎めいたことが
いっぱいあります。
◇
その2
「秋の夜空」が
上天界に集う夫人たちのお祭り(影祭)を歌った詩であることは
初めて読んだときには
最終連を読んで理解します。
2度目に読んだときには
第1連冒頭の
これはまあ、おにぎわしい
――というセリフが
お祭りの賑わいへの感想であることを理解します。
◇
ああ、夜空で夫人たちが宴に興じていて
おしゃべりをしているのだ
みんなてんでんばらばらなことを言っている
みやびやかだけどツンとしましたものだよ(第1連)
磨きのかかった床
金色に照明が輝いていて
小さな頭の八頭身美人たちが長い裾を引きずっているのだ
そこに椅子が一つも見当たりません。(第2連)
上天界はほんのりあかるく
遠い昔の影祭りだ
静かな賑わいだ
夜の宴なのだ。(第3連)
上天界の宴の様子だけを追えば
このようになります。
◇
この宴を下界からのぞき見ているのが
私=詩人です。
ひっそりと息をひそめて
上天界の影祭りを眺めているのですが
しばらくして私の知らない間にどこかへ退散してしまいました。(第3連)
◇
ここまで読み通して
「退散した」のは
夫人たちではなく私かもしれない、とか
これはまあ、おにぎわしい
――とまるで宴の中にいるようなセリフは
下界にいる詩人と辻褄があわない、とか
幾つか謎が出てきます。
そもそも
夜空の宴って何だろう、という疑問が生じてきます。
◇
その3
秋の夜空に巨大スクリーンが浮かび出て
高貴な家柄の夫人たちが立食パティーに興じている
金色の灯りもまばゆく賑やかに……。
おやまあなんとおにぎわしいことと
思わず呟きのひとことも洩れ出る夜の宴。
やがて時は流れ
宴は遠い昔の影祭りへと変色し
人語も聞こえない遠景へ後退します……。
ほんのりあかるいだけの
静かな賑わしさに変わっています。
◇
夜空の星々を夫人に見立てた擬人法の詩だなどと
理屈っぽいことを言わないでも
あり得ない「夜空の宴」がくっきりと鮮やかに見えます。
上天界の宴の中に入り(近景でとらえ)
ぐるりと一周し(眺め回し)
下界から見上げる(遠景)
何度も読んでいるうちに
次第にピントが合ってくる映像詩――。
◇
近景から遠景への視点移動が逆であったら
もう少し分かりやすかったかもしれませんが
説明(描写)の順序をひっくりかえしたところに効果はあります。
◇
行末の不統一も
それほど「へんてこりん」とは思えなくなってくる
不思議な魅力のある詩です。
おにぎわしい=形容詞、現在形
いう=動詞、現在形
みやびさよ=名詞+感嘆詞
夫人たち=名詞(体言止め)
にぎわしさ=名詞
点いている=動詞、現在形
裳裾=名詞
です=助動詞現在形(ですます調)
あかるさよ=名詞+感嘆詞
上天界=名詞
影祭=名詞
賑わしさ=名詞
宴=名詞
退散した=動詞、過去形
この程度なら
ダダの「ハチャメチャ」を遠く離れています。
◇
秋の夜空に
ファンタジックな映像が見えるだけで
いいのです。
そういう詩を
遊んだのでしょうから。
◇
こんな詩の中に
あえて詩人を探そうとすれば
「字下げ」された行、
下界(げかい)は秋の夜(よ)というに(第1連、第2連)
私は下界で見ていたが(第3連)
――や、
それでもつれぬみやびさよ
椅子(いす)は一つもないのです。
知らないあいだに退散した。
――という「行」などに存在するのかもしれません。
そう読まないで
詩(人)の遊びを味わうのがよいのかもしれません。
|
|
« 「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・9「春の思い出」 | トップページ | 「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・11「港市の秋」 »
「「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ」カテゴリの記事
- 「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ<インデックス>(2014.11.12)
- 「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・11「港市の秋」(2014.02.07)
- 「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・10「秋の夜空」(2014.02.07)
- 「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・9「春の思い出」(2014.02.07)
- 「生活者」から「山羊の歌・初期詩篇」へ・8「サーカス」(2014.02.07)