きらきら「初期詩篇」の世界/5「深夜の思い」
その1
「生活者」に発表された「港市の秋」を振り出しに
「臨終」(山羊の歌)
「むなしさ」(在りし日の歌)
「かの女」(未発表詩篇)
「春と恋人」(未発表詩篇)
「秋の一日」(山羊の歌)
――と「横浜もの」と呼ばれる詩群を読んできました。
◇
「山羊の歌」では
「臨終」「秋の一日」「港市の秋」の順に配置されましたが
これらが扱う季節はみな「秋」でした。
「臨終」が歌った女性には
泰子の影が落ちている(大岡昇平)のであれば
「朝の歌」の「うしないし さまざまのゆめ」にも同じことがあてはまり
「黄昏」「深夜の思い」と
「山羊の歌」の「初期詩篇」中にも
泰子を歌った詩の流れを見つけることができることになります。
◇
「深夜の思い」は
「初期詩篇」22篇の10番目にあり
「黄昏」に続いて配置されました。
◇
深夜の思い
これは泡立つカルシウムの
乾きゆく
急速な――頑(がん)ぜない女の児の泣声だ、
鞄屋の女房の夕(ゆうべ)の鼻汁だ。
林の黄昏は
擦(かす)れた母親。
虫の飛交(とびか)う梢(こずえ)のあたり、
舐子(おしゃぶり)のお道化(どけ)た踊り。
波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は猫背を向(むこ)うに運ぶ。
森を控えた草地が
坂になる!
黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄(よ)する
ヴェールを風に千々(ちぢ)にされながら。
彼女の肉(しし)は跳び込まねばならぬ、
厳(いか)しき神の父なる海に!
崖の上の彼女の上に
精霊が怪(あや)しげなる条(すじ)を描く。
彼女の思い出は悲しい書斎の取片附(とりかたづ)け
彼女は直(じ)きに死なねばならぬ。
◇
長谷川泰子が中也との暮らしをたたんで
小林秀雄と同居しはじめたのは
大正14年の秋(11月)のことでした。
それからどれほど経って
この詩は書かれたのでしょうか。
◇
深夜の詩人を襲う
「泡立つカルシウムの」
「急速な」
「頑(がん)ぜない」
もの思い――。
ラムネサイダーかなにかのように
ふーっと「急速に」しぼんだかと思うと
今度はわーっと
聞き分けのない
赤ん坊の泣声のような
鞄屋の女房の夕(ゆうべ)の鼻汁のような
頑固でしつっこい思い。
◇
はじめそれは
林の黄昏に
母親が掠(かす)れて見えたり。
虫が飛び交っている梢に
おしゃぶり咥(くわ)えた子どもがお道化て踊る様子。
(第2連)
駆り立てた猟犬の姿が見えなくなって
猟師は猫背の姿勢でそれを追う。
森にぶつかって
草地は坂になって落ちている!
(第3連)
◇
第2連も第3連も
ランボーのイメージでしょうか。
いずれもこれは
夢にうなされて目ざめるという場面ではありません。
夜中にもの思いに耽る詩人が
見る映像(幻想幻視)です。
◇
第4連では
ゲーテの劇詩「ファウスト」のヒロイン、グレートヒェン(愛称マルガレエテ)が現われますが
映像の中にマルガレエテが出てきたものではないでしょう。
実際に見えた映像は
泰子であったに違いありません。
詩語にしたときに
マルガレエテとしただけです。
◇
その2
「深夜の思い」には
長谷川泰子らしき女性が
ゲーテ「ファウスト」のヒロインであるマルガレエテに擬して登場します。
「初期詩篇」で
はっきりとした形で泰子が現われるのはこれが初めてです。
◇
深夜の思い
これは泡立つカルシウムの
乾きゆく
急速な――頑(がん)ぜない女の児の泣声だ、
鞄屋の女房の夕(ゆうべ)の鼻汁だ。
林の黄昏は
擦(かす)れた母親。
虫の飛交(とびか)う梢(こずえ)のあたり、
舐子(おしゃぶり)のお道化(どけ)た踊り。
波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は猫背を向(むこ)うに運ぶ。
森を控えた草地が
坂になる!
黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄(よ)する
ヴェールを風に千々(ちぢ)にされながら。
彼女の肉(しし)は跳び込まねばならぬ、
厳(いか)しき神の父なる海に!
崖の上の彼女の上に
精霊が怪(あや)しげなる条(すじ)を描く。
彼女の思い出は悲しい書斎の取片附(とりかたづ)け
彼女は直(じ)きに死なねばならぬ。
◇
「朝の歌」や「黄昏」では
泰子は前面に現われることはなく
「うしなわれたもの」に含まれていました。
「臨終」では
いわばダブルイメージとして
死んだ女性の「影」でした。
「朝の歌」や「臨終」や「黄昏」などには
泰子は前面に出ることはありませんでしたが
「深夜の思い」では
彼女の思い出は悲しい書斎の取片附(とりかたづ)け
――と具体的に「行為する人」として現われました。
「深夜の思い」に現われたのは
マルガレエテという「直喩」の中ですが
現われたことに変わりありません。
◇
マルガレエテは
「深夜の思い」の中で
「ファウスト」の中の役を演じつつ
「書斎の後片づけ」を行います。
第3連と最終連は
「ファウスト」の中のマルガレエテが辿った運命ですが
そのマルガレエテの行為の中に
中也から去った日の泰子が混ざります。
マルガレエテの運命に
泰子の運命を重ね
彼女は直(じ)きに死なねばならぬ。
――と歌うのは
詩人がファウストになっているからで
マルガレエテ=泰子への愛(慈悲)によってです。
◇
泰子をモチーフにした恋愛詩群は
「白痴群」へ発表し
「山羊の歌」の「少年時」以降の章へと配置されるのが大勢なのですが
「初期詩篇」へ配置された作品が幾つかあります。
「秋の一日」
「深夜の思い」
「冬の雨の夜」
「凄じき黄昏」
「夕照」
「ためいき」
――の6篇です。
「初期詩篇」後半部に
これらは配置され
やがて「少年時」へと流れ込んでいきます。
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