きらきら「初期詩篇」の世界/1「臨終」
その1
「臨終」の初出は
「スルヤ」第2輯(昭和3年5月4日発行)です。
諸井三郎をリーダーとする
音楽集団「スルヤ」の会報が「スルヤ」です。
その会報に掲載されたのは
諸井三郎作曲の歌曲の歌詞として紹介されたためです。
演奏会が行われるのにあわせて発行されましたから
演奏プログラムのようなものらしく
当日の聴衆に配られました。
◇
短歌は別にして
「朝の歌」と「臨終」は
中原中也の詩が初めて活字化されたものです。
このことは、
中也の詩がはじめ歌詞として
音楽会を通じて読者に知られたことを示しています。
現代の作曲家によって
中也の詩に曲がつけられ
高校や大学などの音楽クラブで
合唱曲として演奏されるなど
現在も根強い人気があるのはその流れのためでもあります。
◇
臨 終
秋空は鈍色(にびいろ)にして
黒馬の瞳のひかり
水涸(か)れて落つる百合花
ああ こころうつろなるかな
神もなくしるべもなくて
窓近く婦(おみな)の逝きぬ
白き空盲(めし)いてありて
白き風冷たくありぬ
窓際に髪を洗えば
その腕の優しくありぬ
朝の日は澪(こぼ)れてありぬ
水の音(おと)したたりていぬ
町々はさやぎてありぬ
子等の声もつれてありぬ
しかはあれ この魂はいかにとなるか?
うすらぎて 空となるか?
◇
「臨終」は
いわゆる「横浜もの」です。
「横浜もの」といっても
十把ひとからげのものではありません。
横浜の娼婦を歌った幾つかの詩の一つですが
娼婦を歌いながら
詩人自身を歌っているところが中也の詩です。
しかはあれ この魂はいかにとなるか?
うすらぎて 空となるか?
――という最終連は
女性の死を自らに引き寄せていて真剣です。
「字下げ」に
詩人の「地」が露出しています。
◇
この詩に現われる「空」は
魂の行方や死のありか(イメージ)へ繋がる
「入り口」のようでさへあります。
「臨終」の空は
その早い時期に歌われた空です。
◇
その2
「臨終」が歌うのは秋空です。
快晴ならぬ空です。
黒馬はどこかの馬場のものでしょうか。
町を移動するのに
車道の真ん中を通る風景が
むかしよく見られたものですが
その馬でしょうか。
農事用の馬でしょうか
興行用の馬でしょうか
動物園の馬でしょうか
軍隊の馬でしょうか。
鈍色の空を背景に
黒馬の大きな瞳が光ります。
活けた百合の水は
替える主(あるじ)をうしない
花を落としてしまった……。
ああ、むなしい
黒馬は百合の花が落ちるのを見て
ただならぬ気配を感じるかのよう。
◇
寄る辺のない身の女が
死んだ
白い空は何をも知らないし
白い風は冷たいばかりだ
◇
窓辺で髪を洗うときの
腕が優しかった
朝の陽差しが溢れていたよ
川の水の音がやまなかったよ
◇
町はどこもかしこもざわざわしていた
子どもらの声が飛び交っていた
それにしてもいったい、この魂はどうなるのか?
うすらいだ末に、空となるのか?
◇
各連後半の「字下げ」の行に
詩人の思いの現在はあります。
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