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きらきら「初期詩篇」の世界/1「臨終」

その1

「臨終」の初出は
「スルヤ」第2輯(昭和3年5月4日発行)です。

諸井三郎をリーダーとする
音楽集団「スルヤ」の会報が「スルヤ」です。

その会報に掲載されたのは
諸井三郎作曲の歌曲の歌詞として紹介されたためです。
演奏会が行われるのにあわせて発行されましたから
演奏プログラムのようなものらしく
当日の聴衆に配られました。

短歌は別にして
「朝の歌」と「臨終」は
中原中也の詩が初めて活字化されたものです。
このことは、
中也の詩がはじめ歌詞として
音楽会を通じて読者に知られたことを示しています。

現代の作曲家によって
中也の詩に曲がつけられ
高校や大学などの音楽クラブで
合唱曲として演奏されるなど
現在も根強い人気があるのはその流れのためでもあります。

臨 終
 
秋空は鈍色(にびいろ)にして
黒馬の瞳のひかり
  水涸(か)れて落つる百合花
  ああ こころうつろなるかな

神もなくしるべもなくて
窓近く婦(おみな)の逝きぬ
  白き空盲(めし)いてありて
  白き風冷たくありぬ

窓際に髪を洗えば
その腕の優しくありぬ
  朝の日は澪(こぼ)れてありぬ
  水の音(おと)したたりていぬ

町々はさやぎてありぬ
子等の声もつれてありぬ
  しかはあれ この魂はいかにとなるか?
  うすらぎて 空となるか?

「臨終」は
いわゆる「横浜もの」です。

「横浜もの」といっても
十把ひとからげのものではありません。

横浜の娼婦を歌った幾つかの詩の一つですが
娼婦を歌いながら
詩人自身を歌っているところが中也の詩です。

  しかはあれ この魂はいかにとなるか?
  うすらぎて 空となるか?

――という最終連は
女性の死を自らに引き寄せていて真剣です。

「字下げ」に
詩人の「地」が露出しています。

この詩に現われる「空」は
魂の行方や死のありか(イメージ)へ繋がる
「入り口」のようでさへあります。

 

「臨終」の空は
その早い時期に歌われた空です。

その2

「臨終」が歌うのは秋空です。

快晴ならぬ空です。

黒馬はどこかの馬場のものでしょうか。
町を移動するのに
車道の真ん中を通る風景が
むかしよく見られたものですが
その馬でしょうか。

農事用の馬でしょうか
興行用の馬でしょうか
動物園の馬でしょうか
軍隊の馬でしょうか。

鈍色の空を背景に
黒馬の大きな瞳が光ります。

活けた百合の水は
替える主(あるじ)をうしない
花を落としてしまった……。
ああ、むなしい

黒馬は百合の花が落ちるのを見て
ただならぬ気配を感じるかのよう。

寄る辺のない身の女が
死んだ

白い空は何をも知らないし
白い風は冷たいばかりだ

窓辺で髪を洗うときの
腕が優しかった

朝の陽差しが溢れていたよ
川の水の音がやまなかったよ

町はどこもかしこもざわざわしていた
子どもらの声が飛び交っていた

それにしてもいったい、この魂はどうなるのか?
うすらいだ末に、空となるのか?

各連後半の「字下げ」の行に
詩人の思いの現在はあります。

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