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生きているうちに読んでおきたい名作たち1・序

その1

中原中也の詩作品のすべてを読み終えたのは
去年の4月ごろでしたか――。
このブログをはじめたのが2008年でしたから
あしかけ3年で
370近くの詩を読んだ計算になります。

読み終えて
一人の詩人の全作品を読むという体験の
充実感・満足感と同時に
「危なさ」みたいなものを感じた記憶があります。

たとえば
なにごとも、この詩人の目を通じて見返すというようなクセがついた、というようなことが一つ。
花瓶にさした花が枯れていくのを見て、

摘み溜めしれんげの華を
夕餉に帰る時刻となれば
立迷う春の暮靄の
土の上に叩きつけ

――と、「春の思ひ出」の一節を浮かべたり……、

駅ホームの待合室に休まろうとしたが
満員と知って

私はその日人生に、
椅子を失くした。

――と、「港市の秋」を思い出す、といった具合です。

その2

ピントが外れているのは分かっているのですが
花が枯れる、というイメージが
中原中也の「春の思ひ出」を思い出させたり
座る椅子がない、という場面では
「港市の秋」を思い出してしまう、というクセになっていた、ということを
やや強調して述べたまでです。

そういう傾向が
ある期間続いた、ということで
今は、そうしたクセからは抜け出しています。

書物を読んだり勉強したり
習い事をしたり避難訓練をしたり
ものごとの体験することというのは
すでにだれかが体験した内容を自分が繰り返すということですから
影響を受けて「クセ」になるのは自然の流れというものです。

ものごとの習得(修得)は
クセをつけること、といっても過言ではないほどです。

一つのことを繰り返すことによって
ものごとは習得され
その人のものになるというのは
その人のクセ=習慣になるということですから
クセになったら
クセになるほど習得した、ということと同じです。

詩を読むのも似たようなことで
何度も何度も
中原中也の詩を読み返しているうちに
その中のあるフレーズは記憶され
詩の全体が記憶されなくても
そのフレーズが訴えているイメージが
からだのどこか(脳の中か)に残り
ある時、そのイメージがかぶさって出てくるというようなことが起こり
それがしばしば起これば
それはクセ(=癖)といいますが
クセとはよい意味での習慣(=ハビット)ですから
努力が報われたことを示しているのです。

その3

ものごとを習慣にする、ということ以外に
ものごとを習得する・修得したという実態はありません。
習慣にした・習慣になったということは
習得した・修得したことと同じことです。

たとえば、
未曽有という3字熟語を
「みぞう」という3音節で読めるようになるのは習慣の結果です。
「みそう」「みそゆう」「みぞゆう」でもなく
「みぞう」と読む習慣ができているから
「未曽有」は「みぞう」と読めるのです。

同じく、
「席巻」を「せきまき」ではなく「せっけん」、
「琴線」を「ことせん」ではなく「きんせん」と読めます。

これらの言葉は
初めて読んだり使ったりしたときから
繰り返し繰り返し使われて
それが習慣になって
大人になっても老人になっても正しく使えているものと言ってよいでしょう。

「難漢字」ではなく
やさしい言葉でも同じことです。
「海」を、
訓読みで「うみ」と読め、
音読みで「かい」と読めるのも
習慣の結果です。

では、
読めない字に初めて会ったとき
どうしたらよいのでしょう。
いうまでもなく
周囲の人に聞いたり辞書をひいたりします。
周囲に聞く相手がいなかったり
聞くことができない状態のときには
一人で辞書を引けば済みます。

辞書を引く習慣があれば
読めない字は読めるようになりますから
人は辞書を引く習慣があれば
読めない字などはないのと同じです。

では、
詩を読むときに
辞書を引けば
詩をわかることになるでしょうか――。

読めない漢字やむずかしい言葉は
辞書を引くことによって
理解できるようになるのですから
辞書を持っていて
辞書を使う習慣があれば
なにも恐れることはありません。

だからといって
詩を読むのに
辞書があれば怖いものなし、というわけにはいきません。

なぜでしょうか?
なぜだかを考えてみる価値がありそうです。

そのことを考えるのに
「山羊の歌」の冒頭詩「春の日の夕暮」は
好例といえますから
まずは原作にあたってみましょう。

春の日の夕暮

トタンがセンベイ食べて
春の日の夕暮は穏かです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は静かです

吁(ああ)! 案山子(かかし)はないか――あるまい
馬嘶《いなな》くか――嘶きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするまゝに
従順なのは 春の日の夕暮か

ポトホトと野の中に伽藍は紅く
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が歴史的現在に物を云へば
嘲(あざけ)る嘲る 空と山とが

瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮は
無言ながら 前進します
自《み》らの 静脈管の中へです

ここで、ルビについて注意しておかなければならないことがあります。
この詩は、角川ソフィア文庫版「中原中也全集」から引用したものですが
中原中也本人が振ったルビは
第2連第2行の「嘶《いなな》く」と
最終連の最終行の「自《み》」の2か所だけなのですが
角川版旧全集編集委員は
読み易くするために
原作のほかに新たなルビを振りました。

吁(ああ)
案山子(かかし)
嘲(あざけ)る

――がそれです。

中原中也本人が振ったルビと
全集編集委員の振ったルビがあり
縦書きの書籍では
全集編集委員の振ったルビを( )で示し
詩人本人の振ったルビとを区別しています。

 

その違いを
このブログでは
詩人本人の振ったルビを《 》で
編集委員の振ったルビを( )で表示しています。

 

 

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