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「むなしさ」からはじまった「在りし日の歌」<6>鈴木信太郎訳の「ヴェルレエヌ詩集」

「むなしさ」を書いた頃
ベルレーヌの鈴木信太郎訳を
中原中也は入手していたのか
決定的なことはわかりませんが
「近代仏蘭西象徴詩抄」(鈴木信太郎著、春陽堂、大正13年発行)から
ランボーの「少年時」を筆写したことは
よく知られています。
 
「ダリア」は
鈴木信太郎訳「ヴェルレエヌ詩集」に収録されていますから
中原中也がいずれは
読んだに違いはないのですが
「むなしさ」を作る前後のことは
わかりません。
 
川路柳虹訳とは
こんなにも異なる趣(おもむき)があるということで
ここに引いてみます。
 
ヴェルレエヌを訳し始めたのは、もういつのことだか憶えていないが、私の訳詩集に初めて収録したのは大正13年(1924)だから、30年近くも前であった。「都に雨の降るごとく」など、まだその時のままの稚い姿だが、もう私から離れて一個の形体のような感がして今更どうする気もなく、又どうしようもない。其後フランスの詩全般に関し特に象徴詩に関し、徐徐に研究らしくもない研究を積み重ねてゆくにつれて、時おり翻訳したものが自然に溜ったので、昭和22年(1947)に纏めて、『ヴェルレエヌ詩集』と題して、創元社から出版した。
 
と後記に記されています。
 
 
 ダリヤ
 
石胎(せきたい)の娼婦よ、牛の眼のごとく
遅鈍(ちどん)に開く 褐色の濁れる眼(まなこ)
新しき大理石(なめいし)さながら 燦く胴。
 
脂肉(あぶらみ)の豊満なる花、花に漾(ただよ)う
芳香もなく、肉体のうららかなる美は、
鈍重に、無垢の同意を 繰りひろぐ。
 
肉の身の薫(かおり)すらなし、この味は
秣(まぐさ)を干(ほ)せる膚(はだえ)より昇る体臭、
しかも玉座に就けるきみ、香(こう)も感ぜぬ偶像よ。
 
――かくて錦繍を装へる王、ダリヤは
傲慢(おごり)の影もなく、香(かおり)なき頭(こうべ)を撓(もた)ぐ、
芬々たる素馨(そけい)の中に、苛立ちながら。
(※鈴木信太郎訳「ヴェルレエヌ詩集」岩波文庫より、後記も。新漢字に直してあります。編者)
 
中原中也が「ダリア」を訳したことは
なかったようですが
あったとすれば
大変、興味がひかれることですね。
 

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