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中原中也の詩に出てくる「人名・地名」15

中原中也の詩に現われる海外の「人名」を見ていますが
「生前発表詩篇」「未発表詩篇」を整理すると、
【キリスト】
【釈迦】(しゃか)
【キリスト】
【クリスト】
――の宗教者のグループとそれ以外。
 
【ピチベ】
【アブラハム・リンカン氏】【リンカンさん】【「リンカン氏】
【バルザック】
【ミレー】
【マルレネ・ディートリッヒ】
【ナポレオン】
【ランボオ】
――は歴史的人物とひとくくりできそうです。
【ピチベ】は、誰にも解釈されていない謎の名前です。哲学ですから、古代ギリシアあたりの人名らしいのですが、創作である可能性も大きいものです。
 
 
【アブラハム・リンカン氏】【リンカンさん】【「リンカン氏】 
アメリカの大統領リンカーンは、みんな「氏」や「さん」が付けられ、親しみのある言い方になっているのが特徴です。沈思黙考するリンカーンの肖像写真の印象が強いのでしょうか、そのリンカーンへ親近感があるのでしょうか、対等で心の通った会話が綴られる散文詩「幻想」には、なんともいえない静けさと暖かさが漂います。「幻想」を読んでみましょう。
 
◇ 
 
幻 想
 
 草には風が吹いていた。
 出来たてのその郊外の駅の前には、地均機械(ローラー・エンジン)が放り出されてあった。そのそばにはアブラハム・リンカン氏が一人立っていて、手帳を出して何か書き付けている。
(夕陽に背を向けて野の道を散歩することは淋しいことだ。)
「リンカンさん」、私は彼に話しかけに近づいた。
「リンカンさん」
「なんですか」
 私は彼のチョッキやチョッキの釦(ボタン)や胸のあたりを見た。
「リンカンさん」
「なんですか」
 やがてリンカン氏は、私がひとなつっこさのほか、何にも持合(もちあ)わぬのであることをみてとった。
 リンカン氏は駅から一寸(ちょっと)行った処の、畑の中の一瓢亭(いちひょうてい)に私を伴(ともな)った。
 我々はそこでビールを飲んだ。
 夜が来ると窓から一つの星がみえた。
 女給(じょきゅう)が去り、コックが寝、さて此(こ)の家には私達二人だけが残されたようであった。
 すっかり夜が更けると、大地は、此の瓢亭(ひょうてい)が載っかっている地所(じしょ)だけを残して、すっかり陥没(かんぼつ)してしまっていた。
 帰る術(すべ)もないので私達二人は、今夜一夜(ひとよ)を此処(ここ)に過ごそうということになった。
 私は心配であった。
 しかしリンカン氏は、私の顔を見て微笑(ほほえ)んでいた、「大丈夫(ダイジョブ)ですよ」
 毛布も何もないので、私は先刻(せんこく)から消えていたストーブを焚付(たきつ)けておいてから寝ようと思ったのだが、十能(じゅうのう)も火箸(ひばし)もあるのに焚付がない。万事(ばんじ)諦(あきら)めて私とリンカン氏とは、卓子(テーブル)を中に向き合って、頬肘(ほうひじ)をついたままで眠ろうとしていた。電燈(でんとう)は全く明るく、残されたビール瓶の上に光っていた。
 目が覚めたのは八時であった。空は晴れ、大地はすっかり旧に復し、野はレモンの色に明(あか)っていた。
 コックは、バケツを提(さ)げたまま裏口に立って誰かと何か話していた。女給は我々から三米(メートル)ばかりの所に、片足浮かして我々を見守っていた。
「リンカンさん」
「なんですか」
「エヤアメールが揚(あが)っています」
「ほんとに」
※原文には、「ひとなつっこさ」に傍点がつけられています。
 
 
【マルレネ・ディートリッヒ】
(Marlene Dietrich、1901年12月27日~1992年5月6日)はドイツ出身の女優・歌手。ドイツ初のトーキー映画「嘆きの天使」(ジョセフ・スタンバーグ監督)に主演して以来、脚線美、もの思わしげで挑戦的な容貌(人によっては「退廃的な美貌」)、セクシーボイスなどで国際的な評判になり、1930年にアメリカに渡ってハリウッドでの活動を盛んに行いました。ヒトラーのナチスにドイツが支配されてゆくのに反発し、アメリカの市民権を獲得、第2次世界大戦中はアメリカ軍や連合軍兵士の慰問でヨーロッパ各地を回り、戦地で歌われていた「リリー・マルレーン」を放送を通じて歌うなど反戦、反ナチの活動を積極的に行ったことも広く知られています。スウェーデン生まれのハリウッド女優グレタ・ガルボ(Greta Garbo、1905年9月18日~1990年4月15日)と好対照で、人気を二分しました。中原中也が、ナチスを知っていたか、1933年にナチスは政権を奪うのですから、ニュースで知っていた可能性は高く、では、ディートリッヒの反ナチ活動を知り得たかというと、それはほとんど分かっていません。ディートリッヒの行動を当時のジャーナリズムがどの程度報道し論評していたか、その情報に中原中也がどの程度接していたかによりますが、解明が不可能ではなく、まったく知らなかったとも言えないことです。
 
日本でディートリッヒの主演映画が初めて上映されたのは昭和6年。2月「モロッコ」、5月「嘆きの天使」、8月「間諜X27」。中原中也が「マルレネ・ディートリッヒ」を制作したのは昭和6年10月中旬と推定されていますから、詩人は新宿か銀座か、ほかの映画館かで、これらの映画を見たことはほぼ確実なことです。僚友・安原喜弘宛の手紙に「この頃はよく活動を見ます」と書き送っており、この「活動」は活動写真つまり映画のことです。
 
小林佐規子の名で長谷川泰子が、公募コンクール「グレタ・ガルボに似た女性」に1等で当選したのも昭和6年10月でしたから、「マルレネ・ディートリッヒ」が泰子のイメージを重ねて歌ったものであることもほぼ疑いのないことです。
 
 
マルレネ・ディートリッヒ
 
なあに、小児病者の言うことですよ、
そんなに美しいあなたさえ
あんな言葉を気にするなんて、
なんとも困ったものですね。
 
合言葉、二週間も口端(くちは)にのぼれば、
やがて消えゆく合言葉、
精神の貧困の隠されている
馬鹿者のグループでの合言葉。
 
それがあなたの美しさにまで何なのでしょう!
その脚は、形よいうちにもけものをおもわせ、
あなたの祖先はセミチック、
亜米利加(アメリカ)古曲に聴入る風姿(ふぜい)、
 
ああ、そのように美しいあなたさえ
あんな言葉に気をとられるなんて、
浮世の苦労をなされるなんて、
私にはつまんない、なにもかもつまんない。

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