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「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年6月8日ほか

昭和7年5月から6月にかけては
「山羊の歌」の編集が行われた時期とされていますが
「90 4月19日 安原喜弘宛 葉書」
「91 5月2日 安原喜弘宛 葉書」
「92 5月7日 安原喜弘宛 葉書」
「93 5月17日 安原喜弘宛 封書」
「94 5月18日 安原喜弘宛 封書」
「95 5月19日 安原喜弘宛 葉書」
――と出された安原宛の手紙には
「詩集の編集」について書かれたものは見つかりません。
 
 
6月に入って出された
「96 6月8日 安原喜弘宛 葉書」も
 
前略
航海練習科は、日本丸等、学校の練習船の事務所如きものだそうです。
 
来週はパリイの方にします、      怱々
                    中也
――とあり、ここにも「詩集」のことは書かれていません。
 
安原のコメント(「中原中也の手紙」講談社文芸文庫)には
 
これは内職の口探しの一件である。パリイとはフランス語教授のテキストの名である。
――とあり、相変わらず「内職の口」を二人で探していたことがわかるだけです。
 
どこかの学校の募集広告かなにかを見つけて
調べた結果を詩人は安原に報告し
ついでに来週のフランス語の個人授業のテキストを指示したのでしょう。
 
 
詩集のことは
2人の間で話題になることはなかったのでしょうか?
それとも、手紙に書かれなかっただけなのでしょうか?
それとも、書かれた手紙が残らなかっただけなのでしょうか?
 
 
やや「異変」が感じられるのは
安原宛の6月の手紙は「96」1通が残されているだけという1点。
 
ほかには、河上徹太郎宛、小出直三郎宛が見つかり
6月の手紙は、現在、3通が残っているだけです。
(「新編中原中也全集」第5巻)
 
手紙の数が少ないことに加え
安原宛が少なくなり
河上徹太郎宛、小出直三郎宛が残ったということと
「詩集の編集」になにか関係があったのか
 
なんら断言できることはありませんが
詩人が「春の日の夕暮」や「少年時」や「夏」や
「汚れっちまった悲しみに……」や
「羊の歌」「いのちの声」……や
 
「山羊の歌」に収録した作品の原稿を整理している姿だけが浮かんできます。

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