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「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年5月16日

詩集は芝書店でも結局断わられ、今度は青山二郎に一任することになった。
――と安原喜弘が記すのは、「手紙57 5月16日 (はがき)」へのコメント冒頭です。
 
 
「手紙57」(新全集では「121」)は葉書便で
大森・北千束発です。
 
先日は失礼しました。
今日になってもまだ青山からの返事来ませんので、何卒よろしくお願いします
高森の弟は藤井勇氏と会って、喜んでいる模様です、直ぐに上京する筈だったのですが、今月一杯は猶京都にいるそうです
「文芸万才(ママ)」(9月創刊予定)の同人となりました、随分大勢で20人くらいです
一生懸命温(おとな)しくしています
                           怱々
 
この手紙への安原のコメントは、
詩人の「変化」を
この冒頭1行でさりげなく説明しはじめ
安原自身に起こった「異変」とともに
「急激な変化」に触れていきます。
 
 
安原の指摘する「急激な変化」とは、
芝書店で断わられた
青山二郎に一任した
文学界の人々に自ら進んで交った
一度離反したかつての友人達と次々に旧交を温めた
自分より若い文学者達の中に混って物識りの伯父さんの様に温しくつつましく
甲斐甲斐しく共同生活をする
「文芸万才」は文芸雑誌「紀元」のことで(詩人はその同人になった)
――などのことでした。
 
 
安原は、この頃出身校・成城学園で起こった騒動の渦中に入り込み
詩人と接触の機会をやや少なくしていたことも理由の一つだったのか
昭和7年9月の段階で安原の手に委ねられていた装丁の作業が
青山二郎に変更されたのです。
 
安原にとって衝撃の大きかったに違いない変更を
「成城騒動」のためと安原は断言していません。
ほかに明確な理由をなんら記述していませんが
「青山二郎に一任することになった」のです。
 
 
この日より1年余り前、
 
表紙の木版は原稿も思わしくない上に、版の出来も不首尾で、その後これは古河橋のたもとから泥河の中に抛り込まれてしまった。
――と安原が記していることがここで思い出されます。
(「手紙49 昭和7年9月23日 (はがき)」へのコメント)
 
古河橋のたもとから投げ込まれてしまった木版こそが
安原喜弘の制作になるもので
泥河に投げ込んだ当人こそは青山二郎でした。
 
(※現在、神奈川近代文学館で開催中の「中原中也の手紙――安原喜弘へ」で頒布中の小冊子に「ばちゃーん」のタイトルで安原喜弘の子息・喜秀さんが書いているのは、1年余り前のこの「事件」です。)
 
 
その青山へ
装丁の仕事ほかを一任することになったのです。
 
1年前の無念の思いが
再び安原を襲ったことは想像に難くありませんが
安原はここで感慨をひとことも洩らしていません。
 
 
詩人の手紙は
「手紙58 5月25日 (封書)」
「手紙59 5月30日 (はがき)」
「手紙60 6月19日 (はがき)」
――と、成城騒動のさなかにある安原を気遣うものが続きます。
 
「成城騒動」については、
安原が「手紙58」のコメントで次のように記しています。
 
「成城の方」この年3月、私の母校成城学園(成城高校)で建設者の小原国芳先生の排斥運動があり、これに対して小原先生を慕う生徒たちの大部分が先生の復帰を唱えて立ちあがり、教職員、父兄を二分しての一大学校騒動となった。いわゆる「成城騒動」である。
私も旧制高校第1回の卒業生の一人として生徒の主張を支持して応援に加わった。

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