「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年1月29日
昭和8年になって
安原喜弘宛に出した2番目の手紙は
差出人を「一人でカーニバルをやってた男 中也」と書いています。
「カーニバル」は
安原のコメントでは「激烈なる市街戦」、
つまりは「喧嘩」のことです。
銀座で敵軍に遭遇して
どんな喧嘩になったのか
「なぐられるのは何時も中原の方」(青山二郎)というのですから
映画「大いなる西部」の果てしない決闘シーンのようではなく
あっさりと仕舞いになって
心の傷を抱えた詩人を安原が介抱して2人で退散するといった態(てい)のものだったでしょうか。
手紙とコメントをじっくり読みましょう。
「手紙53 1月29日」(新全集は「116」)は
「葉書」ではなく「封書」ですが
封筒は失われました。
◇
昨夜は失礼しました。
其の後、自分は途中から後が悪いと思いました。といいますわけは、僕には時々自分が一人でいて感じたり考えたりする時のように、そのままを表(おもて)でも喋舌(しゃべ)ってしまいたい、謂ばカーニバル的気持が起ります。その気持を格別悪いとも思いませんが、その気持の他人に於ける影響を気にしだすや、しつっこくなりますので、そこからが悪いと思いました。取乱した文章乍ら、右今朝から考えましたことの結果、取急ぎ お詫旁々おしらせ致します。
29日 一人でカーニバルをやってた男
中也
喜弘様
◇
この手紙への安原のコメント全文を
次に読みましょう。
(※洋数字に変換し、改行を加えてあります。編者。)
◇
夜前私達は例によって彼の想念に基き街を行動した結果、銀座方面に於て遂に敵軍に遭遇し、そこに激烈なる市街戦を演じたのである。
夢と現実との相克は尚屡々彼の中に激しかった。1度は平衡を得たと見えて、次の瞬間には又々私共の手許遙かに逸脱するのである。能無しの証人は僅かに彼の肉体を抱えて下宿につれ帰るのみである。
翌30日付で久し振りに私の許に詩稿が送り届けられている。それは詩集「在りし日の歌」に載る「冬の日」の原詩である。この2年程の間彼は断章のようなものの他余り纏ったものを書かなかったようである。それは原稿用紙に3枚、現在発表されてあるものの最後に自らを慰める4行詩が更に2節歌われている。
やがてこの年の3月に彼は事なく外語の専修科を卒業した。しかしこの頃、彼には外務書記生になる考えはすでになかった。
◇
詩人が自らの行為を「カーニバル」と表現した真意に
まずはじっくりと耳を傾けておきたいところです。
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