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「白痴群」前後・愛の詩4(秋の日を歩み疲れて)

(秋の日を歩み疲れて)は
ソネット(4―4―3―3の計14行の詩)が決まり
五七が決まり
破調もなく
平易な文語で
最後まで通した「完成度」の高い作品です。
しかし、詩人は
これにタイトルをつけていません。
 
「無題」というタイトルをつけているものでもなく
「完成」させていないということになる詩です。
 
 
(秋の日を歩み疲れて)
 
秋の日を歩み疲れて
橋上を通りかかれば
秋の草 金にねむりて
草分ける 足音をみる
 
忍從の 君は默せし
われはまた 叫びもしたり
川果の 灰に光りて
感興は 唾液に消さる
 
人の呼気 われもすいつつ
ひとみしり する子のまなこ
腰曲げて 走りゆきたり
 
台所暗き夕暮
新しき生木の かおり
われはまた 夢のものうさ
 
 
登場するのは
忍從(にんじゅう)の君、
われ、
ひとみしりする子。
 
「ひとみしりする子」は
通りすがりに見かけた「風景」にすぎませんから
登場人物は「君」と「われ」と限定できます。
 
 
「君」が泰子であり
「われ」が詩人であるのは
間違いないことでしょう。
 
離別後に
2人はどこかへ散歩に出かけたことが
あったのでしょうか?
それとも回想でしょうか?
 
最終連の
「新しき生木」が現在眼前にしているものなのか
回想に現われた「生木」なのか微妙です。
 
「台所の生木」ならば
「俎板(まないた)」ですから
「家庭」のシンボルです。
 
その生木のイメージ(かおり)が
「夢のものうさ」ととらえられ
詩は終わります。
 
 
過去(回想)に現われた生木であるか
眼前にしている生木であるか
どちらにしても
ここに出てくる感情は「ものうさ」です。
 
「倦怠(けだい)のうちに死を夢む」と
やがて歌う詩人がここにいます。
 
京都時代のダダ詩にも
「倦怠」が現われますから
真新しいことではありませんが
昭和初期の「倦怠」とここで出会います。
 
 
どこから見てもスキのないような言葉の群れに
詩人は「倦怠」を刻みました。
 
この詩を「完成」としたくなかったのではなく
本文が「完成」したために
そのうちタイトルをつけようとしていたのかもしれません。
 
「朝の歌」の「倦怠」も
同じ頃のものですから。

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