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ランボー<33>中原中也「芸術論覚え書」を読む・その4

 <承前3>
 
 *芸術論覚え書(現代新聞表記)
 
一、1作品中でのデータ(細部)とデータは、理想的に言えば絶対に類推的に結合されていてはならない。何故ならば、類推というものは、先に言うように「面白いから面白い領域」にもともとあるものではないから、例えば詩では語が語を生み、行が行を生まなければならない。すなわち、類推はそれが十分に行われない場合の補助手段である。繰り返せば、類推とは、名辞と名辞との間にとり行われる一つの作用の名前である。すなわち生活側に属する作用である。
 
一、作品の客観性は、人為的に獲得出来るものではない。それは、名辞以前の世界、すなわち「面白いから面白い領域」でその面白さが明確であることと同時に存在するところのものである。こうして作品の客観性は作品の動機の中に必然として約束されてあるものであるから、科学知識の有無などに直接関連のあるものではない。
 
一、根本的にはただ一つの態度しかない。すなわち作者が「面白いから面白い」ことをそのまま現したいという態度である。そのために、外観的に言って様々な手法というものがあるが、それであってもそれは近頃、一般に考えられているほど数多くあるのは邪道である。それらの多くは欧州大戦の疲弊が一時的に案出したものに過ぎず、芸術本来の要求に発したよりも芸術的スランプの救済要求に発したものと考えるべき理由がある、もっともこれは手短に言って理想論的見解でありすぎるかも知れない。
 
一、ロマンチシスムとレアリスムとは対立するわけはない。概観すると、批評精神のなおざりにされた時代はとかくロマンチックと言われる傾向が比較的顕著であった。こんな具合だから、ロマンチシスムといいレアリスムというのは作品の色合い、傾向などの主要な属性の指示に過ぎない。
 
一、しばしば言われる意味で、芸術には「思想が必要」などというのは意義がない。「面白いから面白い」ことはすでに意向的なことである。その上、思想を持ち込むなどとは野蛮人がありったけの首飾りを着けるようなものだ。イリュージョンと共にない何事も、芸術には無用である。
 
一、問題が紛糾するのはいつも、ちょうど芸術の格好をした芸術というものが存在するからである。例えば、語呂がよいだけの韻文などというものがある。早く言えば語呂合わせだ。ところで、語呂合わせの大家が語呂のちょっと拙い芸術の大家に言うのだ、「君は語感をおろそかにしている」などと。
 
さて、語感は非常に大切だ。言ってみれば、ポンプにバルブは非常に大切だ。ところで、その柄が折れていたら、ポンプは汲めない。それは、作品観賞に際して、抽象的視点(例えば「語感」のような)を与えて、その点よりみるということは意義がない。――彼女の鼻は美しい。口は醜い。睫毛は美しい。額は醜い。それから頬は……耳は何々。さてそれで彼女はいったい美人なのかどんなのか分かりはしないと同様に、「この時の脚韻駆使は何々。頭韻駆使は何々。」措辞法は何々などと言っても批評とはならない。そんな批評もたまにはあってもいいがそんな批評しか出来ない詩人や批評家がいるからご注意。
 
一、一つの作品が生まれたということは、今まで箒(ほうき)しか存在しなかった所に手拭いが出来たというように、新たに一物象が存在するようになったということであり、従来あったものの改良品が出たというようなこと以上のことである。こう言うのは、世人がいよいよ芸術作品を、箒なら箒、手拭いなら手拭いというテーマがあって、それのさまざまな解説(インタープリテーション)があれこれの作品は、テーマの発展であっても、テーマの解説ではない。これは、小説でも詩でもその他絵画、音楽などでも同様である。厳密に言えば、テーマとその発展も同時的存在である。
 
 
※「現代新聞表記」とは、原作の歴史的仮名遣い、歴史的表記を現代の新聞や雑誌の表記基準に拠って書き改めたもので、現代仮名遣い、現代送り仮名、常用漢字の使用、非常用漢字の書き換え、文語の口語化、接続詞や副詞のひらがな化、句読点の適宜追加・削除――などを行い、中学校2年生くらいの言語力で読めるように、平易で分かりやすい文章に整理し直したものです。
 
 
 *
 芸術論覚え書(原作)
 
一、 一作品中に於けるデータ(細部)とデータは、理想的に云へば、絶対に類推的に結合されてゐてはならぬ。何故なれば類推なるものは、先に云ふ「面白いから面白い境」にもともとあるものではないから、例へば詩に於ては語が語を生み、行が行を生まなければならぬ。乃(すなは)ち類推はそれが十分に行はれない場合の補助手段である。繰返せば類推とは名辞と名辞との間に取り行はれる一つの作用の名前である。即ち生活側に属する作用である。
 
一、作品の客観性は、人為的に獲得出来るものではない。それは名辞以前の世界、即ち「面白いから面白い境」でその面白さが明確であることと同時に存在する所のものである。かくて作品の客観性は作品の動機の中に必然約束されてあるものであるから、科学知識の有無などに直接関連のあるものではない。
 
一、根本的には唯一つの態度しかない。即ち作者が「面白いから面白い」ことを如実に現したいといふ態度である。そのために、外観的に云つて様々な手法といふものがあるが、それとてもそれは近時一般に考へられてゐる程多くあるのは邪道である。それらの多くは欧州大戦の疲弊が一時的に案出したものに過ぎず、芸術本来の要求に発したよりも芸術的スランプの救済要求に発したものと考ふべき理由がある。尤もこれは手短かに云つて理想論的見解でありすぎるかも知れない。
 
一、ロマンチシスムとレアリスムと対立するわけはない。概観するに批評精神の等閑された時代はえてロマンチックと謂はれる傾向が比較的顕著であつた。こんな具合だから、ロマンチシスムといひレアリスムといふは作品の色合、傾向等の主要属性の指示に過ぎぬ。
 
一、屢々謂はれる意味で芸術には「思想が必要」などとは意義をなさぬ。「面白いから面白い」ことは既に意向的なことである。その上思想を持込むなぞは野蛮人がありつたけの頸飾りを着けるがやうなものだ。イリューージョンと共にない所の何事も芸術には無用である。
 
一、問題が紛糾するのは何時も、宛然(ゑんぜん)芸術の恰好せる非芸術といふものが存在するからである。例へば語呂がよいだけの韻文なぞといふものがある。早く云へば語呂合せだ。所で語呂合せの大家が語呂の一寸拙(まづ)い芸術の大家に云ふのだ、「君は語感をおろそかにする」なぞ。
 
 扨(さて)語感は、非常に大切だ。云つてみれば、ポンプに於てバルブは非常に大切だ。所でその柄(え)が折れてゐたら、ポンプは汲(く)めぬ。それは、作品観賞に際して抽象的視点(例へば「語感」の如き)を与へて、その点よりみるといふことは意義がない。――彼女の鼻は美しい。口は醜い。睫毛(まつげ)は美しい。額は醜い。それから頬(ほほ)は……生え際(ぎは)は……耳は云々。されそれで彼女はいつたい美人なのかどんなのか分りはしないと同様に、「此の詩の脚韻駆使は云々。頭韻駆使は云々。」措辞(そじ)法は云々なぞといふとも批評とはならぬ。そんな批評も偶(たま)にはあれだがそんな批評しか出来ない詩人や批評家がゐるから御注意。
 
一、一つの作品が生れたといふことは、今迄箒(はうき)しか存在しなかつた所に手拭が出来たといふやうに、新たに一物象が存在したことであり、従来あつたものの改良品が出たといふやうなこと以上である。斯(か)くいふは世人屢々芸術作品を以て、箒なら箒、手拭なら手拭といふ一定のテーマがあつて、それの種々なる解説(インタプリテイション)が彼是(かれこれ)の作品は、テーマの発展であるとも、テーマの解説ではない。これは、小説に於ても詩に於てもその他絵画、音楽等に於ても同様である。厳密に云へば、テーマとその発展も同時的存在である。
 
(角川書店「新編中原中也全集 第4巻 評論・小説 本文篇」より)
※傍点は省略、一部表記出来ない記号があります。編者。
 
 
 
 
 
 

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