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「一筆啓上、安原喜弘様」昭和6年10月23日

「72 10月16日 安原喜弘宛 封書」の
「元気もなんにもありません。自分ながら情けない気持で生きています。」というはじまりは
弟の死の余波と必ずしも言えないかもしれませんが
無縁であるというよりなんらかの影響を受けていると考えるのが自然でしょう。
 
恰三の死(9月26日)から
まだ1か月になっていません。
 
ほかにも詩人を悩ます理由はあったのでしょう。
手紙がそれをぶつける場でした。
悩みごとをぶつけるばかりでなく
退屈しのぎの場ですらありました。
少なくとも安原宛の手紙は。
 
 
「73 10月23日 安原喜弘宛 封書」は
 
退屈です。毎日手紙を書かないことはありません。手紙を書くことは楽しみです。失敬な話だが、カンベン。
――という書き出し。
そのうえに、近況が報告されます。
 
外務書記生の規則書取寄せました。
――と、この頃、フランス行きの手立てとして「公務員試験」を考えていたことを記します。
 
また、
 
佐規子も此の頃では陞進して、グレタ・ガルボになりました。
――と、泰子がコンクールで一等入選したことの報告です。ここには、「僕はちっとも会っていません、赤ん坊には時々会いたくなります。」と泰子への心境がもらされます。
(※「陞進」はショウシンまたはショウジンと読みます。「陞進」は「昇進」と同じ意味と考えてよいでしょう。)
 
また、
 
学校には欠かさず出ております。詩も書きます。3日に1度は、少しでもいいからお酒がはいらないと、身も心もニガリきります。
――と、「本職=詩」の状態を述べます。
 
学校、詩、酒……。
このあたりに、詩人の「核心」が見えます。
 
 
学校は、東京外国語学校のことで、フランス語専科に通っていました。
その教師ヌエットと直かに話す計画が進んでいました。
 
ヌエットには、一緒に行くことにしていた男が退学させられたので一寸会いにいけません。一人で行っては、話がなさすぎます。何分日本語が十分分りませんから、でもそのうちゆくでしょう。
――と、関心を抱いた相手とトコトン交際を深めようとするいつもの詩人が現われます。
 
 
最後には
面白いことがあったら知らせて下さい。
――と、安原からの面白い話に期待して、手紙を結びます。

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