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「一筆啓上、安原喜弘様」昭和3年〜・出会いの頃

その1
 
「中原中也の手紙」の中で
安原喜弘が詩人との「距離」を漏らしたことは
詩人が新宿・花園アパートへ転居した頃にもありました。
 
「手紙71 昭和9年2月10日」へのコメントで
「しかし私はこれらの仲間からは意識して次第に遠のいていった。私達は前程頻繁には会わなくなった。」と書いているのがその初めての例でしょう。 
 
 
「手紙90 4月29日 (封書)」へのコメントでは
「私達の在り方に対する痛烈な批判」とこの手紙を呼んでいますが
次の「手紙91 6月5日 (封書)」へのコメントでは
「彼の昇天に至る最後の2年間をあわただしく叙(かた)り終ろうとする。」と書いて
およそ9年間に及んだ2人の交友の
最後に訪れた悲劇的結末について案内していきます。
 
 
「中原中也の手紙」は、
あと10通を残すだけなのですが
詩人との最後の2年間を追っていく流れにどうも乗れません。
 
終わりが近づくに連れて
始まりのおぼろげなさが気になりはじめるのです。
 
上京後の詩人が安原と出合った頃には
「山羊の歌」に収められた詩の大半を歌い終わっていたと安原は言いますが
「生の歌」を果敢に歌っていたこの頃に
もう少し佇(たたず)んでいたい気持ちです。
 
ここで2人が出会った昭和のはじめへと
時計の針を巻き戻すことにします。
 
 
 中原が初めてその仮借なき非情の容貌を私の前に現わしたのは昭和3年秋のことであった。当時私は高等学校の学生であり、情熱の赴くまま常に行動を共にする一群の文学青年の中にあった。その中の一人大岡昇平が或晩彼を伴って私の家に来た。大岡はそのフランス語勉強の先輩小林秀雄の紹介で既に中原と知り彼と足繁く交際していたので、私も中原の存在についてはかねて大岡達の口を通じて聞いてはいたのであるが会うのはこの時が初めてであった。
 
――と安原喜弘は、「中原中也の手紙」をこのように書き出しました。
 
この初対面の日は
 
その晩はベートーヴェンの第9シンフォニーのレコードを3人して聴いて帰って行った。私はこの時から彼に惹き付けられて行った。
 
――と続けられて終わります。
 
初対面は、大岡昇平、中原中也、安原喜弘の3人だったのです。
大岡昇平と詩人は、昭和3年春、小林秀雄を通じて知り合っていました。
大岡が、詩人と成城グループの橋渡しをした一人ということになります。
 
 
次に私が彼に会ったのはそれから数日後に行われた私の高等学校の運動会の最中であった。
 
その日彼は黒のルパシカに5尺に足らぬその体を包んで黒のお釜帽子をかぶり「スルヤ」の発表会の切符を持って私の前に現れた。このいでたちは当時彼の制服であり、後にルパシカは黒の背広に代えられ、更に後にはお釜帽子が黒ベレーに代えられたのである。
 
冬にはこれもやはり黒の外套がその身を包んだ。本書の巻頭にのる彼の肖像写真はそれより少し前に写されたものであって、当時はこの写真より遥かに酷烈さを湛えていたのだが、その帽子は当時と同じもので、余程後まで彼の頭上にあった。
 
私が初めて彼の手紙を受けとったのはこの時の音楽会の切符依頼に関するものであったが今は見当たらない。
 
 
昭和3年の秋は、このようにたわいもなく過ぎていったようですが
翌昭和4年は、同人雑誌「白痴群」が発刊される年でした。
背後ではその準備に追われる詩人らの姿があります。
 
昭和4年3月には、成城学園を卒業した安原、大原、富永次郎は京都帝大に進んでいます。
4月に「白痴群」は出るのですが
その間、創刊打ち合わせのための会合が東京であり
安原らはこれに参加するために上京、
それが終るとまた京都へ戻る、といったあわただしさの中にありました。
詩人も5月には「白痴群」の打ち合わせで京都を訪れました。
 
 
7月に入って我々は早々に東京に引き上げ一夏を過ごした。8月私は雑誌に小さな詩を発表した。中原と私との交遊が始まったのはこの詩を機縁としてである。この時から私と中原との市井の放浪生活は始まったのである。
 
私達は殆ど連日連夜乏しい金を持って市中を彷徨した。いつも最初は人に会いに行くのであったが。3度に2度は断わられた。それから又次の方針を決定し、疲れると酒場に腰をすえるのである。時には昼日中から酒を飲んだ。酔うとよく人に絡んだ。そしてこの国の宿命的な固定観念と根気よく戦った。
 
 
昭和4年の夏がこうして過ぎていきました。
 
 
その2
 
この頃の彼は既に「初期詩篇」のいくつかと「少年時」に出て来る苛烈な心象風景を歌い終っていた。
――と安原喜弘は、昭和4年の夏を振り返って記しています。
 
 
「歌い終わっていた」詩とは
どの詩を指しているでしょうか?
 
安原が例示するのは
「失せし希望」(少年時)
「盲目の秋」(少年時)
「木蔭」(少年時)
「夏」(少年時)
「いのちの声」(羊の歌)
「寒い夜の自我像」(少年時)
――です。
 
主に「少年時」から取り上げていますが
「朝の歌」(初期詩篇)の初稿が作られたのが大正15年で
「初期詩篇」のほとんどが「朝の歌」の制作と前後しているものでしょうから
「朝の歌」以後の詩境を見せる「少年時」の詩群が
安原には肉感的にも鮮烈な印象を与えていたことが想像できます。
 
「少年時」の詩群を引っさげて
詩人は安原の前に現れたと見ることができるでしょう。
いうまでもなく
「少年時」収載の詩篇のほとんどは
「白痴群」に発表したものでした。
 
中でも、最も強く印象に残ったのは
「盲目の秋」のようでした。
繰り返し、「盲目の秋」のフレーズを引用しています。
 
 
盲目の秋
 
   Ⅰ
 
風が立ち、浪(なみ)が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。
その間(かん)、小さな紅(くれない)の花が見えはするが、
  それもやがては潰(つぶ)れてしまう。
風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。
もう永遠に帰らないことを思って
  酷薄(こくはく)な嘆息(たんそく)するのも幾(いく)たびであろう……
私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。
それはしずかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)え、
  去りゆく女が最後にくれる笑(えま)いのように、
 
厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでいて佗(わび)しく
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……
      ああ、胸に残る……
風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。
 
   Ⅱ
 
これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。
これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、
そんなことはなおさらどうだっていいのだ。
人には自恃(じじ)があればよい!
その余(あまり)はすべてなるままだ……
自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行(おこな)いを罪としない。
平気で、陽気で、藁束(わらたば)のようにしんみりと、
朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!
 
   Ⅲ
 
私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  とにかく私は血を吐いた! ……
おまえが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまいってしまった……
それというのも私が素直(すなお)でなかったからでもあるが、
  それというのも私に意気地(いくじ)がなかったからでもあるが、
私がおまえを愛することがごく自然だったので、
  おまえもわたしを愛していたのだが……
おお! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  いまさらどうしようもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――
ごく自然に、だが自然に愛せるということは、
  そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、そう誰にでも許されてはいないのだ。
 
   Ⅳ
 
せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、
  その時は白粧をつけていてはいや。
ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に副射(ふくしゃ)していて下さい。
  何にも考えてくれてはいや、
  たとえ私のために考えてくれるのでもいや。
ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、
いきなり私の上にうつ俯(ぶ)して、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径(みち)を昇りゆく。
 
 
そしてこの後で、
「寒い夜の自我像」の最終連
 
陽気で、坦々(たんたん)として、而(しか)も己(おのれ)を売らないことをと、
わが魂の願うことであった!
――を呼び出します。
 
この頃の詩人の姿は
ここに最も的確に現れていることを案内するのです。
 
「この国の宿命的な固定観念と根気よく戦った」詩人の
傷だらけの日々がこうして語られます。
 
 
その3
 
「宿命的な固定観念との戦い」とも
「魂の平衡運動」とも安原が名付ける
詩人の傷だらけの日々は
何月何日どこそこでという特定された具体的な日付けを持ちません。
 
それは、たとえば、
(昭和5年の)9月に入って以後の「冬休みと次の年の春休み」に繰り返された
「遍歴と飲酒の日課」のことでした。
 
 
彼の呼吸は益々荒く且乱れて、酔うと気短かになり、ともすれば奮激(ふんげき)して衝突した。彼の最も親しい友人とも次々と酒の上で喧嘩をして分れた。
 
私は廻らぬ口で概念界との通弁者となり、深夜いきり立つ詩人の魂をなだめ、或は彼が思いもかけぬ足払いの一撃によろめくのをすかして、通りすがりの円タクに彼を抱え込む日が多く続いた。
 
「白痴群」はいろいろの都合で休刊になっていた。
 
――などと安原は記します。
 
また、たとえば、
時をやや遡(さかのぼ)った、この年(昭和5年)の4月末から5月の初めに
詩人が京都の安原の住まいを訪ねた時のことでした。
 
 
彼は深夜宿の2階で同宿の学生と喧嘩をして血を流した。それでも彼はその小躯に満々の自信を以て6尺に近い大男に尚も立ち向った。そして私は血にまみれた彼を抱き深夜医者を起こして彼の瞼に2針3針の手当を乞うのであった。
 
又或時は彼は裏街の酒場で並居る香具師(やし)の会話にいきり立ち、その一つ一つに毒舌を放送して彼等を血相変えて立ち上らせるのであった。そして彼は、取り巻く香具師の輪の中で何か呪文のようなものを唱え、やがてそこを踊りつつ脱け出すのである。
 
学者達の会話は特に彼の奮激(ふんげき)の因(もと)となった。誰彼の見境なく彼はからんだ。
 
――と報告します。
 
 
昭和5年4月には、「白痴群」第6号が発行され
この号で廃刊が決まっていました。
その4月末に訪れた京都でのことでした。
詩人は京都に5日間滞在。
その間、安原と共に奈良に遊び
カソリック教会のビリオン神父を訪ねたりしています。
 
京都滞在中の「遍歴」については
さらに詳しく安原は記します。
 
 
私達は初めいつも静かに2人して酒を飲むのであるが、彼の全身は恰(あたか)も微妙なアンテナの如く様々な声を感得して、私と語る彼の言葉はいつしか周囲の会話への放送と変るのである。その為め私はいつも彼の注意をそらさせないよう細心の配慮をするのであるが、その努力は殆ど徒労であった。
 
例えば一部の数奇者以外殆ど客とてもない南禅寺境内の湯豆腐屋であるとか、東山山中の人の知らない小店であるとか五条辺の袋小路の奥店など、私はつとめて静かな場所を選んで彼を導くのであるが、そこも結局は彼を長くは引留めることは出来ず、やがて又四条あたりの喧騒の中に腰を据えるのがおきまりであった。
 
そこでも私は座席の位置、衝立(ついたて)の在り方、光線の具合、彼と私との向き、周囲の客の種類や配置、私達の会話の内容等それとなくいろいろに心を配るのであるが、それもこれもすべて無駄である。私が気がついたときには既に彼の声は凡(あら)ゆる遮蔽物を乗り越えて遥か彼方に飛んでいるのである。私は又彼をかかえて次の場所を求めねばならなかった。
 
(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。「改行・行アキ」を加え、「洋数字」に変えてあります。編者。)
 
 
長い引用になりましたが
「中原中也の手紙」のイントロの部分で安原が書いている
「戦い」「遍歴と飲酒」「喧嘩・からみ」……は
このようなものです。
 
手元にある玉川大学出版部発行のものと講談社文芸文庫ともに
この部分に関して異同はありませんから
昭和15年に「文学草紙」に書き出されたものと同じということになります。
このイントロ部分は
詩人の死後3年ほどして書かれたということになります。
 
 
こうして5月の3日には彼は又東京に帰って行った。
――と、このイントロは結ばれて、
「中原中也の手紙」の第1便は
5月4日、東京・中高井戸発からはじまります。
 
 
その4
 
「白痴群」は
昭和4年4月に創刊号を出してから
6月に第2号
9月に第3号
11月に第4号
昭和5年1月に第5号
4月に第6号
――と一見順調な歩みを見せるのですが
この第6号で廃刊に追い込まれます。
 
大岡昇平や富永次郎との詩人の「喧嘩」が発端といわれる
有名な事件の結果でした。
 
 
安原は
「白痴群」第2号に「詩一篇」、
第4号に「暁」、
第5号に「午后四時」の3篇の詩を発表しています。
 
この詩について
 
7月に入って我々は早々に東京に引き上げ一夏を過ごした。8月私は雑誌に小さな詩を発表した。
中原と私との交遊が始まったのはこの詩を機縁としてである。
――と安原は「中原中也の手紙」のイントロ部で記しました。
「小さな詩」とは
この3篇の詩のうちのどれかです。
 
 
先ごろ神奈川近代文学館で行われていた企画展
「中原中也の手紙――安原喜弘へ」の公式パンフレット(中原中也記念館発行)には
安原が作った詩が1篇だけ紹介されています。
 
この詩が
「白痴群」第2号に載った「詩一篇」です。
 
 
詩一篇
 
なごみてあれや我が心、我も人技(ひとわざ)なすものなり
かつて
まこと持たぬ我心は
熱病んだ肉の身をそのままに
のたうち廻る痴れ心地
身のうちに、唯一つ
信ずるもののあるを忘れ
虚空を掴んだはかなさよ。
 
人皆目醒めの朝は、いで我も
手に触れるものを打ち振って
祈ろうではないか
そして又泥酔の一時に
若しも思出が蘇ったなら、嘗ての
血迷った無信を詫びようではないか
              ―1929、5、―
 
(「新かな」「洋数字」に変えました。編者。)
 
 
この「詩一篇」の「返歌」として
中原中也が作ったのが「詩友に」でした。
実際にはその逆だったのかもしれません。
 
「詩友に」は
はじめ「白痴群」創刊号に全4連のソネットとして発表されましたが(第1次形態)
第6号で「無題」とタイトルを変えられ、
5節構成に作り変えられた長詩の一部となりました。
 
「詩友に」は「無題」の第3節になったのです(第2次形態)。
「山羊の歌」でも、この第2次形態が維持されましたから
現在、発表詩篇の中に「詩友に」のタイトルを見つけることはできません。
 
 
「無題」は
「山羊の歌」の「みちこ」の章に収められ
「汚れっちまった悲しみに……」の次に配置されています。
その「無題」の第3節で「本文」を読むことができます。
 
ここでは
「無題」全文を読んでおきましょう。
 
 
無 題
 
   Ⅰ
 
こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまえと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまえのやさしさを思い出しながら
私は私のけがらわしさを歎(なげ)いている。そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂い廻(まわ)る。
人の気持ちをみようとするようなことはついになく、
こい人よ、おまえがやさしくしてくれるのに
私は頑(かたく)なで、子供のように我儘(わがまま)だった!
目が覚めて、宿酔(ふつかよい)の厭(いと)うべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配(けはい)を感じながら
私はおまえのやさしさを思い、また毒づいた人を思い出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みずか)ら信ずる!
 
   Ⅱ
 
彼女の心は真(ま)っ直(すぐ)い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲(く)んでも
もらえない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真っ直いそしてぐらつかない。
 
彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きている。
あまりにわいだめもない世の渦(うず)のために、
折(おり)に心が弱り、弱々しく躁(さわ)ぎはするが、
而(しか)もなお、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!
 
甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめていたかは!
しかしいまではもう諦めてしまってさえいる。
我利(がり)々々で、幼稚な、獣(けもの)や子供にしか、
彼女は出遇(であ)わなかった。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯(ただ)、人という人が、みんなやくざなんだと思っている。
そして少しはいじけている。彼女は可哀想(かわいそう)だ!
 
   Ⅲ
 
かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがえば
なが心、かたくなにしてあらしめな。
 
かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。
 
おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂い心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、
 
おのが心におのがじし湧(わ)きくるおもいもたずして、
人に勝(まさ)らん心のみいそがわしき
熱を病(や)む風景ばかりかなしきはなし。
 
   Ⅳ
 
私はおまえのことを思っているよ。
いとおしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸っているよ、
まるで自分を罪人ででもあるように感じて。
 
私はおまえを愛しているよ、精一杯だよ。
いろんなことが考えられもするが、考えられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽そうと思うよ。
 
またそうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
そうすることは、私に幸福なんだ。
 
幸福なんだ、世の煩(わずら)いのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまえに尽(つく)せるんだから幸福だ!
 
 
   Ⅴ 幸福
 
幸福は厩(うまや)の中にいる
藁(わら)の上に。
幸福は
和(なご)める心には一挙にして分る。
 
  頑(かたく)なの心は、不幸でいらいらして、
  せめてめまぐるしいものや
  数々のものに心を紛(まぎ)らす。
  そして益々(ますます)不幸だ。
 
幸福は、休んでいる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでいる。
 
  頑なの心は、理解に欠けて、
  なすべきをしらず、ただ利に走り、
  意気銷沈(いきしょうちん)して、怒りやすく、
  人に嫌われて、自(みずか)らも悲しい。
 
されば人よ、つねにまず従(したが)わんとせよ。
従いて、迎えられんとには非ず、
従うことのみ学びとなるべく、学びて
汝(なんじ)が品格を高め、そが働きの裕(ゆた)かとならんため!
 
 
「みちこ」の章には
「みちこ」という詩もそうですが
(泰子を歌った)恋愛詩ばかりではなく、
中也の詩で最もポピュラーといってよい「汚れっちまった悲しみに……」があり、
宗教性の漂う「更くる夜 内海誓一郎に」や「つみびとの歌 阿部六郎に」があり
この「無題」も配置されています。
 
 
「みちこ」や「泰子」を歌った恋愛詩にまぎれて
「無題」には安原との交感が隠された印象です。
こんなところに「無題」とタイトルされた詩が置かれている意味が
ぼんやりと見えてきて
驚かされるばかりです。
 
 
その5
 
中原中也が初めて詩集の発行を考えたのは
昭和2〜3年頃と推定されています。
 
京都で知り合った富永太郎が急逝して2年後の昭和2年に
家族らによって私家版「富永太郎詩集」が刊行されましたが
それに刺激を受けたことなどが
詩集発行計画のきっかけでした。
 
このときは原稿用紙への清書までで終わり
計画は実現されませんでした。
 
 
中也が所持していたこの清書原稿の「束」を
諸井三郎や関口隆克が目撃したという証言があります。
 
これらの証言を
現存している原稿の「用紙」の種類によって分類し
原稿(詩)の内容(制作日など)と照合・分析した結果
13篇が「第1詩集用清書原稿群」とされています。
 
この原稿群を列挙しますと
 
「夜寒の都会」
「春と恋人」
「屠殺所」
「冬の日」
「聖浄白眼」
「詩人の嘆き」
「処女詩集序」
「秋の夜」
「浮浪」
「深夜の思い」
「春」
「春の雨」
「夏の夜」
――の13篇です。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ解題篇)
 
ほとんどが「未発表詩篇」です。
「深夜の思い」が「白痴群」に
「春」が「生活者」に発表されているだけです。
(「深夜の思い」は「山羊の歌」に
「春」は「在りし日の歌」に収録されます。)
 
つまり「山羊の歌」には
計画だけに終わった「処女詩集」の内容は
ほとんど反映されていないということができますが
見方を変えれば、
「深夜の思い」を収録することによって「連続」し
また「在りし日の歌」に「春」を収録することによって
「処女詩集」の頃との「連続」を意図したということが見えてきます。
 
 
ここで「深夜の思い」と「春」を読んでおきましょう。
 
 
深夜の思い
 
これは泡立つカルシウムの
乾きゆく
急速な――頑(がん)ぜない女の児の泣声(なきごえ)だ、
鞄屋(かばんや)の女房の夕(ゆうべ)の鼻汁だ。
 
林の黄昏は
擦(かす)れた母親。
虫の飛交(とびか)う梢(こずえ)のあたり、
舐子(おしゃぶり)のお道化(どけ)た踊り。
 
波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は猫背を向(むこ)うに運ぶ。
森を控えた草地が
  坂になる!
 
黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄(よ)する
ヴェールを風に千々(ちぢ)にされながら。
彼女の肉(しし)は跳び込まねばならぬ、
厳(いか)しき神の父なる海に!
 
崖の上の彼女の上に
精霊が怪(あや)しげなる条(すじ)を描く。
彼女の思い出は悲しい書斎の取片附(とりかたづ)け
彼女は直(じ)きに死なねばならぬ。
 
 
 
春は土と草とに新しい汗をかかせる。
その汗を乾かそうと、雲雀(ひばり)は空に隲(あが)る。
瓦屋根(かわらやね)今朝不平がない、
長い校舎から合唱(がっしょう)は空にあがる。
 
ああ、しずかだしずかだ。
めぐり来た、これが今年の私の春だ。
むかし私の胸摶(う)った希望は今日を、
厳(いか)めしい紺青(こあお)となって空から私に降りかかる。
 
そして私は呆気(ほうけ)てしまう、バカになってしまう
――薮かげの、小川か銀か小波(さざなみ)か?
薮(やぶ)かげの小川か銀か小波か?
 
大きい猫が頸ふりむけてぶきっちょに
一つの鈴をころばしている、
一つの鈴を、ころばして見ている。
 
 
それにしても、
計画だけにとどまった「処女詩集」の詩篇が
「山羊の歌」にほとんど採用されず
それに引きかえ
「白痴群」に発表された詩篇は
すべてが「山羊の歌」に収録されたということになり
このことの意味は重大といえます。
 
 
その6
 
「深夜の思い」は「白痴群」第2号(昭和4年7月1日発行)に発表されたあと
「山羊の歌」の「初期詩篇」に収録されました。
 
幻の処女詩集にラインアップされた「深夜の思い」だけは
「山羊の歌」の「初期詩篇」に収録されたのですから
「山羊の歌」以前と「山羊の歌」を結ぶ
「かすがい」の役割があると読んでも無理はないことでしょう。
 
同様に
「春」には
「在りし日の歌」への「かすがい」の役割があると考えることができるでしょう。
 
ついでに「春の日の夕暮」には
京都時代のダダと「山羊の歌」を結ぶ
「かすがい」の役割があったということも思い出しておきましょう。
 
 
「深夜の思い」は
第1連、
 
これは泡立つカルシウムの
乾きゆく
急速な――頑(がん)ぜない女の児の泣声(なきごえ)だ、
鞄屋(かばんや)の女房の夕(ゆうべ)の鼻汁だ。
 
――にダダっぽさが残り
 
第2連や第3連
 
林の黄昏は
擦(かす)れた母親。
虫の飛交(とびか)う梢(こずえ)のあたり、
舐子(おしゃぶり)のお道化(どけ)た踊り。
 
波うつ毛の猟犬見えなく、
猟師は猫背を向(むこ)うに運ぶ。
森を控えた草地が
  坂になる!
 
――にランボーっぽさが現われ
 
第3連、第4連には
ゲーテの「ファウスト」に登場する女性「グレートヒェン」を「マルガレエテ」として呼び出して
泰子を歌っています。
 
 
彼女の肉(しし)は跳び込まねばならぬ、
厳(いか)しき神の父なる海に!
――とは、彼女=泰子が神の前に跪(ひざまず)き
懺悔(ざんげ)することを要求する意味の詩句です。
 
断罪を願ううらはらに
はげしく彼女を求めるアンビバレンツ(二重性)が
泰子との別離のその日に
彼女の引っ越しの荷物を片づけたことを思い出させるのです。
 
精霊が飛び交うのは
第1連の
舐子(おしゃぶり)のお道化(どけ)た踊りを
今、詩人は見ているのと同じ想像(幻覚)の世界にいるからです。
 
深夜の思いは
ラムネ・サイダー(カルシウム)のあわのように
生れてはすぐさま消え行く
はかなげではありますが
聞き分けのない女児の泣声のようでもあるし、
鞄屋の女房が夕方に鼻汁をすするような
しぶとさをも持っています。
 
振り払おうとしても
振り払おうとしても
こびりついて離れない思いなのです。
 
 
ダダっぽさや
ランボーっぽさが残るのは
この詩に限ることではないのですが
それが隠されようもなく残るのは
「初期詩篇」の未完成度ではあっても
優劣を示すものではありません。
 
中原中也は
それが詩になるのであれば
あらゆるところに目を光らせていました。
それは終生変わることがありませんでした。
 
鞄屋の女房も
ランボーの詩に現れる精霊も
はじめはありふれて手垢(てあか)のついた「なんでもない言葉」でしたが
詩人が格闘した末に「詩の言葉」になったのですし
この格闘の末に同じ「場」に存在しています。
同じ場所に詩と化してしまうのです。
変成してしまうのです。
 
 
「山羊の歌」のここ「初期詩篇」の中の
「黄昏」の次の位置に
泰子との別離を歌ったこの詩が配置されたこと自体が
大きな意味を持っていそうです。
 
「深夜の思い」は
「山羊の歌」では
泰子を最も早い時期に歌った詩かもしれないのですから。
 

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