静 寂
ひとくちメモ その1
飾画篇Les Illuminationsは
「イリュミナシオン」と訳されることもある
「ランボー後期」に属する(と考えられている)韻文詩篇のタイトルです。
「後期韻文詩」といわれているものとは異なり
ランボー自身が「イリュミナシオン」とネーミングした草稿があり
その中の幾つかが
ベルレーヌや他の人の手に渡った末、
編集者ギュスタブ・カーンが入手し
ヴォーグ誌に発表されるという経過をたどりました。
発表は1886年のことでした。
1872年から1875年にかけて制作されたものと推定されていますが
研究は諸説があり、断定できません。
一つの説を挙げれば――
レガメーのアルバムには数点のデッサンがつけ加わったが、伝記のためには第一級の資料である。
「無口な仲間」(ランボーのこと。編者)は、堂々たる山高帽をかぶって、椅子にかけて眠っているところが描かれている。
ヴェルレーヌはソクラテス風の頭の恰好で姿を見せているし、また、ぼろを着た二人が、ひとりのお巡りの軽蔑的なまなざしを浴びながら街を散歩している図もみえる。
彼らは、カルチエ・ラタン時代のもう一人の旧友、コミューン派の有名な人物であるユージェーヌ・ヴェルメルシュにも会ったが、この人物はちょうど結婚しようというところで、わびしいハウランド街の独身部屋を彼らに明け渡してくれた。ヴェルメルシュを通じて、彼らは、ジュール・アンドリュー、リサガレー、カミーユ・バレール、マチュズヴィック等の、非常に活動的だが、警察からは監視されているグループを形作っていた亡命者たちを識った。
二人の生活は、はじめのうちは楽しみがなくもなかった。フランス風カフェ、ハイド・パーク、地下鉄、場末町、テムズ河のドック、マダム・タッソーの蝋人形館、ナショナル・ギャラリー等、彼らはなんでも見、なんでも知ろうとした。夜は夜で、芝居とか、講演会とか、彼らが覗かない催し物はひとつもないほどだった。
ランボーは観察し、書きとめる。
たとえば、「水晶をはりつめた灰色の空のかずかず」とか、「メトロポリタン」とか、「喪に服した大海原の作りうるこのうえなく陰惨な煙霧でかたどられた空」とか、それに、当時ケンシントン地区で開かれていて、マラルメが1872年7月20日号の「イリュストラッション」誌で報告している万国博覧会に多分想を得た、「イリュミナション」中のあの驚くべき「街々」。
ヴェルレーヌのほうは、妻の思い出をもとに、もの憂い詩篇「言葉なき恋歌」を作っていた。妻の愚痴をこぼしながらも、失われた祖国を惜しむように惜しんでいるのである。
(筑摩叢書 マタラッソー、プティフィス、粟津則雄・渋沢孝輔訳「ランボーの生涯」より)
――というように、
1872年9月10日にベルレーヌの旧い友人、
画家フェリックス・レガメーを訪問した事実を通じて説明されます。
ランボーとベルレーヌのロンドン行の最中に
「イリュミナシオン」の中の幾つかの詩は書かれたというものです。
ベルレーヌの「言葉なき恋歌」もこの旅の中で書かれた、というわけですが
これが真実であるなら
「イリュミナシオン」の誕生を物語る
極めて分かりやすい構図(デッサン)ということになります。
◇
小林秀雄が自ら訳した「地獄の季節」の後記の中で――
「地獄の季節」が書かれたのは、ランボオ自身が、原稿に付記している通り、1873年の4月から8月まで(この間にピストル事件がある)の間であるが「飾画」の方は、書かれた時期がはっきりわかっておらず、大体1872年中の作と、研究家たちに推定されていた。
近年ラコストの研究、(Henry de Bouillane de Lacoste;Rimbaud et le Problème des Illumination,1949)によって、従来誤りとして、研究家らに顧みられなかったヴェルレーヌの証言の方が正しいとする説、つまり「飾画」は1873年―75年の作とする説が現れた。
――と書いたのは、
1957年9月の日付けのある岩波文庫版でのことですが
この考えを、1970年4月の改版でも、変えていません。
◇
中原中也は
小林秀雄が「Les Illuminations」を
「飾画篇」と翻訳したのに倣(なら)いました。
◇
中原中也訳の「静寂」Silenceは
第2次ベリション版「ランボオ詩集」「飾画篇」の冒頭詩篇で
もともとはタイトルのない作品でしたが
ペテルヌ・ベリションの独断で
「Silence」の題名がつけられました。
ひとくちメモ その2
中原中也訳の「静寂」Silenceは
「書物」昭和9年(1934年)1月号に初出しましたから
制作は昭和8年10から11月の間と推定されますが
これは第2次形態とされます。
昭和3年(1928年)制作と推定される草稿が残っているためで
こちらが第1次形態とされます。
「ランボオ詩集」に掲載されたものが
第3次形態になります。
(「新編中原中也全集 第3巻 翻訳・解題篇」より)
◇
第1次形態の草稿は
第4連の最終行と第5連だけが記された
不完全なものですが
この草稿こそ
大岡昇平の回想を裏づける資料の一つにもなっています。
大岡は昭和3年に
中原中也からフランス語を習ったことがあり
その時を回想して次のように記しています――
個人的な回想を記すなら、私は昭和三年、二か月ばかり中原からフランス語を習った。飲み代を家から引き出すための策略だが、「ランボー作品集」をテクストに、一週間の間に各自、一篇を訳して見せ合った。私の記憶では中原が「飾画」を、私が「初期詩篇」を受持った。彼は「眩惑」「涙」「などを、私は「谷間の睡眠者」「食器戸棚」「夕べの辞」「フォーヌの顔」「鳥」「盗まれた心」を訳し、二人で検討した。「盗まれた心」は中原が昭和5年1月「白痴群」第5号に訳載したヴェルレーヌ「ポーヴル・レリアン」の中に含まれている。
(大岡昇平「中原中也」所収「『中原中也全集』解説」より)
――と。
ここに現れる「眩惑」と「静寂」が
同種の原稿用紙に書かれてあることから
昭和3年の制作が推定される根拠になっています。
「静寂」は
中原中也が翻訳に取り組みはじめた
初期の頃の制作ということになります。
◇
大岡昇平は
この回想の前に――
昭和3年に私は中原と知り合ったわけだが、その頃から漠然とランボーの韻文詩を全訳しようという意図を持っていた。小林秀雄も「地獄の季節」「飾画」を訳す意図があり、一部ははじめられていた(「恥」「四行詩」などの訳載が残っている)。偽作「失われた毒薬」を小林は多分大正15年中に中原に渡している。
――と記していますから
長谷川泰子をめぐる中原中也と小林秀雄の
「奇怪な三角関係」が
ランボーの翻訳というシーンで
かたや(中原中也)、韻文へ
かたや(小林秀雄)、散文へと
分化していく前夜の様子が伝わってこようというものです。
この頃、小林秀雄は
ランボーの韻文詩の翻訳に
なんらためらいもなく取り組んでいました。
◇
上京してちょうど3年。
中原中也は大岡昇平を
小林秀雄の紹介で知り
やがて、飲み代を捻出するための
フランス語の勉強会を行う「仲間」になっていたのです。
大岡も
親から金をくすねたのでしょうか?
アルバイトをしていたわけでもなさそうなので
中原中也流の「錬金術」を教わったということでしょうか?
「静寂」を
このフランス語授業の中から生まれたことと知りながら読むと
ランボーは
また格別な味わいがしてきます。
◇
アカシヤの花が煙る樹下で
バラモン僧のように聴くのだ。
4月に、櫂(かい)は
鮮やかな緑よ!
大岡昇平が
「それは、違うなあ」と
文句を言うのが聞えてくるようですが
「おれの訳にケチをつけられてたまるか」と
中也は取り合いません。
◇
あれから7年。
歳時代かが流れ……
中原中也の決定稿は
「書物」に発表されました。
◇
ベルレーヌとの会話が
「イリュミナシオン」に反映されているのであれば
中原中也の訳には
ベルレーヌの匂いがしないでもありません。
いや!
ベルレーヌの影が添う
ランボーの詩を
中原中也は
抉(えぐ)り取るように
訳してみせます。
大岡昇平は
草葉の陰でこれを読み
微笑んでいますか――
脱帽していますか――
*
静寂
アカシヤのほとり、
波羅門僧の如く聴け。
四月に、櫂は
鮮緑よ!
きれいな靄の中にして
フヱベの方(かた)に! みるべしな
頭の貌(かたち)が動いてる
昔の聖者の頭のかたち……
明るい藁塚はた岬、
うつくし甍をとほざけて
媚薬(びやく)取り出しこころみし
このましきかな古代人(びと)……
さてもかの、
夜(よる)の吐き出す濃い霧は
祭でもなし
星でなし。
しかすがに彼等とどまる
――シシリーやアルマーニュ、
かの蒼ざめ愁(かな)しい霧の中(うち)、
粛として!
(講談社文芸文庫「中原中也全訳詩集」より)
※ルビは原作にあるもののみを( )の中に入れました。第2連第2行の「ヱ」は、原作では小文字です。編者。