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きらきら「初期詩篇」の世界/11「ためいき」

その1

「夕照」の最終行で
腕拱(く)みながら歩み去る。
――と歌った詩人が
くっきりと見ていたものこそ「詩」にほかなりませんが
見えていたとしても
それを「詩の言葉」にすることは
容易なことではありませんでした。

それはそれであると思ったそばから
それでなくなり
それでないと思ったそばから
それでなくなり
永遠の問いを含むような
それでいて
永遠の答えでもあるような
言葉との格闘がはじまっていました。

昭和4年7月1日発行の「白痴群」第2号に発表された「旧稿五篇」は
どの詩も「詩についての詩」という側面をもっています。

「或る秋の日」(「山羊の歌」では「秋の一日」)
「深夜の思い」
「ためいき」
「凄じき黄昏」
「夕照」
――がその5篇です。
この5篇はすべてが「初期詩篇」へ配置されました。

「白痴群」から「初期詩篇」へ配置されたのは
このほかに「冬の雨の夜」(第5号発表)があるだけです。

中でも「ためいき」は
真正面から歌われた「詩についての詩」です。

ためいき
       河上徹太郎に 
 
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しょうき)の中で瞬(まばた)きをするであろう。
その瞬きは怨めしそうにながれながら、パチンと音をたてるだろう。
木々が若い学者仲間の、頸(くび)すじのようであるだろう。

夜が明けたら地平線に、窓が開くだろう。
荷車(にぐるま)を挽(ひ)いた百姓が、町の方へ行くだろう。
ためいきはなお深くして、
丘に響きあたる荷車の音のようであるだろう。

野原に突出(つきで)た山(やま)ノ端(は)の松が、私を看守(みまも)っているだろう。
それはあっさりしてても笑わない、叔父(おじ)さんのようであるだろう。
神様が気層(きそう)の底の、魚を捕っているようだ。

空が曇ったら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土(すなつち)の中に覗(のぞ)くだろう。
遠くに町が、石灰(せっかい)みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光っている。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

「ためいき」は
河上徹太郎への献呈詩です。

上京後まもなく小林秀雄を介して知りあった二人は
「白痴群」を牽引(けんいん)する両輪となりますが
よく詩論を戦わしました。

その交流から生れたのが「ためいき」で
「山羊の歌」中の献呈詩で河上が最初に登場するのは
上京後の中也の最も早い時期の理解者(の一人)であったからでした。

その2

昭和2年春、中也は小林秀雄の紹介で
河上徹太郎を知ります。

河上との交友が濃密に行われる中で
「スルヤ」の諸井三郎を知り
「スルヤ」メンバーの内海誓一郎を知り
今日出海を知り
関口隆克を知り
大岡昇平を知り
安原喜弘を知り
……と交友範囲を広げていきます。

河上を知った直後には
マグデブルグの半球を歌った「地極の天使」を送り
あわせて詩論を添えました。
ふだん盛んに戦わせていた表現論を
整理し河上に提示したものですが
これらの交流はやがて「白痴群」創刊(昭和4年4月)へと繋がっていきました。

「ためいき」ははじめ「白痴群」第2号に発表され
河上徹太郎への献呈詩とされたのは
昭和7年の「山羊の歌」編集時で
河上との距離は広がっていましたから
いわばメモリアルの意味もあったのでしょうか。

詩人が誕生し
詩集が生み落とされるために
河上徹太郎は出会わなければならなかった運命の一つでした。

ためいきが夜の沼へ行き
瞬きし
パチンと音をたてる

瞬きするのは瘴気の中でのことで
パチンと音をたてるときには、怨めしげであり
――という立ち上がりの3行までは
なんとかついていけますが

なぜ木々が現れ
若い学者仲間が現われるのでしょうか?
なぜそれが、頸(くび)すじのようであるのでしょうか?

「献呈」は
これが男女の間であれば
ラブレターのようなものですから
他人(読者)が入り込む余地のない個的な経験が歌われることがあって
理解を超える部分を持つものです。

「学者仲間」が現われるのは
河上という人物の固有なキャラクター(属性)からで
詩人にとって
河上は学者といえるほどに
古今東西の教養に長けたインテリでした。

周辺の学生らも
一様に繊細(せんさい)で
品のよい首筋をしていたという観察が
「ためいき」の第1連に顔を出しました。

詩の中へすんなりと入って行くためには
「夜の沼」や「瘴気」や「怨めしげ」などの暗喩を読みながら
この「学者仲間」という1点を突破しないことには
前へ進めません。

 

その3

おそらく「木々」は「学者仲間」の「頸すじ」の直喩でしょう。

それ以外はほとんどが暗喩であるのに
ここに詩の入り口を開けておかないことには
詩を読めなくなってしまいます。

では、
ためいきが夜の沼に行く
ためいきが瞬きする(瘴気の中で)
その瞬きがパチンと音をたてる(怨めしげにながれながら)
――にはどのような含意が込められているのでしょうか。

それは、詩の全体から
割り出していくほかにありません。

「ためいき」の一語さえ
「あーあ」という嘆息なのか
単なる「息」なのか
吐息(呼吸)なのか
わかりません。

それが「詩」のメタファーであることも
いまだ断定できないことです。

詩は繰り返し読まれなければ
理解することも
味わうこともできません。

ためいきが一つ出た
そのためいきが夜の沼へ行った
――は、白い息が煙草の煙か何かのように目に見えて
それが近くの沼のほうに行った、という身体現象を歌っているものではないことが
まずは見えてきますね。

木々が若い学者仲間の首すじのようであるだろう
――という行を合わせると
第1連はどうやら、
日中取り交わした談論への
反論であるとか言い残した思いとかを
その時の情景を含みながら
述べているのかなあと
ほんのり見えてくるものがありますが……。

この詩は最終行とその前の1行を除いて
全行が「だろう」で終わっています。

よく読めば
最終行以外は
「ようであるだろう」や
「そうに」「ようだ」「みたいだ」と
断定を避けた表現ばかりです。

そのことによって
「私はこう思う」という詩人の思いを
逆に訴えているともいえますが
推量の(断言しない)詩行が引き出すのは
最終行の断言です。

ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光っている。
――は、この詩の結(論)といえるでしょう。

 

その4

「ためいき」を時間の推移ということだけで読むと

夜が明けたら
空が曇ったら
――という三つの時間が設定されています。

詩(人)の視点(の移動)ということなら
夜の沼
(地平線が開ける)窓
町(百姓の荷車が向かう)
(山の端に突き出た松が「私」を見守る)野原(気層の底のよう)
砂土
町(遠くの)
雲の中
――という構図になり、
詩(人)の視点は定位置にあるようです。

視線が移動したとしても
定位置を基点とした
遠近法の世界が維持されています。

夜の沼へ行ったためいきは瞬きして
パチンと音を立てるのですが
夜が明けてさらに深まり
今度は荷車の音になって
丘に響きあたるのです。

夜の沼で瞬きしてパチンとはぜたためいきは
百姓の挽く荷車の音になるという連続!

ためいき
       河上徹太郎に 
 
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しょうき)の中で瞬(まばた)きをするであろう。
その瞬きは怨めしそうにながれながら、パチンと音をたてるだろう。
木々が若い学者仲間の、頸(くび)すじのようであるだろう。

夜が明けたら地平線に、窓が開くだろう。
荷車(にぐるま)を挽(ひ)いた百姓が、町の方へ行くだろう。
ためいきはなお深くして、
丘に響きあたる荷車の音のようであるだろう。

野原に突出(つきで)た山(やま)ノ端(は)の松が、私を看守(みまも)っているだろう。
それはあっさりしてても笑わない、叔父(おじ)さんのようであるだろう。
神様が気層(きそう)の底の、魚を捕っているようだ。

空が曇ったら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土(すなつち)の中に覗(のぞ)くだろう。
遠くに町が、石灰(せっかい)みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光っている。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

ためいきの深さが音として説明されますが
荷車をひくのは百姓ですから
百姓がためいきを吐いている関係になります。

荷車の音となると
ガタゴトとかギシギシとか……
さまざまでしょうが
丘に響くというのですから
とてつもなく巨大な反響音なのでしょう。

そのような音を聞いている百姓ですから
非常な苦難の道を歩んでいるということなのでしょうか
第3連ではいつしか「私」に変じて現われます。

巨大な音と化したためいきに圧し潰されないように
百姓である「私」は、
「野原に突出た山ノ端の松」に見守られることになります。

それ(松)は、
「あっさりしてても笑わない、叔父さん」のようです。

こうして、第3連の第1行と2行を受けるように
神様が気層の底の、魚を捕っているようだ
――と謎のような詩行が置かれるのですが……。

 

その5

「空が曇ったら」という第4連への推移は
神様が気層の底の魚を獲っている(第3連)という喩(ゆ)を継ぐもので
魚はイナゴに変化します。

イナゴの瞳が砂土から覗くというのは
依然、荷車の音として聞えているためいきに威圧されて
イナゴが逃避する姿を表わすかのようです。

このような時にあって
遠くの町は石灰みたいに白く煙って見えます。

町(石灰)はみるみるうちに
ピョートル大帝の目玉の形になり
雲の中で光り輝いています。

イナゴの瞳とはまるで異なる強い目玉が
そこに屹立(きつりつ)しているのです。

ためいき
       河上徹太郎に 
 
ためいきは夜の沼にゆき、
瘴気(しょうき)の中で瞬(まばた)きをするであろう。
その瞬きは怨めしそうにながれながら、パチンと音をたてるだろう。
木々が若い学者仲間の、頸(くび)すじのようであるだろう。

夜が明けたら地平線に、窓が開くだろう。
荷車(にぐるま)を挽(ひ)いた百姓が、町の方へ行くだろう。
ためいきはなお深くして、
丘に響きあたる荷車の音のようであるだろう。

野原に突出(つきで)た山(やま)ノ端(は)の松が、私を看守(みまも)っているだろう。
それはあっさりしてても笑わない、叔父(おじ)さんのようであるだろう。
神様が気層(きそう)の底の、魚を捕っているようだ。

空が曇ったら、蝗螽(いなご)の瞳が、砂土(すなつち)の中に覗(のぞ)くだろう。
遠くに町が、石灰(せっかい)みたいだ。
ピョートル大帝の目玉が、雲の中で光っている。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。「新かな」に変え、一部「ルビ」を加えました。編者。)

ためいきは
いつしかピョートル大帝の目玉となりました。

町へ町へ。

「ためいき」は
連続する時間を歌っています。

一途に前進する詩世界が開かれています。

 

この詩「ためいき」について
贈られた河上徹太郎は
チェホフあたりの風物を日本の風景に翻訳して得たものに違いない
――と自著「中原中也」の中で述べていますが
具体的な出所は見つかっていません。
(「新全集・詩Ⅰ 解題篇」)

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