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戦中世代が読んだ中原中也・北川透の場合

その1

平井啓之(1921~1992)
大岡信(1931~)
中村稔(1927~)
黒田三郎(1919~1980)
――と、戦中派の中原中也との出会い方を見てきました。

これらの詩人や学者は
中原中也が生きていた時代に生まれてはいたものの
実際に面識のあった「同時代者」ではなく
詩作品を通じて出会った人々です。
中原中也の詩を読んで
肯定的な評言を残した人々です。

生年が中原中也から最も遅い大岡信よりも
さらに遅い詩人・批評家の北川透(1935~)の出会いの記述を読んでおきましょう。
北川透は満州事変(1931年)が起きた年に幼年ですから
戦後派といったほうが近い世代ですが
戦後生まれでもなく、「戦無派」とも異なる世代のため
ここでは「戦中世代」としておきます。

北川透が「中原中也の世界」(紀伊國屋新書)を著したのは
1968年のことですが
その「あとがき」に中原中也との出会いは書かれています。

ぼくが、中原中也の詩を、初めて自覚的に読んだのは、新制高校2年生(17歳)の時だったように思う。当時、筑摩書房から刊行された<近代日本名詩選>の1冊『山羊の歌・在りし日の歌』を、同じシリーズの1冊として出された立原道造の『萱草に寄す・暁と夕の詩』と一緒に買い求めたのだった。

そもそもそれがぼくにとって詩集なるものを買う最初の行為だったのだが、なぜこれらの詩集を買ったのか理由は見出せない。その当時、友人の影響で、詩の世界に関心をもち始めていたぼくは、端的にいって模倣の対象を求めたに過ぎないのだろう。それにもかかわらず、2冊の詩集のうち、立原道造の世界にはどうしてもなじめず、その代り、中原中也の世界に耽溺する日々をもつことになったのだった。

耽溺といっても、やたらにノートや教科書の片隅に書きうつしたり、好きな詩篇を暗誦し、また中原調の詩をつくるというだけのことであるが。そして当時、十数編の比較的短い詩を暗誦できるまでにはなっていただろう。

ここまで読めば
これも割合よくあるケースの一つといえるのかもしれません。
立原道造と中原中也を仮に並べて読んだとすれば
詩というものは立原道造のような詩をいうのだ、と考えるか
中原中也の詩のほうがコンテンポラリーでよい、などと考えるかで分かれる典型で
北川透は中原中也を取ったということになるでしょう。
このようなケースで
立原道造の詩に耽溺していく人もあることでしょう。

北川透は続けます。

中原中也の実生活の不幸について知ったのは、それから1年以上過ぎて、少々中原にも飽きかけ、また、やっと大学進学の方針も立って、町の図書館(碧南市立図書館)へ受験参考書を借りに行き、本棚の隅に、『中原中也の手紙』(安原喜弘)を見つけた時だった。

(つづく)

「中原中也の世界」は
「Ⅰ 序説――地下生活者の詩」で
中原中也が死んだ年である1937年の4月の日記の
ドストエフスキーの「地下生活者の手記」に関しての記録に言及することから
説き起こされる批評です。
その冒頭で北川透が取り上げている
「つみびとの歌」を掲出しておきます。

 *

 つみびとの歌
     阿部六郎に

わが生は、下手な植木師らに
あまりに夙(はや)く、手を入れられた悲しさよ!
由来わが血の大方は
頭にのぼり、煮え返り、滾(たぎ)り泡だつ。
おちつきがなく、あせり心地に、
つねに外界に索(もと)めんとする。
その行ひは愚かで、
その考へは分ち難い。
かくてこのあはれなる木は、
粗硬な樹皮を、空と風とに、
心はたえず、追惜のおもひに沈み、
懶懦(らんだ)にして、とぎれとぎれの仕草をもち、
人にむかつては心弱く、諂(へつら)ひがちに、かくて
われにもない、愚事のかぎりを仕出来(しでか)してしまふ。

※「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。

その2

一度、耽溺したものの
しばらくして飽きがきて遠ざかっていたところに
「中原中也の手紙」(安原喜弘)を見つけて再び注目するようになった
――という経緯の後に
北川透は中原中也と本格的に出会うことになりますが、
次のように続けます。

それを読み終わった時の、何ともいえない感動は今も思い起こすことができる。詩人の宿命的な不幸におびやかされるよりも、それを暗い輝きとしてむしろ、魅惑されたというのが正直な感想である。こうして、ぼくにとって、詩入門の役割を中原中也は果たしてくれたわけだ。

ここの部分、少し解釈しづらい文章です。

「それを暗い輝きとしてむしろ、魅惑された」の意味は、
安原喜弘の「中原中也の手紙」が「暗い輝き」のようなものを描いてあり
そのことが「宿命的な不幸におびやかされる」詩人の姿にまさって
中原中也を新しい角度から照らし出していたので「魅惑された」
――と受け取ればよいでしょうか。

簡単に言えば
中原中也の「暗い輝き」に魅せられた、ということです。

北川は続けます。

その後の、中原中也とのつきあいは、ここで詳述する必要もないであろう。ともかく、詩とまったく対極の反詩の激動のなかに身をあずけ、中原中也は無縁となり、そして暗誦していた詩篇は跡形もなく記憶のなかから消え失せたのである。

安原喜弘の「中原中也の手紙」は
昭和25年(1950年)に書肆ユリイカから出版されました。
大岡昇平が「中原中也伝――揺籃」を発表したのは
昭和24年(1949年)の「文芸」8月号でした。

こうして何年かたち、
「この書は、いわゆる評伝でもなく研究書でもない。ただひたすら、中原中也の世界を、詩の言語を通じて解き明かしたい欲求があったのみである。」と位置づけた「中原中也の世界」が発表されたのは
昭和43年(1968年)のことでした。

 

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