「むなしさ」からはじまった「在りし日の歌」<3>「むなしさ」「朝の歌」「臨終」
1926年は
大正15年であり昭和元年である
ということは
いうまでもないことですが
大正に1年と昭和に1年、
合計2年あるということではなく
ほとんどが大正15年で
わずか7日が昭和元年なのでした。
(つまり、この国には、「昭和元年の歴史」は7日しかなく、したがって、昭和元年には有名な歴史的大事件もほとんどゼロということだったのですね! こんなことを、初めて知りました。ちなみに、平成の場合は、年始から1月7日までの7日間が昭和64年、翌1月8日以降の358日間が平成元年ということになります。)
1926年と1927年と
この2年間を考えるとき
大正15年、昭和元年、昭和2年を
混乱しないで換算しなければならないのですが
角川全集の年譜は
1926年の1年間を
2月「むなしさ」を書く。
5―8月にかけて「朝の歌」を書く。
この年、「臨終」を書く
と、3作品をクローズアップして
記述しているほかは
4月、日本大学予科文科に入学。
9月、家に無断で日大を退学。その後、アテネ・フランセに通う。
11月「夭折した富永太郎」を「山繭」に発表。
と、わずか計6行を費やすだけです。
旧全集編集時に作られた年譜が
更新されないまま
新全集に踏襲されているだけのことでしょうが
この簡単な年譜ゆえに
「むなしさ」「朝の歌」「臨終」
3作品の占める重要さが見えて
逆に分かりやすさを生んでいます。
「山繭」への寄稿は
やがて
翌1927年発行の私家版「富永太郎詩集」へつながり
詩人はこの詩集に強い刺激を受けて
自身の処女詩集刊行を計画するきっかけとしますから
このあたりも分かりやすく
日大、アテネ・フランセへの通学も分かりやすく
詩作が
「むなしさ」「朝の歌」「臨終」で代表されるなら
この年、1926年の活動は
極めてわかりやすいイメージになります。
その上
この3作品の2作は
いわゆる「横浜もの」です。
横浜を舞台にした詩群の中の
2作品ということになり
この点でも分かりやすく
自然に
「横浜もの」へと
関心が誘導されていく流れになります。
「横浜もの」といわれている詩は
「山羊の歌」の中の
「臨終」
「秋の一日」
「港市の秋」
「在りし日の歌」の中の
「むなしさ」
「未発表詩篇」の中の
「かの女」
「春と恋人」
この6作品などがあげられます。
*
むなしさ
臘祭(らふさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
心臓はも 条網に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなち)も露(あら)は
よすがなき われは戯女(たはれめ)
せつなきに 泣きも得せずて
この日頃 闇を孕(はら)めり
遐(とほ)き空 線条に鳴る
海峡岸 冬の暁風
白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(くわべん)
凍(い)てつきて 心もあらず
明けき日の 乙女の集(つど)ひ
それらみな ふるのわが友
偏菱形(へんりようけい)=聚接面(しゆうせつめん)そも
胡弓(こきゆう)の音 つづきてきこゆ
(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)
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