「一筆啓上、安原喜弘様」昭和7年2月15日
その1
昭和7年(1932年)2月5日に安原喜弘に宛てた速達の葉書から
一つおいて「83 2月15日・安原義弘宛 封書」は
毎日飲めています。幸福です。
――とはじまる、ほがらかな書き出しです。
前年末の「ひきこもり」状態を脱した感じがあります。
「お年玉」でも入ったのでしょうか。
阿部は今九州に行っています。帰り次第会って就職のこと頼んでみましょう。
ヴィロンの翻訳はじめました。今月中にPetit Testment だけ、ブローカーに渡します。
――と続き、これでお仕舞のメモのようなものですが
これは正規の便箋に書かれたものではなく
東京外語学校の志願者心得書の余白に書かれたことが安原によって明きらかにされています。
◇
3月に京都帝大を卒業する安原の就職活動を
詩人がなんらかのアドバイスをする中で
東京外語への入学を薦めたものです。
この一つ前の「「82」も「86」も
安原の就職に関するもので
阿部は、阿部六郎のこと。
成城高校のドイツ語教師の職にあり
安原の恩師でした。
「白痴群」の同人でもあり
詩人が渋谷・神山に住んでいた頃
近くに阿部や村井康男らの共同下宿がありましたから
詩人はそこへ頻繁に出入りしていましたし
その時以来の親友の一人でした。
その阿部に「口利き」を頼もうと詩人は骨を折ります。
◇
その2
昭和7年(1932年)の正月には帰省しなかったのでしょうか
安原喜弘に宛てたこの年初めての手紙は
「79 1月12日 安原喜弘宛 葉書(速達)」で、消印は千駄ヶ谷新田です。
年末に引っ越したばかりですからですから
色々と慌(あわ)ただしく
3月に帰省する計画があるために
正月の帰省は見合わせたのでしょうか。
◇
1月12日のこの葉書は、
如何なされ候や
お渡しするもの有之 小生待侘候間何卒御来駕願候
怱々
――とわずか4行の
今で言えば「どうしたの? 渡すものあるから、待っているよ じゃあね」くらいの
走り書きみたいなもので
それを「候文(そうろうぶん)」で強調したようなものです。
(※有之は「これあり」、待侘候間は「まちわびそうろうあいだ」と読むように全集編集委員がルビを加えています。)
「如何なされ候や」には
どうしたの?と相手の機嫌をうかがう元気な感じがあります。
◇
この元気な感じは、次の「80 2月2日 葉書」の
どうしていますか 僕は元気です
論文返された話聞きました
毎日誰か知らと飲んでいますが、自愛からあまり遠くまで行かないですまされています
少し正気づいて来ました 夢にはカデンツがついて来ました
――という前半部につながっています。
そして、前々回読んだ「81 2月5日速達葉書」につながります。
渋谷・千駄ヶ谷新田から朝投函して
夕方には目黒の安原に届けるという「芸当」をこなす元気さは
内容の「辰野さんのところへ高森と行く、君も行かないか」という元気さにも通じています。
詩人は、年が明けて本当に元気になったのです。
◇
この元気さは、
「83 2月15日・安原義弘宛 封書」で
毎日飲めています。幸福です。
――と「幸福」になり
阿部は今九州に行っています。帰り次第会って就職のこと頼んでみましょう。
ヴィロンの翻訳はじめました。今月中にPetit Testment だけ、ブローカーに渡します。
――と、万事にわたって活発な詩人の復活となるのです。
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