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戦中派が読んだ中原中也・平井啓之の場合

その1

昭和27年に、人文書院から出た「ランボオ全集」3冊本は、
東大仏文科の教授・鈴木信太郎が監修したもので
第1巻を「詩集」
第2巻を「飾画・雑纂・文学書簡・補遺文献・年譜Ⅰ」
第3巻を「地獄の季節・補遺文献・放浪書簡・年譜Ⅱ」
――などとする内容でした。

第1巻「詩集」の翻訳者には、
村上菊一郎
中原中也
小林秀雄
鈴木信太郎
平井啓之
佐藤朔
――の名前があり、
合計63篇の韻文(詩)が訳されているうちの
11篇が中原中也のものです。

ちなみに、この11篇を列挙しておきますと、

感覚
シーザーの激怒
冬の思ひ
いたづら好きな女
わが放浪
星は汝が耳の核心に薔薇色に涕き
五月の軍旗
最も高い塔の歌
永遠
飢餓の祭
季節が流れる、城塞が見える

――です。

翻訳者の一人、平井啓之(1921~1992)は
三高(京都大学の前身)から東京帝大フランス文学科に進み、
在学中の1943年に学徒出陣、
戦後に復員して、新制なった東大を卒業して仏文科助手となり
講師、助教授、教授と学究の道を歩みました。
1969年の東大紛争で辞職、サルトル研究で著名ですが
1994年版「ランボー全集」(青土社)を中地義和、湯浅博雄とともに翻訳、
わだつみ会の活動には発足当初から関わり
後には常任理事を務めたことでも知られています。

この人が、「わが中也論序説」という著作の中で
中原中也との出会いについて記しているのは
「中原中也が訳したランボー」のその後をたどる上で
きわめて重要な位置にあります。

「わが中也論序説」は「ユリイカ」の1974年9月号に初出しましたから
書かれたのは、「最近」のことになりますが
戦中派が中原中也をどのような状況下で読んだかを知る
数少ない例ということになります。

「わが中也論序説」は
1988年12月に発行された
「テキストと実存―ランボー、マラルメ、サルトル、中原と小林」(青土社)の中の
「Ⅳ 中原中也(1907―1937)と小林秀雄(1902―1983)」に収録されています。
ここから、一部を紹介しておきます。

◇ .

1「朝の歌」

角川版の中原中也全集の書誌によれば、『現代詩集』(河出書房)の第1巻が出たのは、昭和14年12月、私が旧制三高に入る前年末のことであった。全3巻から成るこの詞華集は、背は白く、濃いこげ茶色の厚表紙の隅を三角に白くした瀟洒な本で、それまで泣菫、有明、春夫などの明治、大正の詩人たちにもっぱら岩波文庫でしたしんできた私を、一挙に‘現代詩’の世界に連れこんだ。各巻に当時の‘現代詩人’5名ずつの主要作を収めたこの詞華集は、いま思い返してみてもなかなかよくできていて、なるほど‘現代詩’とはこういうものかと納得させられたような気がしたことをおぼえている。

所収の15名の詩人たちのほとんどが私にとってはあたらしく知る名前であり、中原中也ももちろんその未知の一人であった。しかしこの詞華集全体を通じて、私の選択はきわめてはっきりしていて、中也はのっけから、私にとって特別の詩人になってしまった。三好達治も、草野心平も、丸山薫も、北川冬彦も、その他の詩人たちも、それぞ
れにあたらしい詩境の提示であったが、結局それらは、いわば私の知的好奇心を触発する、というような印象しか残さず、歳月の波に洗われると、急速に記憶から去ってゆき、今日、私は、中也の諸詩篇以外には、神保光太郎の「よと」を思い出すばかりである。(略)

同じ書誌によれば、このとき『現代詩集1』に収められた中也の詩は、神保光太郎選による合計29篇で、総題を『帰郷』とし、冒頭に「羊の歌Ⅰ(祈り)」を置き、『山羊の歌』から19篇、『在りし日の歌』から10篇をえらんだものであった。分量的に制約があったとはいえ、『山羊の歌』の比重の大きいこの構成には、編者もまた詩人であった神保の個性をはっきり反映していたはずである。

私がその後、『山羊の歌』および『在りし日の歌』の全貌を知ることを得たのは、昭和22年秋ごろ、大岡昇平編の創元選書『中原中也詩集』の発刊をまってのことであった。それで、その間に敗戦をふくむ20歳前後の数年にわたって、私にとっての中原中也のイメージとは、神保光太郎選による29篇によって形づくられていた、ということになる。
(※改行を加え、洋数字に変えました。傍点は‘ ’で表示しました。編者。)

平井啓之は
詩人・神保光太郎が編集した「現代詩集」で
初めて現代詩を知った昭和初期の
若者たちの中の一人でした。

その2

私の前後の世代、つまり戦中派世代に属する中也愛好者の多くにとっても、事情は同じであったと思われる

――と、サルトル研究で名高い学者・平井啓之(ひらいひろゆき)は続けます。
「事情は同じ」というのは、
戦中派はみな神保光太郎選の「現代詩集」で現代詩を知った、ということを指します。

三高で私の2年後輩であった花木正和は、その『中原中也論考』のなかで、彼が「中原中也として軍服を着たつもりであった」と形容する私たちの共通の友人宮野尾文平(※)に、『山羊の歌』の詩篇を見せた思い出を記している。

昭和19年のある朝、当時航空通信学校で訓練中の宮野尾がひょっこり京都の下宿に花木を訪ね、花木は誰かから借りて筆写していた『山羊の歌』を宮野尾に見せるのであるが、やがて半年後、沖縄雷撃隊の一員として爆死する宮野尾は、「それらの詩篇を、オアシスにめぐりあった旅人のように目をかがやかせてむさぼり読んだ」。

この挿話は、戦中派の世代、殊に私や宮野尾のような学徒出陣組にとって、中原中也の詩がもっていた痛切な意味をあざやかに物語っている。宮野尾は三高で花木と同期で、私とは文芸部の仲間であり、昭和17年9月、繰上げ卒業で私が去ったあとを受けて、文芸部のキャップとなった。

当時は今日とはちがって、戦時下のひっぱくした状勢下に同人雑誌やクラス雑誌を出すことはまったく不可能で、年3回発行される校友会雑誌『嶽水』の文芸欄が、文学好きの青年たちのただ一つの発表機関であった。それであの戦時下にあっても、文学的な表現意欲をもつ少数の学生たちは、ほとんど文芸部の周辺に集っていたと言えるだろう。中也の詩と梶井基次郎の散文、それに、小林秀雄訳を通じてのランボー、および米川訳のドストイェフスキー、を加えれば、当時の私たち、つまり三高文芸部の青年たちが醸していた文学的気圏の構成要素はほぼつくされるだろう。
(青土社「テキストと実存」所収「わが中也論序説」より)

平井啓之は、ここで(※)後注を付して
宮野尾文平について紹介する中で
この「わが中也論序説」の「3」を
「中原中也を継ぐもの」として書き継ぐ意志のあったことを記述し、
書物の構成上から断念したことを明らかにしています。

「わが中也論序説」が書かれたのは1974年のことですから
宮野尾文平の作品や人物に関する言及は
狭い範囲でしか知られていませんでしたが、
インターネットが普及した今、
検索すれば作品「星一つ」を読むことができます。

三高校友会の雑誌「嶽水」第7号(1943年2月)に載った
「遠日」というタイトルの詩を
参考までに読んでおきましょう。

遠日

――前だけを見てゐたんです

色彩は風に吹かれてみんな捨てた
無色の風景に
電信柱が一本立つてゐる
あの頃は
まだ廃家(くずれや)も美しかつた

あれから毎日歩いて来た
――随分と遠い道
蒼空がまるい
向日葵がまはる
  約束はもう駄目になつた
肩に重たい同じ言葉が
――遠い道なんだきつと

今ははや
廃屋の柱も傾き
いつか
おぼつかない足もとになつた
けふ日も過ぎれば
石廊はうつろに響く
  ほろほろと
  ろんろんと

階段をもう下りてしまつた――

その3

当時、中原中也の詩(それは前にも触れたように、厳密に神保光太郎選の29篇に限定された中也である)が、私たちに対してもった意味を伝えるのに恰好の事実を今思いだす。

――と書いて、平井啓之は続けます。
「神保光太郎選の29篇」とは
昭和14年12月刊の「現代詩集」(河出書房)第1巻所収の
中原中也の詩のことです。

私の繰上げ卒業も程近かった或る日、文芸部の部屋で、数人の仲間が、自分の好きな詩を数篇書き出して、投票をしたことがある。その場には、宮野尾、私、京都の人文研の多田道太郎、石上相(彼もまた、輸送船で南方へ送られる途中、南支那海に沈んだ)、それに、今法政大学の先生をしている吉川経夫らもいたように思う。

「朝の歌」「汚れつちまつた悲しみに……」「寒い夜の自我像」など、中也の傑作とみられる作品は、もちろんそれぞれに票を得たが、満票でのこったのは、「春と赤ン坊」であった。3行詩節4聯から成るこの小詩は、中村稔によれば、放送用原稿として書かれたものであり、決して悪い作品ではないが、「朝の歌」その他の秀作を差しおいて、私たちの一致した愛着をかち得たことは、考えてみればやや奇異である。だがこのことは、当時の私たちが置かれていた息苦しい状況を思えば納得のいくことであった。

同じ年の4月半ばには米機の東京初空襲があり、6月初めにはミッドウエー海戦があった。伝えられるニュースはもちろん捷報ばかりであったが、事実はすでに日米の戦いの明暗を分けるような決定的な出来事が生じていたのである。それに私たちはいずれも、やがては確実に兵士として戦場に立つ身であった。肌身で感じているこの息苦しさのなかで、私たちはいずれも、真実に息のつける人間的なやすらぎを、ほとんど本能的に希求していた。

「春と赤ン坊」を私たちがあれほど憧愛したことの意味は、この戦時下の青年たちの心の状況を考えることなしには、解ってもらえないだろう。「春と赤ン坊」の、菜の花畑に眠る無心の赤ん坊のイメージは、幸福な幼年期への限りない郷愁のような思いをそそる。しかし普通、私たちは、苛烈な生存競争に耐えて大人になるための努力のなかに、そうした幼児期への郷愁をふりすててすすむ。しかし近い将来のなかに、死をのぞみ見ることを避け得なかった当時の私たちに対して、幸福の幻影は、ただ幼年期という形でだけ、その束の間の瞥見をゆるした。

『山羊の歌』に比重の秤のかたむいた『現代詩集』29篇の中也の詩篇は、こうした当時の私たちの内面からの要求に、この上なく応ずる一つの世界を形づくっていた。
(以下略)

3回に分けて引用しましたが、
この量で、「わが中也論序説」(B5版)の32ページほどの論考で、
引用したのは冒頭の約4ページですから
「序説の序」の部分ということになります。

「現代詩集」第1巻は
高村光太郎、草野心平、中原中也、蔵原伸二郎、神保光太郎の
5人の詩人のアンソロジー(詞華集)です。

中原中也の作品は
「帰郷」のタイトルが選者の神保光太郎によってつけられ
以下の29篇が収録されています。

祈り
サーカス
朝の歌
臨終
黄昏
冬の雨の夜
帰郷
悲しき朝
港市の秋
秋の夜空
少年時
妹よ
寒い夜の自我像
心象I
心象II
汚れつちまつた悲しみに……
無題

みちこ

六月の雨
冬の日の記憶
冷たい夜
春と赤ン坊
曇天
一つのメルヘン
幻影
蛙声
月夜の浜辺



ちなみに
第2巻は、丸山薫、立原道造、田中冬二、伊東静雄、宮沢賢治、
第3巻は、萩原朔太郎、北川冬彦、高橋新吉、金子光晴、三好達治
――というラインアップで
全3巻で合計15人が選ばれています。

「春と赤ン坊」を載せておきます。

 *  
 
 春と赤ン坊

菜の花畑で眠つてゐるのは……
菜の花畑で吹かれてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

走つてゆくのは、自転車々々々 向ふの道を、
走つてゆくのは
薄桃色の、風を切つて……

薄桃色の、風を切つて 走つてゆくのは
菜の花畑や空の白雲(しろくも)
――赤ン坊を畑に置いて  

(角川ソフィア文庫「中原中也全詩集」より)

 

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