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「一筆啓上、安原喜弘様」昭和8年7月3日

その1
 
早や、夏が訪れました。
 
みなさん今夜は静かです
薬鑵(やかん)の音がしています
僕は女を想(おも)ってる
僕には女がないのです
(冬の夜)
――と歌ったのが昨日のことのようですが
日は着実に進み、後戻りしません。
 
 
安原喜弘に届けられた「中原中也の手紙」を
通し番号で数えてみると
 
昭和5年=10通
昭和6年=14通
昭和7年=27通
昭和8年=19通
昭和9年=14通
昭和10年=8通
昭和11年=2通
昭和12年=6通
 
――という内訳になります。
 
 
昭和10、11、12年などを除けば
月に2通近くの手紙が書かれたことになります。
 
一つの手紙を読めば半月が流れ
二つ読めば1月が流れ
……
 
一つの手紙と次の手紙の間にある
時間の連続と非連続とに「眩暈(めまい)」を覚えながら
一個の肉体、一個の精神としての詩人のイメージを紡(つむ)ごうとして
想像力をフル動員することになります。
 
 
「手紙61」は、7月3日付け封書、大森・北千束発です。
一部を読みましたが、ここで全文を読んでおきましょう。
 
 
ごぶさたしています、先達は雨にやられたでしょう、ハシゴ段を降りるや傘のことを忘れました。すみませんでした。
 
その後まだ1度も外出しません。夕方大岡山まで歩いたっきりです。からだは、極めて徐々に回復しています。自然に対する感性が少しずつ帰ってくるので、そうと思われます。
 
読売の五百円はとりにがしました。這入ったら房総方面で二タ月暮らそうと思っていましたのに。
 
小林はまだ来ません。
 
今年は夏が嬉しいです。空が美しく見えます。部屋はよく風が通しますので、顔の上に新聞をかぶせて午睡しているとよい気持です。変な話ですが、僕には夏のよさと印刷インキの匂いとが非常によいとりあわせを、もとから感じさせます。
 
佐渡なぞというのはあんまり一時的な思い付でした。此の夏房総でゆっくりしたいという夢は却々(なかなか)現実性がありました。
 
まだ手足の力がちっともありませんので、当分外出は控えようと思います。少しまた元気になりましたら、伺います。
 
ここの所生徒が夏休みになって暇ですから、午睡などしに何卒おいで下さい 怱々
    3日
            中也
 
(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」より。洋数字に変え、改行を加えてあります。編者。)
 
 
この手紙の前の「手紙60」に
「小山で巴里祭見ました、ひどく凝ったもので、水も洩らさぬ仕組ですね」とあるのは
隣町の武蔵小山で映画「パリ祭」を見た感想を述べたもので、
マレーネ・ディートリッヒ主演の「モロッコ」と比較しています。
この、「手紙61」の「夕方大岡山まで歩いたっきりです」とある大岡山は
住まいの「大森区北千束621淵江方」から約400メートルの距離にありました。
(「新編中原中也全集」第5巻・解題篇より)
 
「目蒲線洗足駅近くの高森文夫の叔母」に住みはじめておよそ1年。
近辺をよく歩き、土地に馴染んでいる詩人の姿が見えます。
 
 
小林秀雄の来訪を「病床に臥してあけくれ待ち望んだ」ことと
読売新聞社主催の「東京祭」歌詞懸賞コンクールで一等賞を逸したことの2点を
安原はこの手紙にコメントにしただけでした。
 
 
 
その2
 
読売の五百円はとりにがしました。
――と、「手紙61 7月3日」に書かれた「読売」とは読売新聞社のことで
同社が主催した「流行小唄『東京祭』懸賞募集」に応募したものの落選
1等賞金の500円を獲得できなかったことを口惜しがっているものです。
 
先に、昭和8年前半期の作品として挙げました。
もう一度読んでみましょう。
 
 
(宵の銀座は花束捧げ)
 
宵(よい)の銀座は花束捧(ささ)げ、
  舞うて踊って踊って舞うて、
我等(われら)東京市民の上に、
  今日は嬉(うれ)しい東京祭り
 
今宵(こよい)銀座のこの人混みを
  わけ往く心と心と心
我等東京住いの身には、
  何か誇りの、何かある。
 
心一つに、心と心
  寄って離れて離れて寄って、
今宵銀座のこのどよもしの
  ネオンライトもさんざめく
 
ネオンライトもさざめき笑えば、
  人のぞめきもひときわつのる
宵の銀座は花束捧げ、
  今日は嬉しい東京祭り
 
 
この詩が歌うお祭りの熱狂の底に
「一人でカーニバルする男」が隠れているように聞えませんか?
 
熱狂する群集の一人一人をブローアップしていくと
そこには「一人でカーニバルする男」が現われ
その一人一人が銀座の街に繰り出して踊り舞い
詩は、その集団的熱狂を歌ったものであることが見えはじめます。
 
 
応募作品を審査した一人、西条八十の選評があります。
その一部を読んでおきましょう。
 
 
なお選外の作品の中にも、芸術的に見ては光った作がずいぶんあった。相当知名な詩人たちの応募もあった。だが、惜しいことにどれも作曲上の用意が足りない。大衆歌の所謂コツを全然掴んでいないのが残念であった(「流行歌と踊りに適したものを」読売新聞、昭和8年7月2日付け)
(「新編中原中也全集」第2巻・解題篇より。「新かな」に改めました。編者。)
 
 
「山羊の歌」が刊行される前のことです。
この時、西条八十は中原中也の名を知るはずがありませんが
二つの大きな星のすれ違いは
この「作詞」という局面といい
「ランボー」という局面といい
宇宙の運行の奇跡的な巡りあいに似た瞬間でしたが
どちらの出会いもありませんでした。
 
 
 
その3
 
小林はまだ来ません
――と「手紙61 7月3日」にある小林は小林秀雄のことで
安原は、
 
詩人は上京当時からの旧友小林秀雄との幾年ぶりかの邂逅(かいこう)を病床に臥してあけくれ待ち望んだ。彼を人を介して小林が詩人の病床を訪れるという便りを聞いたのである。併し詩人の希望は遂に空しかった。
――とコメントしています。
 
 
中原中也と小林秀雄が会った最近で最後の日はいつのことでしたか――。
泰子が小林の住まいへ引っ越していった日以後、
2人は何度か会う機会があったはずでしたし
共通の友人知人を介して「動静」は
それぞれ互いに耳に入っていたと考えるのが自然です。
 
大岡昇平によると、この頃(昭和7年頃)、
「小林秀雄、河上徹太郎は文壇の主流に進出し」ていました。
その「よしみ」ということもあったのでしょうが
季刊「四季」への寄稿を詩人に仲立ちしたのは小林秀雄でした。
 
季刊「四季」の編集人だった堀辰雄に
昭和8年6月25日付けで小林秀雄が出した手紙には
 
手紙見た。中原の詩気に入ったらしく嬉しい。詩はまだうんとあるから「ためいき」は又別のと一緒にしてのせて貰おう。2号には3篇だけ。
(※「新編中原中也全集」別巻より。「新かな」「洋数字」に直しました。編者。)
 
――などとあり、
「四季」掲載作品について
小林と堀とがやりとりしていた様子が伝わってきます。
 
この頃、詩の掲載をめぐって
詩人と小林との間でなんらかの交流が行われたことも推測できますが
それを明かすものはありません。
 
 
季刊「四季」の1933年夏号(昭和8年7月20日発行)には
「少年時」「帰郷」「逝く夏の歌」が掲載されました。
この3篇が、
中原中也の詩が文芸総合誌へ発表された最初の作品ということになります。
 
 
賞金を取り逃がしたり
小林の訪問がなかったり、
残念なことの上に
詩人は病気と戦っているのですが
暗い響きというよりも、ゆったりとした声調が感じられる手紙です。
 
「午睡などしに何卒おいで下さい」というのも
地方出身の詩人だからというのか
昭和初期の青年の素朴さというのか
飾り気のない温かみみたいなものがあります。
 
懐かしいようでもあります。
 
午睡は昼寝(ひるね)のことです。
それを誘える相手で安原はあったということです。
 
 
「帰郷」を
読んでおきましょう。
「四季」掲載のものとは少し異なる「山羊の歌」所収のものです。
 
 
「帰 郷」
 
柱も庭も乾いている
今日は好(よ)い天気だ
    椽(えん)の下では蜘蛛(くも)の巣が
    心細そうに揺れている
 
山では枯木も息を吐(つ)く
ああ今日は好い天気だ
    路傍(みちばた)の草影が
    あどけない愁(かなし)みをする
 
これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いている
    心置(こころおき)なく泣かれよと
    年増婦(としま)の低い声もする
 
ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云(い)う

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