「白痴群」前後・片恋の詩17「時こそ今は……」
その1
詩を読むために
ヒントとして詩の背景とか
詩が作られた状況とか
詩人の置かれていた環境とか
……を知っておいたほうがよいということはあるにしても
知らなければならないというものではなく
知っていることが時には
詩を読む妨げにさえなることがあるのなら
知らないほうがマシです。
といったところで
「時こそ今は……」には
固有名詞として「泰子」が現われます。
ああだこうだと
女性の実際上のモデルを詮索(せんさく)する必要もなく
「長谷川泰子」その人が「泰子」として
詩に現われるのです。
◇
時こそ今は……
時こそ今は花は香炉に打薫じ
ボードレール
時こそ今は花は香炉に打薫じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。
いかに泰子、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情け、みちてます。
いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青(ぐんじょう)の
空もしずかに流るころ。
いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛(かみげ)なよぶころ
花は香炉に打薫じ、
◇
「しおだる」は
濡れて垂(た)れ下がる、
「なよぶ」は
なよなよとしてやわらかい、という意味です。
どちらも
中也の造語でしょう。
◇
夕闇せまる頃に
花は開ききって絶頂を過ぎようとする瞬間
芳香を放ちはじめますが
何もかもがそこはかとなく
あたりは静もっています。
花は潮垂れ
暗河(くらごう)の水の音や
家路を急ぐ人々の立ち居ふるまいまでもがそこはかとない……。
◇
第1連だけが「描写」の連で
第2連から4連までは
冒頭行を「いかに泰子、いまこそは」と呼びかけではじめる作りになっています。
第2連
しずかに一緒に、おりましょう。
第4連
おまえの髪毛(かみげ)なよぶころ
――と、
泰子がごく近くにいることがわかる詩でもあります。
◇
詩は「時こそ今は花は香炉に打薫じ」る
「幸福」の瞬間を歌っています。
詩の中に過去形もありませんし
歌っているのは「時こそ今」です。
現在です。
とろけるような恋ではないにしても
「失われた恋」ではありません。
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その2
花は香炉に打薫じ、とは
花が香りの炉の中でくゆりはじめる、という意味のようで
ボードレールの「悪の華」にある「Harmonie du Soir」を
上田敏が「薄暮(くれがた)の曲」として訳出したものから採りました。
中也は
エピグラフにも
詩の本文にも
「時こそ今は花は香炉に打薫じ、」と手を加え
自作詩に摂取しました。
上田敏の翻訳は第1連
時こそ今は水枝さす、こぬれに花の顫えるころ、
花は薫じて追風に、不断の香の爐に似たり。
――というはじまりで
この第2行を第2連でもリフレインしています。
(山内義雄・矢野峰人編「上田敏全訳詩集」より)
◇
時こそ今は……
時こそ今は花は香炉に打薫じ
ボードレール
時こそ今は花は香炉に打薫じ、
そこはかとないけはいです。
しおだる花や水の音や、
家路をいそぐ人々や。
いかに泰子、いまこそは
しずかに一緒に、おりましょう。
遠くの空を、飛ぶ鳥も
いたいけな情け、みちてます。
いかに泰子、いまこそは
暮るる籬(まがき)や群青(ぐんじょう)の
空もしずかに流るころ。
いかに泰子、いまこそは
おまえの髪毛(かみげ)なよぶころ
花は香炉に打薫じ、
◇
花は香炉に打薫じ、
――と中也がしたのは
原典を生かしつつ新たに歌うという
和歌の「本歌取り」の作法に拠っていますが
見事にくっきりと翻訳原詩およびボードレールの原作のこころをつかんで
いっそう生々しく歌い直しました。
してやったり、と詩人が思っていたことが
想像できます。
詩語がきりっと立っています。
◇
この詩を作ったころ
詩人と「泰子」との距離は縮まっていたかもしれないと見るのは
大岡昇平の「伝記」だけではありません。
「新編中原中也全集」は泰子の証言を
泰子へのインタビューをまとめた村上護「ゆきてかへらぬ」からひろっていますから
それをここで案内しておきます。
◇
中原と私は相変わらずで、喧嘩ばかりしておりました。中原は西荻から東中野へ一番電車でやってきて、二階に間借りしている私を道路からオーイと呼んで、起こすこともありました。私が顔を出すと、夢見が悪かったから気になって来てみたのだが、元気ならいい、などといったこともありました。そんな中原をうっとうしいと思い、私はピシャリと窓を閉めたこともありました。だけど、私の態度も中原に対して煮え切らない面があって、喧嘩しながらも決して中原から離れていこうなどと考えたことありません。
◇
言うまでもなく
これは詩の外の現実です。
詩の現在は詩の中にありますから
「恋心」のこの幸福な「時の時」を
たとえそれがこの詩を読んでいる時間の中だけに
感じられることであっても
感じることができれば
この詩を読んだことになります。
◇
大岡昇平は
「幸福はなかったに違いないが、とにかく中原が一時でもこういう詩を書く気分になったことを、私は喜びたい」
――と記しています。
詩から離れて
冷静にこの詩を読むことができるのも
いったんはこの詩の幸福な「時の時」を感じた後でのことでしょう。
大岡が「伝記」を書いた時
すべては「過去」でした。
恋は「失われた恋」でした。
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