中原中也の詩に出てくる「人名・地名」25(まとめ)
長谷川泰子が「白痴群」に寄せた詩は第3号だけでなく
第4号にもあります。
◇
秋の野菜スープ
小林佐規子
小さなお家の主婦様は、日毎日毎、たった一つの小さな窓へ、木の葉のような顔を出し、頬杖ついて何とはなしに、地底の唸りを聞いていたが、とうとう有益なことを考えついた。
今日は御主婦様には弁慶縞のエプロンに研究心に鼻うごめかし、スープ鍋の音をきいていた。
秋の密度は御鍋の蓋に重なって、湯気とまるまりながら、お乳房(ちち)の中へ沁みてゆく、ああこれで血液が流れ始めました。味は緻密、愛があればよろしい、このキャベージの味は貴方を子供のように笑わせ、このトマトの厚みは貴方の琴線に触れる。
あれ御らんなさい。
おとなりのお神さん、延びた口を突き出してこっちをのぞいて何かぶつぶつ云ってるよ、
今にあの神さん、真似をする。
そこで、やっと御汁がごとごと鳴ってきたが、このとろけたお汁を飲ませると、必度貴方は幸福だなあと、居眠りをするでしょう。
(「白痴群」第4号、昭和4年11月)
※「新編中原中也全集・別巻(下)」より。「新かな」に直しました。編者。
◇
「小林佐規子」は
中原中也から去った泰子が
小林秀雄と同棲しはじめてしばらくして
小林の母親のすすめで改名したものです。
この詩の中の「貴方」は、小林秀雄でしょうか。中也でしょうか。
「奇怪な三角関係」のハイテンションが
泰子の詩ののっぺりした響きの背後に隠れているように感じられますが、どうでしょうか。
◇
長谷川泰子は、1993年(平成5年)4月11日に89歳で亡くなりました。
中也はもちろん、小林秀雄、大岡昇平が見なかった平成を少しだけ生きたのです。
このことで、是非とも付け加えておきたいことを記しておきます。
◇
詩人・佐々木幹郎が1988年に書き下ろした近代日本詩人選「中原中也」(筑摩書房)は
1994年にちくま学芸文庫として刊行されるのですがその巻末に
「旅路の果て――その後の長谷川泰子――文庫版のあとがきにかえて」の題で
脚本参加したドキュメンタリー映画「眠れ蜜」(岩佐寿弥監督、1976年)に触れた収録エピソードが記されます。
その中に、中原中也や大岡昇平や小林秀雄ですらが見なかった「女優・長谷川泰子」が
生き生きととらえられていて鮮烈ですから、ここでほんの一部を案内しておきたいのです。
◇
(略)
映画「眠れ蜜」の最終シーンでは、長谷川泰子さんは誰もいない劇場の舞台の上で、即興のダンスを踊る。長い長い踊りだ。途中からは靴を脱ぎ捨て、裸足のままだ。「モーツアルトの曲なら、わたしはいつでも踊るわよ」と初めて会ったとき、泰子さんはわたしに言った。昭和初年代のモガ(モダン・ガール)の先端を走った、かつての長谷川泰子。その溌剌とした雰囲気がまだ健在だった。わたしはその元気の良さに舌を巻いた。だから脚本に、踊りのシーンを強引にはめこんだのだった。
現場でのバック・ミュージックはモーツアルトではなく、ギター曲の「アランフェス協奏曲」になった。空っぽの舞台のうえ。一人で長く踊り続ける彼女の姿を、わたしは劇場の天井桟敷から見た。次第にふつふつした感動が、身体の奥底から立ちのぼってくるのを止めることができなかった。彼女は自己流の振付けをやり、リズミックな動きで曲に完全に乗りきっている。老いることの、華やかさと力強さがそこにあった。
わたしも映画のスタッフも、彼女の人生の最後を、かつて中原中也や小林秀雄の間で生きた伝説の女性としてではなく、一人の女優としてだけ見たのだった。撮影中、会うたびに若返っていく彼女を見るのは楽しかった。当時の長谷川泰子さんは、自分が老人であることは少しも思っていなかったようだ。
(略)
※「行空き」を加えてあります。編者。
※この文章は、1994年10月に書かれたものです。
★文中に「アランフェス協奏曲」とありますが、ちくま学芸文庫巻末の「旅路の果て――その後の長谷川泰子――文庫版のあとがきにかえて」では、「アルハンブラの思い出」となっています。正しいのは「アランフェス協奏曲」であることを、著者の・佐々木幹郎さんが指摘してくださいました。佐々木さんからのコメントの全文をここに掲載させていただきます。
<佐々木幹郎さんのコメント>
ちくま学芸文庫版「中原中也」(1994)の巻末に収録した「旅路の果て-その後の長谷川泰子」を引用していただいてありがとうございました。この本は現在、絶版となっていますので、修正箇所が1箇所あるのですが訂正できません。いずれわたしの単行本に収録するとき訂正するつもりですが、ちょうどよい機会なので、この場をお借りして、伝えさせてください。
映画「眠れ蜜」の最終シーンで、長谷川泰子が踊るバックに流れているギター音楽のことです。
×「アルハンブラの思い出」
○「アランフェス協奏曲」
「アランフェス協奏曲」に訂正します。うっかり書き間違えたままで最終校正の際に見逃したものです。お詫びいたします。現在、この映画は中原中也記念館にDVD版で所蔵されていますので、ご覧になりたい方は、いつでも記念館で見ることができます。★
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